櫛風沐雨
第108話 心痛
全ての演目を終えてなお、円形闘技場は騒然としていた。
観覧席に群れ集う貴族達の多くが、壮絶な仕合の余韻に酔い痴れている。
コッペリア同士の死闘――聖戦の残り香を惜しむかの様に、彼らは席を立たない。
そのまま一時間ほど、皆で後夜祭の如き時間を愉しむのだ。
オーケストラ・ピットの管弦楽団が、哀切な調べを奏でては華を沿える。
それは、血生臭くも絢爛な饗宴を締め括る為の、怠惰な儀式であった。
◆ ◇ ◆ ◇
「――『枢機機関院』の『フラム』に続いて、ダンドリュー男爵所有の『ブロンシュ』、これで二人目。敗北が続くね? マルセル」
観覧席最上段に設けられた、大理石造りのバルコニー席。
ソファに座るタキシード姿の美丈夫――エリク皇子は、微笑みと共に呟いた。
闘技場を見下ろしつつ、ワイングラスを軽く傾けると唇を湿らせる。
やがてマルセルに、悪戯っぽい視線を送った。
エリク皇子の傍らに立つスーツ姿のマルセルは、小さく肩を竦めつつ応じる。
「まあ……彼女達の『タブレット』は『先行量産型』とでも言うべき代物ですから。最適化を果たした皇子所有の『近衛天兵隊』とは『モノ』が違いますよ。それに『コッペリア・アドニス』も『シスター・マグノリア』も、ガラリア屈指のオートマータだ、そんな彼女達と、既存のボディで互角以上にやり合えた――その点にご注目下さい」
「あら? パパったら随分と言い訳が多いのね? 結局、次のトーナメントに出場するオートマータで、私と同レベルなのは『お姉様』だけって事?」
カウチソファに凭れ掛かる美貌の娘は、愉しげに笑った。
純白のドレスに包まれた端麗極まる肢体は、輝きすら帯びて見える。
夢の様に煌めくブロンドのロングヘアに、エメラルドグリーンの双眸。
『グランギニョール』序列第一位。『レジィナ』の称号を持つ美姫。
コッペリア・オランジュだった。
「勘弁してくれ、オランジュ。キミと同レベルの存在を、そう簡単に練成出来る筈も無い。キミと『エリーゼ』は、恐ろしく特殊なのさ。それについてはエリク皇子にも了承頂いている」
マルセルは眉間に皺を寄せると、唇を尖らせる。
どこかお道化た調子なのは、余裕の表れか。
「それに約束は守るよ? オランジュの退屈は必ず晴れる。ボクは嘘なんか吐かない」
左眼のモノクルを輝かせながら、マルセルは断言した。
ソファに座るエリク皇子も、穏やかな笑みを浮かべて頷く。
「ああ……マルセルの言う通りだ。安心して欲しい『レジィナ・オランジュ』。このトーナメントを終えてからが本番だ。遠からず――君の望む世界が訪れる」
「……皇子がそう仰るのなら信じるわ。だって貴方は、退路の無い人だから」
エリク皇子の言葉にオランジュは、蕩ける様な微笑で応えた。
カウチソファの上に片膝を立てて腕を回すと、頬を寄せる。
そして微かに眉根を寄せては、憂いの表情を見せた。
「でも少し心配――今のやり方だと、不審に思う人も多いでしょう?」
その問いに答えたのはマルセルだった。
「コトを起こそうと決めた時点で綱渡りなんだ。時間を掛けても、急ぎ過ぎても破綻しかねない、今のバランスがベストだよ。とはいえ皇子の安全と夢の実現は、オランジュの希望に直結している。必要な保険は講じるつもりさ」
「……シンプルにゲームを愉しめるのは、今日で最後?」
妖艶な流し眼でマルセルを見遣り、オランジュは呟く。
黄金色に輝く義肢を胸元に沿えると、マルセルは答えた。
「本当に愉しいのはここからさ――ワンランク上の遊戯が始まる。エリク皇子にとっても、ボクにとっても、キミにとってもね」
◆ ◇ ◆ ◇
落ち着いた風情のダイニングルーム。
天井に燈された黄色灯の明かりも、クリーム色の壁紙も心地良い。
中庭に面した大きな吐き出し窓は鎧戸に閉ざされているが、閉塞感は無い。
柔らかに波打つカーテンの淡い風合いが、暗い印象を打ち消している。
この屋敷の主であるシャルルの趣味なのだろう、趣きのある部屋だ。
部屋の隅に設置されたホールクロックの針は、夜の七時を指し示している。
カトリーヌとエリーゼは、共に夕食を終えた所だった。
老齢のハウスメイドが、食後のお茶をテーブルの上に並べる。
カトリーヌがにこやかに謝意を伝えると、ハウスメイドも微笑みで応え、立ち去った。
シャルルの邸宅は暖かで、穏やかだ。
ハウスメイド達も皆、慇懃で心優しい。
こんな状況でさえ無ければ、心安らいだかも知れない。
カトリーヌはカップとソーサーに手を伸ばす。
甘い香りのハーブティーだ、唇を湿らせるように味わう。
でも、美味しく感じる事が出来ない。
口内に、薄い膜が張り付いているかの様で。
理由は解っている――思い出してしまうからだ。
背中を丸めて嘔吐する、レオンの姿を思い出す。
鈍く光る義肢の軋む音と、染み出す濃縮エーテルの紅色を思い出す。
右腕を失ってなお苦しまねばならない、レオンはそんな道を歩んでいる。
『ヤドリギ園』の為に、子供達の為に、身を削っている。
その事に負い目を感じていた。
だからこそ、仕合中のサポートをレオンに頼まれ、嬉しかった。
レオンの役に立てる、その事が嬉しかったのだ。
だけど、それは甘い考えだった。
『知覚共鳴処理回路』の演習を行う度に、レオンは苦しみ、身悶える。
真っ青な顔で蹲り、高熱を発しながら嘔吐を繰り返す。
気が遠くなりそうになった。
息が詰まり、手が震えて涙が溢れた。
怖いと思った。
そんな事を思う自分が嫌だった。
それでも気持ちが竦んでしまう。
どうしようも無く、心がざわめき続ける。
最近、一人でいる時は『小型差分解析機』の習熟を目指し、レオンより借り受けた文献を参考に、独学を続けていた。
多くの時間を学習に割き、没頭していた。
今日も朝から無心で『小型差分解析機』と向き合っていた。
レオンの役に立ちたいと、そう思って努力した。
レオンの役に立とうと努力している間は、心苦しい想いを忘れられた。
だけど本当は、心苦しさを忘れる為に努力しているのかも知れない。
「――よろしいですか? シスター・カトリーヌ」
ふと、透き通る声が耳朶を打った。
エリーゼだった。
「どうしたの? エリーゼ」
カトリーヌは顔を上げ、明るい声で応じた。
そう――普段通り、明るく振る舞おうと決めていた。
そうでなければ、エリーゼに気遣わせてしまう。
ただでさえエリーゼには、負担を強いているのだ。
これ以上、負担を掛ける様な真似はしたくないと考えていた。
カトリーヌに声を掛けたエリーゼは、何故か続く言葉を発さなかった。
紅い瞳でカトリーヌの事を見つめたまま、口を閉ざしている。
口籠っているのだろうか、何処か迷っている様にも見えた。
こんなエリーゼは珍しいと思う――今まで見せた事の無い表情だ。
が、やがて目を伏せると、エリーゼは静かに告げた。
「――シスター・カトリーヌに、謝罪すべき事がございます」
「……えっ?」
エリーゼの言葉に、カトリーヌは戸惑う。
すぐに、気を遣わせてしまったのだろうと思った。
自身の態度や言葉の端々から、悩ましい想いが漏れていたのかも知れない。
上手く隠さねばと思っていたのに。
ただ、その気持ちが強過ぎて――最近は会話する事も減っていた。
その事で逆に、気遣わせてしまったのだろうか。
カトリーヌは弁解する様に、声を上げた。
「ううん! エリーゼが謝る様な事なんてないよ? 私こそ――その、ほら、検証実験中に、慌てたり騒いだりしてゴメンね? レオン先生にも迷惑掛けちゃったし――」
複雑な想いを飲み込み、普段と変わらぬ調子を心掛けながら、カトリーヌは続けた。
「――そうだよ、エリーゼが謝る事なんて何も無いんだから。だってこれは『ヤドリギ園』の問題で、なのにエリーゼとレオン先生にばかり、負担を掛けちゃって。だから私、少しでも二人の役に立ちたかったんだよ。でも、まだ慣れて無くて……だけどこれからは、しっかり対応する様に頑張るから! 安心して?」
カトリーヌは闊達さを装い、そう言った。
しかしエリーゼは、微かに首を振る。
淡い否定とでもいうべきか。
やはりいつものエリーゼとは、少し様子が違う様に思える。
どうしたのだろう――そう思っていると、エリーゼはおもむろに口を開いた。
「先ほど、シスター・カトリーヌが仰った『ヤドリギ園』の問題……その言葉ですが、実際には少し違うのです」
「――え?」
僅かに戸惑う、何が違うというのか。
カトリーヌの疑問に答える様に、エリーゼは続けた。
「私とご主人様が仕合に臨む理由は『ヤドリギ園』の問題以外にも、懸念すべき事柄があった為です」
「懸念すべき事……?」
「はい。今からお話する事柄には『証拠』も『確証』もございません。ですので、他人に伝える事は出来ません。ですが――シスター・カトリーヌには、お伝えすべきだと判断致しました」
紅玉の如き瞳でカトリーヌを見据え、エリーゼは話し始める。
それは、レオンの父親――『マルセル・ランゲ・マルブランシュ』に関する疑惑の話だった。
まず、レオンが錬成した『オートマータ・アーデルツ』に対し『衆光会』を通じて『グランギニョール』への参加を要請、損壊へと導いた可能性について。
次いで、偽装を施した手紙と共に『エメロード・タブレット』の状態で放置していた『エリーゼ』をレオンの許へ送りつけ、再錬成を迫った事。
その上で『衆光会』に所属する貴族・ルイス卿を唆し、『ヤドリギ園』の売却を推進、その計画を以て『エリーゼ』を擁するレオンを『グランギニョール』の舞台へ、強引に引き摺り出そうとした事――。
「――先ほど申し上げた通り、これらの疑惑については、明確な『証拠』がございません。ただ、偽装された手紙……こちらの内容に、ご主人様しか知り得ぬ、プライベートな内容が複数記述されていた為、一連の出来事が、ご主人様のお父上によって誘導されている可能性が高いと、そう認識しております」
滔々とエリーゼは語った。
カトリーヌはエリーゼの言葉に、黙って耳を傾けている。
「つまりご主人様は――『ヤドリギ園』に対して、子供たちに対して、シスター・カトリーヌに対して、大変な負い目を感じているのです。自分と父親との確執に、皆を巻き込んでしまったと……」
ふっと、エリーゼが視線を逸らした。
紅い眼差しは、手元のカップへと注がれる。
「今となっては……私も同じ想いでございます。シスター・カトリーヌに、子供たちに……負い目を感じております」
つかの間、エリーゼは口籠る。
しかし、程無くして続けた。
「繰り返しとなりますが――先に挙げた手紙も、偽装が施されている為、証拠とは成り得ません。ですのでご主人様のお父上に掛かる疑惑は、未だ疑惑の域を出ません。故に本来ならば、シスター・カトリーヌに、お伝えすべき事柄では無かったのかも知れません。ご主人様もその様にお考えでしょう。ですが……」
「……」
エリーゼは、視線を合わせる事無く俯いたまま、言葉を紡ぐ。
「……ですが、心苦しく思えたのです」
「……」
「以前の私なら、全てを伏せたまま、先へ進めたのかも知れません。ですが今の私には、それが出来ない。私の中に生まれた新たな価値観が……恐らくは『アーデルツ』という方の想いが、それを許さないのでしょう」
「……」
カトリーヌは口を噤んだまま、エリーゼの話に耳を傾ける。
話の内容を、何度も頭の中で咀嚼する。
しかし考えは纏まらず、答えが見つからない。
思考を巡らせ悩む中、ぽつりぽつりと過去の出来事を思い出していた。
そう……初めてエリーゼと出会った日の事を思い出す。
レオンの傍らに座るエリーゼは、ダークグレーのワンピース姿だった。
白磁を思わせる艶やかな肌に、美麗な相貌。
カテーシーにて頭を下げる姿は、精密な人形の様だった。
エリーゼと過ごした、他愛の無い日常を思い出す。
子供たちの衣類を繕い、配膳を手伝い、室内を掃除して。
時には子供たちの悪戯を諫めたりもしていた。
一緒に買い物へ行ったり、街を歩いたり、本を借りて読んだり。
エリーゼが『グランギニョール』に臨むと知った日の事を思い出す。
『ヤドリギ園』存続の為に、エリーゼが戦う事にあると聞いて泣いた。
何も出来ない自身の無力さに、エリーゼに全てを任せる身勝手さに泣いた。
『ヤドリギ園』の礼拝堂で、泣きながらエリーゼに謝罪した。
だけどエリーゼは首を振り、嬉しいと言った。
戦う事に意義があり、生きて残る事を望まれて、嬉しいのだと。
濡れ光る紅い瞳で私を見つめ、幸せだと言っていた。
エリーゼの内面に『アーデルツ』の想いが息づいている――そう聞かされた時の事を思い出す。
二度目の仕合に臨む直前だ。
私にも、子供達にも、決して『業』を背負わせる様な事はしないと言っていた。
戦闘で得られる高揚感よりも、刹那の真実よりも。
子供たちや『ヤドリギ園』に価値を感じるのだと、そう言って。
それが『アーデルツ』の想いであり、願いなのだと。
『アーデルツ』の願いは、自分の意思なのだと、そう言っていた。
考えが纏まらない。
だけど、エリーゼの言葉に嘘は無い、そう思う。
今までだってエリーゼは、真摯に私と向き合ってくれた。
そこに間違いは無い筈だ。
私が知っているエリーゼは、何時だって真っ直ぐだった。
そう――ならば今、すべき事が何なのか。
俯いたままのエリーゼを見遣る。
白い相貌は、儚げだった。
再び、エリーゼは口を開く。
「……ですが、これだけは変わりません。私はシスター・カトリーヌを、子供たちを、ご主人様を、決して裏切りません。たとえシスター・カトリーヌに忌避される様な事になったとしても――決して裏切りません」
カトリーヌは笑みを浮かべると、大きく頷いてみせた。
胸を張り、その胸を右手でポンッと叩いてみせる。
はっきりと宣言する様に言った。
「――解ってる、大丈夫だよ。私だってエリーゼの事、ずっと信じてる」
そうだ。
自分の尺度を信じれば良い、エリーゼを信じれば良い。
事に於いて胸を張れるなら、正しいと信じられるなら。
何も悩む事は無い、きっと道は拓ける筈だ。
そう――幼少の頃。
瓦礫と化したマウラータの街で、私はそう教わったのだ。
私を救い出してくれた、黒衣のシスターにそう教わった。
私は事に於いて胸を張れると、そう信じて此処に在る。
己が裡に在る尺度に照らし、正道を歩んでいる。
それだけで私は満たされる……そう言って微笑んでくれて。
だから私もシスターを目指した。
そんな道を歩みたいと、そう願って。
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