第86話 事件
白い綿のシャツに袖を通したレオンは、右手首をカフスで留める。
続いて左手首のカフスを、右の義肢で留める。
一連の動きはごく自然に行われ、もたついた様子は微塵も無い。
鈍く光る義肢は、その指先まで完璧に馴染んでいた。
ウエストコートを着込み、黒のスーツを纏う。
右手に白い手袋を嵌めた。
そのタイミングで、部屋のドアがノックされる。
「マルブランシュ様、ダミアン卿がお見えです」
「解った、通してくれ」
看護スタッフの声にレオンが応じると、シャルルが姿を見せた。
濃紺のラウンジスーツを着込み、口許に穏やかな笑みを浮かべている。
「既に帰り支度は、既に万端みたいだな」
「長居したい場所でも無いからね。いつも送迎を頼んでしまってすまない」
シャルルの言葉に応じつつ、レオンは着替えの入った鞄を手にする。
鞄の持ち手を掴むのは、白い手袋に包まれた右の義肢だ。
シャルルは軽く首を振り、口を開いた。
「――良いさ、運転手は仕事に張りが出来て嬉しいと言っていた」
「額面通りには受け取り難いな、申し訳ないと伝えなきゃね」
他愛の無い会話を交わしながら、レオンはシャルルと共に病室を後にする。
――と、部屋を出た先の廊下に、マルセルがいた。
紫紺色のシャツにウエストコート、銀の鎖が揺れるモノクルにゴールドの左腕。
廊下の壁にもたれ、軽く手を振りながら言った。
「退院おめでとう、レオン」
「……ああ、世話になった」
マルセルの姿から視線を逸らしつつ、レオンは答える。
ふふん、と、鼻を鳴らしたマルセルは、口許に笑みを浮かべた。
「我が息子の口から感謝の言葉を聞くのは、一〇年ぶりってところかな? 本来なら礼儀として、相手の目を見て謝意を伝えるものだが、まあ良いさ」
そう言いながらマルセルは、内ポケットから封筒を取り出す。
レオンに差し出しながら言った。
「請求書だ――追加施術の。ま、『シュミット商会』に支払って貰うんだな」
無言で封筒を受け取ったレオンは、そのまま歩き出す。
シャルルは、失礼します――そう言い残して後に続く。
看護スタッフは額に汗を滲ませつつ、マルセルとレオンの姿を交互に見遣る。
レオンの背にマルセルの言葉が響いた。
「右腕の追加施術で何が変わるのか、愉しみにしているよ!」
◆ ◇ ◆ ◇
穏やかな日差しの中、駆動車は風を切って走り続ける。
特別区画の都市部を離れて郊外へ、辺りの景観は鮮やかな緑に切り替わる。
手入れの行き届いた芝と植え込み、美しい花壇と遊歩道。
小気味良く配置された常緑樹の緑が、程良いアクセントとなっている。
そして、グランマリー守護を司る天兵達の彫像と噴水広場。
ガラリア・イーサが誇る『特別区画』の外周庭園が広がっていた。
駆動車は庭園沿いに走り続け、やがて巨大な純白の施設へと辿り着く。
窓の無い平屋建て、漣の様に連なる切妻屋根。
レオンの所有する錬成工房と似ているが、その規模は桁違いだ。
錬成技師互助団体『シュミット商会』の本部施設だった。
◆ ◇ ◆ ◇
広々とした室内に、装飾の様な物は存在しない。
壁は漆喰仕立ての白。高い天井も白。
その代わり、大きな掃き出し窓から、美しい中庭の緑が望める。
『特別区画』の外周庭園よりも、より自然に近いレイアウトだ。
黒い窓枠に切り取られた景色は、一服の絵を思わせた。
そして、部屋の中央には巨大な黒いテーブル。
「――皮膚、筋肉、臓器、骨格、これらの再錬成は完了している、この資料にある通りだ。ただし神経網に関しては大半を放置してある、行動や反応に支障が出そうな個所のみ再錬成してあるが、そちらの所持するデータに則って、改めて再錬成すべきだろう……失礼、レオン君と呼んでも良いかな?」
椅子に腰を降ろしたスーツ姿のヨハンは、手元の資料を差し出した。
テーブルを挟んで向かいに座るレオンは、資料の束を受け取り頷く。
「構いませんよ、モルティエさん。貴方は先達だ、その様に呼んで頂いても」
「僕の事はヨハンと呼んでくれて構わない」
表情を変える事無く、ヨハンは言う。
稍あってレオンは、解りました――首肯して応じた。
レオンの隣りにはシャルルが、そしてエリーゼが着席している。
小さな身体を包むのは黒のベルベットドレス。
背筋を伸ばし、軽く目を伏せて座っている。
『シュミット商会』を訪ねてすぐ、三週間ぶりに対面した際。
この会議室にてエリーゼは、おもむろに頭を垂れて謝罪の言葉を口にした。
――右腕の負傷は私の責任でございます。お父上による治療と私のメンテナンス、全て私が承り、ダミアン卿にお受けすべきと持ち掛けました。ご主人様の想いを無視した勝手な差配、本当に申し訳ございません……銀の鈴を転がす様な声音で、エリーゼはそう言った。
変わる事の無い慇懃な物腰だった。
気にする事なんて無い、君が無事で良かった――レオンはそう言って全てを許容した、何一つエリーゼに落ち度なんて無い。
考え得る限り、最善の選択だったと思う。
――ただ一つの懸念を除いて。
眼前のヨハンが、改めて口を開いた。
「レオン君の右腕の負傷が完全に回復しており、後のメンテナンスを全て行えるという事なら、エリーゼ君の神経網再錬成は任せたい――彼女もそれを望むだろう」
「お心遣い感謝致します、右の義肢は既に完調です。エリーゼの神経網――僕が再錬成の作業を引き継ぎます」
ヨハンは頷く。
「そうか、義肢は完調か。この短時間で仕上げるとは、さすがアデプトと名高いマルブランシュ卿だ……いや失礼。君が父上と対立しているとの噂は聞き及んでいる。しかし僕にとって彼は、目指すべき偉大な錬成技師のひとりなんだ。あろう事か『シュミット商会』設立に際しても色々とお力添え頂いた……軽率な発言だったかも知れないが、許して欲しい」
「いえ、お気になさらず」
レオンは微かに首を振り、聞き流す。
その時、部屋のドアがノックされ、給仕用ワゴンを押した娘が姿を見せる。
ワゴンの上には紅茶のセットが並んでいた。
黒いエプロンドレス姿の娘だった。
短くカットされた、ライトブラウンの艶やかな頭髪に愛らしい顔立ち。
ただし、その目許は黒い布で覆われていた。
「ありがとう、ドロテア」
ティーカップを並べる娘に、ヨハンは謝意を伝える。
そして再びレオンを見遣った。
「ともかく右腕が完治しているなら、エリーゼ君の治療はお任せしよう。こちらで行った治療データは全てプリントして提出するよ」
「感謝します、ヨハンさん」
「――が、ひとつ。どうしても気になる点があった」
ティーカップを片手に、ヨハンは探る様な眼差しをレオンに向ける。
「彼女に内蔵された『エメロード・タブレット』についてだ」
「……」
そう質問されるだろうと、レオンは半ば察していた。
身体の損傷を音響測定するのだ、当然、頭部も調べるだろう。
「念の為に音響測定で、頭部の損傷を検査してみたんだが、彼女の『人造脳髄』は極端に発達している――いや、尋常では無い処理を行うべく、事前に巨大かつ重厚な構造として存在している」
ヨハンの言う通りだった。
父・マルセルより届けられたエリーゼの『エメロード・タブレット』は、一般的な戦闘用オートマータの三倍近い『概念情報』を有していた。そんなタブレットを戦闘用では無い『アーデルツ』の身体に乗せ換える為、レオンは持てる技術の粋を振り絞り、尋常では無い密度の『人造脳髄』を組み上げたのだ。
ヨハンはレオンを見つめたまま、発言を続ける。
「オートマータの頭蓋を通して、タブレットの記述内容を把握する事は出来ないが……神経網から辿れる『人造脳髄』の複雑さ、密度の高さから判断するに、エリーゼ君の『エメロード・タブレット』は、通常の三倍近い概念情報を有していると、僕は推察している」
「そうですか……」
ヨハンはエリーゼの状態について、凡そ正確に把握していた。
ただ問題は、ヨハンの疑問に、どう返答すべきかという点だ。
エリーゼの『エメロード・タブレット』を覚醒状態で送りつけて来たのは、レオンの父親であるマルセルだ――それ以外に考えられない。
しかし第三者視点で、そう断定出来るだけの証拠が無い。
タブレットが届けられた際、手紙も一緒に預かっていた。
手紙には、製図ペンを用いたと思しき、硬質な斜体の文字が刻まれていた。
筆跡鑑定を無効化する為の処置である事は明白だった。
更に手紙を封書として閉じていた封蝋の印も、歪な状態に偽装されていた。
つまり、証拠を残さぬ工作を行ったと、敢えて解り易く示してあったのだ。
それ故に、レオンは確信を深めていた。
タブレットも、手紙も、父・マルセルから届けられたと、確信出来た。
マルセルを騙るにあたって、マルセルに罪を着せぬ偽装を施す必要など無い。
その事以上に、手紙にはレオンしか知り得ぬプライベートな事柄と、マルセル特有の大仰な言い回しを多用した、挑発的な内容が記述されていた。
これを書ける人間は二人といまい。
親子だからこそ察する事の出来る、忌々しい感覚なのかも知れない。
とはいえそれは、レオンというフィルターを通さねば窺い知れぬ真実だ。
第三者にしてみれば、根拠も証拠も何も無い、ただの憶測に過ぎない。
このままタブレットについて質問された場合。
そんな憶測を、ヨハンに伝えるべきか。
――が、ヨハンも多くの錬成技師達と同じく、アデプト・マルセルに敬意を抱いている。
良い結果に繋がるとは思えない。
あるいは、この場を取り繕う為に嘘をつくべきか。
自分の手で錬成したのだと。
それも上手い言い訳とは言えない。
悩むレオンに、更なる言葉が投げ掛けられる。
「それほどに高密度な『エメロード・タブレット』――錬成機関院付属の学習院が、錬成方法を指南しているとは思えない。そして学習院で得た知識と技術の延長線上に、錬成される代物だとも思えない」
「……」
「レオン君も知っていると思うが――ガラリア神聖帝国では『神性帯びたるエメロード・タブレット』、つまり『タブラ・スマラグディナ』の錬成は固く禁じられている。『神を錬成してはならない』という大原則、禁忌に触れる為だ」
「ええ」
「その原因となった、四〇年前の『事件』についても知っているかね」
「ええ、知ってます……」
『神を錬成してはならぬ』――それは『神聖帝国ガラリア』で活動する全ての錬成技師達に『錬成機関院』を通じて布告された大原則であり、法の一つだ。
その大原則は、ガラリアで発生した、ひとつの『事件』に起因する。
ガラリアで活動する錬成技師ならば誰でも知っている、四〇年前に発生した大きな『事件』だった。
◆ ◇ ◆ ◇
当時『錬成機関院』は、覇権国家たる『神聖帝国ガラリア』の、絶対的な優位性を維持すべく、極限の性能を有するオートマータの錬成を目指していた。
膨大な国家予算が投入され、優秀な錬成技師達によるプロジェクトチームも結成された。チームのメンバーは皆、『神聖帝国ガラリア』の威信を背負い、全身全霊で研究に没頭、不眠不休で研究開発を続けていた。
その結果、プロジェクトチームは『神性帯びたるエメロード・タブレット』……いわゆる『タブラ・スマラグディナ』の錬成に成功、更に『タブラ・スマラグディナ』を内蔵したオートマータの錬成にも成功する。
それは『神』の意識を有するオートマータだった。
しかし『神』の意識を有したオートマータは、覚醒と同時に暴走する。
プロジェクトチームに参加していた錬成技師および政府関係者、更には護衛の兵士達を次々と殺傷、甚大な被害をガラリアにもたらした。
最終的に教皇守護の要として配備されていた、オートマータの近衛部隊に鎮圧されたが、その際、部隊の半数が損壊に追い込まれている。
まさに天災の如き『事件』だったという。
事態を重く見た『錬成機関院』は『神性帯びたるエメロード・タブレット』――『タブラ・スマラグディナ』の製造を、永久に規制すると定め、更に練成機関院および付属学習院の教育課程からも『タブラ・スマラグディナ』に付随する研究成果の全てを、完全に抹消すると決定したのだった。
◆ ◇ ◆ ◇
「四〇年前の『事件』――その原因ともなった『タブラ・スマラグディナ』を錬成するにあたり、高名な錬成技師が何人も招集されていた。僕の義父にも参加要請が来たそうだ」
ヨハンは淀み無く語り続ける。
相槌を打ちながら、話を聞くレオン。
「モルティエ氏にもですか……」
「そうだ。しかし義父はその要請を断った――義父はもともとオートマータの錬成に興味が薄く、加えて『神』の意識を有するオートマータの錬成にも、抵抗があったらしい……」
ヨハンは一息入れる様に、紅茶のカップに口をつける。
改めて口を開いた。
「……『マルブランシュ家』は、代々続く高名な錬成技師の家系だと聞いてる。ならば四〇年前――君の祖父にあたる人物が、そのプロジェクトに参加していたという事はないかね?」
ヨハンが何を思っているのか、理解出来た。
高密度な『人造脳髄』を必要とするエリーゼの『エメロード・タブレット』。
『神性帯びたるエメロード・タブレット』……『タブラ・スマラグディナ』。
この二つの要素に『マルブランシュ家』が関係するのなら、或いは――という、ヨハンはそういう仮説を立てているのだ。
しかしレオンは首を振り、否定を示した。
「いえ……祖父が『タブラ・スマラグディナ』錬成のプロジェクトに参加していたという話は、聞いた事がありません。父から聞いた話では――祖父は五〇年前、三〇歳の時に実験中の事故で負傷、錬成技師を引退したそうです。その一〇年後『事件』が発生した年に、アルコールの過剰摂取で死亡したと……」
「すまない、憶測で軽率な質問をしてしまった」
ヨハンは謝罪の言葉を口にする。
いえ、お気になさらず……レオンはそう言って、カップに口をつける。
レオンの隣りではエリーゼが、静かに目を伏せ、口を噤んでいる。
ヨハンはエリーゼを見遣りながら言った。
「ただ――そう思えるほどに、エリーゼ君の『人造脳髄』と『エメロード・タブレット』は……僕の想像を超えていたんだ」
「……」
「――高密度な『人造脳髄』、そこから類推される『エメロード・タブレット』の規模と精度。いや、それだけじゃ無い。この数週間、彼女と対話しつつ、負傷個所の再錬成とメンテナンスを行っていた、そして僕は強く感じたんだ。エリーゼ君は……尋常のオートマータでは無いと」
ヨハンは真っ直ぐにレオンを見つめ、尋ねた。
「純粋に知りたい――彼女はいったい何者なんだ?」
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