第84話 尺度

 円形闘技場の地下に設けられた、病室の一角。

 カトリーヌは顔を伏せたまま、肩を震わせて泣いた。

 時折掠れた声で、ごめんなさい……と、繰り返す。

 シャルルはポケットからハンカチを取り出し、カトリーヌに差し出す。

 そして、仕切りカーテンの脇に並ぶ丸椅子を引き寄せ、座る様に勧めた。


「シスター・カトリーヌ、座って話せば良い――」


「お気遣い、頂いて……すみません……」


 シャルルに促されたカトリーヌは、謝意を口にしながら腰を下ろす。

 改めて、すみません……そう謝罪した。

 横たわるレオンは、カトリーヌを見つめながら静かに口を開く。


「心配を掛けたね。すまない……シスター・カトリーヌ」


 その言葉にカトリーヌは、顔を上げる。

 つぶらな黒い瞳は、涙に濡れていた。

 声を詰まらせながら、途切れ途切れに言う。


「謝らないで……下さい……レオン先生。先生は何も……」


「それじゃあ――見舞いに来てくれて、ありがとう」

 レオンはそう告げて、口を噤む。

 仕切りカーテンの傍に立つシャルルも、カトリーヌの背中を黙って見守る。


 幾らかの時間が過ぎた頃。

 嗚咽を止め、呼吸を整えたカトリーヌは、涙を拭いながら言った。


「――すみません、取り乱してしまって……」


「気にする事は無いよ、シスター・カトリーヌ」


「うん、気にしなくて良い……」


 レオンは枕に頭を乗せたまま、小さく首を振り、シャルルも穏やかに応じる。

 カトリーヌはシャルルを振り仰ぎ、謝罪の言葉を追加した。

 

「ハンカチは……洗濯してお返しします……」


 シャルルは口許を綻ばせると、それも気にしなくて良い――そう告げた。


 ◆ ◇ ◆ ◇


「レオン先生……義肢が馴染むのに三週間ほど掛かると仰っていましたが、それまでは、こちらの施設に滞在されるんですか?」


 丸椅子に座るカトリーヌは、そう質問した。

 薄いカーテンの向こうからレオンは答える。


「いや……今日の夕方には『特別区画』内の総合病院へ移る事になる。義肢の調整とリハビリ、暫くは感染症対策も必要だからね。そうだな、三週間あれば日常生活を送れるくらいには回復すると思う。ただ、エリーゼの調整やメンテナンスにも時間が必要だから……診療所には当分、戻れないかも知れない」


「そうなんですね――」


 そう答えるカトリーヌの胸中で、複雑な想いが渦巻く。

 寂しさや不安、焦り、憤り、恐れ。

 しかし、それら全てを飲み込んだ。


「いえ、大丈夫です。診療所は私が、きっちり対応しますから」


 そう言って口許に笑みを浮かべる。

 大丈夫だ、自然な笑顔だと思う。


「レオン先生は、治療に専念して下さい。診療所の方は、シスター・ダニエマも手伝ってくれます。だから安心して下さい」


「ありがとう、シスター・カトリーヌ。君にはずっと、助けられてばかりだ……」


 謝意を口にするレオンの顔色は、やはり優れない。

 痛みも熱も、未だ引かないのだろう。

 その痛みは『ヤドリギ園』維持の為に、支払われた痛みだ。


 今すぐにでも、その痛みに、辛さに、寄り添いたい。

 その手を握り締め、これ以上無理はしないでと伝えたい。

 もっと近くに、傍にいたいと思う。


 でも、今すべき事は、そんな事では無い。

 辛くても、不安でも、耐えなければ駄目だ。

 レオン先生が、私たちの為にどれ程の代償を支払ったのか。

 その代償に比べたなら、私の痛みなど、私の想いなど、どれ程に軽い事か。

 

 ならば今、自分がすべき事をする。

 前を向いて、背筋を伸ばす。


 子供の頃、マウラータで救ってくれた、あの血に塗れたシスターの様に。

 痛みに耐えて、すべき事をするのだと。

 事に於いて胸を張れる――そんな自分である為に。

 カトリーヌは右手を胸元に添えて、宣言した。


「私も『ヤドリギ園』も、ずっとレオン先生とエリーゼに助けて頂いています。感謝の言葉では足りないくらいに、救われているんです。だから私は、私に出来る事をします。グランマリーの助祭であり、レオン先生の助手であると、胸を張って言える様に頑張ります。診療所の事は、全て私に任せて下さい」


 レオンは、カトリーヌをじっと見つめ、そして頷く。

 目蓋を閉じて言った。


「ああ……任せたよ。シスター・カトリーヌ」


 ◆ ◇ ◆ ◇

 

 古城を思わせる、石造りの建造物だった。

 築年数にして一〇〇年は超えているだろう。

 しかし要所要所に適切な手入れが成されており、老朽した印象は受けない。

 瀟洒かつ荘厳な佇まいだ。

 屋根は鋭角的な切妻屋根、グランマリー教団のシンボルが掲げられている。

 ガラリア・イーサ『特別区画』防衛外壁の城塞に隣接した、大規模施設『グランマリー教団・在俗区会本部』であり、『一般居住区』で活動する在俗信徒達の総本山であった。


 そんな『グランマリー教団・在俗区会本部』の地下十数メートル。

 そこには広大な空間が広がっていた。

 壁は石造りであり、当然窓は無い。

 天井にはエーテル式白色灯が連なっている。

 そこは『マリー直轄部会』の為に設けられた、研究所施設だった。


 照明の下を忙し無く行き交うのは、灰色の施術着を纏った錬成技師達だ。

 手元のファイルを確認しつつ、皆それぞれに作業を行っている。

 彼らが扱うのは蒸気を吐きながら稼働する、幾つもの精密な錬成機器だ。

 そして巨大な解析機『スチーム・アナライザー・ローカス』が出力する解析結果を確認しながら、錬成用生成器の制御を行っていた。


 高さ二・五メートルを超える錬成用生成器は、ガラス製の円柱を思わせ、その内側には薄紅色の希釈エーテル製剤が満たされており――そこには一糸纏わぬ姿の、シスター・ジゼルが浮かんでいた。

 酸素吸入器が口許を覆い、両腕には輸液用のチューブが繋がっている。 

 ライトブラウンのショートヘアが、溶液の中で揺らめいている。

 全身に刻み込まれた縫合跡。


「不覚でした……」


 くぐもった声が、生成器の下部に取り付けられた伝声管より響いた。

 シスター・ジゼルの声だった。


「実戦である、そう気づいた上で、その様に立ち回っていた――つもりでしたが、及びませんでした……」


「――誤算は二つ」


 そう応じたのは漆黒の修道服を身に纏った、長身のシスター――シスター・マグノリアだった。

 腰まで届くウェーブ掛かったロングヘアは修道服と同色であり、鋭く光る瞳もまた同じ色だ。

 美しく整った相貌は、しかし鋭利な刃物を思わせた。 

 生成器の前に立ち、シスター・マグノリアは続けた。


「ひとつは『コッペリア・ルミエール』が使用した武装の特異性。ただし、これひとつであれば対応出来ただろう。もうひとつは――」


「――『コッペリア・ルミエール』が『別人と成り代わっていた』事に気づきながら、元のイメージに因った攻防を展開してしまったこと……」


 言葉の半ばから、シスター・ジゼルが引き継ぎ答えた。

 その解答に、シスター・マグノリアは頷く。


「そうだ。二重のバイアスが誤認を生んだ」


「すみません、先輩……」

 

「必要以上に引き摺る必要は無い。経験として活かせ」


 謝罪の言葉をシスター・マグノリアは低く制した。

 更に続ける。


「今回の成り代わり、あの場でシスター・ジゼルが早々に討たれていたなら、表面化しなかった可能性もある。ルミエールに対し、私も違和感を覚えた。『錬成機関院』が何を行っているのか調査すべきだ。ランベールは上層部に裁可を仰いでいる」


 黒曜石を思わせるシスター・マグノリアの瞳が、シスター・ジゼルを映す。

 

「件の仕合に私は参加する。私なら、直接接触する事で情報を得られる可能性がある。そして上層部の許可が下りたなら、シスター・ジゼルにも働いて貰う。突発の事案で確証が無い以上、割ける人員も限られているからな」


 薄紅色の溶液に漂うシスター・ジゼルが目蓋を開いた。

 微かに揺らぐ青い瞳で、シスター・マグノリアを見る。


「――私に、出来るでしょうか」


 エキシビジョン以外の任務を行った事が無い――故に、不安を感じているのだろう。


「日常的に訓練は行っている筈だ」


「はい……」


 端的な回答に目を伏せて応じる、シスター・ジゼル。

 束の間、シスター・マグノリアは黙していたが、改めて口を開いた。


「――この世の繁栄と安寧を維持せよ、それが『教皇聖下マリー』の願いであり、我々の『誓約』だ。我々は皆、絶対の『誓約』に沿って活動している」


 シスター・マグノリアの言葉に、シスター・ジゼルは顔を上げる。

 

「しかし、そんな我々であっても揺らぐ事がある。損失に痛み、痛みが迷いを生む、苦痛に惑う、物事を決めあぐねる。二者択一か。全てか無か。法か情か。絶対である筈の『誓約』を超えて、我々の根幹を揺さぶる事案に行く手を阻まれる。ギリギリの決断を迫られる時が来る」


「……」

 

「己が裡に在る尺度に、自信を持て」


 低く錆びた声が、滔々と紡がれる。

 鈍く光る黒曜石の如き瞳。

 シスター・マグノリアは、自身の胸元に右手を添えて告げた。


「事に於いて胸を張れると――そう信じられる方を、選択すれば良い」


「――はい」


 薄紅色の溶液の中、シスター・ジゼルの右手が胸元に添えられた。

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