第55話 死闘

 煮え滾る魔女の坩堝もかくやと思う程に熱を帯びた、白亜の円形闘技場。

 蟻地獄を思わせる構造の観覧席には、狂喜した貴族達の顔が並ぶ。

 オーケストラ・ピットから湧き上がる管弦楽団の演奏は、勇壮極まる。

 青いドレスを身に纏ったマスクの女が、啜り泣く様な高音で謳い上げる。

 その歌声に合わせて拳を突き上げ、貴族達もまた濁った声を張り上げる。


 舞い踊るが如くに斬り結び、祈るが如くに血花咲かせよ!

 斬り結びてこそ輝ける魂、我らが神に捧げよ!

 これぞ人が咲かせる叡智の花ぞ! この世の悪意に抗う花ぞ!

 我らが聖女・グランマリー、見給えこれぞ聖なる戦ぞ!

 神に捧ぐる兵の舞を観給え、血花咲く様を観給え、御霊の許へ届き給え!


 興奮に毛羽立った聖歌が、荒々しく紡ぎ上げられて行く。

 暴力的とも言える混声合唱が轟々と響き渡る中。

 濃紺のラウンジスーツを着込んだ男は、白いイブニングドレスを纏った娘と共に、グレナディが入場した東方門脇の待機スペースから、闘技場を見つめていた。

 

「勝てる……勝てるぞ……アイツに勝てる……」


 男は低く呟くと、口角を吊り上げる。

 イブニングドレス姿の娘は黙したまま、闘技場を凝視している。

 娘の相貌は透き通る様に愛らしく、しかしその表情は張り詰めていた。

 歳の頃なら十六、七歳といったところか。

 鉄柵に両手を掛けて立つ姿は、彫像の様に美しく端正で。

 腰まで届く艶やかなブラウンのロングヘアは、生糸の様に輝いている。

 『シュミット商会』の中庭で、シロツメグサの花を摘んでいた娘の一人だった。


 娘の傍らに立つ男は『シュミット商会』代表にして『革命児』『アデプト・マルセルの再来』の異名を持つ、ヨハン・ユーゴ・モルティエだ。


「見ろ……やっぱり僕の方が優れている、僕が勝つんだ……」

 

 ヨハンは額に浮かぶ汗を拭う事無く、オペラグラスを握り締め、再び呟く。

 仕合はまだ始まったばかりだが、驚くほどにグレナディの動きが良い。

 予想はしていたが、ここまで見事な動きを示すとは。

 グレナディの精密かつ力強い動きを目の当たりにしながら、ヨハンは自らの勝利をイメージしつつあった。


 ◆ ◇ ◆ ◇ 


 小さな身体に纏った純白のドレス――その胸元が浅く切り裂かれていた。

 横一文字の切創が、ジワリと紅の染みをドレスに広げている。

 その儚げな風貌と相まって、痛々しさが際立つ。

 が、エリーゼは、微かな感情の変化すら見せる事無く、立っている。

 風をはらむ帆の様に、背を反らせては胸を張り、両腕を躍らせている。

 透き通る紅色の眼差しでグレナディを見据えつつ、『ドライツェン・エイワズ』から射出された特殊ワイヤーを操り、空中に浮かぶ三つの光玉――激しく旋回し続けるスローイング・ダガーを制御していた。


 対するグレナディは、エリーゼの前方七メートル程先で、静かに佇んでいる。

 豊満にして流麗な肢体を包む、ダークグリーンのコルセット・ドレス。

 美しく結い上げられた、ライトブラウンのロングヘア。

 銀細工の花があしらわれた、黒のトーク帽。

 艶やかな美貌ではあるが、目許には黒い布が巻かれている。

 視界を遮っているのかどうか、奇妙な印象を受ける。

 それでも不快さを感じさせないのは、口許に浮かぶ微笑のせいだろう。

 淑やかな微笑みだった。


「手抜きで仕合って、手抜かりで死ぬる事にならぬ様、気をつけた方が良いですよ?」


 からかう様な調子でグレナディは囁く。

 十二分な余裕が感じられる。

 朱色の鞘に納まったままの長刀からも、その事が伝わって来る。

 どの様な状況であっても即座に抜き打ち、対応出来るという自信の表れなのだろう。


「お気遣い、ありがとうございます」


 エリーゼは小さく応じた。

 その言葉にグレナディの笑みが深くなる。


「あらあらあら? 意外と冗談も通じるんですねえ。ふふっ……手を抜いている訳でも、必殺の意志が無い訳でも無く、余裕があると? なるほどなるほど……」


 言いながらグレナディは、左脚を後ろへ引いた。

 左手に握る鞘を床に対して水平に、更に右手を長刀の柄へと寄せる。


「ではでは……その余裕を剥ぎ取る為に、次はグレナディから仕掛けましょうかね? んー……エリーゼの本気、見てみたいですからねえ?」


 前傾気味に重心を落として構えると、グレナディは顔を伏せる。

 動きを止めた。


「ま、次の一撃で死ねば、本気もへったくれも無いんですがねえ……」


 俯く様に、頭を垂れる様に。

 深く前傾した上での低い姿勢だ、前方が見えないのではないか。

 元より黒い布で目許を覆っているだけに、なおさらそう思える。


 やがて五秒過ぎ、一〇秒が過ぎる。

 観覧席に並ぶ貴族達の歓声が、徐々に、ざわめきへと切り替わる。 

 やがてざわめきも、静かに途切れて行く。

 ただし、闘技場に満ちた熱は退かない。

 むしろ怖い程に昂っている、滾っている。

 滾る空気が、チリチリと張り詰めて行くのを感じる。

 張り詰めて、張り詰めて。

 次の瞬間。


 グレナディの姿が強烈な加速の中で、深い緑色の残像となって霞んだ。

 エリーゼの両腕が宙に舞う三つの光球を波打たせ、解き放った。


 闘技場の床面――石板の上を高速で滑る様に、間合いを詰めるグレナディ。

 そのグレナディに左右から、更に上方から、蛇行する光の軌跡が伸びる。

 ワイヤーを介してエリーゼに操作された、三本のスローイング・ダガーだ。


 グレナディの右手が長刀――グランド・シャムシールの柄に掛かる。

 ダガーはそれぞれ三方向から、しかもずれたタイミングで飛来する。


 これを全て回避する、或いはまとめて弾く事など至難と思える。

 二週間前に相対したナヴゥルは、全てを回避する事無く、防ぎ得ぬ攻撃は、肩の筋肉を盾として用い、対応していた。

 ならばグレナディはどうするのか。


 疾駆するグレナディは、いきなり前方へと身を投げる様に飛び込んでいた。

 そのまま、流れるが如く身体を捻ると回転、逆手に抜刀したのだ。

 放たれた白刃は背面に飛ぶグレナディの周囲に、強烈な曲線と火花を描く。

 三本のダガーは、一気に弾き落とされていた。


 エリーゼが後方へ跳躍するのと、着地したグレナディが改めて刃を振るうべく踏み込んだタイミングは、完全に同時だった。

 二人の距離は既に二メートル。

 これは完全にグレナディの間合いだ。

 長刀の柄を握る右手が動き、逆手の握りが順手へと瞬時に切り替わる。

 刹那、エリーゼの首筋へ向かって横薙ぎの閃光が疾走った。

 

 エリーゼは後方跳躍の最中であり、空中での回避行動は不可能だ。

 が、エリーゼの背には『ドライツェン・エイワズ』が備わっている。

 後方への跳躍は、ワイヤーを用いた急激な牽引を以て、真横への移動に変化していた。

 更にエリーゼは弾き飛ばされていたロングソードを、ワイヤーにて手元に引き寄せると、身体を沈めつつ、滑り込む様に拾い上げる。

 

 横薙ぎの一撃を回避されたグレナディは、追撃を加えるべく上体を捻りながら、右足を踏み出した。

 その踏み出した脚に向かって、地を這うが如くに迫ったのは、先に弾き落とされた筈の、三本のスローイング・ダガーだ。


 回避不可能と思えるタイミングで、ワイヤーに操作されたダガーが飛び込んで来る、ロングスカートを纏うグレナディの脚へ突き刺さるかに見えた、しかしその攻撃は、掬い上げる様に振るわれた朱色の鞘に阻まれる。

 鐺(こじり)部分でワイヤーを引っ掛けると、そのまま絡め取ったのだ。

 グレナディは、絡まったワイヤーを打ち捨てる様に、鞘を振るう。

 既に『ドライツェン・エイワズ』の、ワイヤーカッター機能が作動していた。


 エリーゼは右手にロングソードを携えたまま、床に片膝をついている。

 グレナディの横薙ぎを完全には躱し切れ無かったのだろう、左肩と左頬に負った切創から、濃縮エーテルの赤が吹き零れていた。


 闘技場内が、地鳴りの様などよめきに包まれる。

 息詰まる攻防の末、エリーゼが二度に渡って手傷を負った――つまり、グレナディに圧されている……その事実に貴族達が動揺していた。

 皆、こぞってエリーゼにベットしている。

 莫大な金をエリーゼに次ぎ込んでいる。

 その予想が覆るかも知れぬという想いに囚われ、揺れているのだ。

 不穏な気配に包まれる観覧席を背に、グレナディは赤い舌先で、自身の唇をペロリと舐め上げながら言った。


「……うーん、エリーゼが背負ってるその武装、とても変ですねえ? 複雑な操作を必要とするわりに一撃のダメージが低い、対人武装でしょうかね? 恐怖と混乱をもたらす為の制圧兵器とか? 痛覚を抑制出来る戦闘用のコッペリア相手に、有効だとは思えませんがねえ? それ故の長剣装備でしょうか……」


 エリーゼは無言のまま、ゆらりと立ち上がる。

 グレナディは手にした長刀を、ゆるりと鞘に納める。

 二人の間合いはワイヤーの牽引によって、再び遠ざかっていた。


「――とはいえ、エリーゼには相応しい武装なのかもですねえ。不思議に思っていたのですが、ひとつ確信しましたよ? エリーゼはやっぱり、戦闘用では無いのですねえ……」


 嫣然と微笑むグレナディ。

 静かに落ち着いた表情のエリーゼ。

 死闘の行方は、未だ混沌としていた。

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