第45話 謀略
未だ熱気の冷めやらぬ、巨大な円形闘技場。
その最上段に設けられた、豪奢なバルコニー席。
バルコニー席はプライベートな空間として、小部屋状に仕切られており、外部から無断で立ち入って来れる者などはいない。貴族達の集う闘技場だ、そういった特別席の警備は、特に厳重な物となっている。
もし、バルコニー席に立ち入れる者がいるとするなら、それは席の主が、予め許可を出していた者だけだ。
つまり『ベネックス創薬科学研究所』の所長――イザベラ・ヴォベル・ベネックスは、マルセルの許可を得て、この場にいるという事だった。
「やあ、マルセルくん。枢機機関院に話を通してくれたんだね。約束を守ってくれてありがとう。これで私も、晴れて『ピグマリオン』さ」
そう言って、ベネックス所長は嫣然と微笑んだ。
長身である事も相まって、不思議な迫力が感じられる。
そんな彼女の隣りには、小柄な娘が一人、ひっそりと佇んでいた。
水色のカーディガンに、黒のワンピースドレス。
ウェストにはレザー・コルセット。
端正な顔立ちをしており、セミロングの頭髪はダークブラウン。
黒縁の眼鏡を掛け、軽く眼を伏せている。
普段は『ベネックス創薬科学研究所』の受付窓口に座っている娘だ。
マルセルは姿勢を正すと、手に持ったワイングラスを軽く持ち上げ応じた。
「おめでとう、イザベラ。約束は守るよ、当然さ。キミのおかげでレオンが戻って来てくれたんだ。しかしまあ……言わせて貰えば、キミの実力なら、ボクの口添えなんか無くても、そのうち『ピグマリオン』になれたと思うがね」
マルセルの言葉に、ベネックス所長は軽く首を振る。
「いやあ……ガラリア・イーサは、身分と血統が重んじられるからね。私は南方の生まれだし、ジブロール自治区で育ったんだ、薬科学の分野で働く事は許されても『ピグマリオン』になる事は難しかったさ」
「ところで……」
オランジュが静かな口調で会話に割り込んだ。
艶やかな流し目でベネックス所長を見遣る。
「あの子が私に届かない――つまり『シュミット商会』の『グレナディ』が、あの子に勝つと?」
「弱くは無いよ、実際ね。序列四位だ……二位と三位が『枢機機関院』と『マリー直轄部会』の為に用意された、不動の名誉枠だと考えれば、実質『グレナディ』が、グランギニョールの『ナンバー・ツー』だよ」
ベネックス所長は応じた。
確かに『グランギニョール』の序列二位と三位は名誉枠だった。
『枢機機関院』と『マリー直轄部会』――これらふたつの公的機関から一名ずつ、コッペリアが選出され、配置されている。
彼女達は『教皇マリー』か『皇帝ヴァリス四世』或いは『皇族』による観戦が発表された時以外、仕合を組まれる事は無く、その仕合もエキシビジョン的な内容に留まり、序列が変動するという事は無かった。
故に『序列四位』が『序列一位・レジィナ』に、最も近いとも言える。
とはいえ、序列四位から序列一〇位までのコッペリアに、実力差は殆ど無いという考え方が一般的だ。
現在行われている『グランギニョール』の本戦は、一〇位以下のコッペリアが、四位から一〇位までのコッペリアに挑むという、そんな仕合構成がメインとなっている。コッペリアの強さや優秀さだけでは無く、コッペリアを有する貴族の家格や権勢、派閥なども、仕合の組み合わせに影響している為だ。
ベネックス所長は発言を続ける。
「一年ほど前『グレナディ』の為に、特殊素材を幾つか提供した事がある。その際に音響測定でチェックさせて貰った、とても良く出来た個体だったよ。それに『シュミット商会』のヨハンは、マルセルの信奉者だ。満足するという事を知らない、一年前から更に進化してるだろうね」
そして傍らに立つ娘の頭に、手のひらを乗せて言った。
「なにより、この子がいる――私の『コッペリア・ベルベット』がね」
ベネックス所長の隣りで軽く俯く娘に、オランジュは視線を送る。
小柄な娘――『コッペリア・ベルベット』は床を見つめたまま動かない。
黒縁眼鏡の奥に見える茶色の瞳は、何も映していないかの様だ。
「下位リーグの予備戦で二戦、どちらも圧勝だったそうだね。次は二週間後の本戦か……さすがに気づくだろうね、レオンも。ショックを受けるかも知れないなあ」
そう言ったのはマルセルだ。
モノクルを光らせながら『コッペリア・ベルベット』を見下ろす。
ベネックス所長は少しおどけた調子で言った。
「気づくし、傷つくだろうね。とはいえ仕方ない、人生は厳しいものなんだ。まあレオンには良い友人もいる、私の事は、ほろ苦い想い出として割り切って貰おう」
「イザベラは本当に自由だね」
軽く肩を竦める仕草を見せるマルセル。
そんなマルセルを見遣るベネックス所長。
そして一呼吸後、低く呟く様に告げた。
「遠からず、レオンの『エリーゼ』に挑ませて貰うよ。もちろん勝たせて貰うつもりだ。そして――その次は『オランジュ』を倒す、マルセル君の筋書きを違えてみせよう……」
「本当に自由だ――『ピグマリオン』の肩書きだけでは不足かい?」
金属義手の指先で摘まんだワイングラスを傾けつつ、マルセルは問う。
ベネックス所長は唇の端を、きゅっと吊り上げた。
「不足だね。私もある意味、キミの信奉者なのさ。満足するという事を知らない。停滞は『死』だよ。行けるところまで行く。それが錬成技師というものだろう?」
「その通りだ」
柔和な笑みを湛えたまま、ベネックス所長は続ける。
しかしその眼は、笑っていない。
「……錬成技師として『真理』に辿り着くのは私だ。この世の『神性』を否定し、『人』の英知をこそ至高とする。『人』の『誤解』を解き、『霊長』の意味を真に示してみせるよ」
「愉しみだ」
マルセルは呟く様に答え、ウィンクしてみせる。
そしてビロード張りのカウチソファに座る、オランジュに問い掛けた。
「オランジュ? もし、彼女――『コッペリア・ベルベット』が、キミの前に立つ事となったら、どうだい? 楽しめそうかな?」
オランジュは、ワイングラスの透明な赤に透かしながら、小柄な娘――ベルベットを見て答えた。
「そうね……私は『化け物』退治も嫌いじゃないわ」
オランジュの返答に、ベネックス所長は眼を細める。
そして、隣りに立つベルベットに声を掛けた。
「そう簡単には退治されないさ、そうだろう? ベルベット」
ベルベットは俯いたまま、笑みを浮かべた。
ふわりと口許を綻ばせて。
上弦の月を思わせる口許から、ギザギザとした鋭い歯並びがゾロリと覗いた。
「最高だよ、ベルベット……」
マルセルは感極まったとばかりに、うっとりと目蓋を閉じる。
ゆっくりと頭を振りながら、ワイングラスを掲げた。
「――いずれにせよ『エリーゼ』が参戦した以上、『グランギニョール』の様相は一変する。いや……一変せざるを得ない。アレは劇薬だ、ガラリアの根幹を揺るがしかねない程にね。既に『錬成機関院』には話を通してある……」
再び眼を開くと、マルセルはワインで唇を湿らせる。
そして、グラスを見つめながら言った。
「アレも……『エリーゼ』も恐らく解っている、だからあんな無茶な真似をする。ボクを誘っているのかも知れないね。オランジュの言う通りだ、あんな身体で、正気の沙汰じゃ無い、楽しいよ、凄く……」
微笑むマルセルの口許に、白い歯が煌めく。
それは酷く獰猛な笑みだった。
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