第33話 出陣
エーテル水銀式の小型黄色灯が仄かに燈る、質素で古びた部屋だった。
キルトカバーが掛けられたベッドに、木製のクローゼットがそれぞれ二組。
ヤドリギ園で働くシスター達の為に用意された、二人部屋だ。
壁掛け時計の針が指し示す時刻は、午前六時。
窓の外では、東の空が薄紫に色づき始めているのが見える。
グランギニョールが開催される日の早朝だった。
「――アヴィったらこの間、夕食の時間にね、ライ豆の煮込みがイヤだって、我侭言い始めたの。好き嫌いは駄目って叱ったら、レオン先生もライ豆、あんまり食べて無いって言い出して……」
ベッドの縁に腰を降ろしたカトリーヌが言う。
その指にはプラチナに輝く、エリーゼの長い髪が絡んでいる。
エリーゼはカトリーヌに背を向け、丸椅子に腰を降ろしている。
小さな身体に纏う物は、背中が大きく開いた純白のドレス。
グランギニョールで仕合う為の衣装だった。
「とにかくライ豆を残すなんて許しません! ……って叱ったんだけれど、これって、レオン先生にも同じ事を言わなきゃ駄目だよね? 好き嫌いは駄目ですって。子供達に示しがつかないし」
髪は後頭部で二つに分けられ、三つ編みに纏められている。
纏めた髪は、そのまま丸く小さく、束ねられる。
仕合中、髪が邪魔にならぬ様にという、エリーゼの要望だった。
しなやかな髪を丁寧に整えながら、カトリーヌは話を続ける。
「――レオン先生って、子供達に好かれているけれど、きっと子供っぽいトコロがあるからだと思うんだ」
「はい」
俯き加減に目を伏せたまま、エリーゼは静かに答える。
「エリーゼもそう思うよね? レオン先生って仕事中はしっかりしてるけれど、時々子供っぽいなあって思うもの。庭で子供達と遊んでいる時とか、嬉しそうに走り回ってるし。ドライフルーツとか甘い物、大好きだし。お茶を飲む時も、こっそり砂糖たっぷりなんだよ?」
「左様でございますか」
とりとめの無い会話を続けながら、カトリーヌはエリーゼの髪を束ね終える。
本当はもっと違う事を言いたかった。
グランギニョールへ赴くエリーゼに、もっと伝えたい事があった。
でも――相応しい言葉が出て来ない。
出て来るのは本当に、どうでも良い事ばかりで。
「うん……甘い物より、夕食のライ豆をしっかり食べて欲しいよ。ヤドリギ園じゃあメイン食材だし、健康にも良いんだから。それにレオン先生が美味しそうに食べたら、きっとアヴィも真似して食べるだろうし……」
頑張ってと、負けないでと、伝えたい。
でも、そんな無責任な事は、言えない。
血の滲む包帯に塗れた少女――あの姿を覚えている。
グランギニョールに参加した、オートマータの少女。
あの残酷を目の当たりにして、言える筈も無い。
無事を祈る事しか出来ない。
でも、それすら身勝手な事の様に思えてしまう。
実際に命を賭して戦うのはエリーゼだ。
自分はエリーゼに全てを任せて、待つ事しか出来ない。
直接、エリーゼの力になる事も出来無い、それが辛くて。
でも、こんな気持ちを、エリーゼに悟られてはいけないと思う。
美しく編み上がったプラチナの髪を見つめて、カトリーヌは口を開く。
「えっと……その、髪、結い終えたよ?」
これから戦うエリーゼの気持ちを、波立たせる様な真似はしたくない。
せめて笑顔で、送り出してあげたい。
カトリーヌは微笑みながら言う。
「うん、キッチリ綺麗に纏まってる」
「ありがとうございます、シスター・カトリーヌ。それでは――」
エリーゼは静かに椅子から立ち上がると、振り返る。
そして、穏やかな口調で告げた。
「――夕食までには、帰って参ります」
カトリーヌは、エリーゼの紅い瞳を見つめる。
エリーゼは軽く頷く。
「ライ豆の煮込みを、楽しみにしておりますので」
その言葉を聞いて、カトリーヌは思わず涙ぐみそうになり、堪えた。
泣く様な言葉じゃない。
本当に泣く様な言葉じゃなくて、ありふれた言葉で。
まったく他愛も無い言葉なのだけれど。
でも、とても嬉しくて。
夕食に間に合う様、帰って来る。
ただ、それだけの事を告げられて、嬉しくて。
そうあって欲しいと、心から望んだ。
ごく普通の、いつも通りに。
エリーゼに、レオン先生に、帰って来て欲しい。
カトリーヌは立ち上がると、エリーゼの小さな白い手を握り、答えた。
「うん! 夕食は私も手伝って、ライ豆のスープ、作って待ってる! エリーゼとレオン先生に、絶対に美味しいライ豆のスープ、作って待ってるからね!」
「はい」
エリーゼは頷く。
その時、部屋のドアが静かにノックされた。
きっと、シスター・ダニエマだろう。
出発の時間だった。
◆ ◇ ◆ ◇
特別区画と外界を区切る堅牢な城砦が、幹線道路に長大な影を落していた。
重厚な落し格子の楼門を警備するのは、自動小銃を携えた衛士達だ。
運転手が通行証を提示すると、衛士の一人が開門を指示する。
二重の鉄格子が音を立てて巻き上げられ、カブリオレ型蒸気駆動車は、ゆっくりと前進する。
車窓から見える特別区画の景色は、全てに手入れが行き届き、豪奢の極みだ。
ゴートな意匠が施された白亜の建造物群に、緑鮮やかな庭園。
整然と並ぶエーテル水銀式街灯に、幾何学模様のペーヴメント。
建物の壁面を飾る色鮮やかなステンドグラスが、太陽光に煌めいている。
ガラリア・イーサの栄華と繁栄を示す、人工楽園。
城砦の楼門を潜り抜け、一〇数分も走ると、駆動車は特別区画の中心部へと差し掛かる。そこは広々とした円形の中央広場だった。
花壇に低木、プロムナード。
美麗なアーチを描く噴水で構成された、特別区画のシンボルとなっている。
そんな中央広場を取り囲む様に、首都イーサの行政と神聖を司る巨大施設群が、建ち並んでいた。
荘厳な気配を漂わせるグランマリー大聖堂に、神聖教会館、枢機機関院。
イーサ特別区画の治安を維持する高等衛兵院、高等裁判院。
行政を担うガラリア帝国議事堂、練成技師達の総本山である練成機関院。
特別区画に住まう貴族達に娯楽を提供する大劇場、美術館、音楽堂。
そして、グランギニョール円形闘技場。
闘技場の周囲には、既に複数の貴族達が、仕合開始を待ち望みつつ、集まり始めていた。
駆動車は緩やかに速度を落すと、広大な円形闘技場の裏手へと回り込む。
そのまま暫く徐行を続け、やがて関係者用の通用門前で停車した。
「――行こう」
フロックコートを纏ったシャルルは駆動車から降りると、レオンとエリーゼを促した。その顔は明らかに青褪めており、体調の悪さを伺わせる。
眠る事が出来なかったのかも知れない。
今日の仕合に際して、胸中、穏やかならぬモノがあったのだろう。
シャルルはエリーゼに、アーデルツの面影を見ている節があった。
そんなエリーゼがアーデルツと同じく、グランギニョールへ参加する事になったのだ。
何も思わない訳が無い。
それでもシャルルは、エリーゼの参戦に異議を唱える事無く、各種手続きの全てを引き受けて来た。
しかしそれらの行動は、シャルルの想いと乖離していた筈だ。
無理を積み重ねた結果が、仕合当日の体調に現れていた。
警備員に参加証を提示したシャルルは、レオンとエリーゼを伴い、通用門を潜る。
シャルルの後ろを歩くエリーゼは、白いドレスの上に、ゆったりと大きな黒いショールを羽織っている。
レオンは黒のラウンジスーツ姿だ、右手に引くキャリーケースには、蒸気式小型差分解析機(スチーム・アナライザー・アリス)と医療セット、そして完成したばかりの武装『ドライツェン・エイワズ』が納まっている。
それ以外の武装と機材は、シャルルの従者達が別便で、既に控え室まで運び込んでいる。
通用門から続く石造りの通路には、エーテル水銀式の黄色灯が燈されている。
幅の広い通路は天井も高く、石壁の高い位置に採光窓も設けられている。
かつてこの闘技場では、人間と獣が戦っていたとも伝えられている。
この通路の広さは猛獣の類いを運搬する為に、必要だったのかも知れない。
やがて通路奥から、微かなざわめきが聞え始める。
グランギニョールに参加するコッペリアとサポートチームの、控え室が並んでいる為だ。既に何組ものチームが、仕合に向けて準備を始めているのだろう。
控え室はチームそれぞれに、個室が割り当てられている。
通路壁面に一定間隔で並ぶスチール製のドアには、金属プレートが取り付けられており、そこにはコッペリアを擁する貴族の名が、或いは企業名が記載されている。
シャルルは通路一番奥に設けられたドアの前で、足を止めた。
ドアには『衆光会』のプレートが掛けられていた。
◆ ◇ ◆ ◇
広々とした控え室に、窓は無かった。
しかし品の良い壁紙と、所々に飾られた絵画のおかげで息苦しさは感じない。
高い天井ではシーリング・ファンが旋回し、シャンデリア風の装飾が施されたエーテル式白色灯が、自然な明かりを燈している。
部屋の入り口側に、ローテーブルと革張りのソファが配置されており、木製の間仕切りパネルを隔てて簡易ベッドとデスク、複数のロッカーが並ぶ。
部屋の奥には化粧室に脱衣所、シャワールームも完備されている。
ガラリア隆盛の象徴たる闘技場に設けられた控え室だ、上級貴族が立ち入る事も多い、下手な宿泊施設よりも設備は充実していた。
荷物や機材の確認を一通り終えたシャルルは、仕合の進行状況を確認して来ると告げ、闘技場へ出向いた。
レオンはデスクに広げた小型差分解析機と、エリーゼの背中に設置された『ドライツェン・エイワズ』をケーブルで繋ぎ、機構チェックを繰り返している。
今日だけで何度、繰り返した事か。
仕合開始直前になっても、チェックせずにはいられない。
ナーバスな状態に陥っている……そう自覚したレオンは大きく息を吐き、簡易ベッドの縁に腰を降ろすエリーゼを見遣った。
エリーゼは背中の『ドライツェン・エイワズ』をレオンに任せたまま、右手の指先で、光る物をクルクルと旋回させている。
手慰みに万年筆を回している様にも見えるが、そうでは無い。
手にした物は小型のナイフ――正確にはスローイング・ダガーと呼ぶべき代物だった。鋭利な鏃(やじり)を思わせるスチール製で、長さは約八センチ、幅は一・五センチ。グリップは無く、柄の部分に小さな丸い孔が穿たれている。
その様なダガーを、エリーゼは指先で弄んでいた。
エリーゼの傍ら――簡易ベッドの上には、スローイング・ダガーを収納した、レザー・ホルダー付きの黒い革ベルトが二本、並んでいる。
ベルトは短く、上腿に巻きつける仕様となっており、ホルダーの数は八つ。つまり、計十六本のダガーが納まる事になる。
そして、円盤状の金属プレートが固定された黒い革ベルト……これが四本と、幅の広い金属製の指輪が一〇個、木製のケースに納められている。
これらは『ドライツェン・エイワズ』から射出される金属ワイヤーを操作する為に必要な道具立てだ。
更に、その隣りには一振りの大剣――グレートソードが用意されている。
重さは三キロ超、身幅は五センチ。
切先から柄頭まで、一六〇センチ程もある長大な剣だ。
これもエリーゼがシャルルに要望した武器のひとつだが、エリーゼの身長を考えれば、重さはともかく、扱える長さでは無い様に思える。
何れにせよ、特殊武装である『ドライツェン・エイワズ』の動作確認に時間を使い切り、ここに並ぶ武器を使用しての調整を行えないまま、仕合に望まざるを得ない状況に、レオンは不安を覚える。
しかし、そんな差し迫った状況にあっても、エリーゼは何も変わらない。
普段通り、落ち着いた様子だ。
指先で旋回するダガーを、紅い瞳で静かに見つめている。
動揺の色も、焦りの色も見えない……超然としている、そう言って良い。
ただ、その白い美貌に、桜色の唇に、淡い微笑が浮かぶのを見て。
レオンは思わず声を掛けた。
「――楽しそうだね」
エリーゼは、煌めくダガーの旋回に視線を落したまま答える。
「左様でございますか?」
その口許は、柔らかに綻んだままだ。
何を考えているのか、何を思っているのか。
状況は決して良くなど無いのに。
「そう見える――」
レオンはそう言ってから、軽く頭を振り、言葉を続けた。
「いや、責めているワケじゃない。すまない……僕は、この状況で余裕を失っているんだろうな、ただ……気になったんだ。何を思っているのだろうと……」
回転を続けたダガーは、繊細な白い指に摘まれて止まった。
エリーゼは静かに口を開く。
「……その様で在れ、その様に在れ。遍く民の祈り、願い。オートマータの魂は、精霊のそれ。それを形作るモノは、人々の想い――恐らくは理想、あるいは畏敬、もしくは願望。ご主人様もご存知の筈。ならば私が今、この場で思う事は、数多の人々が想い、願う事と同じでございましょう」
エメロード・タブレットを依り代とした、人ならざる魂。
精、霊、妖、魔として人々に語り継がれる、寓話と伝説上の存在。
グランマリーの浸透と共に、徐々に廃れていった信仰対象。
失われた古の神々。
神を形作るモノは、人々の祈りであり願いだ。
故にエリーゼの想いも、人々のそれと一致する――という事なのか。
レオンは呟く。
「戦いに赴く人間は……微笑む事なんて出来ないと思うよ」
「せめてその様に在れと望んだ者が、数え切れぬ程にいたのでございましょう」
エリーゼは応じる。
死を賭した戦いを前に、微笑む事を望む者が大勢いたのだと。
その様な者になりたいと、そう願う者がいたのだと。
それはどんな時代だったのか。
今でも、そう望む人間がいるのか。
死に際に、微笑む事を望む者など。
レオンはエリーゼの背中――『ドライツェン・エイワズ』に手を伸ばすと、小型差分解析機と繋がるケーブル・コネクタを、接続ソケットから取り外す。
そして訊ねた。
「ナハティガル、あるいは夜鳴きウグイス。そんな精霊を僕は知らない。調べた文献の中にも存在しなかった。エリーゼ。君は何者なんだ?」
エリーゼはゆっくりと立ち上がり、肩越しに振り返ると答えた。
「以前、お話した通り……私は求道者を惑わせし夜鳴きウグイスの精霊、ナハティガルにございます」
ピジョン・ブラッドの紅い瞳が、濡れ光っていた。
レオンが改めて口を開こうとした時。
部屋のドアが、音を立てて押し開かれた。
シャルルが、戸口の外から言った。
「たった今、第六仕合が終了した。エリーゼ、レオン、入場してくれ」
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