第40話 王都の祈りの塔 後編

 最奥の壁の一部が白く眩い輝きを放ったかと思うと、領都の時のようにゆっくりと音もなく動き始めた。同時に私の足元からも演奏台コンソールとともに椅子と足鍵盤が現れ始める。私は、自分が立っているところが丁度演奏台コンソールの椅子の上だったので、そのまま椅子の上でしゃがんで落ちない様に両手で椅子の端をしっかりと掴んでおいた。



「なんと……これが、祈りの塔の神獣……」



 背後からフランチェスコが呟く声が聞こえてくる。初めてリュフトシュタインが姿を現した時のように、王都の祈りの塔の中もいつの間にか水を打ったように静まり返っていた。

 輝きを放ちながらゆっくりとその姿の一部を現したリュフトシュタインは、見える範囲のパイプや意匠は領都のものとそっくりだった。しかし、やはり私の予想通り、その演奏台コンソールは全く違った。



 演奏台コンソールとは、普段演奏している鍵盤やストップレバー、コンビネーションボタンやスウェル・ペダルを備えた、演奏するための設備のことだ。それを見れば、おおよそそのパイプオルガンがどのくらいの規模か、どんな機能を持っているのかがわかるのだが……



 リュフトシュタインの本体の演奏台コンソールは、5段の手鍵盤に、いつものストップレバーではなく、特徴的な馬蹄型の赤、白、黒、黄色のストップタブが手鍵盤をぐるりと囲うように並んでいる。ストップタブの列は4層にもなっており、この楽器のことを知らない人が見たら、どこまでが鍵盤で、どこからが鍵盤じゃないのかわからないくらい、不思議な見た目の楽器だ。



「……ねえ、パル爺。もしかしてリュフトシュタインの本体って、管楽器と弦楽器の音色が増えるだけじゃなかったりする? 例えばさ、打楽器とか鍵盤楽器とかも鳴らせたりする?」



 私は、目の前に現れた本体の演奏台コンソールを食い入るように見つめながら話しかける。歓喜に震えそうになる手で、ストップタブを押したり戻したりしてみる。演奏台コンソールのこの形、ストップのこの形状、もうこれは間違いないんじゃないの? 地球で唯一、本当の意味で一人オーケストラを可能にする、あの楽器だ。



「もちろんじゃ。鍵盤楽器はピアノがあるぞ。あとは打楽器に分類されるが、鍵盤楽器とも言えそうなのは、マリンバ、シロフォン、グロッケン、ビブラフォン、チャイム、ウインドチャイムあたりかのう。それから、打楽器はティンパニ、バスドラム、スネアドラム、クラッシュシンバル……」



 パル爺は、鍵盤楽器と打楽器の種類を一つ一つ挙げてくれる。私は感動のあまりリュフトシュタインの演奏台コンソールに抱き着きたい衝動を必死に堪えながら、パル爺が教えてくれる楽器の名前に耳を傾けていた。そして、私は確信した。



 リュフトシュタインの本体はパイプオルガンの一種だが、厳密に言うとパイプオルガンではない。



 私の夢の一つ、『一人オーケストラをやりたい』を唯一叶える楽器。



 『シアターオルガン』だ。









 パイプオルガンの歴史はとても古い。他の楽器と違い、パイプオルガンはその発明がどのようにして起こったのかがわかる文献が残っている数少ない楽器だ。それによると、パイプオルガンの歴史は、紀元前3世紀ごろ、現在のエジプトのアレクサンドリアで、クテシビオスという人物がパイプオルガンの原型を発明したことから始まる。



クテシビオスは、本来は別の用途で作っていたものだったが、偶然にも水圧差でパイプに風が送られ、それによって音が鳴ることを発見した。これが水圧オルガンである『ヒュドラウリス』の誕生だ。



 その後、紀元前のうちに『ふいご』という風をおくる装置が発明され、水を使わずに音を鳴らすことができるようになる。パイプオルガンが電気のモーターで風を送るようになるまでは、この蛇腹のような形をしたふいごを人力で押し、一番下まで行ったら引き上げてを繰り返して空気を送っていたので、パイプオルガンにはふいご職人が何人もいたとも言われている。



演奏するまでに多大な労力が必要とされたパイプオルガンだが、757年にビザンツ帝国のコンスタンティヌス帝がフランク王国のピピン王にプレゼントしたことで、ヨーロッパ各地へと広がっていく。この広がっていく中でオルガンの音の数が増えたり、拳で叩かないと鳴らなかった鍵盤が指で押しても鳴るようになったりと改良されていき、現在のパイプオルガンの原型が出来上がったのは15世紀ごろだ。



そして、キリスト教の教会を中心に設置されていったパイプオルガンは、19世紀以降になってようやくコンサートホールにも設置されるようになった。その後、1920年代のアメリカで、遂に『シアターオルガン』が誕生する。



シアターと名前が付くくらいなので、シアターオルガンは主に映画館に設置された特殊なパイプオルガンのことだ。当時の映画はまだ無声映画で、その伴奏にはオーケストラが使われていた。しかし、オーケストラを毎回雇うのは大変だしお金もかかる。パイプオルガンに打楽器や効果音を付けて一人のオルガニストに演奏させれば、ずっと経済的ではないかということで開発されたとも言われている。



そのシアターオルガンには、オーケストラの代わりをこなすための弦楽器、管楽器、打楽器、鍵盤楽器だけではなく、ものによっては蒸気機関車の音や鳥の鳴き声など、様々な効果音が付けられ、オルガニストによって映画のシーンに合わせて即興で演奏されていたそうだ。



当時、一世を風靡したシアターオルガンだが、映画そのものに音楽が付けられるようになると、次第にその姿を消してしまった。しかし、完全に失われたわけではない。今でも製作を行っている会社はあるし、数は多くないが現在も演奏されているシアターオルガンはある。例えば、日本だと私の知る限り日本橋〇越に設置されていて、時々演奏会が行われている。私も東京に行くときは、出来る限り予定を合わせて聴きに行ったものだった。



……シアターオルガンで一人オーケストラをやるなら、アメリカのとある財団が保存している、超大型且つ当時実際に映画館で活躍し、今も演奏できるものでと勝手に思っているうちに私は死んでしまった。後悔していないかと言えば嘘になるが、それくらい私にとってシアターオルガンは特別な楽器なのだ。






「ねえ、リュフトシュタイン。あなた、シアターオルガンだったのね……ああ、ああ……会いたかったわ。……これが、いつか弾けるようになる……私が弾いていいのね……」



 私は、喜びで叫びたいのをぐっと我慢しながらも、自分の口から小さな声で本音が漏れ出るのは抑えきれなかった。フルフルが「しあたーおるがん?」とか首を傾げた声を出しているが、無視だ。

 ああ、一回死んじゃったけど生きててよかった! まだたった1ヶ月だけど、ソフィーの代わりに貴族令嬢として頑張ってきてよかった! しかも、シアターオルガンの中でも私が特に弾いてみたいと思っていた、あの超大型のモデルにそっくりだ! これならいつかあれが弾ける! ああ、神様、ハルモニア様、ありがとうございます……!



 私は興奮しすぎて、もうどうにかなってしまいそうだった。過呼吸にでもなってはいけないと思い、シアターオルガンの椅子の上に座ったまま静かに目を閉じ、興奮しすぎた自分を落ち着かせようと、ゆっくりと深呼吸をして息を整えた。






「……もう近づいても大丈夫そうかの? いやはや、これが一体何なのか、儂には到底わからんが……ん? 使徒様、どうなさったのじゃ!」



 目を閉じて心を落ち着かせようとしていたところで、いつの間にか私の傍にフランチェスコと少年神官が戻って来ていた。私の座る椅子のすぐ横まで来たフランチェスコだったが、私の顔を見てぎょっとしながら叫び声を上げた。彼の声で私も驚いて目を開けた。

すると、フランチェスコのすぐ後ろで彼を支えていた少年神官が、白い長衣のどこからかハンカチのようなものをさっと取り出し、フランチェスコに手渡していた。そして、フランチェスコが「失礼」と言いながら、それを私の頬にそっと当てた。いや、当てたのではない。拭ったのだ。



 そう、知らないうちに私は泣いていた。頬を拭われるまで全く気付かなかった。



それほどまでに、この楽器に、このモデルのシアターオルガンに会いたかった。



 涙なんかどうでもいい。



 そんなことより、死ぬ前には得られなかったチャンスが目の前にある。



 今度こそ、絶対に弾くんだから。一人オーケストラをやる夢を叶えるんだから。



 そのためにも、絶対死んでなんかやらない。惨殺される運命なんか、あの呪いみたいに引きちぎってやろう。うん、そうしよう。



「な、どうしたんだ、ソフィー?! 気分が悪いのかい? また魔力を使いすぎたのかい?」



「儂の可愛いソフィーになんたることを! これが原因か? 成敗してくれる!」



 私が勝手に決意を固めていたところで、フランチェスコの声を聞いたお父様とお爺様が私の元に駆け付けてきた。二人とも私が声も上げずに泣いていたことに驚き、お爺様なんて、神獣リュフトシュタインを相手にわけのわからないことを言っている。



「お爺様、落ち着いてください! 違うんです! その、私はただ……嬉しかったのです!

……これはリュフトシュタインの本体で、領都のものよりも大きく、そしてもっとたくさんのことができるのです。いつか、弾けるようになるのが楽しみだなあ、と思ってただただ嬉しくなっていただけなのです……」



 そして、気づいたら勝手に涙が流れていたのです、と続けた。弾けるのが嬉しくて泣くとか、傍から見たらグレゴリウスのことを言えないくらい、ただの変態じゃないか。なんだか自分が言っていることが恥ずかしくなってきて、言いながら段々声が小さくなっていってしまう。

 こんなことで泣くなんてと呆れられると思い、つい俯いてしまっていると、



「なあんじゃ、そんなことか! ソフィーが嬉しいならよい! これも許す! がははは!」



「ソフィーは、お誕生日会の時も嬉しくて泣いていたからね。本当に気の優しい子だ。エリアーデが見たら、『女の涙は安売りしちゃだめ!』とかなんとか言いそうだから、これは私たちだけで内緒にしていようね」



 お爺様はいつもの笑い声を上げながら私の頭をわしゃわしゃと撫で、お父様はフランチェスコからハンカチを受け取り、私の目の前に屈んで涙をそっと拭いてくれた。

 本当なら、いくら子どもでも貴族が人前で泣くなんて簡単にしてはいけないことだろう。ヴァルナーダ先生がいたら、間違いなくきつく叱られたはずだ。でも、お爺様もお父様も、今日は私のわがままにずっと付き合ってくれているし、こんな醜態を晒しても責めたりしない。



『時にはこうして甘えてもいいんだよ?』



『私たちがみんなで守ってあげるから、そんなに早く大人になろうとしなくていいんだよ』



 私は、慈しむような顔で私の顔を優しく拭くお父様を見つめながら、王宮の帰り道でかけてもらった言葉を思い出した。



「お父様、お爺様、フランチェスコ。心配してくれてありがとう。あと、驚かせてごめんなさい」



 私は、まず謝罪しようと思ったが、思い直して感謝の言葉を伝えることにした。少なくとも二人は甘えていいよって言ってくれているんだもの。彼らは謝ってほしくて心配したわけじゃない。私を、いや、ソフィーのことが大事だからだ。



 お礼を伝えると、私はずっと座ったままだったリュフトシュタインの椅子から降りた。そして顔を上げてみんなの顔を見ると、少年神官も含めて4人ともとても温かい、優し気な笑顔を浮かべてうんうんと頷いていた。



 今日のところはここまでしかリュフトシュタインを出せず、魔力が足りないので演奏もできないことをみんなに伝え、お父様とお爺様にここへ連れてきてもらったことへの感謝も伝えた。結局、何にもできなかったことに落胆されるかもしれないとも思ったが、特にこれと言って責められることはなかった。お父様やお爺様には事前に話してあったし、フランチェスコはリュフトシュタインの姿をほんの一部でも見ることができて感動した様子だった。






「ふおっ、ふおっ、ふおっ! 今日は使徒様に直接お会いできて、そして神獣を生きているうちにこの目で見ることができて、儂はもう今夜にでもハルモニア様の元へ行けそうなくらい幸せな気持ちになりましたぞ。本当に逝ってしまう前に、使徒様とのお約束を果たせるようにこの後すぐに手配しなければなりませんな。ふおっ、ふおっ、ふおっ!」



「ふん! ソフィー、こやつのこの手の話はもはや挨拶じゃ。聞き流しておくのじゃ」



 祈りの塔の入り口まで見送ってくれたフランチェスコが、別れ際に私に話してくるのをお爺様がうんざりした口調で返す。二人のまるで旧友のようなやり取りを笑顔で見ながら、私は遠くなってしまったリュフトシュタインの本体へと視線を移す。

 途中までしかパイプを引き出せなかったが、壁から現れているその本体は青みを帯びた銀色に輝き、半透明の壁や天井から入ってくる淡い光を反射するその姿は、神々しさすら感じさせる。



 そういえばフランチェスコもだが、ここに来た時に比べて、この祈りの塔の中にいる人たちの表情や雰囲気が心なしか柔らかくなった気がする。初めてリュフトシュタインを見て驚いただけかもしれないが、リュフトシュタインが姿を現すだけでも効果があるのは、このことだったのかもしれない。演奏できるのはまだ先になりそうだけど、ほんの少しでも誰かの、そしてハルモニア様の役に立てていますように。



 私は、フランチェスコとの軽快なやり取りを終えたお爺様に促され、彼らに別れの挨拶をして祈りの塔を後にした。そして、予定よりもだいぶ遅くなってしまったが、行く前に恐れていたほどの事件は起こらず、何とか無事に領地の屋敷へと戻ることができた。







 しかし、この王都への短い滞在の影響で、私とソフィーの運命も、ゲームのシナリオも大きく動き始めたことに、この時の私は全く気付いていなかった。

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