第37話 管楽器の難しさ

「お待たせしました! ちょっと見た目は良くないのですが……音は出ますし、手入れはしてありますので、よかったら吹いてみませんか?」



 その後しばらくして、がちゃりと音を立てながら扉が開き、リリーが少し息を切らせて戻って来た。自分のホルンは右肩に掛けて脇で挟み、左腕にもう一台、なんとも言えないくすんだ色のホルンを抱えている。体験用だもの、ボロくて当たり前だろう。私はリリーの声に笑顔で頷くと、楽器を受け取ろうと立ち上がって右手を伸ばした。が、片手ではその重さに耐えられず、危うく床にぶつけそうになった。私は内心冷や汗をかきながら、慌てて楽器を両手で握りしめる。



「うっ! お、思ったよりもすごく重いんだね……」



 重い。めちゃくちゃ重い。つい元の身体の感覚でホルンを持とうとしたが、迂闊だった。今の身体は5歳児だ。5歳児が、全長3メートル前後ある金属の塊を片手で抱えるとか普通に無理だろう。ああもう、私のばか! 傷つけて弁償になったら、ヘンストリッジ家がもっと貧乏になっちゃうでしょ! みんなに迷惑かけるし、私の『楽器開発しちゃうぜ!』計画も遠のくじゃない! 気を付けすぎるくらい、慎重に扱わなくちゃだめじゃないか!



「す、すみません! そういえば、ホルンは奉公の子でも10歳くらいから体験するものでした……お、重くて持つのも辛いですよね、ソフィア様はまだ幼いのに、も、申し訳ありません。わ、私、すぐに片づけて来ますから……!」



 私が顔をしかめて、心の中で自分に説教をしていたのを、リリーは自分に対する怒りだと勘違いしたのかみるみる顔が真っ青になり、また震えながら私の手からホルンを受け取ろうとした。いやいや、待って! ちゃんと気を付けて持つから! ここまで来て吹けないとか生殺しだから!



「大丈夫! リリーが軽々と持っていたから、もっと軽いと思っててびっくりしただけなの。両手ならなんとか持てるから、ちょっとだけ吹いてみてもいい?」



「え、ええ。ソフィア様がそう仰るのでしたら……。では、まずホルンのこの部分についている『マウスピース』を外してください。これだけで鳴らせたら、楽器を実際に鳴らしてみましょう」



 慌ててこちらに寄ってきたリリーを宥め、私の向かいの椅子にもう一度座ってもらい、改めて吹き方を教えてくれるようにお願いする。リリーは心配そうな顔をしながらも、楽師の服装なのか、紺色の長衣に白いたすきのようなものが肩から斜めにかかった服に皺が付かないように、手で器用に押さえながら座り直した。そして、ホルンの一番上にくっついている銀色のマウスピースを外してみせながら、それを口に当ててお手本で音を鳴らしてくれる。



 マウスピースとは、金管楽器では全ての楽器に使われているもので、唇を直接当ててその振動を楽器に伝え、息を吹き込むための部品のことだ。金管楽器のマウスピースを鳴らすためには、軽く閉じた唇にマウスピースを当て、息をそのマウスピースの中目がけて吹き込みながら唇を振動させる必要がある。初心者だと、唇を振動させるコツが掴めるまでが結構大変だったりするのだが……



 ふふふ、ここはクラオタ結衣の出番よ! マウスピース鳴らすぐらい、なんでもないわ! しかも、これホルンのあの薄くてちっさいマウスピースじゃなくて、まるでトランペットみたいなマウスピースじゃん! ますますやりやすいわ! ふははは!



 テンションが上がりすぎて、にやけて気持ち悪い顔になりそうになるのを懸命に堪えながら、目の前のリリーの吹き方を真似して私もマウスピースを唇に当ててみる。お父様とお爺様は、リリーのお手本を見ながら真似する私を興味深そうに見つめている。



 私は、軽くマウスピースの先を握り直すと姿勢を正し、腹式呼吸でしっかりと息を吸い込……めなかった。



 え? あれっ? そこからなの? ソフィーの身体って腹式呼吸もできないの?! くうっ! ……そういえば、最近やっと身体強化無しで日常生活を送れるようになったばかりだった。普段の生活で、腹式呼吸なんて使わないし、なんなら走ったり運動したりもしていないから肺活量だって全然足りないだろう。



うおおお! 私をソフィーに連れてきたのが誰か知らないけど、なんでよりにもよって寝たきり5歳児の身体に私を入れたのよ! 楽器が遠い、遠すぎるわ! ……くそう、こんなことでクラオタの私が諦めたりしないんだからねっ!



私は一人勝手に燃えながら、もう一度、今度はゆっくりと深呼吸をするように息を吸う。そして、元の身体の感覚を頼りにマウスピースで音を鳴らしてみる。



「おお! 一回で音が鳴るなんて! ソフィア様は、楽器の才能がおありかもしれません!」



「ほう、これはすごいことなのか? さすが儂の孫じゃ! 天才なのじゃ! がははは!」



「ふむ、普段あの大きな楽器を鳴らしているし……ソフィーは音楽の適性があるのかもしれないね」



 ぷうっ、と弱々しい音が力なく鳴っただけだったが、リリーは心配そうだった顔をぱあっと輝かせて、自分のことのように嬉しそうに言った。そこへお爺様とお父様が、うんうんと頷きながら口ぐちに話しかけてくる。て、天才なんかじゃないよお、ただのクラオタなんですう! と訴えたいが、ぐっと堪える。その代わり、ちょっと恥ずかしいが、褒められた子どもらしく喜んでおくことにする。



 マウスピースを鳴らせるとわかると、リリーは早速楽器にマウスピースを付けて、実際にホルンを吹くように言ってきた。私は、リリーに教えてもらいながら一旦テーブルに置いたホルンをゆっくりと持ち上げてマウスピースを差し込み、左手で管を持ち、右手をベルの中に入れて構える。いや、構えてみるとやっぱり重い。そしてでかい。5歳児の身体には厳しい重さだ。でも、それを口にしたら即楽器を回収されそうなので、こっそりと身体強化をつけておく。



「そうです、こんな感じで構えて……ソフィア様、とっても筋がいいです! 初めてホルンを構えるとは思えない姿勢です! ……では、そのままの姿勢で、なんでもいいので音を鳴らしてみてください」



 リリーが私の構えをサポートしながら、ますます嬉しそうな声で言ってくる。そりゃあ、ソフィーの身体でホルンを構えるのは初めてだけど、身体の使い方はわかっているんだもん。本当の初心者と比べたら天と地くらい、と言ったら大げさだが、大きな差があるだろう。構えるだけならできる。構えるだけなら……



 私は、まずゆっくりと息を吐き、それからしっかりと吸って、ホルンに息を吹き込んでみた。










「ふうむ。ホルンというのは、難しい楽器なんじゃなあ。ソフィー、大丈夫か?」



 楽師塔から、王宮の入り口を目指してお爺様とお父様と一緒に歩いている。楽師塔まで案内してくれた使用人から、私たちがいる場所を聞いたリタや一部の護衛騎士たちが迎えに来てくれたのだ。残りの護衛騎士たちは、馬車の準備をしてくれているらしい。なんだかんだやっているうちに、お昼が近づいて来たのでそろそろ一旦王都の屋敷に戻ろうということだったようだ。私はもう楽器に夢中になりすぎていて、そんなに時間が経っていたことに全く気付かなかった。



 ちなみに、ホルンを吹いた結果は惨敗だった。息を吹き込んだ瞬間、マウスピースの振動で一瞬だけ音がかすかに鳴ったが、あとは私の身体がホルン本体から来る圧力に耐えられなかった。筋肉がきちんとついていない状態で管楽器を吹くともろに受ける、あの骨が軋むような圧力は久しぶりだ。ここで無理して吹いたらこっちが壊れてしまうので、早々に諦めた。そりゃ、この身体で3メートル先のベルまで息を吹き込んで鳴らすとか、どう考えても無理だよね。わかってましたとも……ううっ、ぐすん。



 でも! いつか絶対吹きこなしてやるんだからね! 盗賊撃退のために身体を鍛える気満々だったけど、管楽器を吹くためにもがっつり、それこそ真剣に鍛えねば! よっしゃ、燃えて来たよおっ! 待っててね、私の愛する楽器たちっ!



 私が早々にギブアップし、ほんの一瞬の試みだったが軽い酸欠のような状態になったことでお爺様が心配そうに聞いてくる。分厚い剣だこがいくつもできた、私よりもずっと大きな手で私の手を握り、お爺様は私の歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれる。



「さっきは、ちょっと気分が悪そうにしていたけど、本当に大丈夫なのかい? 私が抱えて歩いてもいいんだよ?」



 お父様もとても心配そうだ。よく考えたら、まだ寝た切りから復活して1か月の娘なのだ。無理してないか、心配で仕方がないに決まっている。できれば王都の祈りの塔にも行きたいし、体力は温存しておきたい。せっかくだし、ここはお父様に甘えることにする。



「気分はだいぶよくなりました。でも、ちょっと疲れてしまったので、お父様に甘えてもいいですか?」



「もちろんだよ、ソフィー」



 私の頼みを聞くや否や、お父様は嬉しそうに笑って私の頭を優しく撫でた。そして右腕を私の腰に回し、そのまま軽々と抱き上げる。そして私を抱え上げて歩きながら、お父様とお爺様が私に言い聞かせるように穏やかに話を続ける。



「こうしてソフィーを抱っこするのはいつぶりかな。ソフィーは目覚めてから随分大人になってしまった気がするけれど……まだ5歳なんだから、時にはこうして甘えてもいいんだよ?」



「そうじゃぞ、ソフィー。貴族としての分別を学ぶのは大切じゃが、子どもの時くらい、我慢せずに儂らに甘えてよいのじゃ。甘えるソフィーも可愛いからのう! がははは!」



 そう言うお父様とお爺様は、ちょっと寂しそうな顔で笑っていた。そうか、今まで知識を身に付けたり、リハビリしたり、リュフトシュタインを弾いたりで毎日必死すぎて忘れていたけれど、5歳って幼稚園児じゃないか。本来なら、まだ家族に甘えて当然だ。中身は大人だから、ついつい自分でなんでもやって、しんどいことも我慢して……ってやってきたけど、逆に不自然なのかもしれない。もっと肩の力を抜いて、家族のことを頼って、時に甘えることも覚えよう。それが許されるくらいには、彼らはソフィーを愛してくれているんだから。



「ソフィー。私はね、どんどん大人になっていくソフィーも大好きだけれど、眠る前のちょっとお転婆なソフィーだって、大好きなんだよ? 今後、何があっても私たちがみんなで守ってあげるから……そんなに早く大人になろうとしなくていいんだよ」



 お父様が私と隣を歩くお爺様だけに聞こえるくらいの小さな声で呟く。丁度王宮の入り口にたどり着き、馬車を用意して待ち構えていた騎士や御者が迎えてくれる。お父様は私を抱えたまま外へ出て、そのままヘンストリッジ家の馬車に乗り込んだ。

 私は、明るく降り注いでくる太陽の光にわずかに目を細めつつ、お父様やお爺様の言葉に、頭の中で目を潤ませているソフィーの頭をいつまでもよしよしと撫でていた。

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