Epilogue
旅立ち
はい、そうですこちら、旅馬車の受付でございますが。こんな夜更けにようこそ。お客さん、どちらまで? ――えっ、前のお客さんですか? いやあ、そういうのは言えない決まりなんですがね。
ん? それは……よく見せてくださいよ。おお、なんと上質な油。これは売ればさぞ良い値になりましょうて。えっ私に? これを全部ですか?
……こほん。今日はよく晴れていますなあ。そういえば、前のお客さんも奇妙な方でしてね、これと同じようなえらく綺麗な油で、旅賃を支払われたんですよ。
そうですそうです、女の子と男性です。その女の子ですがね、ちょいと不気味な……いやこう言っちゃ失礼なんですが……なんというか……全身に白粉をはたいたみたいに真っ白だったんですわ。男性の方ですか? ふうむ、あちらはこれといって……黒髪黒目で、特筆すべき点は特に。ああ、見上げるほど背が高かったですなあ。
二人とも仲睦まじそうで。親子のような兄妹のような、恋人のような夫婦のような、とにかく本当に親しげに馬車に乗られましたよ。私はなんせ女房にも娘にもアレなもんですから、羨ましいのなんのって。
え、今の空きですか? ちょいとお待ちを。ああ、あちらの馬車が空いておりますよ。行き先はどちらまで? はあ、前のお客さんを追って……いやあそれはさすがに……。
――へへ、いやあ、こんなにいただいてすみませんね。久しぶりに、女房にいいものが買えますよ、へへ。お荷物はこれで全部ですか? ささ、どうぞこちらに。
それにしてもお客さん、どうしてまた前のお客さんの後なんかを……。
えっ、なんですって、駆け落ち? あのお二人がですか? はあ、さるお屋敷のご令嬢と……それはご苦労なことでしたなあ。御者には重々申し伝えておきますから、どうぞご心配なく。
いやあお客さん、私は最初から思ってたんですよ。その青いドレスの身なりも立派なもんですし、どこぞの貴族の家の方だと最初から感じておりましたとも。へへ。
あ、この者が御者のゴーンです。――おい、こちらの方はさるお屋敷のご令嬢を追ってらっしゃる。何も聞かずに黙って前の馬車を追え。
ささ、お荷物をお載せしましょうかね。それにしてもお客さん、お綺麗でいらっしゃいますなあ。いやあ眼福眼福……ささ、どうぞお乗りください。
それでは良い旅を。ゴーン、馬車を出してくれ。
馬車に揺られながら、青いドレスの女は窓枠に頬杖をつき、がたがたと流れ去っていく景色を眺めていた。
「お嬢様、私は諦めませんよ……」
女の黒く長い前髪の下には、美しい顔の右半分とは対照的な、酷く焼けただれた跡が無残にも広がっている。
「私にとっての神は、お嬢様ただおひとりなのですから……」
金色の眼が鋭く細められる。女の呟きは、熱を帯びたように車内に漂っていた。
***
「隣町に着いたら、どこかで宿を探しましょう」
少女の声に、男がうなずく。
ごとごとと揺れる車内で、ふたりは肩を寄せ合って座っていた。窓の外には黒い刷毛を塗り広げたような夜空の下に、広々とした牧歌的な景色が広がっている。全てがふたりにとって初めての光景である。
「そうだわ、あの……もしよかったら」
少女はもじもじと両手の指先を合わせながら、上目遣いに男を見上げた。
「あなたの名前を考えても、いい……?」
男の黒い眼が、きょとんと見開かれる。
「ナ、マ、エ」
「だって、わたしにはリリーという名前があるのに、あなたには無いんだもの。わたしだって、あなたの名前を呼びたいわ」
「……」
口を噤んだ彼の隣で、少女はぶつぶつ呟きながら空に字を書いている。
「ああ、何がいいのかしら。色々、本を読んだのに……いざとなるといいのが浮かばないわ」
眉を寄せ、白い指先を懸命に動かす。習った字と、これまで目にした本という本を思い出しながら。
「今、浮かんでいるのは……わたしと同じように、花からとるならグラジオ。あのね、グラジオラスっていう花があって、確か、剣という意味なのよ。とてもかっこいいから、これだけ強く覚えているわ。あとは……夜。宵。わたしにとってあなたは、夜の闇と同じくらい心地が良いの……」
「リ、リー」
男の大きな手が少女の小さな手を包み込んだ。
揺れる馬車の中で、白い瞳と黒い瞳が見つめあう。
――あなたのつけた名前なら、なんでもいい。
男の腕が少女の身体を抱き寄せる。
夜の空気に少し冷えた車内で、互いの温度を感じあう。
――あなたが望むなら、剣となっていつまでも守るだろう。あなたが望むなら、夜の闇となって、いつまでも包み込んでいるだろう。
この想いを伝えるには、まだ言葉が不自由だった。少女を抱く男の手に力がこもる。
「どうしたの……? 少し、苦しいわ」
「ア……リガ、トウ、リリー」
今、己の口で伝えられる精一杯の言葉。
少女は目を瞬き、それから、嬉しそうに口元を綻ばせた。
「ううん……きっと、良い名前を考えさせてね。あなたにぴったりな、素敵な名前……」
馬車はゆく。
この世の闇の中に生まれ、光の中で生きようとする、ふたりを乗せて。
この先どんなことがあっても共に乗り越えようと決意しながら、ふたりは馬車が止まるまで互いの身体を離さなかった。
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