第156話 幸せな時間
「フィネス様!」
「うぅ……」
「しっかりなさってください!」
その身体を揺すり続けて、フィネスがやっと目覚める。
「……カルディエ?」
目を開けたフィネスが、自分の顔を不思議そうに眺めている。
「……あれ、もしかして私、こんなところで寝ました?」
「フィネス様……全く覚えていないのですか?」
「何がですか?」
カルディエはきょとんとするフィネスに、唖然とする。
「なるほど……前もこういう成り行きだったということですわね……」
すべてを目の当たりにしたカルディエが、おっしゃった通りでしたわね、とひとり納得する。
「どうしたのです、私になにか起きたのですか」
相変わらず、はて、という顔をしているフィネスをソファーに座らせると、カルディエは膝を折り、割ってしまったカップの破片を拾う。
「フィネス様、お話があります」
カルディエは、床に落ちていた抜身のままの聖剣アントワネットをフィネスに両手で渡しながら、そう告げた。
「……ど、どうしてアントワネットが」
受け取るフィネスは、もう訳がわからなくなっている。
「そのご様子だと、なぜわたくしたちが今、鎧を着ているのかも覚えておりませんよね?」
「………」
「覚えていますか、フィネス様?」
「……ええと、なぜでしたっけ……」
フィネスは顎に人差し指をあて、思案し始める。
「やはり……ここでの記憶も……」
カルディエは悟る。
どうやらフィネスには記憶を失くしてしまうような力が働いているようである。
ミエルのネックレスでも打ち破れぬほどの、強大な力が。
「フィネス様。話とは、サクヤ様のことですわ」
「――さ、サクヤ様の!?」
フィネスが急にその頬を赤らめる。
「……さすが、根本は全く変わっていませんわね……」
そんなフィネスを見て、カルディエは小さく笑みを浮かべ、安堵した。
「こ、根本?」
「こちらの話ですわ」
カルディエは言いながら、自身も剣を鞘に収めると、フィネスの向かいに座る。
◇◇◇
窓の外では夜虫たちの音に、フクロウの鳴き声が重なっている。
室内では、淹れ直された紅茶の香りがふんわりと広がっている。
フィネスとカルディエは、鎧を着たままソファーに向かい合わせに座っていた。
あれから、30分ほどが過ぎている。
「……私は、ミエルのネックレスを試したのですね……」
「そうです」
カルディエが真顔で頷く。
「そして、そう言ったと」
「ええ。わたくしには到底、冗談には聞こえませんでしたわ」
――サクヤ様は、第三学園のあの少年なのです――。
フィネスは黒髪に手櫛を通すと、立ち上がった。
「今何時ですか」
「八時を過ぎたところですわね」
「これから逢いに行きます」
「……は?」
「湯浴みの準備を伝えてもらえますか」
フィネスが鎧の留め金を外しながら言う。
「あ、逢いに行くって……まさか」
「あの方がいらっしゃる第三学園の寮です。これから行ってお待ちすれば、朝にはきっと」
「――だ、駄目ですフィネス様!」
カルディエが慌てて立ち上がり、それを制止する。
「王女たる方が、お待ちになるなど」
「カルディエ、こんな幸せな時間はないわ」
フィネスが窓の外を眺めた。
空には切ったように綺麗に割れた半月が輝いている。
「逢えるとわかって待つ数時間は、とても幸せなのです」
言葉通り、フィネスはこの上ない笑みを浮かべていた。
「で、ですが――」
続けようとするカルディエを制するように、フィネスはゆっくりと首を横に振った。
「あの方は勇者を越える力量と器をお持ちです。私がそれくらいして当然です」
「明日の元老院へのスピーチはどうされるんですの。朝も早々に、あの厳しい目に曝されるのですよ」
「もう十分に準備しています。徹夜でも問題ありません」
「フィネス様……」
カルディエがなにも言えなくなる。
「カルディエ」
「はい」
フィネスは右手を胸に当てながら、はぁ、と小さく息を吐いた。
「……私はもう到底、待つことなどできません」
「……フィネス様……」
「わかってもらえませんか、カルディエ」
フィネスとカルディエがしばし見つめ合う。
いつもと違い、今日はカルディエが先に視線を逸らした。
「……正直、わたくしはそこまで男性を愛した経験がないものですから……」
だがすぐに、カルディエは視線を戻す。
「ですがやはり……フィネス様の想いを考慮したとしても、今、接触を計ることは愚の骨頂ですわ。もう一度お考えくださいませんか」
カルディエは、努めて落ち着いた口調で事情を説明した。
今は連合学園祭一週間前。
諜報に来たと見られても、おかしくない時期なのである。
ましてや、フィネスは「バトルアトランダム」の参加者。
この迂闊な行動を問題にされて当日の勝ち負けに難癖をつけられたら、学園全体の問題に発展してしまう。
「イジンも黙っていないでしょう。卒業まで、どれほどの嫌がらせを受けることになるか」
「………」
それを聞くと、今度はフィネスが押し黙った。
「フィネス様、あと一週間足らず、ですよ。なんとか堪えていただけませんか」
「堪えていただけません」
フィネスは即答した。
もう目と鼻の先にいることがわかっていながら待つ一週間がどれほどの拷問か、フィネスにわからぬはずがなかった。
「そこをなんとか」
「むー」
「フィネス様。明日のアップルパイ、わたくしのも差し上げますから」
カルディエがフィネスの両肩を掴んで、懇願する。
「もう、カルディエったら」
フィネスが吹き出した。
そして、あはは、と二人で笑い合う。
「……わかりました。でも学園祭で出会ったら、もう止めないでくださいね」
「それはもう。でも是非とも、その場で襲いかかったりはしないでくださいまし」
今度はカルディエが即座に言った。
「そ、そんなこと、しませんっ!」
フィネスが顔を真赤にして抗議すると、カルディエは半眼になって疑惑の視線を向けた。
「あら、わかりませんわよ。フィネス様ったら意外に肉食ですから」
こないだだって、いきなりキスですものね……とカルディエが斜めからフィネスを見る。
「違いますっ! だって、あれは……その……」
フィネスはさらに顔を上気させて、言いよどむ。
「フィネス様。あれを肉食と言わずして、なんというのですの?」
「ちっ、違いますっ――!」
最終的にこのやりとりは、カルディエに軍配が上がった。
◇◇◇
カルディエが去った後、フィネスはいつものように窓際に座り、月を見上げていた。
「サクヤ様……」
所在がわかった嬉しさの中にいながら、フィネスは後悔していた。
何度も逢っていたのに、どうしてもっと目に焼き付けなかったのだろう。
あの少年の顔を思い出したいのに、はっきりと浮かび上がってこないのだ。
「でももうすぐだわ」
フィネスは自分に言い聞かせる。
あと一週間もかからずに逢える。
今、長く長く感じるこの一分一秒は、決して無駄ではない。
サクヤ様に近づいているのだから。
(連合学園祭ではきっと)
きっとサクヤ様は、バトルアトランダムで活躍をされてMVPに選ばれる。
(そこで私を……)
フィネスは熱くなった頬に、両手で触れた。
未発表の報償だが、今回、連合学園祭のMVPになった生徒には、リラシス上空に漂う『ジューレス天空庭園』の調査の同行が許可されることになっている。
『ジューレス天空庭園』は失われた古代王国期の技術で大地を空に浮かばせた浮遊島の一部が残存しているもので、リラシス上空以外にも、いくつかの浮遊島が確認されている。
今回は厳重に管理された第一エリアまでしか歩くことができないが、フィネスにとっては魅力的な一言が添えられていた。
なんとMVPの生徒はそこに行く際、ひとりだけ友人を連れて良いことになっているのである。
もちろん参加にあたっては審査項目はあるものの、自分ならパスできる自信はある。
(私を選んでもらえるようにお願いする)
そして、サクヤ様と天空庭園でデートするのだ。
フィネスは考えるだけでソワソワしてしまうほどに、それが楽しみで仕方なかった。
高鳴る胸に手を添え、はぁ、とたまらないため息を漏らす。
(そのためにも)
当日はサクヤ様にしっかりアピールしないと。
(大丈夫、サクヤ様なら勝ち残って私と向き合ってくださるはず)
フィネスは自分にそう言い聞かせる。
「でも、ゆっくりお話している時間があるかしら……」
そう思うと、やはり今すぐ頼みに行きたい衝動にかられてしまう。
(サクヤ様――!)
フィネスが立ち上がる。
キィ、と扉を開け、部屋の外の様子を窺う。
きょろきょろ。
「よし、いない……」
「いますわよ」
「――はっ!?」
フィネスが振り返る。
カルディエは、廊下に置かれた台座の壺の後ろに隠れるようにして立っていた。
「……フィネス様? いったいどこへ?」
恐ろしい笑みを浮かべたカルディエが近づいてくる。
当然である。
この先何十年とネタにされそうな場面を目撃されてしまったのだ。
「……ちょ、ちょっと小腹が空いて」
「あら、プリンセスたるお方が、こんな時間に召し上がると?」
「い、いえ、召し上がりません」
「それでしたら、どうしてお部屋から出ようと?」
「……ち、違います……ちょっと、なんとなく、その……」
「フィネス様? わたくしと約束しましたわよね……?」
結局、このやりとりもカルディエに軍配が上がり、フィネスはまた弱みを握られてしまったのであった。
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