第142話 エピローグ1

 


「……Συμφώνησε με την κλήτευση μου……」


 月明かりの照らす静かな森の中に、僕の声だけが響き渡る。

 僕が一番に唱え慣れた、悪魔の言葉。


 詠唱に呼応して漂い始める冷酷な、そして清楚な空気。


 やがて石板から煙が立つようにして姿を現したのは、高貴な悪魔。

 両手に長剣をもつ、冷たく美しい銀色の髪の少女。


 アリアドネとして知られる人の容姿をしている。

 だが彼女は、ついさっきまで一緒に居た彼女とは違う。


「………」


 無表情のまま黙し、その虚ろな目は何も映していない。


 僕が見慣れた煉獄の巫女アシュタルテとしての素顔。


 だがそれは弟を愛したがゆえに闇に囚われた、乙女の結末だった。


「久しぶりだね」


「………」


 煉獄の巫女アシュタルテはいつものように黙している。


 当初知りたかった、なぜ彼女が僕と会話してくれなかったのかという謎は、そう難しくなかった。


 彼女は重度の失語症のままなのだ。

 〈疾病退散〉を行ってみたが、効果は見られなかった。


 もうひとつ、僕は知った。

 その感情のない顔は囚われのせいなのだ、と。


 同じ顔をした本当の彼女は、言葉を失えども笑い、そして愛する弟のために涙する、豊かな人間だったから。


「……あってくれよ……」


 僕は願いながら、現れた彼女の首元に目を向ける。


「よし」


 拳をグッと握った。


 煉獄の巫女アシュタルテの首には、僕の渡したあのネックレスが残っていたのだ。


 痛みを抑えるために付与魔術師エンチャンターに依頼したブレスレットもつけてくれている。


 この小さな変化は許容され、僕が望んだ通りに歴史が変化している。


「なんとかなりそうだ」


 僕の顔に笑みが浮かんだ。

 あのネックレスはもはや言うまでもない、聖女ミエルが製作した『退魔のネックレス』だ。


 当時、雑魚キャラだった僕を心配してくれたのだろう。

 魔王討伐の前日の夜、ミエルがそっと僕にくれたものだった。


 なお、わざわざ過去に戻らなくても、今の煉獄の巫女アシュタルテにネックレスをかければ同じことと思うかもしれないが、そうではない。


 僕は退魔のネックレスで『アリアドネにかかった呪い』を解きたいのであって、アシュタルテの呪いを解きたいのではない。


 アシュタルテは業の深い悪魔であり、複数の呪いをその身に持っている可能性があるのだ。


 ネックレスに認識させるために、アリアドネ自身が身につけるという段取りが必要だったのだ。


「長い間、済まなかった。今から助けるからな」


 僕はネックレスに向かって決められた言葉を口にする。


「呼び覚まされしは聖なる力……」


 詠唱に反応して、ネックレスが淡い光をまとい始める。

 付与魔術師エンチャンターによる失活の封印が解かれたのだ。


 ――キィィン。


 突如、空に突き抜けるまばゆい光が、昼間のように森の中を照らし始めた。

 周囲の木々で休んでいた鳥たちが、ばさばさと飛び立っていく。


 力を取り戻したネックレスが【魔王の呪い】を同定し、排除せんと働き始めたのだ。


 だが【魔王の呪い】も黙ってはいなかった。

 すぐに煉獄の巫女アシュタルテの身体に禍々しい紋を浮かび上がらせ、漆黒の闇を立ち上らせて、それに抗わんとし始めたのだ。


「……ぁぁ……」


 とたんに煉獄の巫女アシュタルテの顔に苦悶の色が浮かぶ。


 地に落ちていた木の葉が、いくつも舞い上がり始める。


 光と闇が混ざり合うように渦となって、煉獄の巫女アシュタルテの周りを取り巻き始めたのだ。


 激しく拮抗し合う、光と闇。


 その時。


「…………!」


 さらりとした銀髪を振り乱されながら、煉獄の巫女アシュタルテが目を見開いた。


「あっ……」


 すっ、と彼女の両目から涙がこぼれ落ちる。


 ネックレスの力が一時的に魔王の力を圧倒し、アリアドネの心を解放したのだ。


「――アリアドネ!」


 僕は彼女の心を支えようと声を張り上げる。


 だが、同時にピキィィ、と何かがひび割れる音があたりに響き渡った。


 ミエルのネックレスが【魔王の呪い】に屈し、今にも砕け散ろうとしているのだった。


「させるか」


 僕はネックレスの働きを助けるように魔法を詠唱する。

 悪魔言語による、【魔法崩壊マナディスインテグレート】だ。


 ミエルの力を叩き伏せようと剥き出しになった【魔王の呪い】に、僕の魔法が重なる。


 やがて、大木が折られたようなバシィィ、という激しい音があたりに響いた。


 それを合図にしたかのように取り巻いていた渦が力を失い、まばゆい光だけが煉獄の巫女アシュタルテを包み始める。


 その身体で悪魔の紋が一瞬かっ、と明滅した。


「うっ」


 直後、小さな呻き声とともに、煉獄の巫女アシュタルテが小さく仰け反った。

 反った胸元から、黒い闇の塊がぬっ、と浮き出て、そのまま飛び去っていく。


 あれがどうやら、アシュタルテ本体のようだった。




 ◇◇◇




「……うっ」


 残されたアリアドネはふらりと脱力し、地に倒れ伏しそうになるのを、僕は駆け寄って抱きとめる。


「アリアドネ……」


 彼女の首元では、ミエルのネックレスが誇らしげに輝いている。

 アリアドネの救出に成功したのだ。


 僕は安堵のため息をついて、彼女をもう一度見た。

 アリアドネの顔はまだ蒼白だが、しっかりとした呼吸があった。


「おかえり」


「……うぅ……」


 アリアドネがゆっくりと目を開いた。

 焦点はまだ合っていないようだ。


「おかえり、アリアドネ……おっ」


 僕はもう一度繰り返しながら、気づいた。

 彼女の腰に鞘に納まった見事な剣が現れたのだ。


 見覚えがあった。


 フィネスが持っていたものと全く同じ。

 聖剣アントワネットだ。


『戦の神ヴィネガー』がアリアドネの生還を喜んで、再びその剣を与えたのかもしれない。


 〈戦の神より、聖女救出の達成報酬:30スキルポイントが送られました〉


「おお」


 僕にもありがたい褒美が来た。

 あとで振らせてもらおう。


「あっ……」


 しばらく待っていると、ふいに虚ろだったアリアドネの目に力が宿った。


「あ、あた……」


 意識が清明になったアリアドネは、今の状況に驚いたようだった。

 見知らぬ男の腕に抱かれていることに気付き、慌てて離れようとするものの、体に力が入らなかったのか、立ち上がれなかった。


 僕は身体に触れ過ぎないようにアリアドネを支え直し、そっと告げた。


「君を解放したんだ。長い間、助けられなくてごめんね」


「…………」


 僕の言葉に、アリアドネはまばたきを繰り返した。


「知っているかもしれないけど、僕はサクヤだよ」


「………」


 だがアリアドネは不思議そうな顔をしたままだった。

 煉獄の巫女アシュタルテの時の記憶がないのかもしれない。


「『時の旅』に入った時は仮面をつけ、ラモチャーと名乗っていた」


「……ら……」


「うん」


「…………」


 アリアドネは視線を僕の右肩の上にずらした。

 記憶をたどっているようだった。


「覚えてないよね」


 僕と違って、アリアドネはあれから100年以上の長きに渡って囚われ、過ごしてきたのだ。


「ラモチャーは君と同じ勇者パーティに最後に入った人でさ……」


 説明しようとすると、アリアドネは首を横に振り、首にかかっているネックレスを持ち上げてみせた。


 ちゃらり、とネックレスが音を鳴らす。

 忘れるはずがない、とアリアドネの目が告げていた。


「そうか。僕とラモチャーが重ならないだけかい」


 アリアドネがこくん、と頷いた。

 そういえば、あの時の話し方はこうじゃなかったな。


「見て」


 僕は懐から一輪の花を取り出した。

 魔界に潜る前に摘んだものだが、【アイテムボックス内時間遅延Lv4】のおかげで萎れていなかったのは幸いだ。


「この花を摘みに行ったら、鳥の糞で応酬された話、したよね」


 だめ押しで僕は般若の仮面もつけて見せた。


「………!」


 アリアドネが右手で口を押さえて、はっとした。

 僕は仮面を横にずらし、小さく笑う。


「納得してもらうためにも、少し僕の話をさせてもらってもいいかな。前は話したくても、話せなかったから」


 そうしたら、僕が今ここにいる理由もわかると思うと説明すると、アリアドネは驚きを隠せない様子ながらも、頷いてくれた。


「よかった」


 アリアドネにレモン水を渡し、僕は近くにあった太い倒木を背にして座る。

 彼女は軽くお辞儀をし、数回口をつけた水の袋を両手で持ったまま、僕のすぐ隣に腰を下ろした。


「さて、出会いから話そうか」


 頭上を見上げると、手をいっぱいに広げた木々の葉の隙間から、瞬く星が覗かせている。


「僕は一番最近の勇者討伐パーティの付添でもあった。煉獄の巫女アシュタルテとなっていた君を、この石板を使って魔王から奪い取り、自分の下僕に変えた。それが君との出会いなんだ」


 僕は石板を見せながら、当時の状況を語る。

 アリアドネは頷いて話を聞いてくれた。


「君の力のおかげで、その戦いの後に魔王が課した、悪魔がわんさか出る回廊も生き延びることができてさ」


 当時のとんでもなかった戦いのことを話すと、いろいろ思い出して背中を汗が流れるくらいだった。


「ラモチャーが君に『命の恩人だ』と言ったのを覚えているかい」


「………」


 アリアドネが何かを思い出したような顔をする。


「それは、その回廊の時のことなんだ」


 まあ、他にもたくさん助けてもらったんだけどね、と僕は笑う。


「それからしばらくして、煉獄の巫女アシュタルテとなった聖女がいたことを知る機会があって、ヴィネガーに与えられたらしいスキルで過去に戻り、その人を助けに行くことにした」


 僕自身もレモン水を飲みながら、アリアドネの記憶の整理に役立てるよう、『時の旅』に入った後、最終選抜試験の話から、魔王討伐時のことまでを順に語ってみせた。


「どうだろう、僕がラモチャーだって信じてもらえるかな」


 十分に時間をおいて、僕は訊ねる。


「………」


 アリアドネは返答に迷ったように押し黙った。


 まあ、いくら筋道正しく説明したところで、簡単に信じられる話ではないのかもしれない。

 時間軸を旅するとか、あの時代にどれくらいの常識だったかは不明だ。


 彼女が知識として知らないとしたら、今の話は途方もない作り話に聞こえているかも。


 しかたない。

 あとは誠意を見せて信じてもらうしかない。


 僕は立ち上がる。


「これから君を故郷に連れるのに二人旅をする。夜営なんかも一緒にしなきゃいけないかもしれない」


 僕は向き直って、アリアドネを正面から見る。


「僕という人間を信じてもらいたい。そしてついてきてほしいんだ」


「ど……どう……」


 アリアドネが僕を手で指し示しながら言った。


「どうして僕がこんなことをするのか、と?」


 アリアドネが頷く。


「君に恩返しをするために」


「………」


 アリアドネは、さらに押し黙ってしまった。


 言ってから気づく。

 アリアドネをさらに不安にさせてしまったかも、と。


 別に、こんな不審者に恩返しなんかしてもらいたくないよなぁ。

 ほっといてほしいよなぁ。


 あー、こういう時、何て言えばいいんだろ。

 だが、頭を掻いていると、アリアドネは突然くすっと笑い、笑みを向けてくれた。


 そして、頷いた。


「あ……信じてくれる?」


 そう訊ねると、アリアドネはもう一度大きく頷いてくれた。

 清楚なあの笑みを浮かべたまま。


「よかった。よし、そろそろ立てるかい」


 何が彼女を説得したのかさっぱりだったけど、ともかく一安心。


 僕はアリアドネの手を取り、支えて立たせてみる。

 少しふらつく感じがあったものの、彼女は自分の足で立つことができた。


 僕は自分の外套を取り出すと、彼女の肩に掛ける。

 彼女は煉獄の巫女アシュタルテとして見せていた頃と同じ美しいドレス姿だが、まだ春先で夜にはちょっと薄着すぎると思ったからだ。


「ひとまずそこの街に入ろう。許可証の手続きをしてあるんだ」


 僕は空っぽになった石板を懐にしまうと、彼女の背中を支えながら歩き出した。

 魔王との戦いが終わった後、彼女が何を望んでいたか、弟の墓の前で聞き出している。


 その気持ちに添えるように、僕はこれから彼女を連れるのだ。

 最後の恩返しを果たすために。



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