護る権利を
航海科操舵員長、広島県出身の山下姶良には、大切な家族がいた。
そう、いたのだ。今はこの世にはいない。それは二〇三七年から約一〇〇年弱前、一九四〇年の事。日本は第二次世界大戦の真っ只中な時期、八月六日にそれは起こった。
原爆だ。姶良にとって、福岡出身の母や広島出身の父よりも大切な、憧れの人である祖母が原爆の被害に巻き込まれ、そのまま亡くなってしまったのだ。姶良の祖母は軍艦を作る仕事をしていたらしく、姶良はその事を小さい頃から両親や祖父に話され、次第に憧れへと変わっていっていた。
二〇二四年の八月六日、中学一年になった姶良は、この日から海上自衛官になろうと決心し、元々良くはなかった頭をフル回転させ、勉強と部活を上手く両立しながら中学を卒業。名門校に入学し、成績も良好だった。しかし姶良が高校三年生の秋、まだ風がほんのり冷たい季節に、両親は離婚。原因は姶良にあった。
軍人が嫌いな父親に言われた冷たい一言で、姶良はその目を固く閉ざした───。
***
「姶良ー。姶良ー?」
ハッと我に返った姶良は、声がする方向を向く。同じ操舵手である
「あ、お? ああ、真理ちゃんか……びっくりした〜」
一瞬状況が理解出来なかった姶良は、変な声を出した後胸に手を当てる。
「びっくりしたはこっちのセリフよ、姶良。またボーッとしてたわね! ほら、操舵代わるから位置教えて」
「あ、うん……お願いしようかな。副艦長、操舵代わりま〜す」
椅子に座る茉蒜を寝かせていた典子は、その声に目だけを姶良に向けて片手で小さく丸を作る。
そうか、艦長寝てるんだっけ。
こりゃあ静かにせねばならんと思いつつも、位置情報を言って操舵を真理に預けた。
「お疲れ様。今日の課業は終わりだから、晩御飯食べてゆっくりしていて良いわよ」
「分かった。ありがとう副艦長〜」
フラフラーっと歩き、梯子を下って食堂へ向かう姶良を見送っていた音羅は、少し不思議そうな顔をしていた。
「ねぇ副艦長、今日の姶良なんか変だよ」
典子は音羅の方を向き、「どういうこと?」と問いかけた。
「思い詰めてるような感じがしてさ、どうも気になって仕方がないのよ。どうしよう、交代来たら話聞こうかな……」
「心配なら行った方がいいわよ、もうすぐ来るし」
「うん、そうする」
みのりは目を閉じたまま他の乗組員と連絡を取り合っており、はなだは不安げにしている音羅をじっと見つめていた。
***
「はぁ……」
食堂に続く廊下を歩きながら、姶良は重々しくため息をついた。
ここ最近は変な夢ばかりを見る。それも家族や親族、大切な人、知り合いが絡む夢が多く、内容もあまり良い気のしない夢だった。
姶良の前には、他の乗組員……それも、姶良よりも上の階級の者が数人歩いている。微かに聞こえる話し声からして、自身らの部屋へと向かう途中のようだ。灰色の作業服を着ているあたり、航空自衛隊の者だろうとすぐに察しがついた。
「ん? あ、山下三曹!」
気づいた一人の乗組員……雅美が、振り返って姶良に声をかける。
「これから食事ですか?」
「ん、うん、そうだよ。というか、君達の方が階級上なんだから、敬語使わなくてもいいんじゃない?」
「年上は年上ですから。たとえ階級が上だとしても、先に産まれた方には敬語を使わないと」
亮が前を向きながら、淡々と言う。
「真面目だなぁ浅野三尉。この艦内じゃ上下関係なんてクソほどにも無いよ」
驚きのあまり何も無いところでつまづいた雅美が「え……そうなんですか? 海上ってそんなものですか?」と慌てた口調で問いかける。
「海上というか、艦長がそういうの嫌いだから。だから、全員とは言えないけれど、乗組員は皆仲がいいんだよ。「階級」っていう、自衛隊特有の社会の壁を無くしてるから。もちろん陸に降りれば上下関係は当たり前のようにしているけれど、「かが」艦内ではそれがあまり無いって思った方がいいかも」
「へぇ、艦長って真面目なイメージがあったけど、違うんだな」
「全く持って違うな、良介」
亮が声色を変えて言ったのを聞き、「なんでそう言えんのよ」と雅美は腕を組む。
「俺が一番あいつの声を聞いているからだ」
「どゆことやねん」
カクッとわざとリアクションを取って見せた良介を見て、姶良はクスクスと笑う。
「それはあれかな? 彼氏としてって事かな、ん?」
「かれっ……!? 違いますよ山下三曹!」
「じゃあどういう?」
姶良の問いかけに、立ち止まって十秒ほど考えた亮はたちまち顔を赤くして、
「……やっぱ何でもないです」
「ふっ、熱いねリア充は」
歩き始めた亮を追うように、隣に歩く姶良がニヤニヤしながら言う。
「からかわないでください! 昨日からずっと
「ごめんてそんな怒らんでよぉ、山下三曹が悪かったけん」
「山下三曹、九州出身なんですか」
慌てて宥めた姶良を、良介は言いながらじっと見ている。雅美はそんな良介を不思議に思いながらも、「じゃ、早く部屋行こ!」と二人を促した。
「あ、ごめん二人とも。先に行っててくれないか?」
そう口を開いたのは良介だった。二人は良介をしばし見つめたあと、「分かった!」「早く戻って来いよ」と言い残した後、二人で廊下を歩いていった。
姶良はきょとんとしながら、廊下を歩く二人を見つめている。見送った後、左腕にかけていた上着を着て、良介は一言言った。
「少しだけでいいんですが、時間ありますか?」
***
右舷側の
「それで、なんの用? 何か分からない事でもあった?」
「いえ、そういう訳ではないのです」
どこか恥ずかしそうに視線を逸らす良介に、姶良はなんの事か分からず首を傾げる。
「……最近、あなたを見ていて様子が変だなと思って」
「変? どういう事?」
「何か悩んでいるような、そんな気がして……。先週の健気なあなたとは違って、今は表情が曇って見えるものでして。
俺で良ければ相談に乗りますよ。とは言っても、アドバイス出来ることは少ないですが」
潮風に吹かれ、姶良の黒い髪の毛がサラサラと揺れる。細く目を開き、未だ落ちかけている夕日を視界に入れながら、姶良は呟く。
「……夢を見るんだ。それも家族が関わる夢。哀しい最期を迎える、私がもう二度と見たくないと思っていた幻想の塊さ」
「それで、元気が無かったと?」
良介の言葉に、姶良は小さく頷く。
「私の両親さ、あまり仲が良くなくて。高校三年生の時に離婚したの。八年経った今でも忘れもしないさ、私の人生が決まった十一月八日……私の誕生日であり、一般曹の合格発表の日。離婚の理由に、私もお母さんも思わず絶句したよね」
「……それで、なんて?」
姶良は自身が高校三年生の時の事を思い出していた。あの時、父に言われた言葉が大きな棘になり、ささくれになって、今でも抜けやしない呪いの言葉。
「「合格おめでとう、姶良。お前みたいな
吐き捨てるように言われたよ。それから私は自分の目を人に見せないようにした。自分が笑顔でいれば、それで丸く収まると思っていた。でも現実は違っとうて。
それから一年後、今度はお母さんが蒸発しちゃった」
「そんな、お母さんまで……?」
「今でも連絡だって取れやしない。何処にいて、何をしていて、どういう仕事をしていて、生きてるのか、死んでるのか、他のいい人を見つけて幸せにしているのか、そうじゃないのか……娘なのに分からない。これって親子としてどうなんだろね?
ねぇ、岡田三尉。キミには護りたい人ば、いると? 私にゃ居らんばい。艦長みたいに、浅野三尉みたいに、誰か大切な人がおるわけちゃうけん。
護りたい人がおっても、後ろ姿が見えんかったら護ろうにも護れんしょ?」
母譲りの博多弁が次々に零れていく。そんな事も気にとめず、顔を埋めて涙を堪える姶良。それでも抑えきれなかった涙は、姶良の瞳を通して下へ落ちていく。
「誰も護られんばい、私にゃ何も出来んばい……船のハンドルを握る事しか、ただそれしか、この手には許されん気がして。手を伸ばしても離れていく人達を、どう追っかけて、どう護ればええんよ……私にゃ何も分からんちゃ……」
姶良の話を黙って聞いていた良介は、上着を脱いで姶良の身体へとそっとかける。彼女の背中に右手を置き、良介は小さく呟いた。
「何も護れないなら、俺が護ります」
彼のその言葉に、ゆっくりと顔をあげる姶良。
「へ……?」
「な、何度も言わせないでくださいっ。俺があなたを護ると、そう言っているんです」
超がつく程鈍感な姶良でも、良介の言っている意味がすぐに意味が分かった。
あなたのことが好きです。遠回しに、不器用じみた言葉遣いでそう言っているんだと。
不思議と、言われて悪い気はしなかった。どうしてなのかは分からないが、彼がとにかく本気で言っていた事だけは分かる。
「……山下三曹の話を聞いているうちに、自分と重ね合わせた部分がいくつかありました。だからなのか、俺はそんなあなたを護りたくて、救いたくて仕方が無いんです。
今さっき決めました。俺はあなたを護ります。だから、あなたがハンドルを握るその手で、俺を護ってください。
前を向いて、華やかな顔をよく見せてください。
あなたの菫色の瞳は、本物の菫の花よりも綺麗な瞳なんですから」
身体を起こし、素手で涙を拭う。それでも拭いきれず、溢れ出す涙を止める方法など、姶良には全く持って分からなかった。
「ご、ごめっ……なさい、そ、そう言うの、言われた事無くて……っ、言われ、慣れて無くて……」
ぼろぼろと涙を零しながら、姶良は嗚咽混じりに言葉を放つ。鮮やかな菫色の瞳から零れ落ちる雫に反射して、良介の顔が映る。
この人なら、私の事を分かってくれるのではないか。
そう直感で思った。しかし迷いもあった。自分のようなひねくれた存在が、この人の生涯の人でいいのかと。
『あなたの菫色の瞳は、本物の菫の花よりも綺麗な瞳なんですから』
言ってくれるような人は、少なくとも家族の中でも誰もいなかった。この瞳は代々、祖母の家系から受け継ぐクォーターの目だ。姶良の母も父も祖父も祖父の親族も、誰も姶良の瞳の色をしていなかった。
本当に、良いのだろうか。
姶良は再度自分に問いかけた。しかし答えは帰ってくることは無く、ただただ海の音が響くばかり。
ぐしぐしと涙を拭い、顔をあげて彼の顔を見る。
彼は笑っていた。それ以上でも、それ以下でもない、屈託のない笑顔で姶良を見つめる灰色の瞳は、同じ色である作業服の色よりも鮮やかで、姶良の目を奪ってしまう。
思えば、彼の顔つきは若い頃の祖父とそっくりであった。祖母が祖父に告白したのは、丁度自身と同じくらいの歳だと聞いた事がある。凛々しい顔立ちをした祖父に惚れた祖母の気持ちが、今となって分かった気がした。
「わ、私で、私で良かったら……こんな、人一人も護れないような、駄目な年上の後輩で良かったら……もう一度、私に人を護る権利を下さい……
ずっと、いつまでも隣に居させてください……っ!」
未だ泣き続ける姶良に歩み寄り、そのまま胸に抱き寄せて言った。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
上着に隠れ、姶良の顔が見えなくなる。それでも、肩を震わせて泣きじゃくる姶良の頭を撫で、良介はまた笑った。
彼女の心に刺さっていた大きなささくれは、いつの間にかするりと抜けていた。
***
「ねぇ、ほんとのほんとに大丈夫? なんか悪い事でもあったの?」
「だから大丈夫だってば。さっきからしつこいぞ〜」
次の日の朝礼終わり、姶良は音羅から質問攻めにあった。それは悪く心配する方ではなく、良い方の心配である。
「だってあんた、やけに表情が良いんだもん。そりゃ心配もするでしょうよ! 情報員の交代きてやっと代われたと思ったら、あんた何処にも居ないんだもん! 何してたのよ?」
「あぁ、昨日は右舷の
「
不安げな顔をする音羅に、姶良は困ったように彼女を見る。
と、朝食に向かうのであろう、廊下で歩きながら亮達と話している良介を見つけた。
「あっちょっ姶良?」
姶良は小走りで良介の元へ向かい、軽く背中を押した。
「のわっ!? って山下三曹! おはよ──」
「おはよ、「りょーすけ」」
ニコッと笑って通り過ぎ、そのまま食堂へ向かって行った姶良を見て、
「……山下三曹が目を開いて笑ってた」
「綺麗な目だった……って良介? どうしたそんな顔真っ赤にして」
口元を手で隠し、顔を赤らめた良介はこの時自身が絶対に経験しないであろうと思っていた事をたった今経験した。
「女の子に初めて下の名前で呼ばれた……」
「そこ?」「そこ?」
二人は少し引き気味に呟いたが、そのうちの雅美は関係を察したのかニヤニヤしながら良介の背中を押し、
「ほれほれ、カレカノはお隣に座ってこそお似合いだぞ〜。席取られちゃうから早く行きなよ〜」
「は!? ちょ、違う雅美、そんなんじゃないっつの!」
ますます真っ赤になった良介を見て、グイグイと背中を押す雅美。朝食の準備をしていた姶良は、再び良介を見つけると軽く手を振ってくる。
「あ、そういう関係? どっちから?」
「亮、お前もうるさい」
真顔で言った亮に、良介は冷たく言い返す。内心では可愛い彼女の姿に圧倒されながらも、なんとか冷静さを保ちつつ席についた。
「りょーすけ」
「うぇっ」
「好き」
「うぇっ!?」
小声で言った姶良に、良介は動揺を隠せなかった。がっつり聞こえていた音羅は聞こえない振りをして真顔で食事をしていたものの、内心は「こいつほんとどうしたんだろう」と同じく動揺していた。
「よう岡田三尉、隣にいる子は山下三曹じゃないか。珍しいな、どうしたんだ?」
状況を知らない広瀬が隣に座ってきて、良介はさらに動揺していた。
「えっ……と」
言葉に詰まっていた良介が姶良を見ると、気づいた彼女が目をぱちくりさせて良介を見つめる。
「おっ? 山下三曹の目、初めて見た。綺麗じゃないか」
「そうですか? 嬉しいです」
「すごい綺麗だよ。俺の彼女だったら絶対──」
「あのっ!」
広瀬の前に手をずいっと出し、良介は真顔で呟いた。
「……うちの彼女を狙わないで下さい」
「あ、そういう関係? どっちから?」
亮と同じことを聞いた広瀬に、「あぁもう、もういいでしょう! このお話は終わり! 課業時間に間に合いませんよ!」と食事を始める。
「へへ……彼女……」
照れながらもぐもぐと朝食を頬張る姶良に、
「やっぱり変だ……」
音羅は目を平たくしながら、また心配そうに呟いた。
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