這い寄り行く陰謀の影

絆創膏で埋めた心の傷

 散らばった人形、白紙が黒く塗りつぶされたスケッチブック、白い机、焦げたコンセント、電源のつかないテレビ、カーペットに染み込んだ紅い血痕。

 壁に立て掛けられた時計は画面が割れており、時刻は午前三時半を回っていた。

 夜は目が慣れても、それらが全て見えない。そんな真っ暗な部屋で一人、ベッドの上で震えて座り込む少女がいた。

 普段外にさえ出させてもらえない。そんな少女は、包帯だらけの身体をどこか護るように、怯えた目で一点を見つめている。

 まだ、帰ってきていない。少女の母はこの時、父と一緒にどこかへ出かけていた。

 どこだかは分からない。だけど、少女にはそれが『怖く』感じられた。


 ガタンッ。

「ひっ……!」

 咄嗟に部屋の鍵をかけてベッドに戻り、頭を手で覆い尽くす。

 お父さんが帰ってきた。

 静かにしなきゃ。静かにしなきゃ。

 そっと動いて、息を殺して。

 だって、だってあの扉の先は地獄なんだから。

 息を荒くしながら、ベッドの上で全身を引きずり、力なく這いずる。

 寝られればそれでいい。音を立てないで、静かに眠れれば、それでいい。

 騒ぎ立てる心臓を落ち着かせようと、少女が深呼吸をした時だった。

 ガチャッ。

 そんな子気味のいい音、しかし少女にとって、それは地獄を意味する音を立てて、ドアノブが一気に下がる。

 残酷にも、ゆっくりと、確実に扉は開いていく。

「おい」

 外れない視点の先にいたのは、紛れもないお父さんだった。

「何故鍵をかけた? 俺が合鍵を持っていること、お前も知っているだろう?」

 心臓の音がやけにうるさく聞こえる。

 家の明かりが部屋に立ち込め、少女に向かって近づいてくる父の顔は、黒く塗りつぶされたスケッチブックのような色をまとっていた。

「ぁ……ぁぁ……」

 殺される。

 脳が信号を出した時、少女は布団に潜り込もうとした。

 しかし、父は少女の傷だらけの手を乱雑に掴み、カッターでまた切り傷を作られた。

 痛みすら感じられない。これで何度目だろうか。

 何年かも、何月かも、何日かも私には分からない。

 ただ窓から静かに聞こえる虫の声を頼りに、部屋に立ちこめる暑さ、寒さを頼りに、今は春、今は夏、今は秋、いまは冬と、そう区別するしか方法がない。

 父は少女の両腕を片手で拘束して固め、私の頭を、手を、足を、腹を、何度も殴りつけてくる。

 ごめんなさい。もう音を立てないから、いい子にしてるから。だから殴らないで。

 拘束された腕に顔を埋め、目を瞑り、少女は心の中で呪文のように唱える。

 少女の視界に、を片手で持った父の姿が見えた時、その少女は思った。


────あぁ。


お母さん、死んでないかな。


 刹那、は少女に振り下ろされた。

 

 ***

 

「───っ!!」

 パチンッと唐突に目が覚めた。

 数十分の間だけ眠ってしまっていたようだ。茉蒜は身体を起こし、辺りを見渡す。

 艦長室だ。壁にかけられた時計の時刻は午後十八時を回っており、同室である典子が、傍らで心配そうに茉蒜を見つめていた。

「大丈夫? 随分とうなされていたけれど」

「……うん、大丈夫、大丈夫……」

 自分にそう言い聞かせるかのように、茉蒜は何回か復唱した。

「本当に?」

 そう聞いてきた典子に「どうして?」と茉蒜は不思議そうに返す。

「あなたがそう言っている時は、大抵大丈夫じゃないから」

 目を細め、典子は言う。

「お茶、入れようか? 今は課業外だし」

「うん、お願い。ごめんね」

 立ち上がった典子は「どうしてあなたが謝るの?」と、不思議そうに問いかける。

「だって、皆私に気遣ってくれているんでしょ? それがなんだか申し訳なくて」

「……」

「元々身体の弱い自分が嫌で仕方なくて、それを変えたいのに、過去の自分が邪魔をする……典子はそんな経験、無い?」

 茶を注ぎ、それを見つめながら、典子は寂しそうにまた目を細める。

「そうね、あるわ。私もあなたと同じ境遇だもの」

「典子は私と違って、家族の顔も忘れている……でも、ああいう事をされていたのは、私も典子も同じ。違う?」

「違わないわ。私は茉蒜と同じで、確かに親に虐待を受けていた。本当の家族の顔も忘れて、血の繋がりのない偽りの家族と一緒に過ごしてきた。でも、あなたとは一つ違うところがあるわ」

 そう言われ、茉蒜は首を傾げる。

「本当の親から愛情を貰っていなかった事。冷めた目で見られていたのは同じだろうけど、私は両親から褒められたり撫でられたり……親らしい事をしてもらった覚えはないし、子供らしい事もした覚えもない。だからあなたが羨ましかったわ、茉蒜。心の傷を見せないで堂々と笑っていられるあなたがね」

 テーブルにお茶を置き、茉蒜は礼を言って湯呑みを手に取る。手に伝わってきたほんのりとした温かみの中に、典子の寂しげな気持ちが混ざりこんでいるような気がして、一口飲んでも温もりが感じられない。

 ああ、この子は心の傷をさらに抉られた子なんだ。

 茉蒜はそんなことを思ってしまった。長年付き合ってきた同期だと言うのに、こんなにも内側が冷たい事に今まで気づかなかったのだろうと、少しだけ後悔が混じる。

「私も典子が羨ましいよ」

 そう言った茉蒜を、驚いた表情で見る典子。それが茉蒜には、「どうして?」と言っているように感じられた。

「嫌な事は嫌ってはっきり言えるんだもん。私はここ二十数年生きてきて、私の過去を誰かに知ってもらおうと思った事は無いよ。嫌な事を嫌とも言えずに、人に流されて生きてきた人には、それを話す権利なんて無いって思っていたから」

「……過去を忘れたいって思った事は?」

「もちろんあるよ。でも、それが糧になる時がいつか来るって信じてるから、私は過去を堂々と話せる人になったの。どれだけ苦しめられても、過去を忘れたら、私が私じゃなくなる気がして怖いから」

 湯のみをテーブルに置いた茉蒜を見て、典子は何を思ったのか茉蒜の頬に触り始めた。

「わっ、くすぐったいよ典子、どうしたの?」

 典子が触った茉蒜の頬には、一つの絆創膏が貼られていた。課業中に割れたガラスの破片で頬を軽く切ってしまい、典子が貼った物だ。

「絆創膏で治せるのは表面上の傷であって、内側にある心の傷ではないのよ。

 それをよく覚えておいて欲しい」

「ほえ……ごめんなさい……」

「ま、茉蒜、最近無理しすぎているの、だから皆心配するの!」

「ご、ごめんなさいっ!?」

 同期の聞いた事のない声に、茉蒜は思わず二回謝ってしまう。その声は言うならツンデレのような、なんとも彼女らしくない声で……慣れていない事をした彼女に申し訳なさを感じるほどだ。茉蒜の両肩に両手を置いた典子は、茉蒜と目を合わせることなくそのまま下を向き、小声で呟いた。

「……だから、極力休んで。書類関係は私も手伝うから。なんでもかんでも背負い込まないで、少しは私にも相談しなさいよ」

「そう言われても、私はここの───」

 そこまで言いかけ、茉蒜は言葉を止めた。

 彼女の両手が少し震えているのを感じたからだ。右手で典子の頬に触れ、茉蒜は微笑んで言った。

「もう、典子の泣き虫」

 こんなにも暖かい手をしている癖に、冷たいだなんて間違っている……と、茉蒜は思う。触れた茉蒜の手には、既にいくつもの水滴が滴り、やがてベッドへと零れ落ちていった。

 

 ***

 

「艦長、副艦長、入ります!」

 食堂内、一斉に乗組員達が立ち上がり、入ってきた茉蒜に向けて敬礼をする。茉蒜は笑顔で座る合図を出し、たちまち座って食事を再開した乗組員達を見据え、茉蒜は一緒に入ってきた典子の後ろについて行く。

「取ってこようか?」

「いいもん、自分で取れるし! 子供扱いしないでよ!」

「艦長はいつまで経っても、子供だな!」

「広瀬もうるさーい!」

 食堂は笑い声が絶えない。艦内ではお静かに、とよく言うものだが、かがの艦内はいつでも賑やかで、他の隊員からしたら騒がしい程だ。

「艦長、艦内はいつもこんな感じなのか?」

 近くに座っている広瀬がそう問いかけてくる。

「私と典子が司令になったらいつもこんな感じよ。艦橋でもほとんどの子がタメ口だし。最初は静かだったんだけど、私が静かなの嫌いだから話していいよって言ったら……この通りでございまして」

「それ、海自のマナー的にいいのかよ……?」

「私も静かな空間よりかは、こういう騒がしい方がいいわ」

 サラッと言った二人に、「クッソ、本来なら注意したいけど俺よりも上な二人に逆らえない……ぐぐぐ」と広瀬は悔しそうにした。

「あら広瀬空司令、私は二佐よ?」

「だとしてもあんたらエリート生には何があっても逆らえねえよ、あんたら二人の司令で俺らは生きているんだから」

「それは違うよ広瀬、この子達が私の判断について来てくれているからよ」

 食事が終わり、食堂を出る前に声をかけてくる乗組員達に手を振りながら、茉蒜はニコニコしながら広瀬に言った。

「それはそうだけどよ! あーなんか頭が混乱してきた……ところで茉蒜」

「何?」 

「お前の彼氏はどいつだ?」

「ご馳走様」

「はぐらかすなオイ」

「知ーらない!」

 席を立ち、片付け始めた彼女を見て、広瀬はニヤニヤとしていた。

「何よ気持ち悪いわね」

「それ、本来なら茉蒜が言う言葉だぞ、市井副艦? それと上官に失礼」

「可愛い女の子をストーカーのような目で見る空司令よりかは、実績は上なのでね」

 鼻笑いをして茉蒜の後を追いかけた典子に、

「女の子って扱いにくい……」

「奥さんがおられる広瀬司令が言うことではありませんよ」

 一言も言葉を発していなかった亮がようやく口を開いた。

「だってよ浅野三尉、お前のかのじ───」

「それ以上口を開くと明朝の朝ごはんになりますよ」

 ジロ、と睨んだ亮に「悪かったよ……」としょぼくれて食事を再開する広瀬。

「部下に脅される上官」

「見ていて面白い」

「雅美も良介もいい加減にしないか、さっきから俺の事を……」

 ニヤニヤとしながら亮を見ている雅美と良介に、

「……さっきから俺の事をおちょくりやがってお前らァ……!」

 少々キレ気味に声を上げた。

「亮!」

 名前を呼ばれ、二人から視線を外し声の方向を振り向くと、茉蒜が亮の方を向いてニコニコしている。

「あんまり短気になってたら寿命縮むよ! 少し休憩したらー!?」

 そう言い残したあと、ぴょこぴょこと兎のように跳ねて食堂を出茉蒜を最後まで見送ったあと、

「違う、違うんだよ茉蒜そういうことじゃないんだよ……!」

 顔を真っ赤にしてテーブルに頭を下げた亮。

「私、亮のこんなはしたない所初めて見た」

「何事にも無頓着かと思っていたのに……亮、ついにお前は恋心を持ち始めたのか!」

「うるせぇ黙ってろ」

 口の悪さは相変らずだと二人は思うも、だんだんと顔に色がつき始めている事に内心ではガッツポーズしたいくらい喜んでいる二人であった。

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