触れた手
沢山の人が賑わうロシア、モスクワ。
茉蒜は母、アガーフィヤと手を繋ぎ、モスクワの街並みを歩いていた。
二人がモスクワに来たのには、一つの理由がある。それはモスクワにあるフィギュア専門店。……とは言っても、そこは戦闘機や航空機、銃と言ったミリタリー専門のフィギュア店だ。茉蒜は昔から航空機や艦艇を好み、母と一緒に、家があるニジネヴァルトフスクから遥々モスクワまで来たのだった。
「茉蒜、言っていたフィギュアのお店はどこにあるの?」
アガーフィヤは隣で歩いている茉蒜に、ロシア語でそう問いかける。
「もう少しだよママ、私ちゃんと調べてきたもん!」
誇らしげにドヤ顔をする茉蒜に「大丈夫かしら……」と、不安げに呟くアガーフィヤ。
「大丈夫だって! 娘を信じなされ!」
「信じてないわけじゃないのよ茉蒜、モスクワなんて治安も悪いし大きい街だから、少し不安なのよ……」
「私は一回だけパパに連れて行ってもらったことあるけど、ママは初めてだもんね」
「そうよ? ただでさえママ方向音痴なんだから、茉蒜が案内してくれないとついて行けないわ」
そんな会話をしているうちに、茉蒜はフィギュア専門店を見つけ、「あ、ママ見て! ほら!」と店を指さす。
「あらほんと。よくこんなの見つけたわね」
「ママが貸してくれた「すまーとふぉん」のおかげだよ! ママはどうする? 中に入る?」
「ママはお外で待ってるから、茉蒜は好きなの買って来なさいな。渡したお金、持ってるわよね?」
「うん、持ってるよ!」
アガーフィヤの手を離し、茉蒜は小さな財布を取り出す。店まで小走りで来たあと、店の扉を開けて「こんにちは」と挨拶をする。
「ん? おぉいらっしゃい。これまた可愛いお客さんが来たものだ」
若い男性の店員が、興味ありげにカウンター越しに話しかけてきた。茉蒜は「可愛いだなんて、茉蒜照れちゃう……!」と、両頬に両手を当て、照れる素振りを見せた。
店員は店主のようで「はっはっは! ゆっくり見ていくといいよ!」と、朗らかに接してくれた。
沢山のフィギュアに囲まれた店内を、茉蒜は一周回っていく。半周したあたりで、茉蒜はとあるフィギュアを見つけて立ち止まった。
「お嬢ちゃん見る目があるねぇ。それは最近入荷した「YF─23」だ。在庫も少ないから、今がお買い時だよ」
「マグダネルダグラスの!?」
バッと店主の方を向き、茉蒜は目を輝かせる。
茉蒜が目に入れたのは、マグダネルダグラス社が開発した「YF─23」のフィギュアだった。ひし形の主翼が特徴的の戦闘機で、ボーイング社の「F─22」と性能を争っていた、もう存在しない戦闘機なのだ。
「お? お嬢ちゃん、もしかして航空ファン?」
「航空機も戦闘機も、艦艇も好き! 銃も好き!」
「おぉミリオタか! こりゃあ話が合うなぁ!」
二人して笑い合い「じゃあこれと〜……」と、他にも買いたい物があるのか、茉蒜はフィギュアの箱を手に取り、また回り始めた。
「お?」
と、また何かを見つけたのか、茉蒜は立ち止まってよく見てみる。
「……こう、くう、ぼかん……かが?」
第二次世界大戦中に撃沈した航空母艦「加賀」のフィギュアだった。茉蒜が見つけたのは、三段式甲板を活用した、改装前の加賀である。日本語で書かれた箱に加賀が載っており、飛び立つ一機の零戦と艦艇の上に立つ立派な旭の国旗が、何よりも茉蒜の目を引いた。
「へぇ! お嬢ちゃん、日本語が読めるのかい?」
「えぇ、私はロシア人のママと日本人のパパのハーフなの。ロシアでは見ない名前だし、やっぱり日本の空母よね?」
「そうさ。お嬢ちゃんは、日本は好きかい?」
そう聞かれ、茉蒜は少し考える。
「好き! 日本人は礼儀正しい人ばかりだもの! 大きくなったら、私日本の海上自衛隊に入隊したい! そんでねそんでね、この「加賀」みたいな大きい空母の艦長になるの!」
「そうかい、そりゃあ立派な夢だなぁ。おじさんも昔は軍人に憧れたものさ。足の事故が原因で諦めちまったけどなぁ」
そう言い、カウンターに隠れていた足を見せる。
その足は義足であった。木製で作られたそれは随分と使い古しているのか、所々に傷がつき、欠け、既にボロボロな状態だ。
「義足……そうなのね。だからここでフィギュア屋さんをしているの?」
「そういうことさ。お嬢ちゃんならなれると思うぜ? 日本の自衛隊は、今や女性も募集しているからな」
「ママやパパが許してくれるかどうかが問題だわ……」
顎に手を当て、茉蒜は困ったように声を上げる。
「お母さんとお父さんはどんな仕事をしてんだい?」
「ママは歯科助手、パパはロシア海軍の元帥さん」
「へぇ、元帥かい! これまたど偉い職業に就いているもんだね!」
驚く素振りを見せ、店主はカウンターに両手をつく。茉蒜はその音に驚いて飛び上がり、店主は慌てて「あ、ご、ごめんよ、驚かせてしまって」と茉蒜を宥めた。
「いいの、大丈夫! じゃあ、これと、これと、これください!」
YF─23、加賀、そして新たに手に取った零戦のフィギュアの箱をカウンターに置く。店主は会計をして金額を伝え、茉蒜は財布に入っているお金を差し出す。
「お嬢ちゃん、いくつだ? 見たところまだ幼いようだが」
「私? 早生まれで、まだ五歳」
「そうかい、したらあと十二年って所か。せっかくなら、自衛官候補生、一般曹候補生の他に、防衛大学校も受けてみたらどうだい?」
茉蒜にとって聞き慣れないその言葉に、「じえいかんこうほ、いっぱんそー、ぼうえいだい……?」と復唱して首を傾げる。
「初めに言った自衛官候補生が受かりやすくて、次に一般曹候補生、そして防衛大学校が一番難しい。高校の勉強を極めていなければ、あんなところ俺でも行けやしないさ。
とはいえど、まだ受けられないがな。将来本気で自衛官になりたいと考えているなら、考えておくといい。なに、時間はまだある。おじさんみたいに手遅れな訳でもないからな」
「んーん、お兄さんは手遅れでもなんでも無いと思うよ。お兄さんはちょっと運が悪かっただけなんだよ!」
長袖から手を出し、茉蒜は胸元で拳を作り上下に振る。
「はは、そうかもしれないなぁ」
表情は笑っているが、店主のその目はどこか虚ろで、希望を無くしているかのように思えた。
まるで父のようだ、と茉蒜は思う。自身の父である成実も、あのような目をしていたような気がする。希望を無くし、自分を殺し、仕事の為に身体を起こす……そんな当たり前に見てきた背中は、この店主と同じような苦労を背負っていたのではないか?
「大丈夫。お嬢ちゃんにはまだ希望も夢も、将来もある」
「お兄さん……」
「自分を誇れるような人になりなさい。そうでなくとも人は変わるけれど、他人の気持ちを思いやれる人は、自然と自分を誇れるようになるのだから」
ポンッと、茉蒜の頭に手を置く。優しく微笑む店主は、失った希望を茉蒜に託しているような、そんな気がした。
気がしただけかもしれない。それでも茉蒜は、この店主の目を信じていた。
「お嬢ちゃんが身体中に付けている傷も、包帯も、湿布も、いずれは取れてかさぶたになる日が来る。その日が来たらまたここに来て、お嬢ちゃんの立派な姿を見してくれな、おじさんとの約束だぞ?」
「……うん、分かった!」
無邪気に笑う茉蒜につられ、店主はまた笑った。
「スヴィダニヤ《さよなら》、お兄さん! また来るね!」
「おう!」
手を振り、茉蒜は手でドアを押し開けて店を出る。
「ママが待ってるし、早く行かなきゃ……?」
その言葉は、疑問形になる。フィギュアが飾られたショーウィンドウの前で座って拗ねる、一人の幼い男の子を見つけたからだ。
───こんな所で何してるんだろう?
疑問に思いつつも茉蒜は男の子に近づき、顔をよく見てみる。銀色の自身の髪の毛が男の子の顔にかかり、男の子は邪魔くさそうにぶんぶんと手を振って避けた。
その時にようやく顔が見えた。焦げ茶色の髪の毛に、茶色のつり目が特徴的な、推定で言うと一歳位の幼子だった。
「どうしたの? 迷子?」
茉蒜はロシア語で話しかける。言葉が分からないのか、男の子は大きく首を傾げた。
「あっ、日本人か……」
ロシアではあまり見ない顔つきなことから、問いかけてすぐに日本人だと分かった。軽く咳払いをし、「うんと、どうしたの? 迷子?」と、今度は日本語で話しかけてみた。すると、言語が通じたのか少しだけ顔色を変え、男の子はまた首を傾げる。
───まだあまり話せないのかな。
少し考えた茉蒜は、「どう見ても迷子だよね……。えっと、お名前は? 自分のお名前、言える?」と、しゃがんで男の子と視線を合わせて問いかける。
「あさの、とおゆ!」
───とお……ゆ?
舌足らずな言葉遣いに少々困惑するも、「あさのとおる」という名前なのではないか、とすぐに思い立った。
「あさの……とおる君? でいいのかな?」
茉蒜が聞き返すと、男の子……亮はこくりと頷く。
「そっか、亮君ね。私は黛茉蒜、言えるかな?」
「まゆじゅみ、まひゆ?」
またしても舌足らずな言葉遣いに、「あはは、ら行がや行になっちゃうのね」と軽く笑って呟く。
「でもよく言えたね亮君! お父さんかお母さん、いるかな?」
「おとうしゃん」
「お父さんね、お父さんの顔は分かるかな?」
「ん」
「じゃあ、一緒にお父さん探しに行こっか」
茉蒜は亮を持ち上げ、両手でしっかりと抱いて歩き始める。
───軽い。幼い男の子ってこんなに体重無かったんだ。
髪を揺らし、茉蒜は人混みを避けて歩いていく。
「かみ、いいにおい、きれい」
「そう? えへへ、男の子にそう言われると、なんだか照れるなぁ……」
照れ臭そうに茉蒜は笑う。亮は気に入ったのか、髪を弄って遊んでいた。茉蒜はそこまで気にする性格でも無く、むしろ弟が出来たかのように思えて嬉しかった。
「この街はね、亮君みたいにちっちゃな子が一人でいると、こわぁいおじさん達が亮君を連れ去っちゃうの」
その言葉を聞いた亮はビクッとして、たちまち目に涙を浮かべ始めた。
「おれ、つれてかれゆ!?」
「だ、大丈夫だよ! 私がいるもん!」
慌てて宥める茉蒜にひっつき「いざとなったら、「たて」にすゆ」と、亮は素っ頓狂なことを言い始めた。
「盾!? あはは! まぁいいけど!」
驚いて声をあげる茉蒜に、亮は更に茉蒜にくっつき始めた。
───うーん、この子人見知りだし、シャイだし、もじもじしてるけど、女の子には目がないタイプの男の子なのかな?
紙袋の中身を心配しながら、茉蒜は思いながらアガーフィヤを探す。
と、案外近くにいた所を見つけ、「あ、いたいた。ママ見てみて、迷子!」と、ロシア語で話しかけた。
「あら茉蒜、迷子ってどういうことよ」
「いや、お店の前にいたから……亮君って言うんだって。迷子か聞いても何も分からないし、危ないからとりあえず連れてきたの」
紙袋と亮を持ち直し、「紹介するね。私のママのアガーフィヤだよ」
「初めまして亮君。茉蒜の母のアガーフィヤです、よろしくね」
「初めまして、アガーフィヤです。よろしくね……だって。よろしくって言えるかな?」
「よろしくおねがいしましゅ」
「言えた! 亮君えらーい!」
笑ってみせた茉蒜に、亮は少し照れていた。
「でもね亮君、ママ本当は日本語分かるし話せるんだよ。恥ずかしいし下手くそだからって言って話さないの。私は上手だと思うんだけどなぁ〜!」
わざとらしく口にした茉蒜に、アガーフィヤはあたふたしながら「も、もう茉蒜ったら、それは言わない約束でしょ!?」と流暢な日本語で言い返す。
「ほらね?」
「じょーず!」
「亮君も言ってるよ、ママ」
ささやかな拍手を送る亮を見て、「あ、ありがとうね亮君」と、亮の頭を撫でるアガーフィヤ。
「まひゆおねえちゃーは、なんでにほんごとロシアごはなせゆの?」
「ん? あぁ、私ロシア人のママとと日本人のパパのハーフだから。意外と便利なのよ、観光客の道案内だって出来るし!」
ない胸を張る茉蒜に、亮は「おぉ〜!」と賞賛の声をあげた。
と、同時に。彼は茉蒜のとある所に触れた。
「……?」
不思議そうに見つめた茉蒜の首には、彼の小さな手。その手には、髪の毛で隠していた大きな傷があった。右頬に貼ってある湿布や、左手に残る切り傷へ順々に触れ、亮は一言言い放った、
「まひゆおねえちゃ、おくびさん、いたい、いたい?」
茉蒜は驚いて彼を見据える。
今この子の目には、自身の驚いた顔が映っているのだろう。茉蒜が唯一、笑顔から身を離した瞬間でもあった。
「……うん、痛い痛いだよ」
亮を持ち直し、茉蒜は優しく返す。
「お姉ちゃんのお父さんはね、お姉ちゃんに痛い痛いを作る人なの。亮君は、お姉ちゃんのお父さんみたいに、人に痛い痛いを作る人になっちゃダメだよ?」
「だめ?」
「そう。男の子が女の子より大きくなるのは、人を傷つける兵器になるためじゃないの。男の子は、大切な人を守るために大きくなるのよ」
「じゃあおれがまひゆおねえちゃをまもゆ!」
「はえ?」
茉蒜はまた驚いて彼を見る。
こんなに小さいのに何を言うかと思えば、人を、それも見ず知らずの茉蒜を守ると言い出したのだ。
「おれがおおきくなったら、おねえちゃをいたいいたいするやつからまもゆ! だから、それまでまっててほしいなぁ……なんて」
亮はもじもじしながら言う。
茉蒜はふわりと、柔らかく微笑んだ。その微笑みはどこか寂しげに思え、亮は茉蒜の首に抱きついて「だいじょぶ、だいじょぶ」と背中をさすった。
「……うん、分かったよ亮君。私待ってるから、必ずね? 約束」
そう言った茉蒜は笑っていたものの、今にも泣きそうな震え声であった。亮をめいっぱい抱き寄せて、
「約束だよ……? 待ってるから……」
一粒の涙が、亮のおでこに滴り落ちる。そんなことも気にならないくらいに、亮は小さな手で茉蒜の頭を撫でた。
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