三章 麗しき花嫁
第96話 蠢く意志
夜の
そんな月明かりの元、一人の男性が優雅に歩みを進める。
着用している服装は、一見しただけで貴族の装いだと理解できた。黒いスーツを身に纏い、右手には上質な皮で作られた鞄を下げている。
茶色の短い髪。その前髪を綺麗に掻き上げて型をつけている。
その相貌はいかにも仕事ができる男性、という印象である。
「失礼します」
恭しく礼をしてから門を通り抜けていく。侍女の後についていくようにして、男はそのまま悠然と歩みを進める。コツコツとなる靴の音は、この静かな空間に響き渡る。
「こちらになります」
「ありがとうございます」
そして案内されたのは、書斎。コンコンコンと三回ほどノックすると、室内から渋い男性の声が聞こえてきた。
「入って構わない」
「失礼します」
再び恭しく礼をしてから、彼は室内に入る。その空間は書斎とは言うが、本当に壁面全てに本が敷き詰められていた。
一見しただけでも、この部屋の主人は本を収集することが好きなのだと理解できるほどだ。
「さて。かけてほしい」
「失礼します」
男は妖艶に微笑むと、その場にあるソファーに腰を下ろし、それから鞄を地面に置いた。
そして彼の目の前にいる男性、ブルーノ=ブラッドリィもまた対面に座る。
長机を挟み、二人は向かい合う。
「すまないね、こんな深夜に」
「いえ。僕としてはこの時間の方がありがたいので」
「そうかね?」
「えぇ。活動は夜の方がしやすいので」
「なるほど」
壁面にかけられている時計を見ると、現在の時刻は二時四十分。まさに二人が言及しているように、深夜と形容すべき時間だ。
そんな二人がどうして深夜に密会をしているのか。
それはとある理由からなのだが……。
「さてご依頼の通り、進行してもよろしいでしょうか? ブラッドリィ家当主、ブルーノ=ブラッドリィ様」
「あぁ」
「なるほど。では、こちらの誓約書にサインを」
男が鞄から取り出すのは、一枚の書類。
そこには契約内容が記されており、一番下に記名する欄と印を押す場所が明示されている。
「……分かった」
数秒だけ思案するが、ブルーノは自身の持っている万年筆でサインを書く。さらにここから、やるべきことが二人にはある。
──
それは魔術による契約の名称。互いの血を契約の証として残し、絶対遵守
の効力を魔術的に発動するものだ。血の中に混ざる個人の
普通ならば、こんな契約などはしない。互いに契約内容を了承していたとしても、
この契約は本来は非合法なもの、さらには奴隷制の際に使用されていたものだ。と言っても、現在は奴隷制は廃止されているが。
「では、血を」
「……あぁ」
ブルーノは懐にしまっている短刀を取り出す。その鞘を机に置くと、短刀の刀身が煌めくようにして現れる。まるで鏡面のように反射するそれは、確かな斬れ味を有している。
そして彼は、躊躇することなく親指を軽く裂いた。
ポタ、ポタポタポタと流れ出る血液はまるでその紙に吸収されていくようにして消えて無くなる。その後、その書類に現れるのは赤い紋章。
「では僕も失礼して」
男もまたそう言うと、右手の親指をナイフで軽く裂くことで血を滴らせる。
瞬間、その書類はわずかに発光すると……ここに、
「契約は完了しました。それでは、僕は依頼を実行します」
「……よろしく頼む」
頭を下げるブルーノ。
彼は三大貴族の当主の一人だ。頭を下げられることはあっても、自分自身が下げることなど滅多にない。
そもそもそれは、彼の誇りが許しはしない。しかし今は何の迷いも無く、ただ頭を下げる。
そして若い男性はニコリと微笑む。
それは決して嘲笑の類ではない。人の良さそうな笑みを浮かべて、彼はこう告げた。
「ご息女のレベッカ様の件は計画通りに進めます」
「あぁ。娘にも、それに周りの貴族にもすでに伝達している」
「……これは一個人としての懸念ですが、良かったのですか?」
「こうするしか、手段はなかった……」
苦悶の表情を浮かべるブルーノ。拳を握り、行き場のない怒りが彼の中に現れるもそれをグッと堪える。今更喚いても仕方がない。
それは他でもない、ブルーノ自身が理解しているからだ。
「では、【僕/私】は失礼して……と、おっと。申し訳ありません」
「いや構わないさ。君の事情は理解している」
「ありがとうございます。それでは、僕は失礼します」
「あぁ」
立ち上がると、男はその書類を丁寧に鞄へとしまう。そしてスッと立ち上がると、一礼をして最後に一言だけ残す。
「僕の裁量で仕事はさせて頂きます。改めて、ご理解頂きますよう。ご息女の件も理解してください」
「……背に腹は変えられない」
「理解のある方は好きですよ」
再びニコリと微笑むと、その男は侍女の見送りを静止すると一人でこのブラッドリィ家の屋敷から出ていく。
妖艶に微笑みながら、
◇
「どうだったんだ?」
「ブラッドリィ家の情報は入手しています」
「じゃあ、あれは本当なのか?」
「えぇ」
スーツのネクタイを解くと、男はそれを乱雑に椅子にかけてからジャケットを脱ぎ去る。ラフな状態になってから、目の前にいる別の男の前に腰掛ける。
すでに机にはワインが置かれており、何の断りもなく男はそれを飲み干した。
「レベッカ=ブラッドリィの婚約発表はいつだ?」
「明日です」
「なるほどな……動き始めたか」
「えぇ。そうみたいですね」
目の前にいる男。筋骨隆々であり、黒い髪をフェードにして深く刈り上げている。
一見しただけで、その体躯に圧倒されてしまうほどに大きな身体。そんな彼もまた、自分で用意したワインを飲み続ける。
「しかし本当なのか?」
「間違い無いでしょう。あの
「にわかには信じがたいがな……」
「ま、こればかりは僕を信じてください。それに損はさせませんよ」
「お前のことは気にいらねぇが、実績だけは信じているからな。ま、せいぜい稼がせてもらうぜ」
「そうしてください」
ニヤリと人の悪い笑みを浮かべる大男。
彼はそんな様子を淡々と見つめて、さらにワインを飲む。
アルコール特有の感覚。
喉を通り抜ける熱に、彼はどこか酔いしれる。元々、アルコールには強い。酔うことがないほどに。
しかし彼は好きだった。酒は飲むだけで、その雰囲気に酔えるのだから。
「しかし問題は、他の魔術師の介入でしょう」
「……
「
「なるほどぁ……で、算段はついているのか?」
「もちろん。僕の仕事に抜かりはありません。しかし問題はあります」
「何だ?」
彼は胸のポケットにしまっていた、小さく折り畳んだ紙を乱雑に机に撒いた。そこにあるのは、三人の魔術師のプロフィールだ。
「灼熱の魔術師、幻惑の魔術師、そして冰剣の魔術師。今回の仕事は、おそらくこの三人と相対することになります」
「ほぉ……七大魔術師か。これは大物だな。灼熱と幻惑がアーノルド魔術学院にいるのは有名だが、冰剣は引退したんじゃないのか?」
彼は光を宿さない瞳で、じっと虚空を見つめるようにして話を続ける。
「噂では、冰剣は引き継がれているとか」
「引き継がれている? 七大魔術師は世襲制なのか?」
「いえ。七大魔術師はその唯一無二の魔術から抜擢されている魔術師の特異点でもある存在。世襲など不可能です。たとえそれが子であっても、実例はない」
「つまりどういうことだ?」
「例外が出た、と考えるべきでしょう。しかし私たちでもその正確な情報は掴めていない」
「情報規制か?」
「おそらく、王国の諜報機関が……意図的に何かしているのでしょう。かなりの手練れです」
「ほぉ……俄然やる気になってきたな。で、殺していいのか?」
「殺せるものなら、殺してください。僕の目標はレベッカ=ブラッドリィなので。しかし七大魔術師には、【アトリビュート】の他に【本質】があります」
「アトリビュート? 本質?」
大男はポカンとした表情を浮かべる。それを見て、やれやれと言わんばかりに彼は説明をする。
「七大魔術師の名前は【アトリビュート】に過ぎません。つまりは象徴。その本質から漏れ出たものを抽象化して、名称として定着させているだけです。相対するのならば、その名前だけに気を取られないことです。
「あの
「えぇ。特に戦闘に特化している【灼熱】と【冰剣】にはお気をつけください」
「七大魔術師でも上位の二人かぁ……あぁ、早く殺してぇなぁ……」
「【冰剣】は特に危険ですよ。かの極東戦役での活躍知っているでしょう?」
「あぁ。有名な話だ。【冰剣】一人で局面を変えることができる。世界最高の魔術師ってのは、俺も知ってるぜ?」
「しかし、当代の【冰剣】はかのリディア=エインズワースを凌いでいるとか」
「あ? それはマジなのか?」
「あくまで噂程度ですが。しかし、油断ならないのは間違い無いでしょう」
「はははははは! いいじゃねぇか! 最高だなぁ、七大魔術師ってのはよぉ! あぁ……早く、殺し合いてぇ……ッ!」
大男はあまりの興奮に、持っているグラスを握り潰すようにして割ってしまう。
パラパラとその場に零れ落ちるグラスの残骸。
普通ならば、そんな男の手からは血が滴っているはずだが……そんなことはなかった。
大男の手は無傷。そして軽く手を振るって、その残骸を払う。
それと同時に、細身の男がこう告げた。
「──さぁ、争奪戦の始まりです」
それぞれの思惑が、加速し始める──。
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