65. 悪役令嬢は忍び込む
その日のサロンは、いつもより静かだった。
ナタリアと取り巻きの女子たちがいないことも大きい。けれど、今日のひときわ重い沈黙の原因はジークフリートだった。
日ごとに、なぜか重苦しい雰囲気を漂わせていた。
一方のイザベルは奥のソファ席ではなく、入り口近くのテーブル席に腰を下ろしていた。横にはジェシカがいる。イザベルがいるせいか、いつもジェシカを取り囲むようにしている女生徒たちは遠巻きに座っていた。
「ねえ、ジークフリート様と仲違いでもしたの?」
こっそりと小声で尋ねられ、イザベルはすぐさま否定した。
「違うわよ。ただ、婚約を白紙にしてもらえるよう頼んだだけだもの」
「ふーん……って白紙!? なんでそんなことになったの?」
「いろいろあるのよ」
ほうれん草を練り込んだフェットチーネをくるくるとフォークで巻きつけ、口に運ぶ。サーモンとベーコンのクリームパスタは濃厚なクリームソースで、まろやかな味わいだ。ぶ厚く切られたベーコンも弾力がある。
もぐもぐと咀嚼していると、ジェシカが呆れたように言う。
「何なの、この落差。さてはあなた、事の次第がわかっていないみたいね」
「どういうこと?」
「本当にわかっていないようね……。あの気落ちした背中、どんよりとした空気。どう考えたって、イザベルの余計な一言で傷ついているでしょ!」
「……うーん。でも、そんなに落ち込むようなことじゃないと思うのよね。ほら、ジークにはフローリア様がいるのだし」
婚約破棄はむしろ喜ぶべきだと思うのだが、なぜあんなに暗いオーラを放っているのか、イザベルにはわからない。
「あ、きっと何か違うことで落ち込んでいるんじゃない? だって、形だけの婚約者だったわけだし」
「……そう思っているのはイザベルだけだと思う……」
「それともあれかしら。女性から婚約破棄されて、男としてのプライドが傷ついたからとか……」
だけど、仕方なかったのだ。事は一刻を争う。起こらなかったイベントを修正するためにはイザベルから願い出るしかなかったのだ。
「そういえば、フローリア様とジークの仲は順調なのかしら」
「……二人はまあ、変わらず仲がいいみたいだけど。ライバルを応援してどうするのよ……」
額を押さえたジェシカは頭が痛いとばかりに、そのままうつむく。
(ジークが悪役令嬢を好きになるわけなんてないのにね……)
サロンの奥をちらりと窺うと、深紅のソファでひとりティーカップを傾ける婚約者の姿が見えた。
*
そろそろ日付が変わる時刻だ。外は暗闇が広がっている。室内も明かりが落とされ、健やかな寝息が聞こえてくる。
気配を消して、そろりそろりと一歩を踏み出す。
簡易ベッドの上で横向きに休んでいる部屋の主は夢の中。ベッドの端に膝を載せると、ギシリと木枠がきしむ音がした。
その音を合図に、リシャールが寝返りを打つ。そう思ったときには腕を取られていた。
「これは何の真似ですか」
覚醒した声にびくりと身体を震わす。拘束していた腕はすぐに解放され、ランプに明かりが灯る。だが闇に慣れた目には少々刺激が強く、思わず目を細める。
「イザベル様……。使用人部屋に忍び込んできて、一体何の用事ですか? 非常識にもほどがありますよ」
「ふ、二人きりで話したかったのよ」
降参して床に座り込むと、大きなため息が聞こえてきた。
これでは作戦失敗だ。寝込みを襲って質問に答えさせようと思っていたが、この様子では、部屋に忍び込んだときから勘づいていたのだろう。
(こんなときくらい鈍感でいてくれたらよかったのに……)
内心で毒づくが、無言の圧力はさらに増していく。オレンジの光と濃い影の中に浮かび上がる顔は険しさが募り、かなり怒っているのを肌で感じながら口を開く。
「リシャール。あなたにお願いがあるの」
「お願い? こんな夜更けに何のお願いですか?」
刺々しい声にすくみそうになるが、懸命に耐えた。
何のためにリスクを冒してまで、ここまで来たのか。素面であれば、きっと彼は答えてくれない。そう踏んで真夜中を選んだのだ。
イザベルは干からびそうになる喉から声を絞り出した。
「魔女の居場所を教えてちょうだい」
「…………」
「ナタリア様のことは聞いているでしょう? 魔女なら、彼女の声を取り戻すことも可能なんじゃないかと思うの」
「どうして、イザベル様がそこまでなさるのです? ナタリア様がどうなろうと、あなたには関係ないでしょう」
彼がそう思うのも無理もない。
カーディガンをかき集めるように握りしめ、リシャールを見上げる。
「それが関係あるのよ。ありまくりなのよ」
だって、身代わりになってしまったのだから。
あの毒薬は、本当は自分が飲む予定だったものだ。効能は違ったようだが、身代わりには違いない。
イザベルが悪役令嬢として不適格になったから、ナタリアに火の粉が飛んだと考えるのが妥当だ。意図的ではないにせよ、原因はイザベルにある。
「お願い。魔女に会わせて」
切実な訴えが効いたのか、リシャールは膝を立てて、イザベルと視線を合わせる。
少し伸びた前髪がぱさりと落ち、髪の隙間からのぞく顔色は困惑していた。
「ご容赦ください。いくら主人の命令といえど、お教えするわけにはいきません」
「……わたくしが信用できないということ?」
「そういうわけではありません。魔女は歴史から消えた存在なのです」
確かに、リシャールから言われるまでは、魔女が実在するとは思っていなかった。
しかしながら、魔女がいるとわかっているならば、話は別だ。
「なら、どうしてあなたは魔女と親しいの? 彼女を守るために、わたくしの婚約破棄を企んでいたのでしょう?」
矢継ぎ早に告げた質問は時期尚早だったらしく、リシャールは硬く口を閉ざしてしまった。これ以上の情報開示は危険だと判断したらしい。
ゆっくりと起き上がると、リシャールが手を貸してくれる。だがその顔には警戒がありありと出ていた。
「わたくしは諦めないわ。必ず、魔女の元にたどり着いてみせる」
「……無理ですよ」
本当に無理だろうか。イザベルはこれまでの無茶を回想してみた。
お茶会で飛ばされてしまった令嬢のハンカチを取るために木に登ったり、誘拐されたフローリアの元に駆けつけて犯人にお灸を据えたり、どれも普通の令嬢ではできなかっただろう。
世間一般の令嬢とひとくくりにされてもらっては困る。
いっそ高飛車に聞こえるように、イザベルは胸を張って宣言する。
「無理を可能にするために、わたくしがいるんじゃない」
「……そうでした。イザベル様は一般的なお嬢様ではありませんでした……」
リシャールはうなだれるように同意し、途方に暮れたように黙っている。
「とにかく。わたくしは諦めないからね」
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