33. 空気に徹することは苦行の始まり

 その日のディナーはシェフが腕によりをかけたフルコースが振る舞われ、テーブルマナーに慣れていないフローリアは緊張しながら食べていた。

 それを微笑ましそうに見つめるジークフリートの横顔を時折観察しながら、イザベルは黙々と食べた。後ろで給仕の手伝いをしていたリシャールは、オリヴィル家のメイドたちと自然な連携で職務を全うしていた。


(はあ……疲れたわ。明日もこれが続くのかと思うと、頭が痛いわね)


 寝巻きに着替えたイザベルはソファに寝転がり、花柄の刺繍が美しいクッションを胸に抱く。


「イザベル様……少しはレディという自覚をお持ちください」

「今はただのイザベルなの。伯爵令嬢という身分は忘れなさい。客間でどう過ごそうが、わたくしの自由じゃない」


 もうだらけてもいい時間のはずだ。

 お呼びでない悪役令嬢は空気に徹するしかない。けれど、ただの空気になることが、こんなにも神経を使うことだとは想像していなかった。

 不慣れなフローリアに、ジークフリートは紳士らしく優しく手ほどきをしていた。会話も途切れさせないよう、楽しい話題を提供していた。たまにイザベルが話に加わることもあったが、できるだけ二人だけの時間を邪魔しないように努めた。

 控えめに言って、よく頑張って耐えたと思う。普段使わない神経を使って、体力気力ともに消耗した。


「せめて、はだけた裾は戻して、素足は隠してください。いつジークフリート様が訪ねてこられるか、わからないのですから」


 主人のだらしない格好を見下ろし、リシャールは冷たく言い放つ。


「どうしてジークが来るのよ……おやすみの挨拶は済ませたのだし」


 彼は絵に描いたような紳士だ。夜中にレディの部屋に訪れるような真似はしない。今は意中のフローリアが同じ邸宅にいるわけだから、イザベルに時間を割く理由もないはずだ。

 そう思って不満げに眉を寄せていると、刺々しい言葉が飛んでくる。


「よもや婚約者という立場まで、忘却の彼方に追いやってしまったのですか?」

「失礼ね。さすがにそれぐらい覚えているわ。けれど、今は関係ないでしょう。彼はフローリア様と仲良くしていたのだから」

「しかし……」


 リシャールが何かを言いかけたところで、不意にドアをノックする音が響く。遠慮したようなノックは、時間帯を考慮したものだろうか。時計の針は十時を指していた。

 落ち着いた声でリシャールが尋ねる。


「……どなたでしょうか?」

「あの、私です。フローリアです。イザベル様、少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか」


 鈴のような声が返ってきて、リシャールがイザベルに視線を送る。頷き返すと、リシャールがドアを開けて彼女を中に招き入れる。

 イザベルはソファから起き上がり、身だしなみを簡単に整える。


「どうしたの?」


 フローリアは恥ずかしそうにうつむいた。彼女はフリルがたくさんついた桃色の寝巻きの上に、薄いガウンを羽織っている。

 水色のサテン生地で無駄な装飾がないイザベルの寝巻きとは対照的だ。

 二人分の視線に耐えかねたように身を震わす様子は、まるで小動物のようだ。別に取って食べやしないのに。

 イザベルはできるだけ優しく声をかける。


「何か……困りごとでもあった?」

「い、いえ。その……初めての場所で落ち着かなくて。一人では寝られそうになかったので、イザベル様とお話しできたらと思って……お邪魔でしたか?」

「とんでもないわ。ちょうど、わたくしもお話ししたい気分だったの。リシャール、彼女にお茶を」

「かしこまりました」


 退室する執事を見送り、フローリアを手招きする。おろおろとしていた彼女をソファの隣に座るように促し、イザベルはお気に入りのクッションを差し出した。


「これを抱きしめていると落ち着くわよ」

「え?」

「ふかふかなの。手触りもいいし、癒やし効果は抜群……って、こういうの子供っぽかったわね。ごめんなさい」


 我に返って手を下ろすと、ふふっと笑う気配がして顔を上げる。フローリアは両手を差し出した。


「せっかくですから、お借りしてもいいですか?」

「ど、どうぞ……」


 手渡すと、フローリアが優しく表面を撫でる。


「本当ですね、とても肌触りがいいです」

「でしょう? 王宮御用達の店が使用している高級羽毛を使っているのですって。だから普通の倍の羽毛を詰め込んでも、軽くてふわふわなのよ」

「このカバーも素敵ですよね。刺繍糸が違うのでしょうか。まるで森の中を歩いているみたいな、色鮮やかな花が描かれていて目を引きます」


 フローリアの口から素直な感想がこぼれ、イザベルは自分のことのように誇らしくなった。


「そうなの、刺繍も素晴らしいの! やっぱり公爵家ともなると違うわよね。ひとつひとつの調度品もどれも一流品だし。フローリア様が今着ているのも王妃様と似たデザインだし……」

「え! 王妃様と同じなのですか?」

「着心地も最高でしょう? それ、世界最先端のデザイナーが手がけた『夢の妖精』っていうシリーズ名で売り切れ続出の品よ」


 独特の感性を持つ売れっ子デザイナーは、袖口がひらひらとしたものを採用し、レースの先には赤と黒の大胆な刺繍を入れている。フリルは過剰にならないよう、少し抑えているが、全体的にお姫様気分を味わえるネグリジェだ。

 フローリアは自分の寝巻きを見下ろし、嬉しさ半分、恥ずかしさ半分といった様子で頬を赤く染めた。

 イザベルのネグリジェも同シリーズだが、ふわ甘のお姫様というよりは継母のような落ち着いたデザインになっている。

 子供っぽい服を着せられることに反感を持っていることを知っている上でのセレクトなのだろうが、今日ばかりはお姫様気分のネグリジェを着てみたかった。なにせ、女心は複雑なのだ。

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