第95話 いざヴォルフのもとへ
アルトロワ王国の女王であるデボラ・アルトロワの住まいは、王都に来たものであれば一番初めに目を奪われるであろう荘厳な城の中にあった。そこは女王の間と呼ばれ、給仕でも選ばれた数少ない者しか立ち入ることができない場所。そして、デボラが女王の冠を投げ捨てることのできる数少ない場所でもあった。
そんな完全プライベート空間であるこの部屋で、彼女は上機嫌にワイングラスを傾けている。派手に装飾された豪華な家具が見劣りするほどに美しく、圧倒的な存在感を放つ女王はワイングラスを机に置き、立ち上がると、そのまま壁に近づいて硬貨程度の大きさの黒いシミをコンコン、とノックした。
その瞬間、黒いシミが壁全体に広がり、そこから燕尾服を着た初老の男が涼しげな顔で現れる。それを見ても特に驚いた様子のないデボラはさっさと椅子に戻り、初老の男にグラスを掲げた。
「こちらにお呼びになられるとは珍しいですね」
「いや、なに……ちょっとお前と話したくなってな」
そう言いながらデボラは赤ワインでのどを潤す。
「その様子から察するに、とても良いことがあったのですね」
「ふっ……"夜"の使い手がよく言うわ。何があったかなど、お前にはお見通しなんだろう? ノーチェ」
「さぁ……それはどうでしょうか」
ノーチェはどこからともなく取り出したお皿をデボラの前に置いた。中身はエビのアヒージョ。それを見たデボラが目を輝かせながらスプーンで掬い、嬉しそうに頬張る。
「こんな
「それは紳士的な振る舞いに反してしまうので、
涼しい顔で言ってのけるノーチェを前に、デボラは呆れたように笑った。
「まぁいい、それよりお前も飲め。こういう日は祝杯をあげねばならん」
「大事な息子の成長祝いですか?」
「そういう事だ」
赤ワインを継いだグラスを渡しながら、デボラはニヤリと笑みを浮かべる。
「あの堅物が私に休暇を申請してきたのだぞ? これまで一度もそんな事を頼んできたことのないあの子が、だ。これが喜ばずにいられるか?」
「休暇と言っても、ほとんど任務に向かうようなものですけどね」
さらりと告げられたノーチェの言葉に、デボラはその美しい顔を僅かに曇らせた。
「そう言ってくれるな。それでも自分から休暇を申し出てきたことは大きな成長だ」
「そうですね。私もレイ様が『休暇』という言葉を知っていたことに驚きです」
「はははっ! 確かにな! あの子は休むということを知らないからのう」
快活に笑いながら、自分のグラスにワインを注いでいく。そのままノーチェの方に瓶を向けると、彼は流れるようにグラスを空にし、デボラの前に差し出した。
「……だが、一番驚いたのはクロエの件だ」
トクトク、とノーチェのグラスにワインを注ぎながら、デボラは優し気な笑みを浮かべる。
「クロエの護衛を違う者に頼んだのだぞ?
レイが自分を本当の母親以上に慕っていることはもちろん知っている。そして、当然その子供であるクロエにも深い愛情を抱いている。だからこそ、信じられなかった。そんな大切な者を託せる誰かが零騎士以外にいたことが。
「お前の言った通りだったな、ノーチェ」
「はい?」
「私の考えは早計だったようだ」
グラスを口元に当てながら、柔和に笑うデボラ。思い出していたのは、はぐれ魔法師であるバート・クレイマンの報告書をレイが提出した時、彼に親しい者がいないことを嘆く自分にノーチェが言った言葉だった。
「まだまだこれからですよ」
「……そうだな。これは期待できそうだ」
朗らかに笑うノーチェにデボラがグラスを上げて応える。ノーチェは控えめに自分のグラスをそれに当てると、ゆっくりとグラスを傾け、その中身を飲み干した。
*
特に反対されることもなく女王様からお休みをいただいた僕は、屋敷で零騎士の装備を整え、ファルと二人、全速力で森をかけていた。障害物を躱しながらちらりと隣に目を向ける。鬼気迫る表情を浮かべるファルの背には不自然に柄の長い小づちが控えていた。つまり、全力装備ということだ。
「第六騎士団が山賊退治に向かったのが昨日の夜。おそらく魔導列車を使っているだろうね。僕達もそれに乗れたらよかったんだけど、生憎、ドレッドノートへ行く列車は夜しか出てないんだ」
街から街へ高速で移動できる魔導列車が作られたのは最近だ。まだ、列車自体は一台しかない。そのため、一つの街に列車が向かえるのは一日一度が限界なのが現状。
「まぁでも、この速度で進んでいけば追いつけるかもしれない。僕達はドレッドノートを経由する必要がないからね。直接山賊が出たっていうカームの村に向かえばいい」
列車が走れる線路が敷かれているのは王都アルトロワと御三家の家がある主要都市ぐらいなので、列車を使ってカームの村に向かう場合、まずはシャロン家の主要都市であるドレッドノートへ行くことになる。そこから歩くなり馬車なりでカームの村を目指すのであれば、それ相応の時間がかかるはずだ。
「ただ、このペースを保つことができるか心配だけど」
「大丈夫、体力には自信があるよ」
王都を離れ、結構走っているというのに、息一つ乱さずにファルが答える。ふむ、余計な心配だったみたいだね。ファルよりも僕の方が先にばてそうだ。これは気張らないといけない。
「…………ヴォル
そんなことを考えながら走っていると、ファルの口からそんな言葉が零れた。
「城に来たての頃のあたしはボスもよく知ってるでしょ?」
「……うん」
誰とも口を利こうとはせず、ファラ以外のすべての人に対して怯えを見せていた。あんな辛い思いをしたのだから仕方がない。むしろ、ここまで明るく活発な少女に立ち直れたことが奇跡なんだ。
「あたしが怖がるのも無視してあの人はいっつも絡んできたんだよね。最初の頃は大っ嫌いだったな……」
ファルが懐かしむような笑みを浮かべる。いつもヴォルフに追いかけ回されて逃げていたっけ。多分僕が止めろ、と言えばヴォルフは止めただろうね。そうしなかったのは、ただの嫌がらせじゃないってわかっていたから。
「あたしが泣いて嫌がっても離れなかったんだよ? ……本当に無神経な人だよね、ヴォル
「……そうだね」
「その無神経さにどれほど救われたことか」
ファルの表情が真剣なものに変わる。ちゃんと知ってるよ。誰がファルの笑顔を取り戻したのか、ね。
「ボス……あたしはヴォル
「……ヴォルフから聞いてないのかい?」
「あたしが聞いたのはヴォル
ファルはグッと唇を噛み締めた。そうか……多分、約束に関してはうっかり口を滑らせたんだな。ヴォルフらしくないけど、相手がファルだったから気を許してしまったのだろう。
「ボスお願い! あたしに話して! ボスとヴォル
ファルの目は必死だった。少しだけ逡巡した僕だったが、諦めたようにため息を吐く。
「……僕が知っている事だけでいい?」
「っ!? も、もちろん!!」
嬉しそうに頷くファルを見て、僕は小さく笑みを浮かべた。カームの村まではまだ時間がある。それまでの時間つぶしにはちょうどいいかもしれない。おそらく僕がこの話をしたってヴォルフが知ったら顔を顰めるだろうね。でも、大事な妹をこんなにも不安にさせたんだから、自業自得だよね。
僕はあの日の事を思い出しながら、ゆっくりと話し始めた。
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