第80話 ファルの変調
天気はどんよりとした曇り空。蟹の月に入り、季節も春から夏へと移り変わっているため、もはや「暖かい陽気」ではなく「暑い日差し」になっていた。おまけにこの時期は雨が多く降る時期なので湿度がすこぶる高い。気温も相まって制服のシャツが汗でべったりと肌に張り付き、不快指数はマックスに近い。
「おはよう。今日もじめじめしているね」
城からやって来たクロエ王女はいつもと違う制服を着ていた。と、言っても夏服に衣替えをしただけだから、転校したわけではない。大きく変わったのは白いワイシャツが長袖から半そでへと変わり、ブレザーを着なくなったくらいだろう。相変わらず胸には派手な校章が刺しゅうされており、名門セントガルゴ学院の生徒であることが大っぴらにされていた。
「おはよう」
「おはようございます、クロエさん」
僕とファラがクロエに挨拶を返す。彼女は僕達に笑みを向けてきたが、すぐに心配そうな顔でこの場にいるもう一人に視線を移した。そこには清潔感溢れるショートカットの茶色い髪をした少女が思案気な表情を浮かべ立っている。
「……ファル?」
「え? あ、あぁ、もう朝ごはん?」
クロエに名前を呼ばれたファルはとんちんかんな事を言いながらバッと顔を上げた。そして、今初めてクロエが自分の目の前にいることに気が付き、目を左右に泳がせる。
「あ、あれー? クロエっちじゃん! お、おはよう!!」
「……おはよう」
何とも言えない顔でクロエが答えると、ファルは引きつった笑みを浮かべた。そんな妹の姿を見て、ファラは額に手を添えながら小さく首を左右に振る。
ここのところ、ファルはずっとこんな感じだった。心ここにあらずといった様子で、何をしていても大体上の空。話しかければ普段通りの自分を必死に装うが、隙あらば黙りこくって一人で考え込んでいる。
「い、いやー今日も暑いねー! あ、明日からは水着で登校しちゃおっかなー?」
「それだと校門にいる守衛さんに止められちゃうよ?」
「そ、そうだよねー! やっぱり我慢するしかないかなー?」
ファルが努めて明るい声でそう言いながら、ぎこちない笑みを浮かべた。無理をしているのが丸わかりなんだよね。……そして、その理由も。
クロエがファルと会話をしながら、ちらりとこちらに視線を向けてくる。僕が僅かに首を左右に動かすと、彼女は一瞬だけ残念そうな表情を浮かべ、すぐに笑顔でファルに向き直った。
「まったく……あの人は何をやっているのでしょうか」
苛立ちと、僅かな心配を含んだ声でファラが呟く。ファルほどではないにしろ、ファラも大分気に病んでいるようだ。
ジルベール・バーデンがソフィア・ビスマルクの件でお礼を言いに零騎士の詰所に来たのが二週間前……つまり、ヴォルフがいなくなってから二週間が経ったことになる。
はっきり言って彼が屋敷にいないことなんて日常茶飯事だ。むしろいることの方が珍しいといっても過言じゃない。女王からの指令があれば別だが、そうでなければ王都の裏通りで適当に女性を口説き、一晩厄介になることがほとんどだろう。だから、これくらいの間姿を見せなくても気にすることはない……通常であれば。
「ボス……ヴォルフ兄さんはカームの村に行ったんでしょうかね?」
「さぁ、それはわからないね」
少しだけ不安げな表情で尋ねてくるファラに僕は肩を竦める事しかできない。その可能性が高いけど、それはあくまで推測に過ぎない。そんな不確かな事で不安にさせたり安心させたりするわけにはいかなかった。
「……とりあえず僕達は待っているしかないかな? もしかしたらそのうちひょっこり戻ってくるかもしれないし」
「もしそうなったら私の
にっこりと笑うファラの眼鏡の奥にある瞳は一切笑ってはいない。僕は若干戦慄を覚えながら、クロエの朝の登校を見張る定位置へと移動した。
*
クロエ達が学校に入っていくのを見届けてから、少し遅れて僕も校門をくぐる。ちょっと行った先で僕を待っているのが、深海のような藍色の髪をうなじ辺りでお団子にまとめている美少女。
「おはよう」
「おはよう」
そっけない挨拶にそっけない声で答える。いつの間にかここでグレイスと待ち合わせをし、教室まで行くのが日常になっていた。別に大したことをするわけではない。ただ、隣を歩きながら他愛のない会話をするだけ。でも、僕はその時間がそんなに嫌いではないようだ。でなければ、僕の方が早く来た時にここで彼女を待っていたりは絶対にしないはず。
「まだ帰ってきてはいないのかしら?」
彼女が僕の横について歩調を合わせながら尋ねてきた。僕達、『第零騎士団』は'極秘'がモットーである女王直轄の騎士団だ。その行動はおろか、その正体すら身内以外には知られてはいけない。とは言っても、身内である他の騎士団達にも必要以上に情報を与えることはない。とにかく知られないことを第一に考え、今まで女王のために動き続けてきた。
だというのに、色々と偶然が重なったせいで、セントガルゴ学院の同級生であり、'
ということで、なんだかんだ言いながらこちらの内情を把握している彼女には色々と話しているってわけ。そのことには僕自身驚いている。いくら女王が許したからといって、彼女は零騎士でもなんでもない。それなのに極秘でなければならない零騎士の仲間の話を彼女にしてしまっている……最近の僕は少しだけ日和っているのかもしれない。彼女が拡声器でないことが唯一の救いだよ。
「うん。ヴォルフが何日も屋敷に戻らないのはいつもの事といえばそうなんだけどね」
「でも、心配はしているのでしょう? ……特にあの子が」
彼女の言葉に僕はこくりと頷く。
「昨日、退屈な……とても興味深い歴史の授業中にふと窓の外に目をやったら、偶然ファルのクラスが実技の授業をしていたの」
「どうだった?」
「危うくペアの子を殺すところだったけど、ファラが慌てて間に入ったからグラウンドに大穴が空いただけで済んだわ」
「それは……朗報だね」
人の命が救われたのだ、これ以上の朗報はないだろう。僕は力のない笑みを浮かべると、グレイスは困ったように肩を竦めた。
「ファルにとってヴォルフは余程の人なのね」
「そうだね。ファルの中でヴォルフは特別なのかもしれない」
「……そう」
彼女は小さい声でそう言うと、視線を僕から外し前を向いた。ここで詳しく聞いてこないのは彼女の美徳だ。ファルとヴォルフの関係性について僕に詳しく問いただすのは筋違いだろう。そういう事を彼女はよく理解している。
「でも、彼は相当な実力者でしょ? ふらっとどこかに行ったからといって、簡単にやられてしまうような玉ではないと思うけれど?」
「……ファルが心配しているのはヴォルフの身ではないと思う」
殺しても死なないような男だからね。多分それに関しては何の不安も抱いていないだろう。
「あの子が心配しているのは僕との約束が」
「はい、ストップ」
話の途中で僕の口が彼女の指に塞がれてしまった。
「その話は一般人である私が聞いていいものではないわよね? 秘密の騎士さんは最近少しおしゃべりが過ぎるんじゃないかしら?」
「……君の言う通りだね」
まさか、秘密を遵守すべき僕がこんな指摘を受けるとは……。本当に彼女に対してガードが甘くなりすぎている。
「まったく、まいっちゃうよねぇ……どうしたらいいかな?」
「知らないわ、そんな事」
あまりにサラッと言われてしまい、僕は苦笑するしかなかった。
「誰かに頼るなんてあなたらしくないわね。そういう難題を解決に導くのが筆頭騎士であるあなたの役目でしょ? 零の魔法師さん?」
言葉尻は穏やかだったが、内容はぐさぐさと僕の心に突き刺さる。正論過ぎて何も言い返せないのがつらい。
「……手厳しいね」
「あら? 私が甘かったことなんてあるかしら?」
「偶には甘えさせて欲しいもんだよ」
そう言うと、グレイスは涼しげな顔で笑った。こういう時、むやみに慰めたり励ましたりしないってわかってるからこそ、彼女に話してしまうんだろうね。そう考えると、僕は彼女に甘えっぱなしなのかもしれない。
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