るいるい

いしたひろ

るいるい

 すっかりその姿を潜め、山の稜線をぼんやりと橙色に染める夕陽の面影があるのみで、空からはほの暗い夜が降ってこようとしていた。

 海際の舗装された歩道には、ジョギングをしている人や釣りをしている人がちらほらと見受けられる。歩道に沿って点在するベンチには、カップルや老夫婦が思い思いに穏やかな海を前にして寛いでいた。歩道のすぐ横には芝生があり、そこにごろんと寝転がってしまえばたちまちに眠くなってしまう。静かな夜、地球のほとんどを占めるその海が奏でる音色は、母のお腹にいた頃はこんな感じで無防備で安らぎを全身で感じていたのかなぁ、ともう知り得もしない想像に浸らせ、その安らぎを運んでくる。耳にしない日はないほどに聞き慣れた、その葉で奏でる木々の音色は、1日中遊んで動いて疲れ切ったけれどまだ遊びたい、という思いを抱いたまま昼寝をしてしまった、あの時に耳にした子守唄のように懐かしさを運んでくる。

 その芝生の上、一本の木の下に、すっと鼻をすする音が聞こえた。体育座りの体勢で体を小さく丸め、その膝に頭を埋める少年に見えた。

 家出でもしたのか、と心配になって、なんでもない風を装ってその子の前を通ってみようと近づいて行くと、タンクトップにショートパンツだった。

「まみ?」

 そろりと重たそうな頭を上げ、特に驚くでもなく、ああ、しんのすけか、と面白くなさそうに顔を向けた。足元には白い花が咲いていた。

「泣いてた?」

 ぼくは聞いた。

「うん、泣いてた。」

 几帳面な体育座りのまま、小さく小さく自分を抱きかかえるようにして居るまみは、本当に小さな子どものように見えた。けれど、その姿とは対照的に目の前に広がる海をじっと見つめる目は、泣いていたとは思えないくらいに力強く、はっきりと何かを見ている目だった。

「長くなるかもしれんけど、聞いたってな」

 ぼくはまみの横にそっと腰を下ろし、同じように体育座りをした。

「海を見るとな、安心すんねん」

 まみはぽつりぽつりと、まみ自身に言い聞かせるようにして、確認するようにしてゆっくりと言葉を紡いでいった。

「死ぬのが怖い、てことを確認するために海を見に来んねん。それで安心する。その怖さがうちを慰めてくれんねん。なんか変やろ」

 何も言えず、ぼくは前を見つめていた。

「うちな、生まれてから一回も父親に会ったことないねんな。そのせいで、うちの母親は朝早うから夜遅うまでずっと働いとったわ。うちを育てるお金が必要やから仕方ないよな。だから、ろくに母親と遊んだ記憶もないし、テレビで見る家族団欒ていう風景もうちにはなかったわ」

 動くことなく、まみの目はずっと前だけを見つめている。

「それで、小学校の頃から中学校にかけていじめられとってん。無視とか、仲間外れとか、菌扱いされるとかそういう類のやつな。地方やから小学校も中学校もメンバーもそんなに変わらんからずっとやな。父親がいないからってのと、小さい頃はピンクとかの可愛らしいのんが好きな女子が多かったやろ。うちはそんなんは好きじゃなくて、地味な色合いのが好きやってん。でもそれを、父親がいなくてお金が無いからや、なんて言ってくる子がおってな。シングルマザーの家庭なんてちらほらあったやろうし、実際うちのクラスにもおったよ。でも、まあ、目に付いたんやろな、うちが」

 まみの膝を抱く手が少し強くなった気がした。

「楽しない学校に行って、誰もいない家に帰ってきて、それの繰り返しやった『きちんと寝ることでその日あったことが頭に残ります。だから夜更かししないで寝るように』っていつか先生が言ってたのを思い出して、せやったら寝んのやめよう思って、極力寝んように努力した。どんだけ頑張って起きてても結局は寝ちゃうんやけどな。そのおかげかは分からんけど、その時の記憶はあんまり覚えてないんよな」

 海の音が遥か遠くに聞こえた。

「そんでまた先生が言うとったわ。『ニュースで観た人もいるかとは思うけど、ある芸能人が自らの手で人生を終えてしまいました。人目に付く仕事をして、たくさんの人に夢を与えて、どんな時でも気丈に振舞っているように見えた人でしたが、亡くなってしまいました』それで、『でもそんなに強く生きているように見える人でも、他人から見たら些細な事柄でも気持ちが揺らぎ、それに囚われ身動きが取れなくなってしまうことがあります。だからなんでもまず、口にすること、相談してみることが大事です』って」

 ぼくはただ黙って頷いた。

「でもな、気丈に振る舞いたくて振舞ってるんやなくて、そうしないとあかん時、そうしないとあかん人もおるんやでって、それしか出来へん人もおるんやでって、心の中で本気で叫んでたわ。誰もが誰もが相談できる訳やないし、相談するってこと自体をしたことがなかったうちには、まるでぴんと来んかったわ。今となっては先生の言うとったことも分かるしそうやなって思うけど、あの時のうちには無理やった」

 まみは一つ大きな深呼吸をした。

「それでそういう何も面白ない、ただしんどいだけの日々を過ごしてたら人は思うんやろうな。なんで生きてるんやろう?って。いつ死んでもいいんちゃうん?って。それで中学生なったら学校のパソコンとかでなんでも情報手に入るやろ。だから調べたわ、死ぬ方法を。なんか誰にも迷惑掛けずに死ぬ方法はないかなって思ったけど、案外無いのよな。もうこの頃になると相当病んでたと思う」

 まみは一度目をゆっくりと閉じて、また前を力強く見つめた。

「ドアノブ、包丁、コード、ビル、海、電車。全部目に入るものは死ぬための道具にしか見えんようになってきてた。何度か実際に試そうと手にしてみたりすんねんけど、急に恐怖が押し寄せてきて、頬を伝う、なんてそんな優しいもんやなくて、歯食いしばって必死にこらえようとすんねんけど、それでもやっぱり雨粒みたいにボトボト涙は落ちていったわ。何回泣いたかな。覚えてないわ。夢ではほんまに何回も、海に潜っていく自分を見た。それも自ら進んで潜って行きよるんよな。暗くてなんもない、静かな海にな。それで苦しなって目が覚めんねん。それは今でもたまに見る。起きたら体丸めて自分をぎゅーって抱き締めてるわ。怖いんやろうな」

 今のこの姿勢がそうなのだろうと思った。

「それくらいに自分で人生を終わらせるのは怖いことなんやって思った。それで、本当に終わらせてしまった人は、その怖さを超えて行ってしまった人なんかなって思う。例えば、電車で人身事故が起こりました。三十分遅れます。とかなったら、大概の人が、ふざけんなよ、とか思いながら携帯いじったりするやろ。それでももしかしたら、一人の人の命がなくなってるんかもしれへんのやで。なのにみんな携帯いじっていらいら顔や。みんな一回考えてみたら分かる。あの速さで通り過ぎて行く電車を。そこに飛び込む怖さを。その怖さを飛び越えて行ってしまった人を。それだけ思い詰めてたってことを。それで、そういう人がいるってことを」

 まみは一度下を向いて続けた。

「自分には『死』以外の選択肢しか無いんやっていう辛さとか悲しさとか申し訳なさとか。いろんな顔が浮かんでは消えてゆく。涙が止まらんくなる。ほとんどもう嗚咽や。さっきも言うたけど、周りにある全てのものが自分を死に誘ってるような感覚に陥んのよな。それでまたその恐怖に耐えんねん、体縮こめて。でも涙でぼやけた視界で無意識に首吊るベルトに手を伸ばそうとしてる自分がおったりしてな。それでまた怖なんねん」

 まみの体の緊張がふっと解けた気がした。

「一度生きるのをやめようとした人間が、もう一回生きていこうと希望を持つことは難しいと思う。だからまだぐらついてる。けど、未来に光なんか見えんでもいい。生きてゆかないといけないなんて思わんでもいい。生きる意味なんて考えんでもいい。うちにとっては『死』は思うより遥か遠く手の届かないところにあるみたいやから。まだまだ不安定な心やけど、毎日なんかに感謝しながら生きとったらそのうちぽっくり逝ってるやろ。自分で終わらせなくても」

「よいしょっ」

 まみが立ち上がって、体を反らせてぐーっと伸びをした。

「聞いてくれてありがとう。すっきりした。しんのすけって案外、聞き上手なところあるからな」

 案外、という余計な一言が付いていたことに、子どものようなまみから二十歳のまみに戻った気がした。

「そうやって手伸ばして大きく見せるのって、孔雀の求愛行動の一つらしいで」

「は?孔雀じゃないし。求愛してないし」

 まみが笑った。

 気の利いた言葉の一つや二つ言えたら良かったのかもしれないけれど、ぼくにはそんな言葉一つも出てこなかった。どこかで聞いた受け売りの冗談しか言えなかったけれど、まみの笑顔を見れたから、それでも良かったのかなと思う。

 相手に合わせて何か言うことはできるかもしれないけれど、それはとても無責任だ。言葉は使い込んで行くうちに馴染み、味が出てくる。その場しのぎの使い捨てはしたくない。何も言葉が出てこない時はそれでも良い。

 海は広大で、その懐の深さで優しく包み込んでくれるものにしか見えていなかったけれど、まみにとっては自分を飲み込みその心ごと消し去ってくれる、優しく恐ろしいものに見えていたと思うと、目の前に延々と広がるそれはひどく冷淡で残酷なものに見えた。想像でしかないけれど、まみの目に映る海をぼくも少し見れた気がした。

 佇んでみる。必要とされる姿ではなく、そのままの姿で。そうすれば自然と必要とされる姿になってゆくのかなぁ。そうやって人は形成されてゆくのかなぁ。そういうことをまみの話を聞きながら感じた。

 「死」なんてテーマはぼくには壮大で、今まで考えたこともなかったことだから、正直言って受け止めきれていないけれど、まみが生きていて、そして生きていくのなら、それはとても有難いことだ。

「ありがとう。」

 前を歩くまみの背中に向かって、聞こえないように呟いた。

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るいるい いしたひろ @hiro2388

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