【冗長な冗談】

第168話

【冗長な冗談】


 湯船に浸かっていた。

 静かなる外の喧騒へ耳をそばだて、なにともなしにこのまま静かにどこかへと溶け込みたくなった。

 この身体を離れて。

 僕の意識を。

 どこかへ。

 言ってしまえば僕は、死のうと思ったのだ。

 今になっては信じられないことだし、馬鹿らしくも狂っているとすら思えるのだけれど僕は、ふと急に死んでみたくなったのだ。

 もちろん死後の世界など僕は信じていないのだから、死んでしまえば身体を離れるだとか、意識を溶け込ませるだとか、そんなことにはならないし、そもそも生きているうちに意識が身体を離れることすらもないのだと僕は知っているのだけれど、それでもなぜかその時、僕は、ふと本気で死んでみようと思ったのだ。

 確かに本気だった。本気で僕は死のうと思っていた。あらん限りの意思を総動員して、自分だけの力で死のうと思った。だからして、お湯に頭を沈めて水死だとか、首を括っての窒息死だとか、ナイフを使っての失血死だとか、そういった、自分以外の力を借りて死ぬことは断固として嫌だった。僕は僕だけの力だけで死にたかった。それくらい本気だった。いや、どこかで僕は自分を信じていなかったのかもしれない。どうせ気紛れなのだろう、と心のどこかで僕は僕を見下していたのかもしれない。

 だから僕は、自分へ向けてこれが本気なのだとそう知らしめる為に――強い意志を以っての死への渇望なのだとそう知らしめる為に僕は――息を止めることで死のうと決めた。

 手も何も使わずに、死のうと思う意志の力によって、死のうと思っているこの意志の強さを示す為に、僕は限界まで息を吐いてから――息を止めた。

 ものの十秒で肺が、くっ、くっ、と息をしようとノックしてくる。

 はやくあけて、はやくあけてよ、と急かすように。

 僕の肺は、僕の意思へと訴えかけてくる。

 苦しかった。

 僕の肺は、ぎゅ、ぎゅ、とノックを強くした。

 それに連動して気道が、きゅう、きゅう、と圧縮する。

 苦しかった。

 とてもとても、苦しかった。

 結局、僕の意思は、死のうという意志を曲げた。

 死ねなかった。

 僕は身体の訴えに耳を貸したのだ。

 馬鹿め、なんてことを。

 ぷはっ、と深呼吸をしながら僕は、僕を戒めた。

 僕の意思など関係がなかった。

 僕の身体は僕の意思とは関係なく、生きたがっていたのだ。生きようと必死に僕へ訴えてきたのだ。苦しさとして精一杯に僕へ訴えていたのだった。

 このままでは私は毀れてしまうよ。

 このままでは死んでしまうよ。

 私は生きたいのだ。

 お前がどう思っていようが、私は私の動ける限り、生きたいのだ。

 僕の身体はそう叫んでいた。

 息をしてくれ――と。

 生きてくれ――と。

 その叫びは僕へ、「苦しさ」として伝わっていた。

 僕は身体の叫びに負けたのだ。

 僕は苦しさに負けたのだった。

 僕の意志は、身体の意思よりも強くはなかった。

 僕の意思は、身体の意志に屈した。僕の完敗だった。

 なにせ、何度か挑戦を繰り返したのちに、すっかりと僕は、死のうとなんて思えなくなっていたのだから。

 確かに本気だったはずなのに。

 なのに僕は、死ぬことを諦めてしまった。

 僕は、身体に平伏した。身体が生きようとしている限り、きっと僕は生き続けるのだろう。

 僕の意思とは関係なく。

 僕は生きている。

 僕は知った。

 生かされているのだと。

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