【脈絡のない夢】

第137話

【脈絡のない夢】


 トンボになる夢を見た


 水面へと伸びる水草をよじ登り、雲に隠れた月明かりに照らされて硬直

 脱皮の準備であるこの瞬間ほど、無防備な空間はない

 大人になる前に、赤ん坊ほどの無垢を身体に宿すのだ

 身体は乾き殻となり、皮を剥いで、這い出るように、身体を起こし、殻を破り、出る

 月明かりは何とも眩しいものだな、と羽を伸ばし、風に当て、乾かす

 その眩しさはこの新たな無数の眼によるものかと思われたが、実のところ、その明るさを灯していた光は月ではなく陽であった

 恥ずかしながらその事に気が付いたのは、青いという色を、空を飛びながら確かめていた時だった

 朝と昼と夕と夜

 こうも外界は忙しく脱皮を繰り返すものなのか、と驚いたくらいだ


 私は風を知り、風に乗り、風と舞った

 私は雨を知り、雨に怯え、雨を嫌った


 雨がつくる内の世界が、元は私の育った世界なのだと気が付いた時ほど、目を丸くした時はない

 以前の自分と現在の自分とでの差異が、あまりに大きいことを、この時ようやく自覚したのだ

 些細だったはずの変化でこうも自分が大きく違った存在になったことに、恐ろしさも抱いた

 それを覆い隠す位に、自身の存在の不確かさに呆然としたのだ

 世界が開けたような、希薄になったようなこの軟弱な感動を、私にある無数の瞳に宿しながら観たあの赤い夕の陽の空は、この世を全て自分色に染め上げて、「どうだ、お前も私の一部に過ぎないのだぞ」とその広大さと偉大さを私に見せつけているように鮮やかに輝いていた


 それから幾通りかの空と陽と月を、私は風に交じって眺めていた

 ふと周りを見渡してみると、先日知り合ったばかりの蝉たちが、喉を枯らして土へ還っていく

 どこへ行くのか?と私が近づいてみても、彼らはだんまりを決め込んだ

 あんなに宴が好きで、毎日歌い騒いでいた彼らが、とんと、この世界から消えた

 私の仲間たちも、次第に姿を隠しだした

 いったいどこへ行ってしまったのだろうか、なぜ誰も私に行き先を教えてくれないのだろうか

 私はこの時、初めての寂しさを、無数にある眼の一つ一つに映した

 たくさんの世界が揺らいで見えた


 それからは、みんなの後を追いたくて、世界の果てが続くまで、空を探し回った

 みんなから拒まれても、拒まれたとしても、私はみんなのあの世界に身を置きたい

 誰もいないというのは、とても寂しいものだから

 誰の声もしないというのは、酷く悲しいものだから

 こんなにも、辛いものなのだから


 あの涼しげな青と、あの美味しそうな真っ白と、なめらかな風が懐かしい

 無数に瞬く空の小さなホタル火、光の休息である黒色の世界、その闇に輝くまばゆい月輪

 その慎ましい世界へ静かに響く草むらの歌

 そんな当たり前だったものが、こんなにも恋しいものなのか

 この孤独の恐ろしさ、この世界の寒さは一体、一体なんなのだろうか


 しばらくして、私の羽は力を失った

 風の手を掴むことができず、共に踊ることができなくなった

 この時初めて私は、地面を這った

 独り無様に、独り滑稽に地の上で躍った

 初めての地面は何とも禍々しく、何とも居心地の悪いところだった

 草一本生えていない、とてもごつごつとした、岩肌の様な地面だった

 けれど、岩にある土の香りも、温もりもなく、ただただ居心地の悪い熱気を帯びて、逃げ出したくなるような死臭しかしなかった

 おや? と私は私の胸中に浮かんだ言葉に驚く

 死臭?

 初めてのこの言葉に、私の身体は抗うのを止めた

 地面は笑った

 そうか、みんなは・・・・・・

 この時初めて私は、嬉しさと悲しさと悔しさを同時に味わった

 私は無力だ

 なんとも非力な存在か

 せめて、せめてみんなと同じ土の上で・・・・

 遠くから、地響きが近付いてくる

 せめて、せめてみんなと同じ・・・

 地響きはやがて轟きへ変わり、轟きが圧倒的な重さを引き連れて、私の身体の上を悠々と通り過ぎた

 無数にあった私の眼には、もう、色は映らない

 けれど、もう二度と空を飛ぶことも、風と舞うことも、羽ばたくことすら叶わないということはわかる

 身体がすり潰れ、私の内に流れていた液体で、乾いた地面が湿っているとわかるからだ

 何よりも、私自身が急速に干からびていくのがわかる

 死臭に張り付いたこの身体は、もう、風に運ばれることもない

 私が私へ満たした無垢な水分が蒸発する間際、私は知った

 この時が初めて

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