【自己言及は崩れる】

第108話

【自己言及は崩れる】


「それにしても良く分かりましたね、空閑さん」

ようやく汚れが馴染んできたスーツの下に、ネクタイを緩めずに、よれよれの白いYシャツを着た若い男は、紺色のセダンを運転していた。隣の座席には缶コーヒーを飲んでいる、白髪の交じり始めた男。こちらは先程から眩しいのか眠いのか不機嫌なのか区別のつかない眼差しを、一見眼光を鋭利にさせながら遠くを見つめていた。この仏頂面の男に若者は話しかけていた。

 空閑はこの問いに、すぐには返答せず、間をてんこ盛りにして置いた。その間に車は信号で止まり、再び発進した。

「あれはな、初っ端に話を聞いた時に気がついた。お前も聞いていただろ?あのぼうず、新聞にも載ってない情報を口走っていた」ようやく空閑は言葉を発した。

「本当ですか?」若者は大げさに言う。

 この無駄な相槌が空閑は嫌いだった。嘘をつく理由も効果もないことをなぜ考えないのかと。そしてこのことを相手に諭してやる行為は、無駄を通り越して損だと彼は考えていた。

「ああ。言っていた」空閑はぶっきらぼうに答えた。

「何と言っていたんですか?」若者はあっけらかんと言う。

 少しは考えたらどうなんだ?それでも刑事なのか?という言葉を危うく空閑は口にする所だった。この制御は相手に対する配慮ではなく、十割がた自分に対するものだった。

「あのぼうず、”屋上”から落ちた、と話の中で言っていた。そのことを知っていたのはあの時はまだ俺たちと俺たちに教えて来た鑑識の連中だけだ」

「ははあ、なるほど。何かそういうの推理漫画とかで良くありますよね。本当にそんなことから犯人に結び付くなんて」フロントガラスに笑顔を浴びせたまま若者は大きく呟いた。

「だが、ただ友人が落ちる所を見ていただけかもしれない。その様なニュアンスで話してもいた。だからまぁ、引掛かり程度の違和感だったわけだが、そういう小さな疑問は大事にしなければならない。何も痕跡がなさそうな事件は特にな。それに、」空閑は目尻を細めた。

「それに、何です?」

「会議でも村田が報告していたが、あのアパートでは子どもの転落死が今まで八件起こっていた。今回以外は一件が事故、あとは全て自殺として処理されていた。これは不自然だと思わないか?」空閑は顔をそのままにして、視線だけを隣の運転手兼、部下である若者へ向けた。

「…いえ、特には」この若者の返答に空閑はまた言葉を吐き出しかけた、が持ち堪えた。若者は続けた。「だから今からそのアパートでしたか。昔のその自殺を調べにですか?」

「事故も含めて、だ。まぁ詳しいことは、今はいい。まだ議論するには俺の推論に用いられている仮定が曖昧な情報で構築されすぎているからな」

「はあ…そうですか」

 今度は、はっきりとした舌打ちを空閑は打った。それから左手で頬を支え、肘を車窓に付いた。

 またしばらく、車内は気まずい雰囲気で満たされた。どのくらい気まずいかと言えば、それは空閑が気分を害する程に不味かった、缶コーヒーくらいであった。

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