【缶切り】

第105話

【缶切り】


 ぼくは何だ? なぜ部屋が傾いている?

 違う、傾いているのはぼくの方だ。そうだった、倒れているんだぼくは。

 視界に意識が集合し始めた。視線の先には椅子に座る男。奴は今、寝ている。寝ている?それらの疑問と情報を認識しながらぼくは床から身体を引き離す。身体は重く感じるのに意識はまだふわふわ飛んでいる。そう、本当に飛んでいってしまいそうな。廻っていない大きく高い独楽の軸に乗っているようだ。不安定で視界が狭い。

 少女はどこだ? あぁ後ろにいたか。

 怖がらなくていい、もう大丈夫。

 きっと私は君を失いたくはない。

 だから君は立っている。

 そう、倒れていない。君もぼくも。

「君はどうしたい?」少女に問う。

「わたしは、なぜ死ななくてはならないのか・・・それが知りたいの」少女はか細く言う。

「なら生きなくてはならないね?そして君は誰も失いたくはない、そうだろ?」ぼくは微笑みながら首を傾ける。少女は頷く。

「でもそれは無理だ。それは君も解っているね?」

「・・・うん」

 でも私は君を失いたくはない。だから君は倒れていない。

「仕方がないよ。誰かがやらなければ」ぼくはゆっくり自身の胸からナイフを引き抜き振り返る。前方には椅子に座る男。

 頭を下げ前屈みになり両手は祈るように組み、肘を足に付け、重心を支えている。懺悔しているようでもあり人形のようでもある。今は静かに眠っている。

 ぼくは彼の目の前まで歩き、持っているナイフを彼の胸にかざす。それから一直線上に彼の胸からナイフを離し、腰が捻れるくらいまで引き、そして止める。深呼吸をする。もう一度ゆっくり吸い始め徐々に加速をあげて息を吸う。空気が加速して私に入ってくる。いっぱいになる寸前。ぼくは息を止め、一気に彼の胸元にナイフを突き立てた。

 ぬかるみに足を踏み入れた程度の抵抗を感じた。私が息を吐き出した時には既にナイフの刃は全て彼の身体に埋まっていた。

 彼はすぐに目を覚ました。俯いたままだったが胸元に手をあてがい、ナイフを確認した。僕は退いた。もう僕の使命は終わった。そう考えたらなぜだかぼくは怖くなった。目的も意味も存在意義すら無くなったように感じた。ぼくがいなくなるという事象にすら、もはや意味が無いのかもしれない。そう考えている間自分が震えていたことにぼくは気がついていなかった。

 その時彼は椅子から床へ崩れ落ちた。血不吹が舞った。彼は自分でナイフを抜いた。床は壁紙の剥がれるように素早く褐色に変わる。倒れながら彼は横の机にぶつかり机に乗っていたものが派手に散乱した。

「死にたくない」ぼくは呟いた。聞こえるように。

 彼も何か言おうとしていたが声にはならないようだった。彼は目を閉じ動かなくなった。ぼくも動かなかった。どうやら声は届かなかったようだ。聞こえてないはずはない。だから届かなかったという意味なのだ。

 少女はどこにいるだろうか。私はどこにいるのだろうか。

 ぼくは沈んでいく。

 そしてぼくは思い出す。

 ぼくは何だ?

 なぜ誰だ、ではなく”何だ”なのだろう。ぼくにはわからない。だけれどより自然な無垢な感情に思えた。かわいらしく抱き寄せたいそんな小さく大切なぼくの想い。ぼくだけの。これもわずかな願望か。

 少女は解っただろうか。なぜなのか。ぼくには解らない。なぜぼくなのか。

 怖がらなくていい、もう大丈夫。

 きっと私は君を失いたくはない。

 だから君は立っている。

 そう、倒れていない、君もぼくも。でも怖がっているのはぼく、そしてぼくは立っていない。君だけが立っている。

 だからぼくは・・・もう。

 そしてぼくは・・・もう。

 君は目的を、ぼくは理由を、彼は選択を、

 では、私は・・・

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