【缶詰】

第104話

【缶詰】


 壁には所々ひびが走っている。

 僕が座っている椅子、横にある机、スプリングが剥き出しの誰も寝ないだろうベッド、一つしかない割れた窓、上と下へと続く梯子、そして目の前には人型の、動く有機物と動かない有機物。ほかの無機物たちはもちろん動いてはいない。

 それらが正方形に近いこの部屋へ無造作に押し込まれている。

 ガラスの破片を自身の右手首にあてがい、目の前の人型は訴えた。

「わたしを殺さないでほしい」

 何を今さら、僕は冷たく溜息をはいた。既に限界なのだ。

前屈みになり椅子に座っている僕は膝に肘を乗せたまま、首だけあげて、窓際に立つ彼へと視線をあてる。

 窓から差し込む光が逆行で顔は見えない。寒光が染み出すシルエットはひどくみすぼらしく見えた。小柄な体型。彼も少年のようだった。窓に開いた穴から風が吹き抜け彼の髪をなびかせていた。

 僕は再び視線を足下へと返し、言葉を床へぶつけるように言った。

「殺される?おかしなことを言うな君は。誰も君を殺しはしない。殺すとするなら君自身だろう」

「でも私が死ねば・・・」

「そう思うのならやはり死ぬんだな。死んでも尚もがくようなら僕が・・・」彼に向けて右手を差し出す。手首を見せるように。

「なぜなの・・・」

 周知の事実を嘆く姿ほど見苦しいことはないな、と僕は思ったのだが、彼と僕との間に転がる褐色の水溜まりに浸るもう一方の人型を見て口に出すのを止めた。

「順番を間違えたな」僕は自分に呟いた。「どちらにしろ、死ぬか殺すかだ。早く決めてくれ」

「わかるけれど・・・」

「ならやれ」僕は強く言う。

「・・・うん」

 少年の左手が初期微動から震度三程度の主要動に揺れを変え始めた。それらは次第に少年へと広がっていく。

 その揺れが収まるくらいには待ってやろう。いや、終わった頃が収まるときか。

 彼は死んでくれるだろうか?僕は彼を殺せない。だが代わりに僕が殺されることはできるだろう。彼にその強さがないからこその自殺なのだ。彼が強ければ僕が自殺してもよかったのかもな。

 いや、

「それはないな」嘲笑混じりに僕はまた呟いた。弱いのだ、僕もまた。

 横には僕の腰くらいの高さの(立ち上がっている状態での)丸い小さな机がある。その机へと僕は視線に旅をさせた。

 そこには鳴るはずのない黒色のクラシカルなダイヤル式電話が山みたく無駄に存在していて、ペンと白紙のままのメモ用紙は川と湖みたく気ままだ。森の描かれた花瓶とそれに埋もれている青い花は図々しくも真ん中に陣取って気取っている。

 しばらくその人工的な無機質と作為的な自然を僕の視線は旅をした。

 旅に疲れた視線が花瓶の森で休んでいるのを自分が認識するまで僕は空になれていたのかもしれない。その後、目がじんわりと熱くなった。瞬きを忘れていたらしい。

 僕は目を閉じる。

 瞼の裏には無限に広がる空間があるようにいつも思う。

 その空間は大抵、白い線光が瞬いていて抽象的な紋様を次から次へと描き出していく。そのうち紋様は闇にとけ込んで僕はいつの間にかその闇の中にいる。そこに浮かんでいるかのような錯覚から次第に落ちていくような感覚へと移り、その空間が僕の内にあるのではないかという空想へと最終的には至る。ここまでくると急速に僕は外側へと引き戻されてしまう。僕はその先に行きたかったのに、何があるのかを見てみたいのに。

 けれどそれは叶わない願望なのだろう。きっと、叶うことはないと知っているからこそ、願いを”望む”という受動的で消極的な欲求になるのだ。そうなんだ。僕は知っている。

 時間はある。この先も時間はあるだろう。だが今は残り少ない。手元の時間だけが。誰かが注いでくれるのを待つか、或いは無くなったのを確認した後、新たに調達するのもいいだろう。新たに調達するには一度手を開かなければ掬えない。開いてしまったら溢れてしまう、だからやはり待たなければ、無くなるのを。焦ることはない、と僕は自分に言い聞かせる。

 時間はあるのだ、どこにだって。

 今はただ少ないだけ、僕の手元に。

 だから無くなるのを僕は待つ、夢が見たいから。

 それを待つ間のさらに少しの間、いつもの夢を、夢の続きを・・・。

 僕は目を閉じる。


 野原に生える木。これが僕。

 なんの木かはわからないが、ゆらゆらと漂いながら落ちる葉を見る限り広葉樹だとわかる。

 そこから見える風景をひたすらに眺めるだけの日々。人生。

 その風景はゆっくり、時に素早く衣替えをしていく。僕はそれを眺めながら身体で感じる。ただ感じるだけ。

 でもそれは受動的な感覚ではない。すばらしく意識的になんだ。

 これが自由か、と僕は思う。

 何度目かの冬。風景は今年も終焉を迎える。けれど僕が迎えるわけではない。

 すべての色を灰色で、時に白銀で塗りつぶす訂正。全てを最初に戻してしまう修正。無かったことにするつもりだ。

 僕は温かい羽色の雪に包まれる。まるで毛布だ。誰かの背中のようなぬくもり。とても安らかな保温。そして僕は眠りにつく。

 そこで目が覚めた。胸元がやけに重い。きつく締め付けられているような感じでもある。

 そして温かい。いや熱い。それに比べて手足はやたら冷たい。寒い。

 僕の視界は以前ぼやけたまま。凍った手で目を擦り、胸に手を送る。何かが生えていた。枝だろうか。

 夢の続きを見ているのではないか、という願望じみた思索を僕は巡らせた。するとそれは違うぞ、と言うかのように掠れた光が僕を照らす。違う。すぐに僕は気がついた、覆っていた影が退いたのだと。

 僕は顔を何とか持ち上げて前を眺める。

 少年が立っていた。ただ佇んでいた。少し微動しているようにも見える。

 僕は立ち上がろうとした。

 とたんに部屋が傾く。床が僕に迫ってくる。恐ろしくのろく。

 僕は避けようと手を構えた。枝ごと引っこ抜いて。

 何かが出てくる、出ていく。

 身体が鈍い、言うことを聞かない。

 かわりに僕は軽くなる、稀薄になる。

 途中で机が邪魔に入ってくる。

 机を振りほどく、目の前で何とか。

 黒と白と緑が散らばる。きっと机の仲間たちだ。

 僕は床とぶつかり軽く弾む。

 世界が上下する。

 拍子に床が黒く変色しているのが見える。黒い床の上に黒い岩が沈んで、緑の葉っぱが細かく砕け散りながら雨を降らせた後は、雪の様な白く平べったい風が無数に舞って床に張り付いた。さも僕らに覆い被さるように。床は僕を抱き寄せたきりうごかなくなった。

 長らく木になっていたせいだろうか、床に抱きしめられているせいなのだろうか、身体が動かない。

 僕は床と見つめ合うのを止めて、首をどうにか傾けた。白くかすんだ視界に思考を集中した。

 浮かぶ影が人型でそれが少年だと理解した。床から生えたように仁王立ちをしながらこちらを見つめている。いや、眺めているといった方が正確かもしれない。彼の顎が上下しているように見える。声は聞こえない。

 僕も何か言おうとしたが声にならないし、第一何かって何だろう。きっと毛布を掛けてほしいという頼みだろう、と僕は思った。だって僕はこんなにも凍えている、冷え切っている。

 それにしても彼は寒くないのだろうか。彼の身体は凍ってしまったかのように見える。時間が止まっているかのようでもあった。意識は既にもうろうとして、断片的な思考が居眠りのように薄れたり飛んだりしている。その狭間で僕は感じていた。冷めていく身体と、褪めていく現実と、醒めていく夢と、覚めていく世界の始まりを。

 それにしても寒い、とても寒い

 今は冬できっと夜、温かさが地面から伝わる

 あぁ、ぬくい、とてもぬくい

 また眠りにつこう、次にくる春を信じて

 そうだ、このまま

 深く、遠く、広く

 単純でより静かな、より清らかな澄んだ眠りに

 あぁ、眠い、とても・・・ねむい

 ぼくは・・・ゆめを

 ・・・みよう

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます