【街頭】

第103話

【街頭】


 どのくらい待っただろうか。いつの間にか太陽がビルの合間から僕を眺めていた。

 ―来ないかも知れない―、と僕は思った。

 それはここに来る前から今に至るまでずっと考えていたこと。

 それでも僕は、待っていても来なかった、仕方なかったのだ、と諦める理由と区切りが欲しかった。その為だけに待ち続けていた。

「久しぶりだな」

 不意に声が聞こえた。

 どこから発せられたのかと思考を巡らせたのは反射的に顔が振れた後だった。

 目の前に男が佇んでいた。

 いつからそこにいたのだろうか。まったく気がつかなかった。

 いや、考えるべきはそんな事ではない。

 僕は周りを見渡した。僕とこの男以外は誰もいなかった。

 ―どちら様でしょうか?―

 失礼ながら、も付け加えた方がいいかな。と考え、僕が喉から空気を波打たせる前に、前方から響く穏やかな声が僕を包んだ。つまるところ、僕が喋る前に彼が喋ったのだ。

 「私は死人だ、なら君は誰だい?」

 僕は戸惑った。

 何を言っているのだろう。この男は。

 茶色いシワだらけのスーツ(バザーに出しても誰にも見向きもされず、寒々と売れ残っていそうな)に細く白いラインが縦に入ったネクタイを絞めて、その上から同じ色のコートを羽織っている。パッと見は中年に近そうだが良く見れば若そうだ。僕が言うのも何だがハッキリ言ってセンスが悪い。だから見た目も悪い。

 急に現れ、挨拶をし、奇怪な自己紹介。一体何がしたいんだ。怪しいにも程がある。僕は用もないのに自分の手を見つめた後、足元を見た。

 彼の視線は依然、僕に向いているようだった。

 しばらくの沈黙の後、彼がやはり僕の返答を待っているという事を、僕は渋々と理解した。

 ―何か言うべきだろうか?―

 あらゆる可能性(相手が病院から抜け出して来た精神患者や、新手の詐欺師、探偵といった)と面倒とを考慮した末に、僕は名乗ってやる事にした。

 これ以上考えるのが面倒臭かった、というのもあるが、それが一番手っ取り早いと結論づけたからだ。

自分の名前を言うという経験が、僕には数えられる位に少ない。久しぶりの言動ゆえの、自分が誰かという再認識と、拭い切れない疑心と、間違えたら自分が自分でなくなるような幼稚な不安の心配という自責の念から、僕はまず自分に言い聞かせた後で口にする事にした。

 ―僕は、キシベミハル―

「違うよ」

 またしてもタイミング悪く男の言葉が僕の口を塞いだ。(実際は僕の口は塞がったままなのだが)

 ―何だというんだ、この男は―

 僕は彼の斜め頭上へと目線を移し、目を細めた。

目を細めた理由は眩しかった事よりも、僕の内面の変化が表面化した事の方が、大きい割合を占めるだろう。僕はチクチクと尖り出した感情を何とか丸く削るよう努めた。

 ―ただの独言なのか?―

 だが粘膜のようなトロッとした視線は僕から離れていない。

 ―こいつの目的は何だ?―

 「私を待っていたろ?」彼は独言を続けた。「だから来たのさ」

 僕はさらに目を細めた。

 確かに僕はここで人を待っている。だがそれは、端から見れば一目瞭然なことだ。

 こいつとは関わり合いたくない。けれど僕は場所を移るわけにはいかなかった。

 僕は小さく溜息を吐いた。

 今まで僕は“絶対”なんて無いと考えていたし、これからもそれは変らないだろう。

けれど敢えて今その考えを曲げてまでも、言っておける事実がある。僕は黙ったまま叫んだ。誰に?むろん僕にだ。

 ―僕が待っている人間は絶対におまえではない、絶対にだ―

「それも違うよ」

 ―だから何が違うんだ―

「君の認識さ」

 ―何だって?―

「だから君の認識さ」

 正直驚いた。

 まさかとも思わなかった僕が、瞬時に理解したほどこの事実は解りやすい。解りやす過ぎて、真偽を口に出して確かめる事すら、考えにも浮かばなかったほどだ。

 むしろこの事に僕自身、わざと気が付こうとしなかったのか?

 もしもこの事実がわからない、なんて言い出すひねくれ者が現れた場合に備えて、わかりやすく言語化しておこう。

 こいつは僕の心を・・・。

 いや、止めておこう。

 僕はやはり認めたくは無い。

 認めたくは無いが、待てよ、彼は何と言った?

 自分が死人だと言ってはいなかったか?

 この言葉を否定することは、呼吸を数秒止めるくらいに容易い。

 容易いのだが、今までの自分の合理性と論理性、人生経験を信じるという当たり前の行為を、先ほど僕は疑い直さなくてはならなくなった。

 真実とはいつも、最も自分が納得できる仮説に過ぎず、その仮説には常に科学という道具が使われていた。

 しかし今は「子どもが夢見るおとぎ話、超常現象の類は全て科学的根拠により説明できる」そして、「説明できないものは存在していないに等しい」という、この二つが実は間違えだったのかもしれない、という強い疑念を、僕は持たなければならなくなった。

 そんな疑念は、普段の僕なら大歓迎なはずなのだが、今の僕には喜べなかった。

 きっとそれを実際目の当たりにして、子どものように目を輝かせて喜べるのは子どもだけなのだ。とどのつまり僕は、自分が思っている以上に大人なのだ、ということなのか。

 リンゴは木から離れれば地面に落ちるし、質量ある物質は消えたり現れたりしない、地球は円くて自転をしながら太陽を公転し宇宙を漂っている。こういった、人が共通認識している常識が概ね正しいと僕は思っているし、それを持っている。

 つまりは彼の言う通りならそれらを捨てなくてはならない。

 ―あぁ、頭が泥の様だ―

 僕はイラついた勢いで彼に聞いた。

 ―君は何だ?―

 何度目の質問だろうか。今度は真剣に答えてもらいたい。僕の希望はそれだけだ。が、伝わる事はなかったようだ。

「私は死人だ。なら君は誰だ?」変わらずの微笑みを顔に刻んだまま、口だけが動く。

 言葉に出すべきだった、との後悔は身体に止どまらずに蒸気のように拡散した。

 後悔と同時に彼の声で世界が振動に包まれる、という幻覚が僕を襲ってきたからだ。

 それは目眩ほど主観的でなく地震ほど大規模でもない揺れだった。

 僕は大きく呼吸をする。もう一度しておこう。その位今の僕は異常だ。いや彼が異常なんだ。

 そう実感させるに相違ない事実が正に目の前にいるのだ。

 まったく嫌になる。

 ―くそっ―

 僕は舌打ちをした。

 それからもう一度大きく深く僕は呼吸をした。

 彼を横目で見た。

 彼は待っていた。

 何を?

 僕の返答だろう。

 どんな?

 そんな事は僕が知りたいくらいだ。

 ―まぁいい―

 僕は考えた。

 仮に彼が本当に死人だとしよう。では、

 ―私は誰だ―

 何も言えなくなった。早すぎる。もう少しくらい粘ってほしいものだ、と我ながらに思った。

 たがこれは当然だろう。僕を責めないで頂きたいものだ。自分は何者だ、という根本的命題に答えられる人間など滅多でお目にかからない。

 僕は哲学的な思索の迷路へと入ってしまった。むろん出口などあるかすら、わからない。

焦点の定まらない視線は足元の健気に咲く青色の花に固定したまま、思考に意識を移した僕の身体は抜け殻と化していた。腕はだらん、としたまま重心は右足にかかり、頭は俯いたままだ。

 無防備な赤子同然の僕を前に、彼はしばらく見守る様に微笑んでいた。

 そのせいかまるで警戒を玄関の鍵入れに忘れて来てしまったかのように僕はシナプスを飛び続けた。

「君も私と同類の存在なのではないのかい?」

 彼の言葉で僕のぼやけた視界に意識が戻った。

 ―あぁ、そうか―

 なぜ気がつかなかったのだろう。僕もまた死んでいるのだ。

 鳥が鳥と歌いあうように、犬が犬と吠えあうように、死んでいる者を認識し、会って話せる存在がいるとするならその存在もまた死人なのだろう。

 いやこれも推論に過ぎないな、とこの時点での僕にはまだ僕の認識が残っていた。

 それにしても思い出せない。

 彼からの視線は最初から今まで真直ぐ僕にむかって放射され続けている。ホットココアくらい温い視線だ。

 僕の意識は浮上と潜水を繰り返した後、より深く中心に向かって潜っていった。

 僕は昔から、深く精神に潜って自分の無意識に触れて見ようと無駄に自己を解剖するのが趣味だった。無意識に触れた瞬間それは意識になるのだから無意識にはどうやっても触れられないのだ。

 言い換えれば触れると割れるシャボン玉のようなもので、触れると消えるがイコールになる行為。

そしてシャボン玉の原液はどんどん少なくなっていく。その後は?考えたくもないし、知らなくていい事だと思う。

 その事を僕は経験上知っている。

 ある地点より先に沈む事も触れる事も僕はしない。

 けれど彼の言葉と視線は、いや彼の存在そのものは僕が僕の境界線を見誤らせるに充分なものだった。

 しかし思い出せない。

 ―なぜ僕は死んだのだろう。―

 ―むしろ本当に死んでいるか、君も僕も―

「あぁ死んでいるさ。しかし君はまだ死にきれていない。いききれていないと言うべきか」

 ―どう言うこと?―

「ホントは君も解っているんだろ?」

 ―何を?―僕は首を申し訳程度に傾げて見せた。―わからないし、知らないんだ、教えてくれ―

 彼を疑うという自己防衛は、大好きだった幼稚園の先生の名前と同じくらい、遠い記憶に埋もれて掠れてしまっていた。大嫌いだった先生の名前は覚えているのに、記憶というものはいつだって、そういった防衛本能の方が強くのこるものなのに、今はその法則が土台から崩されている。

 なによりも喉を震わせるという重大な所作をやめている事に、僕はなんの疑問を持たず、彼から伝わって来るはずの空間振動に意識と耳を向けていた。

 僕は今まっさらなのだ。生まれたての赤ん坊みたく無垢で他人に対しては信用と依存しかなく、少年のように真直ぐな好奇心。

 そんな大人は病気か天使かのどちらかだろう。

 僕はそれが少しおかしく感じて笑いが浮上りそうになるのを堪えた。

 しかし、僕はこの時既に迎えていたのだと思う。この異常性を感じ取るはずの五感と脳みそが正常化を施せないほどに、記憶と知識と思考のカタストロフィーを。

「僕は生きる為に死んだんだ、そしてキミも同じだろ?」

 彼は初めて僕から視線を外し、背を向けゆっくり遠ざかりながら答えた。

 今までのどこか恵愛染みた、そして柔らかかった声とはまったく異質のこの硬く真剣な声は僕を強く小突き、響かせながら身体の芯へと染込んだ。僕は不安に囲まれた。

「私はもう、いくよ」

 振り向く事なく歩き続けた彼は緩やかさを取り戻した言葉を呟き、遠くから、さよならだ、と聞こえたきり、彼の姿は見えなくなった。

 彼は消えて、ここには僕が残った。

 緊張を張り巡らせていた身体から、硬直がほどけ始めているにも関わらず僕はしばらく動かなかった。本当は彼を追いかけたかった。でもそれは無理なのだと彼の背中が訴えているように見えた。

 ―僕はなぜここにいる―

 意識が身体から再び離れて行く。

 ―おかしい、思い出せない―

 ―僕は何をしていたのだろう―

 少し待ってみた。どこまでも続く空間は微動だにしない。声も聞こえてはこなかった。

 気が付くと暗闇に僕はいた。

 その暗闇は暗闇でありながら僕の身体はしっかりと見る事ができる、不思議だな。と僕は思うだけで考えるのを止めた。

 その代わり他の事を考えていた。

 ―ここは本当に彼とあった場所なのだろうか―

 意識が身体を離れていながら一歩一歩自分が進んでいると確かめるかのように僕は歩いている。表面化した無意識で。

 ―どのくらい進んだのだろう彼が消えてから―

 ―どのくらい経ったのだろう僕が歩き出してから―

 遥か古の遺伝子に刻まれた記憶のようにも感じる一方で、つい今し方の思い出の様にも感じる。

 ―ははっ、何を言っているんだ、僕は―

 時間は意味をなさない、僕は死んでいるのだから。

 次第に暗闇が僕を纏っていった。

 匂いも、味も、音も、ざらつきも、何もかもが闇に纏われている。

 進んでいるのか沈んでいるのか止まっているのか、はたまた存在しているのかさえ分からなくなった。

 行き場がないわけでもなく、行き場があるわけでもない。ただの暗闇。

 風があれば飛んでいるように感じるかな。と僕は考えた。

 僕は飛んでみた。

 何もない空を、地面を、海を自由自在に飛び回った。飛び回っていると思い込んだ。

 街角から飛び立ち、長い塀を伝いながら、本屋、パン屋を追い越して、駅前のビルや歩道橋を交わしていった。動くものが何もないから次に僕は図鑑で見たような恐竜に追いかけられた。捕まりそうになり、辛うじて噴火した火山に飛込んだ。

 その後はマグマを泳ぐ魚と競争し、ミジンコとダンスをして赤ちゃんの僕と遊んだ。赤ちゃんの僕はポケットから干涸びたミミズを取り出すと、嬉しそうにキスをした。干涸びたミミズは瞬く間に龍となり、僕をヒゲに乗せ、あとはひたすら幼い彼の空想を飛んだ。

 僕は幾つもの世界を飛んでから龍から飛び立ち、外側に向けてスピードを上げていった。景色は混ざって緑から茶、赤、最後には黒くなって消えた。また暗闇が現れた。

「生きる為に死んだんだ」彼の言葉だけが残っていた。

 それは僕の奥深くへ飛んで行き、突き刺さり、闇と共に消散していった。

 ―思い出した―

 僕があそこにいた理由、ここにいる理由。

 いつの間にか僕は目を閉じていたようだ。

 瞼をいつ開いたのかは定かではないが、目の前に街灯が揺めいていた。

 足元を見つめている僕に、思考から抜け出してきた意識がやっと集まりだした。

 青色の花が、暗闇と街灯に照らされ、緑色に見えた。

 ―寒い―

 背中は湿っぽく、外気によって僕の汗と体温を、無許可に奪っていく。

 いつだって失う時は無許可だ。それは当然だろうな、と僕は思った。

 無許可なのだ、僕らの存在自体が。

 苛立ちはそれらと共に、奇麗に蒸発していった。

 腰掛けていた石垣の段から立ち上がる。

 丸く窄ませていた身体を垂直に伸ばし、僕は空を見上げた。鼻で息をする。冷めた大気が鼻の奥を突き、痛く感じた。

 街中いたる所の街灯やネオンの乱反射した濁った光が、オブラートみたいに覆っていて、星は見えない。

時間は街に、夜を刻んでいた。

 温度も音も色彩さえ存在を隠すように、街灯は僕の形だけを照らしている。

 それでも僕は寒かったし、足元の花は緑色で、鼓動のリズムがとても心地良かった。

映し出された僕と、僕を象った影は街灯に向かって伸びていた。その先の暗闇にまで突き抜けていっているように見える。

 ―僕は誰だ―

 頭を過ぎる。

 ―くだらない―

 僕は小さく笑った。

 顔が不自然に歪んでいるのを、誰かに見られない様に右手で顔を覆いながら。

 周りに人の気配はなかった。

 指のすき間から覗かせていた視線を、僕の足元から伸びる影にそって上げて行くと、先端の彼方に誰かが佇むのが見えた。

 それは見覚えのある、とても懐かしい姿だった。

「消えたのは彼ではなく私なのか」

 私は呟いた。そう思うだけでなく呟いた事で私は死人では無くなった。

 その事に気がつかないほどに私の心は脈動し、昂揚していた。

 待ち人は私に気が付いていない。

 大きく呼吸をし、また深く空気を吸った。

 次に吐く時には私の声が大気に混ざる。

 震わせて、波打たせ、響かせる、その言葉は決めていた。いや、既に決まっていると言うべきか。

 いつの間にか目の前にいる人物へ、優しく包ませる、私の声を。考えるまでもなく、無自覚に、そして意識的に。

「久しぶりだな」

 巨大な影達と共に陽射が僕らを囲っていた。

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