【絵具にのせた風】

第102話

【絵具にのせた風】


「……」

 風のさざめきにさらわれてしまいそうな呟きだった。事実僕の所には届かなかった。

 野原に君はいる。あれ以来じっとこうしている。

 透明な冷たい風が白い色彩とカタチを与えられ、小さな塊となって空から無数に舞ってきた。

 彼はもうこないんだ。いやもうそこにいるんだよ。僕は君にそう言いたかった。でもそれは無駄なのだろう。 僕は遠めから君を見守る、それでいいんだ。きっとそれで。

 ふさふさだった白い毛はすっかり廃れて、風になる為の四肢は枯れ枝の様。ピンと張っていた立派なヒゲも今は風の言いなりになびいている。

 太陽光のエネルギーを身体全体で浴びていた頃、君はよく僕の近くまできて涼んでいたよね。 彼と出逢ってからはいつもあの場所で君は待っていた。彼は空から君に降り立つと夕闇に包まれるまで話をしたり寝ていたり、つまりはそこでずっと君と一緒だった。

 そしてまた彼はどこかへ飛んで行く。けれど次の日も君と彼は同じ場所で一緒だった。

 彼の囁きは僕には聞こえない。小さすぎるんだ。それでも君は風や花や鳥や僕の囁きよりも彼の声だけに耳を傾けていた。

 いつからだったかな。彼が変なあだ名で君を呼び始め、今ではそれが初めての君の名前だ。

「名前を呼ばれるのがこんなにも待ちどおしくなってしまったよ」

 俯きながら呟いた君の言葉は心底僕を驚かせた。

 帰る場所も行く場所もない君に安らぎの場所を与えてくれた彼。

 最初は自由を奪われたと憤怒していた君だけれど今ではそこが帰る場所なんだ。君は気がついているのかい。いないだろうね。

 君達が出会ったのはタンポポの綿毛達が旅立ちを終え始めた頃だった。僕が君達を遠めに眺める日課が出来たのがこの時期だ。そして空を飾りつけていた木々の葉達が全て去った頃、君との約束の場所に彼は現れなくなった。 君がそこを動かなくなり、物思いにふけっているな、と思っていたら不意に周りを、空を見渡す。それだけを繰り返す日々が始まった。

「途切れる事なくどこまでも続く、空と大地が嫌いだ」

 君は以前にそう呟いた。呟いていたんだ。なのに、彼に出会ってからの君は「自分達を巡り会わせてくれる為に一つなぎでいてくれた空と大地に感謝しなきゃ」 なんて、過去の自分の言葉を恥じるかのように呟くんだ。

 以前の君はこうも呟いていたね。

「僕を誰も呼んでくれないし見てくれもしない。僕を知る者さえもいない。そんな全てが疎ましい」

けれど今では 「彼との繋がりときっかけを残しておいてくれてありがとう、皆!って大声で叫びたいんだ」

と、君らしからぬ事を呟いて僕を笑わせてくれた。

 なのに君は知らない。

 その空と大地が彼を奪った事を。

 その事をしっている僕も君に何も言わない。

 僕は君が羨ましかった。それ以上に微笑ましかった。 なぜなら彼と出逢うまでの君はあまりに痛々しかったから。僕を見ている様だった。そうだ、君は僕だった。もう一人の僕。

 僕は囁いた。言葉にならない想いを。微かに優しく、静かに小さな。風にのったそれはどこまでも運ばれ、色彩とカタチと温度を失って空を舞い、大地に向かって一方的に渡り始めた。ただひたすらに。ただひらひらと。ゆらゆらと。

 僕の日課も終りがきたようだ。

 君だった温もりは彼だった土と交わり、かわりに連立つ君と彼。

 流れに逆らう二つの結晶の舞いが見えなくなった。

 僕は残された。また独りに。

 いや、最初から今までも最期まで、いつだって僕は独りなのかもしれない。周りには同じような独りが沢山いるにも関わらず僕達は交われない。交わらない。終わらぬ独りを見届け合うだけ。

 いつの間にか目の前から彩りが抜け出し、世界が純白に変わっていた。いや、戻ったのだ。きっと最初に。

 灰色の空から訪れる、白い無数の冬のししゃが全てを無に返し、新しい命を再び生成する。その為の準備が季節の終焉…冬。見ると僕もすっかり、ししゃにくるまっていた。冷たくはない。むしろ温かい。心地良い。まるで小鳥達の温もり。

 その温もりが眠気を生み出して僕を春へと誘ってくれる。

 僕は冬のししゃにまだ当分なれそうにもない。

 きっと目が醒めた頃、ここ一面には細い色彩が施されているに違いない。

 そのまえにもう一度僕はあの場所をみる。けれど、どの場所も白銀、縦も横も奥行きさえ分からなくなった世界。そこにはもうあの場所は無かった。

 いい夢を見よう。

「…………」

 僕は変わりに呟やいた。この有限でも無限でもない境界線に向かって。

 誰に聞こえるでも無く、誰が受け取るでもない僕の呟きを、風はいつまでも静かに流し続ける。

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