【えすかるご】

第101話

【えすかるご】


 黒いニット帽を被った若者は、座っている。

 地下鉄駅のバスプールから続く地下通路。その通路に隣接する二つのデパートに挟まれたベンチ。そこにいつも独りで。

 片方のデパートの入口に近いせいで目の前を忙しく人間が蠢き通る。その人間からピントを奥にずらすと地上へ繋がる螺旋階段が瞳に映る。丸く、くり抜かれたように天井には空が見え、その中心から螺旋階段が天へ続いている。しかし、ここが地下なのだから、天へ、ではなく、地上へ、が正しい。だが、ここにずっと座っていると、そんな当たり前のことが、曖昧になってくる。ここが地上なのだ、と錯覚してくる。

 若者はただなんとく、目の前の光景と、変哲の無い背景のような景観を眺めている。いつも、ただ視界にそれらを入れているだけ。そのぼやけた視線の、意識しない領域から領域へと人影が横切る。境界線の曖昧な、縁から縁へと。右から左から。手前へと奥行きへと。止どまることが無い。

 ニット帽の若者は大体いつも、急にそれが気に入らなくなる。だからいつの間にか足元のタイルだけを見ていた。

 足元のタイルに、大きな影が覆った。自分の影と被さっている。

「となり……いいですか?」既に座りながら女が聞いてきた。若者は彼女を見ずに無言を答えた。

「誰か待ち人ですか?」

「誰も待っていない」立ち去ろうかとも若者は考えた。でも面倒だ。それだけの理由で答えた。どうやらニット帽の若者は深く物事を考えられない人間のようである。

「そう……ですか。私はここで人を待っています」聞いてもいないのに話出す女。

 若者はここで顔を上げて彼女に視線を送った。言葉で言えばいいものをニット帽の影から目をのぞかせて、静かにしてくれ、と視線に託した。しかし無駄だった。彼女は丁寧に話す事に一生懸命で、若者の視線には気がつかなかった。それとも、話を聞いていますよ、続けてどうぞ、と真逆の意味にとらえたのだろうか。

 彼女の声は幼かった。ニット帽からヤドカリのように垣間見ている臆病な若者の瞳にも、彼女の幼い顔立ちが映っていた。けれど話し方やしぐさ、服装からは見た目以上の年齢が窺われた。

「もう来ているかなと思っていたの。でもまだ来てないみたい。私ね、一人っ子だったの。小さい頃から友達も少なくて、いつも独りで……。でも二人だけ友達がいたの。とても元気な明るい子と真面目な可愛い子」

 二人も友達が入れば充分だ、とニット帽は思った。実際に思ったのはその下のヤドカリ的若者であるが。口には出さずにひたすら彼女の顔へと、若者は視線を浴びせていた。

「――でね、中学校からは時々しか会えなくなったから、私また独りになっちゃった。今も時々なの。だからずっと兄弟のいるタケちゃんが羨ましかった。タケちゃんみたいなお兄ちゃんが欲しかった……」

 何だよ、タケちゃんはモテモテだな。若者は少しイライラしていた。別にこの娘がタケちゃんとやらに恋愛感情があって自分が嫉妬しているわけじゃない、それは断じて違う、断言できるぞ。とでも若者はニット帽と話しているかのように、視線を宙に漂わせていた。

 それに若者も兄や姉が欲しいと思っている。気持ちが解らない訳でも否定する気でも無いようだ。

ただこの話がどこへ向かっていて、いつ終わるのか。なぜ自分に話しているのか。それが皆目見当の付かない所が若者は気に入らないのだ。

 若者の視線は既に彼女の顔から膝、螺旋階段へと移り、右耳だけが彼女を向いていた。

「――街で会ったその人が、どうしても他人には思えなくって、変だなぁってずっと思っていたの。だから私、戸籍を調べてみたの。うん私も自分がこんなに行動力があったこと今まで知らなかったわ。彼女にその事を言えばきっと本当の事を認めてくれると思ったの……」

「私も」の゛も゛がやたら気になったが、若者は黙っていた。彼女は一人寸劇を続けている訳だが、どうやら若者は客ではなく役者の一部なのでは?と思うようになった。その位彼女は話し続けたし、若者もそれなりに聞いていた。

「――そして泣きながら彼女が渡してくれた写真に幼い私と私を抱っこしている男の子が映っていたの。あぁやっぱり彼がお兄ちゃんだったんだって。嬉しいとか感動とかそんなものより早くまた会いたいって私」

「それでここで待ち合わせですか?」話を早く終らせたかったわけじゃない。ただ若者は焦れったくなったのだ。映画などでも結末が予期できた場合、若者は早送りで見る程気が短い。つまりせっかちなのだ。結果、予期した結末とは違った、なんて事はざらである。ただそんな時も意外性として楽しめてしまう若者は間違いなく楽観主義者だろう。

「はい。待っています。ただ待ち合わせた訳では……」

 そう言うと彼女はポシェットから財布を取り出し定期いれに入れられた写真を若者に見せた。

「この男の子なんです」

 顔を近付け若者はよく目をこらした。財布に添えた手は微かに震え、その制御不良を直ちに若者は正した。パッと見で若者の鼓動は大きく一回脈動した。

「なぜあなたがこれを?」若者は思わず口にしてしまった。

「実は……はい、その……。右の女の子が私で男の子が兄なんです。ですが私は……兄よりも大分年が下の様でして。兄妹にはとても見えませんよね……」

 意味が解らない。なんだこれは。写真に映っている男の子…。確かに知っている。彼の隣に写る女の子もだ。若者は戸惑いを女性に悟られないように聞いた。

「ですが、これは……。この写真とあなたは関係がないのでは?」

「なぜです?」

「だって……この男は」僕は口にすべきか躊躇った。その間、黙ることを忘れていたために、口から言葉がこぼれていく。「この男は、僕の親父で、この女の子は――僕だ」

「そうです……。けれどあなたは嘘をおっしゃりました。あなたも待っているはずです」

 

 若者は立ち去りたかった。多分無意識的な咄嗟の自己防衛の示唆を感じたのだろう。

 例えるならそれは、若者の内の広大な虚言の砂でできている自分を崩さないように守っている誰か、崩れて他の砂に紛れて消散させないように見張っている何か、が彼女に退避を要求している、そんな感触。

 僕は僕を崩さない限り、それがなにからの退避なのかを知ることはできないだろう、と瞬間的に理解した。いや、何度か経験していたのかもしれない。今と同じ状況を。

「あなたはこの写真を撮られた覚えはありますか?」

 僕は精一杯にその記憶を探った。引き出しと言う引き出しを片っ端から開けてみた。出て来るのはどれも僕の願望に着色された思い出と想い出だけ。

 けれどいつだって探し物は探している時には出て来ないものだし、僕の意識する範囲にその引き出しが見当たらなかっただけなのかもしれない、と自身へ必死に言い聞かせていた。

「無いのは無理もありません。私でさえ無いのです。これは私が二才になる前に撮られたものだそうです」彼女は小さく深呼吸をしていた。そしてまた、懺悔するかのように、話し出した。「……私は、私はどちらかと言えば不幸ではありません。いえ、とても幸せでした。ただもし欲張れるなら、わがままを聞いてもらえるのなら、兄と一緒になりたかった……。ですからずっと一緒になれるように頼んだの。あなたも一緒に、と……」

 僕は当惑した。彼女の話の意図に、そして、未だに退避しようと動かない、僕の身体に。

 女の子。この子は誰だろう。なによりもこの疑問が僕の思考を極端に遅効させる。

「アキさんはタケちゃんの事が好きでした。タケちゃんは私の友達……ミキナさんの事が好きだった。私もミキナさんは大好きなの。きっとアキさんも。でもそれとは比べてはいけないくらいに、アキさんは……私は。だからアキさんはタケちゃんを大切なお兄ちゃんとして私を……。けれどアキさんの内では大事な男性として……」

 僕は聞きたくない。支離滅裂にも程がある。

 なのに、どうして、どうして……彼女が何を言っているのかが解ってしまうのだろう。

 知りたくない、知りたくないのに。

 けれど僕は、右耳だけを彼女に向けながら、黙って聞いていた。

 知らなければならない。そういう強制的な手続きか何かが、最初から施されていたのかもしれない。

「アキさんは彼との赤ちゃんが欲しかった……。いいえ、赤ちゃんというよりは彼との愛を目の前に見えるカタチとして、留めて置きたかっただけなのかもしれません。もちろんそれはアキさんの中だけでの事です……。誰にも知られることのない彼女の淡い願望。あなたに言わせれば我執?とでもいうのかしら?」

 我執。

 知っていた事と新たに分かった事。それは僕が僅かに希望をもっていた儚い想いを奇麗に散らせてくれた。

「そっか……うん。ありがとう。もう……いいよ。何となく、うん、想像できた」

 その想像が崩れる所も、現実として結晶化することも、僕は拒んだ。僕らしからぬこの判断はきっと僕が理解という言葉を拒否したかったからに相違ない。楽観的にも程がある、と僕は自分を客観的に考察できるまでに冷静さを取り戻した。きっといらないものまで一緒に。

 いや。取り戻したのは僕ではなく母さんの方か……。

 無性に自分が愛しくなる。

「それでいいのよ」にっこりと彼女は微笑む。「きっと彼女は迎えに来ないわ。さぁ行きましょう」

 僕は両手で顔を覆うと、瞼の裏に焼き付いた螺旋階段を、頭の内で昇った。

 頭の内……。誰のだろう? わかりたくなかった。

 ねぇ。

 これでいいの?

 辛くない?

 僕は辛いんだけどな。

「言ったでしょ?私は幸せだったって」

「僕も幸せになれるかな……」

「あなたがそれを望むのなら、ええきっと」

「そっか……なら、親父に……よろしくね」

「うん、そう伝えておきますね」そう呟くと、螺旋階段を登って、彼女は姿を消した。

 瞑った瞳はそのままで、彼女の足音だけがまだ、聞こえる。

 螺旋階段から垣間見える夜空。空は晴れているはずなのに、周りの電灯が邪魔をして、星の瞬きが散りばめられている夜空を、紺色に統一している。そこから冷え切った空気が注ぎ降りている。

 左右のデパートは既に閉店しており、騒がしい人通りは無く、この空間は閑散としていた。

 寂しくライトアップだけがされているタイルの羅列。螺旋階段の上にある旗が棚引く音だけが、ぱたぱた、と響いている。遠くの車や人の気配も、聞こえない。

 螺旋階段を上りきれば、そこは屋根もない外。

 外から空を見上げても、下から突き上げる光と、空から降り注ぐ僅かな光が相殺しあって、星は瞬かない。瞳を瞑ったままの様でもある。ここは外なのに……。

 下を見下ろす。タイルが幾何学模様を成していた。おそらく、その場にいては気がつかないだろう。俯瞰でなくては見えないことが多すぎる、この世界は。

 タイルは壁とぶつかるまで床として存在していて、壁伝いにはタイルを跨ぐ様に、申し訳程度の大きさの白いベンチが並んでいた。

 その白いベンチ群の一角に、小さな黒い塊があった。

「いいの、置いてきて?」男は組んだ腕を手すりに乗っけて、下を眺めている。

「ええ。もう必要ないから」女性は答える。地上から紺色の空へとそびえているデパートを見上げていた。

「もったいねぇなぁ、なんだったら俺がもらってもよかったのに」

「ごめんなさい。でも捨てたんじゃないの、置いてきたの」

「また取りに来るってこと?」

「もういいじゃない、さ、行きましょう」女性は男の腕を取り、歩き出した。

 吹き込む風に落とされそうになっているベンチの上の、その塊は、カタツムリの殻のように、ただじっとそこにある。いつまでベンチの上に居座っていられるかは定かではないが、明日の朝まで残っていれば、清掃の人がそれを片付けるだろう。

 けれど朝までに、誰かがそれを持ち去ることもあるかもしれない。そうなることを、望んでいるかのように、その黒いニット帽は、ベンチから落ちないよう、耐えながら待っている、そう見えなくもない。雨が降ってくれるのを待つ、カタツムリのごとく。

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