【休息の時、約束の折】

第99話

【休息の時、約束の折】


 ミカさんは、それなりに強大で権力ある組織に所属していた。その組織の加工をミカさんが一晩で済ませた日のことを思い返してみれば、既に半年も前のことで、いつの間にか、振り返らなければ脳裡に浮かばないほどの過去へと移ろいでいた。時とは遠ざかるほどに速度を上げるものなのか、と疑いたくなるほどである。

 組織を壊滅させたという大義名分で、ミカさんには追っ手が付いた。ミカさんと同様の、加工屋さんである。(ややもすればその場に同行していた僕も加工の対象になっていたのだろう、と今になって僕は思う)ただ、「加工」という言葉を使っているのはどうやら今のところ、ミカさんだけの様で、一般的には加工屋さんのことを、「始末屋」或いは「殺し屋」と呼ぶようである。その中でも山川姉弟は、あのミカさんが認めるほどの実力を持った加工屋さんだった。それはつまり、暗殺者のままでいさせるにはもったいないほどの能力を有している、ということなのだが、金魚の糞の様な僕はその時、ミカさんの後ろに付いていくことすらできずに、もう一つの問題を一人で抱え込むこととなった。

 兎にも角にも、山川姉弟とのいざこざも先日、一応の終息を迎えた僕とミカさんは、そのいざこざに紛れて突き放し損ねた少女、陽(ハル)ちゃんと共に、東北にある雑貨ビルへと足を向けていた。

 僕が抱え込んでいた問題というのは何を隠そうこの少女、ハルちゃんのことなのだが、その時のことを今は思い出したくはないので、過去を懐かしみ、感傷に浸るのはここまでにしておこうと僕は思う。――今は、久方ぶりの安息が約束された時間なのだから。

 ――約束。

 そう、約束だった。

 僕はそのワンワードで、小さく溜息を漏らす。未だにこの手で加工を僕は体験していないし、ミカさんとの約束も当分先に繰り越されている感があったからだ。けれど今は、何も考えず、時の流れに身を任せる時期なのだろう、とそう思い込むことにした。

 すべきことには分相応の時期が決まっているものだ、と考えて、今はきっと機が熟していないのだろうな、とそう思うことができるから。そう思うことができると言うことはつまり、そういうことなのだろう。

 いやはやまったく、これではまるで運命を信じている乙女だな、と僕は自分を敢えて可愛く思う。ナルシスとにも程があるな、と自分に突っ込む為に。だから僕は、理屈屋のくせして案外に、現状に流される傾向にあるのだ、と自分を戒める為に。僕は乙女の様だな、と自分のことを可愛く思った。

 僕はゆっくりと目を開き、回顧を終える。

 アジトと呼べばいいのか、それとも秘密基地と呼べばいいのか、もしくはそのまま自宅と呼べばいいのか、僕には区別が付かないけれど、ミカさんの案内で僕らは、この閑散とした淋しい部屋に身体を滑り込ませ、それから僕はジッとソファに腰掛けていた。このソファ以外に家具の無い部屋で、この方法以外でのくつろぎ方を模索しつつ僕は、横で寝息を立てているハルちゃんの寝顔をぼんやりと眺めて、ミカさんの帰りを待っている。

 ミカさんは十分ほど前に、この部屋の上に住む知人だという方へ顔を覗かせに出ていったばかりだった。


「駄目だ、いなかった」ミカさんはすぐに戻ってきた。その手にはどこから持って来たのか、ウイスキィが握られていた。ラベルを見る限り、高級そうなお酒だった。東北の秋は十分に寒い。肌寒いのではなく、既に十分寒いのだ。現にミカさんは濃い橙色のコートを羽織っているし、僕はタンクトップからジャケットまで合わせて、六枚も重ね着をしている。

 ところで、ミカさんの羽織っているようなコートを見る度僕は、いつも疑問に思うのだが、この女性用のコートに付いている帯のようなベルト。女性方は本当に結ぶのであろうか? 一度として僕は見たことが無い。いやただ僕が、他人に無関心で街中の女性をきちんと観察していなかっただけなのかもしれないけれど、それでもミカさんはそのコートのベルトをだらしなく垂れさせていた。かと言って、そんな下らないことをミカさんに尋ねるほど、僕は浅薄ではない。訊いたとしてもミカさんはきっと、面倒臭そうにこう答えるのだろう。「私は縛られるのが嫌いなんだ」

 ミカさんは足で蹴って扉を閉めると、「ほら、飲もう」と僕にグラスの準備を促した。が、来たばかりのこの部屋に、グラスなどという高貴な代物はなかった。

「ドアが壊れていたからさ、ちょっとばかしお邪魔して、借りてきちゃった」言うとミカさんはいそいそとウイスキィの封を解いた。僕らはそれぞれ普段からマイカップを用いているので、荷物から取り出してグラス代わりにそれに注いだ。

 とここで、おや、と僕は思う。ドアが壊れていた……。ミカさんはそう言った。ふうん、なるほど。僕は訝りながらも察する。

「あの、ミカさん。『いなかった』ということは勝手に借りてきたということですよね?」そのウイスキィは、と僕は彼女へ確認する。

「そうだよ」ミカさんは対面のソファに腰掛けた。小さく「んしょ」と呟いたのが聞こえ、僕は少し可笑しかった。その可笑しさが顔に出ないように努めながら僕は、「それで、借りてきたということは、もちろん返すつもりなのですよね?」と更に確認する。

「うん、まぁそうだね」既に飲み干し終わった空のカップを床に置くと、んー、と背伸びをしながらミカさんは相槌を入れた。飲むのが早い。

「飲んでしまって、よかったのですか?」ここぞとばかりに僕は指摘する。

「鑑賞の為に借りてきたわけじゃないからさ、お酒は飲まなきゃ意味無いでしょ」ミカさんは身体を横にして、「ほら、タカくんも飲みなって。身体、温まるよ」と僕のコップへ更にウイスキィを注いで、面倒臭そうに目を細めた。説明しなくたって解るだろうが、と言いたそうな仕草だ。

「ですが、返すなら中身が入っていなければならないのでは?」しつこく僕は指摘を続けた。基本的に僕の会話は疑問文からなっているらしい。以前、ミカさんから指摘されて初めて気が付いたことだった。確かにそうなのかもしれない。

「だからさ、中身が入っていればいいだろ? 飲み終わったら後で東北の美味しい水道水でも入れておくよ」

「その人の部屋でだって同じ水が蛇口から嫌と言うほど出ると思いますよ」

「嫌というほど出るなら、きっと奴は普段は出しちゃいないのさ。だからさ、この機会に飲ませてあげればいいんだよ、東北の美味しい水道水」

「水道水なら東北であろうと東京であろうと同じですよ。そもそもミカさんはさっき、ドアが壊れていた、と言っていましたが、普通は『鍵が壊れていた』と言いませんか? もしかしてミカさん、あなたはまたドアをぶち壊したのでは?」この半年を振り返って、ミカさんに破壊された物たちを僕は思い出す。そしてなぜか、加工された者たちを思い出す。加工と破壊の違いは何なのだろうか、と思考が脱線しそうになって、「器物破損は駄目ですよ」と無理やり思考のベクトルを元に戻した。

「おっとそういやさ、タカくんの好きなタイプってどんなん?」とミカさんは話のベクトルを強引に逸らした。ただ、追求するにも今の僕は「モードくつろぎ」なので、ここはミカさんの意思を甘受して流すことにした。彼女の曲げたベクトルに流されることにした。流れに抗うよりも、流される方が楽だから。

「何のタイプです?」僕は訊ねる。脈略の無さから何のタイプについて聞かれていたのかを、幾つかの候補に絞って考えてみたのだが、絞り込めきれなかった。ここは手っ取り早く本人に聞くのが妥当だろう。

「いや女性のだよ。男が好きなら男でもいいけどさ。で、どんなんがタイプよ。もしかしてさ、ハルちゃんとか?」

「それはないです。というよりもですね、それは恋愛感情を持つなら、という意味のタイプですか?」

「うん、そうだよ。そっか、タカくんはロリータ嗜好の持ち主ではなったのか。残念だ」全く残念そうにせず、むしろ楽しそうにミカさんは口元を吊るしていた。

「そういった質問に対して、前から思っていたことがあるのですが。タイプ分けできないからこそ自分にとって特別な存在になり得るのではないでしょうか? 何事においても。つまり、好きなタイプとして一般化することができないことが、人を好きになることの必要条件だとぼくは思うのです」

「相変わらず固い言い方をするなぁ。いやだからさ、例えばだけど、その特別な女性をだな、誰かに紹介しなくちゃならなくなったとするだろ、その時にお前はなんて説明するんだ?」

「彼女の見た目のことであるならば、努めて客観的に説明しますよ。生い立ちや身分も解りやすく説明できるものならば、できるだけの簡素を心がけて説明します」

「いやだからさ。そうじゃなくって、ならそいつのどんなところが好きなんだ、と聞かれたらなんて答えるわけ?」

「その人がその人だから好きなのだ、とそう答えることしか僕にはできません。むしろ僕は逆に訊ねたいですよ。なぜその人を好きなのか、その人のどんなところが愛おしいのか、その人をどれほど想っているのか、を咄嗟に言葉で表せ切れてしまえるほど、あなた方の愛情とは単純で薄いものなのですか、とね」

「そんなこと言い始めたら人と会話ができないだろう。この世の中、単純なことの方が少ないんだからさ。タカくん、知ってる? 世界はね、複雑にできているんだよ」

「複雑なのではありません、曖昧なだけです」

 ミカさんは髪を梳かす様に弄りながら、やれやれといった口調で、「理屈屋だな。その中でもお前は極度の屁理屈屋だ」

「それは褒め言葉ですか? 厭味ですか?」

「都合のいい方で解釈してくれ」

「なら厭味にしておきますね」

「なんでだよ」ミカさんは髪を弄っていた手を止めて、可笑しそうに声を上げた。

 それはですね、と僕はからかう様に説明する。「期待にそぐわない答えを僕がしたことによる落胆が、あなたの言葉や仕草、表情から垣間見えたからです。もしそれが僕の思い込みや錯覚では無く、本当にあなたが落胆し、気分を多少なりとも損ねていたのだとしたなら、僕はなぜか嬉しく思うみたいなのです」不思議ですね、と僕はわざとらしく顔を顰める。

「思うみたい、か。自分のことなのに他人事だな」

「ええ。僕にも処理しきれない感情の様です。なんなのでしょうね、これは」

「何なんだろうな、それ。きっと錯覚だと思うよ」もしくは病気だな、と言いながらミカさんは空のグラスを持ち上げ、口を付ける。

 酔っているのだろうか、と訝りながら僕は、「ええ、僕もそう思いますよ」と首肯する。「虹の様な、錯覚。夕日が大きく見えてしまうような、そんな素敵な錯覚です。それに、僕は生きていること自体が病気だと思っていますし」

「相変わらず訳のわからないことを言うのな。お前は比喩が下手だ。しかもどこか臭いことを言うと来たもんだから、追い打ちをかけて酷い」

「追い撃ちをかけて? 誰に追い撃ちをかけられるのです?」僕はミカさんが壁際に追い詰められている様を思い浮かべる。が、どうしても、絶体絶命の状況へ追い込まれているミカさんの姿を思い浮かべることができなかった。いや、ミカさんが壁際へ追い込まれる様子を想像することは難くないのだが、その彼女の表情には余裕が浮かんでいる。全くと言ってよいほど追い込まれている感がない。僕の想像の中の、追い打ちをかけられそうなミカさんは、全く困っていないのだ。困った表情のミカさんを、僕は見たことがないのだ、と漸く僕は、上手く想像できない原因に思い至る。

「そうだな、誰だろうな。私に追い撃ちをかけちゃうような困ったさんはさ」陽気に笑ってミカさんは、如何にもどうでもよさそうに、まぁさ、と頬杖を付いた。「まぁさ、別に誰でもいいよ。タカくん意外ならね」

 それからミカさんは、何かを思い出している様に視線を宙に漂わせ、ぼうっとした。が、すぐに、何かを振り払う様に頭を振った。ミカさんらしからぬ、その少女じみた仕草に、思わず僕は破顔する。

 酔っ払った彼女の頬は、程良く赤く染まっていた。



「なんのお話をされているのですか?」目をしょぼつかせながら、僕の隣で眠っていたハルちゃんが身体を起こした。

「ああ、ごめん。起しちゃった?」謝りつつ僕は、座り直す。ハルちゃんから寝起きの足蹴りを喰らう前に、彼女との距離を置いたのだ。

「うっさいですよ。わたしはミカさんにお聞きしたのです。スズメの分際で気安くわたしに話しかけないで下さい、加齢臭が移ります」ハルちゃんは背伸び代わりにぐん、と両足を僕へ蹴り伸ばした。両手でガードするも、僕はソファから叩き落とされる。今日もハルちゃんは僕にだけ厳しかった。

「いやだから、僕の名前は義鷹です。呼び捨ては結構ですが、せめてタカと呼んで頂きたいのですが。それに、まだ僕は加齢臭を」放つ年齢ではない、と言おうとするもハルちゃんの声に遮ぎられた。

「だから黙ってろと言っています。唐辛子の分際で喋らないで下さい、スパイシーが移ります」

「あーそれはえっと……。もしや、鷹の爪、と言いたいのかな?」随分と解りづらい揶揄だなぁ、と僕は頭を掻く。

「辛くて口にしたくもない、って意味でもありますよ」得意げにハルちゃんは胸を張った。ぺったんこの胸だった。

「あ、今タカくん、ペッたんこの胸だ、とか思ったでしょ?」ミカさんがクッションを抱きかかえて、可笑しそうに嘴を挟む。

「へんたい!」ハルちゃんは手元にあったクッションを、未だ床に佇んだままの僕へ投げつけてきた。「これだから男は、これだから」あーあこれだから、と嘆くように繰り返した。

「誤解ですよ、僕は紳士です。ハルちゃんあのさ、もうそろそろ勘弁してくれないかなぁ」降参です、勘弁下さい、と僕は謙虚に訴える。それから愉快そうに傍観しているミカさんへも、目で助けを訴えた。ミカさんにだけハルちゃんは素直になるのだ。というよりもハルちゃんは、ミカさんを敬愛している。最近心なしか、話し方もミカさんに似てきたように思う。

 僕の視線を辿るようにして、ハルちゃんもミカさんの顔へ視線を合わせた。ミカさんは「ん、どうしたの?」とでも言うかのように首を傾げている。ハルちゃんは少し考えるように逡巡してから、ソファに座り直し、「寝起きは喉が渇きます」と独りごちた。「ミルクティが飲みたいです。わたし、ミルクチーが飲みたいですよ、紳士さん」


***

 初めてハルちゃんと出会ったのは、山川姉弟の破壊行為から逃げていた時だった。ミカさんは僕を全く顧みず、どんどん僕から離れていってしまった。いや、顧みず、というのは少し語弊があるというか、言葉足らずというか、ミカさんが弁解したわけではないのだけれど僕にはそのミカさんの逃走が、僕を巻き込まないようにする為の配慮ではなかったか、と思うのだ。僕が山川姉弟に殺されないように、そして、ミカさんの手で僕を殺す為に。それはつまり、ミカさんが僕との約束を忠実に守ろうとしてくれたということなのだけれど、後になって「どうして僕を置いていって仕舞われたのですか? もしかして、僕の身を案じてでしょうか?」とミカさんに尋ねてみたところ、「んなわけねぇだろ。断じてそれはないよ。あれはただ単に、お前がトロかっただけだ」と不機嫌そうに彼女は生返事を口にするだけだった。

 僕は街中の人込みを掻き分けながら、息を切らせて走っていた。すると急に誰かに手を掴かまれて、「この人チカンです!」と喚き出されたのだ。その僕の手を勝手に握って、詐欺同然の台詞を大声で叫んだのが、何を隠そうこの少女、ハルちゃんだった。見た目は八歳にも十二歳にも見える容姿をしている。いや、僕には女性の年齢を見た目で測れるほどの卓見は持ち得ていないので、彼女が実際に一般的な見解として、何歳に見えるのか、などということを正確に言い表すことなどできないのであるが故に、僕にはとりあえず彼女、ハルちゃんが、「少女である」としか断定できない。むしろ僕の場合、自分が何歳であるのかすら忘れてしまうことのあるくらい、見た目と年齢との関係を統一化して認識できないのだ。だから実際、ハルちゃんが「少女」であるのかすら疑わしいのもまた事実なのである。女性などは特に、化粧の有無や、その技術力の差で、幾らでも若づくり、或いは老け顔、言い換えれば、大人びかせて見せることも可能なのだからして。

 兎にも角にも、そんなあどけなさの残る、そしていたいけで可愛らしい少女が、精一杯に「この人チカンです! 助けてください」キャー、と僕の手を掴んで叫んでいる。それはどこからどうみても、僕がハルちゃんへ、如何わしいことを行った、という風に見えることだろう。それが只の言い掛りである、と知っている僕からしたって、「もしかして僕は無意識の内にこの目の前の少女へ手を出してしまったのだろうか」と一瞬、訝んでしまうほどの状況だった。

 それはつまり言い換えれば、街中の全ての視線が僕へ注がれているような状況で、しかもその視線が敵意を含んだ怪訝かつ剣呑であるような眼光の束であり、一瞬にして僕は、圧倒的に淘汰されるべき対象になってしまった、ということだった。しかしそれはある意味で、多くの目撃者を得ることとなり、結果的に山川姉弟からの破壊行為は僕にまで及ばなかった。もっとも、こんな騒ぎにならなくとも、きっと山川姉弟はミカさんを追っていたに違いなく、そうでなくとも、ミカさんを含めた「加工屋さん」と呼ばれる殺しのプロフェッショナルかつオーソリティにかかれば、大衆の目があろうとなかろうと、そんな些細な環境の違いなどは大した障害には成り得ないのだろう。だからきっと、ハルちゃんに捕まり、喚かれようが喚かれなかろうが、山川姉弟が僕を追っていたならば、僕は大衆の面前で死に絶えていたはずだ。けれど、それでも、だとしても僕は、ハルちゃんが僕の手を掴み、僕を痴漢呼ばわりし、周囲から蔑まれた目で睨まれ「変態」と呼ばれるように僕を仕立て上げたことに対して、とても感謝している、と言っても嘘にはならない、と僕は思うのだ。

 ハルちゃんがどうしてそんな騒ぎを起こしたのか、どうして街中に一人でいたのか、どうして僕の手を決して離そうとしなかったのか……。今の僕はその理由を知っているし、こうして僕はミカさんとハルちゃんと、この数カ月が嘘のような日常を過ごしている。

 僕はハルちゃんに感謝をしつつも、ハルちゃんには悪いことをした、と謝罪の念も抱いている。ハルちゃんは本当なら今頃、学校へ通い、友達と遊び、ご両親と一緒にご飯を食べる、といった当たり前の日常に身を置いているはずなのだ。それなのに、僕が愚鈍だったばっかりに、こうしてハルちゃんは、僕のような冴えない男と、可憐ではあるが、人の「加工」を仕事としている女性、ミカさんと共に過ごしている。

 ハルちゃんはもう、普通の少女ではないのだ。だが、こんなことを考えていると、またハルちゃんから、無垢な瞳を向けられて、こう問われるのだろう。

「普通って一体、何なんです?」

 僕はその答えを口にできなかった。普通とは何だろうか。それを平穏な日常に身を置いている大人へ説明することなら容易だろう。

「一般化できる性質のことだ」この一言で済んでしまう。

 普通とは、大体数の者が共有し得る性質のことだ。性質とはこの場合、行動であり、特徴であり、習慣であり、生活ルーチンのことである。ならば、今現在普通とされていないこと、つまり、「異常」とされている性質が、この先大多数の者によって許容され、共有されたとしたならば、それは普通となり得るのか?

 答えはイエスだ。現在の異常が、この先の普通に成り得るし、過去の異常が、現在の普通ですらあるのだから。善と悪が時代によって真逆になるようにまた、異常と普通も、真逆に成り得るのだ。過去の英雄が、現代ではただの大量殺戮者と成り得ることと同じように。

 ならば普通とは、「多くの者たちから賛同されること」なのだろうか?

 それは果たして、本当に「普通」という本質なのだろうか?

 きっとハルちゃんは、この問題を、僕よりもずっと若い頃に、既に見抜いていたのだろう。そして、自分よりも多く時を消費してきた者たちへ、大人と呼ばれる者たちへ、問いかけてきたのだろう。

「普通って、一体何なのですか?」

「わたしは、一体、何が普通ではないのですか?」

 ハルちゃんは、僕からしたら、とても奇異な存在だ。けれどそれは、僕がどんな他者へも抱く、平等で自然な感情だった。

 僕にとって自分以外は全て、不可解な生き物だ。むしろ、自分という存在そのものが僕にとっては十分すぎるほどに理解し切れない奇異な存在だ。或いは他者以上に不可解な存在かもしれない。自己を理解したいが為に、人は他者を知ろうとする。

「他人は自分を映す鏡だよ」とは知人の言葉だ。知人は続けてこうも言った。「曇っている鏡があれば、磨いてやればいいんだ。もしかしたら、自分が曇っているからこそ曇って見えているだけかもしれないだろ?」

「そうかもしれないね」その時の僕は、知人の言葉に同意も反論もせず曖昧に頷いて、でも、と投げ掛けた。「でも、自分以外の存在に対して不可解に思い、好奇の目を向けてしまうのは、至極当然の感情で、とても自然な行為なのだと僕は思うけど」

 すると知人は、うむ、と首肯なのか吟味なのか判断の付かない相槌を打って、「誰だって自分が解らない。それは確かだ」と話し始めた。「ただ、何かが足りない、ということだけは生まれた時から既に知っている。万物の全ては例外なく欠陥品であり、その欠陥品である彼らには、完成を目指そうという力が等しく働いているのさ。物質が分解と生成を繰り返し、次々と循環するのもその為だし、人が生まれ成長し、死にゆくのもその為だ。けどな、どれが善くって、どれが悪いのか、そんな二元論を崇拝し始めてから人は、自身の個性を欠点ではないのか、と単純に恐れるようになった。ただ単純に恐れることで、思考を止めたのさ。だからこそ人は、自身の不可解性を、一般化という行為で覆い隠そうとした。現代人は総じて、自身の不安要素を、不確定要素を、つまりは要するに個性をだな、自己と他者との間に見出した共通部位で覆い隠し、安定しようとしてんだよ。自分がなぜそう想い、なぜそう考えるのか、なぜ私は悩み、なぜ怒っているのか。そんな風に、自己と対話することもせずに、自分以外の、それこそ赤の他人の意見にだけ身をゆだねて、自分と見詰め合うことから避けるようになった。個性を一般化で潰したがるのはその為だ。不安からの逃避、それだ。自分が自分であることが悪なのではないか、という不安。それに毒されている。普通であることが必ずしも正しいことではない。なぁ、そうだろ? だってよ、普通であることが正しいことであるとすれば、個性は総じて正しくないものになる。普通であることが正しいと言うのは、多くの者に賛同されていることが正しいという歪んだ思想と同じだよ」知人は嘆くように言って卑屈に笑みを溢し、それから一呼吸置いてから、今度は一変して、楽しそうに言葉を続けた。「多くのものは、普通でないということ、それが特別であることなのだと気が付いていない。滑稽だよ。個を得た人類が、一番完成からほど遠い存在になっちまうんだからよ。なぁおい、幻滅しやしないか?」

 いつだったか、僕がまだ社会人になる前、知人と交わした会話だ。僕はそれ以上、何も言えなかった。知人の言っていることの半分も理解できなかったからだし、努めて理解しようとも思わなかったからだろう。


 僕も割合に他人へ忠告をするのが好きな人間であるのだが、その知人ほど人に知った様な口を利くことの好きな人間はそうそういないだろうと未だによく思う。けれど、知人の言葉ではないが、僕も今は、皆の言う「普通であること」の意味が、「自己を安定させる為に行う自己防衛」なのだと考えている。所謂これが、「一般化」と呼ばれる行為の目的なのだ、と僕はそう考える様になったのだ。

 自分と他者との間で共通するものを括りつけ、関連付けて、そしてそれが当たり前のことだと意味づける。これが「一般化」の説明だとしても、その一方でそれは、決して「普通」という本質の説明ではない、と僕は思う。「一般化」と「普通」は、本質的には違うのではないか、と。

 人は「一般化」することで安心し、また、その一般化された世界に自身を包ませて自己を固定する。固定することで、自分が自分たり得る「個性」を圧し潰し、平らにするのだ。そしてさらに、その内包された世界の内から外を見て、こちら側に入って来ない者を、忌み蔑み、自己を更に確固とした「平らな存在」へと位置付けるのだろう。それは丁度、不幸なものを見て、自身の幸せを相対的に高めようとする行為と似ている。幸せなのは、現象ではない。いつだって自分なのにも拘わらず。

 相対的であるということは、流動的であるということだ。けれど「普通」という事象の本質は「普遍的」であるはずだ。どの人にとっても平等に変わらないもの。それこそが、「普通」であることなのだ、と僕は最近になって「普通であること」をそう捉える様になった。

 普通とは、許容出来得る全ての事柄だ。強いては、「有りの儘の世界」、それこそが「普通」という真意ではないだろうか?

 人は理解できないもの、不可思議なことを恐れる。それゆえに、拒絶する。だが、不可思議なことを許容し、奇異なことに目を向けて、それが一体なんなのか、本当に自身に対しての脅威となり得る存在なのか、ということも考える。または、解明しようとする。好奇心と呼ばれるものだ。

 好奇心。自己を形作るもの。

 人は考える。安定したいが故に。自己を完成させたいが為に。人は考える。

 考えることで、不安になり。不安定になる。

 不安定になることで、人はまた、考える。

 好奇心とは、自己を完成させたい、という安定を望む意思を助長させる為の、人間にのみに備わったシステムなのかもしれない。

 それが何なのか。

 自分にとっての何のか。

 自分とは何なのか。

 何とは何なのか。


 だがこんなことを考えたところで、「だからどうした? それで?」とミカさんには一蹴されてしまう。「普通であろうと異質であろうと、私が私であることができたなら、それ以上に一体何を望むんだ?」

 これはそんな陳腐な考察に過ぎないのだ。詰まる所、このことが示す事柄は、「普通であることにも、異質であることにも、意味はない」ということ。

 なぜなら、「普通」とは、普遍的であるが故に、僕という個人がどんなに足掻き抗ったところで、変わることの無い、壮大で絶対的な存在のことなのだから。その普通に、異質なものも内包され得る、ということだから。そしてまた、変わることがあるとすれば、それは「普通」という言葉に付加された、「一般化された意味」なのだろう。そうなのだ、「言葉」こそ、一般化の象徴的存在であり、流動的で不確かなものではないだろうか。だからこそミカさんは、僕のこの戯言に対して、「だからどうした?」と返したのではないだろうか、と思うのはいささか考え過ぎというものだろうか?


***

 乾いた音と共に視界がぶれて、僕の意識は内から外へと引き戻される。

 僕は一瞬、誰かに拳銃で撃たれてしまったのだろうか、と錯覚した。しかし、その音と同時に右頬がじんじんと痛み、先ほど視界がぶれたことから、ああ僕はきっとハルちゃんに頬を平手打ちされたのだな、と判断するに至る。

「愚鈍な男はモテないですよ。ほら、ミルクティが飲みたい、といたいけな少女が言っています。さっさと淹れてくるべきです」とハルちゃんは言葉を吐き捨てた。

「ねぇ、ハルちゃん」僕は頬を擦りながら『自称いたいけな少女』へ呟く。「僕って、ハルちゃんの、何でしょう?」

「決まっているじゃないですか。ヨシタカさん、あなたはわたしの――下僕です」おどける様も無く澄まし顔でハルちゃんは答えた。何を今更、と言っているようだった。

 横から聞こえた、「モテる男は辛いねぇ」というミカさんの声も、今の僕には、ただただ重いだけの厭味だった。


 紅茶の葉と牛乳を買いに外へ出た。東北へ来る途中の電車から見えた山には既に、雪が薄く張っていたけれど、街ではまだ初雪は観測されていないようだ。それでも空は今にも雪を降らせそうな厚い雲で覆われて、凍てつく風を吹き下ろしていた。その風に押し潰されたように僕は身体を縮め、身震いを起こす。その振動に触発されたように、知人の言葉を僕は思い出す。

「知っているか? 重いのはいつだって罪じゃない、背負うべき責任だよ」記憶の中の知人はにやけている。「それが自ら求めて背負うものでも、誰かに無理やり背負わされるものでも、同様に等しく重い、思うものなのさ」

 まったくもって、大きなお世話だった。

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