【眉間に一発】(二万字超え)

第98話

【眉間に一発】(二万字超え)


 ***

 眉間に一発。

 彼女は、ぶち込んだ。

 正確には、彼女の手にしていた拳銃が。

 何をぶち込んだのか。

 いわゆる、弾丸。

 ――鉛玉。

 或いは、物質的なものではなく、けじめや排斥の意であったのかもしれない。それとも、的当てゲームのような遊戯的な欲求だったのかもしれない。

 欲動を体内から解き放つことで人は満たされる。

 死もまた同様に、命というストレスを体外に発散することで、死という安らぎを人は得るものなのだろう。ともすれば、彼女がぶち込んだ弾丸によって命が弾き飛ばされ、彼は死に至ったのだろうか。それは肉体的な破壊ではなくむしろ、身体という拘束具からの解放だったのかもしれない。彼女が放つ弾にはそんな解放の念が込められているのではないだろうか、と点で的外れなことを僕は考えていた。

 そう、これは僕の羨望であって、彼女の行為への憧憬が齎した倒錯に他ならない。けれど僕はそのことを自覚しているし、自覚しつつもそれを否定せずに受け入れて、楽しんでいる。

 彼女に解放されたい、という欲動が僕の体内で、胎児が動くようにごろごろと蠢くのだ。もちろん僕は男なので、そんな胎動のことなど知る由もないのだけれど。


 ***1***

「こういう場合はね、頭を潰せば崩れるものなの」

「頭……ですか」曖昧な相槌を僕は打つ。

「そう、頭。昆虫とかは頭を潰しても、しばらくの間はもがいていたりするし、本当かどうかは判らないけれど鶏もさ、首を刎ねてからもしばらく走ったりするとか言うでしょ? それでも実質、頭を潰せば加工は終了する。どんなものだって頭が無くなれば、瓦解し始める」

 閑静な住宅街に聳える高層マンション。そこへ向かう途中の車内でミカさんは口にした。彼女の言う、こういう場合、というのがしっくりこなかった。

 一体、どんな場合なのだろう?

 どんなものも頭を潰せば終わりだと言うのならば、どんな場合も、頭を潰せば終わりではないだろうか?

 ふむ。と僕は嘆息に似た息を吐く。

 ミカさんの話にはよく「加工」という言葉が出てくる。ミカさんは、僕らが今から何をしに行くのか、の説明に対して、「加工」という表現を先ほどから多用していた。その言葉の意味を僕はあと少しで体験し、認識する予定らしいのだ。しかし話を聞く限り、そして僕が推測する限り、加工とはつまりは要するに、『生きていた者に死を与えて屍体にする』ということで、彼女はどうやらそのことを「加工」と呼んでいるらしい。解りやすく一言で表せば、「加工=殺人」となるだろう。僕はそれを今から拝見かつ体験する為、ミカさんに同行させてもらえるようなのだ。

 しかし人間を死に至らしめるには、頭を潰すのは確かに常套手段であるとは思うのだが、彼女がそんな当たり前のことを口にするとは思わなかった。ミカさんはそこまで親切な人ではない。

「知らないのか? 親切とは得てして軟弱であることの指摘なんだぞ」これは事あるごとに僕の気配りを煩わしそうにしていた知人の言葉だ。「親切にするということは逆説的に、俺はお前よりも強いのだ、ということを相手に対して示していることになる。だからな、親切にされることは、強者からしてみれば侮辱以外のなにものでもないのさ」とその知人はいつも眼光を炯炯とさせて、僕へ説くように言葉を放っていた。

 僕が「親切」という言葉をつかうとき、そして親切を振りまいていると自覚したとき、知人のこの言葉がいつもオートマチックに意識の表層へと浮上し、すぐにまた、お約束のように沈むのだ。

 親切が、「あなたは軟弱だ」と指摘する行為と同義であるということはこの際、特に問題ではない。むしろ今の場合、僕が軟弱な人間であることは事実なのだから、ミカさんが僕へ「加工」の常套手段を親切にも言葉で解りやすく象徴的に教えてくれることは、何も違和感はないのである。

 しかしミカさんの方が、他人に何かを指摘するほどお人好しでも、誰かに干渉することを好むような人でもないように思うからして、きっと何か他の意味があるのではないのか、と僕は軽く憶測を巡らした訳なのだ。が、しかしまぁ何と言うべきか、僕が「ミカさんは当たり前のことを口にしない」と勝手に決め付けているからこその、彼女なりの冗句である可能性を否定できない以上、この不毛な思索はここで終えることにしようと思う。少なからず僕の分類としては、ミカさんは意味の無いことを口にすることの好きな人間のようでもあるのだから。


「神谷ってのが今向かっている場所にいるんだけどさ、そいつを加工すれば私たちの目的は終える。逆に言えば、それ以外をいくら加工したところで、私たちの目的は終わらない。単純に言えば、それだけ。あ、それから絨毯も頂いてくるけど」簡単簡単、とミカさんは口ずさむ。

「単純なことが簡単なことではないですよ」僕は他人に干渉するのが割りと好きな部類の人間なので、そう指摘した。ともそればそれは、「僕が親切だ」ということになるのかもしれないし、自意識過剰な僕は、自分が親切であると自覚している。ただの盲信かもしれないけれど。もしかすると僕は、他人へ「あなたは軟弱ですよ」と示すことで、自己の矜持を保っているのかも知れない。そう考えると、僕自身が誰にも増して、軟弱で卑屈な人間だと思わざるを得ないのが、多少不憫ではある。

「まぁね。けれど、簡単なことが単純である割合が高いのは確かだよ」ミカさんは真っ直ぐと道先を見据えている。

「複雑なことが簡単なことではないように、ですか?」言いながら僕はミカさんの横顔をななめ後ろから見詰めた。ハンドルを握り、サイドウィンドに頬杖を付いている彼女。

「ややこしい言い方をするなぁ」ミカさんはフロントミラー越しに僕を見た。視線に敏感なのだろう。職業病という奴かもしれない。

 僕は車に乗るときは後部座席と決めているので、二人っきりの車内でも、僕は絶対に助手席には座らない。彼女の視線を感じたので僕も、ミラー越しにミカさんへ視線を向けたが、すでに彼女は真っ直ぐとフロントライトの照らす先を見詰めていた。ミラーには、左右に分けた彼女の長い髪が僅かに揺れて映っていた。

「で、今って何の話しをしていたんだっけ」ミカさんはカーステレオに音楽を歌わせ、会話に差支えない程度に音量を調節しながら言った。ゆったり目の切ないピアノのメロディに、対象的な激しい鼓動の様なビートの乗った音楽だった。僕にはどうも、不調和に聴こえ、素直にいい曲だとは思わなかった。

「今日これからすることについて――ですよ」僕は答える。曲との嗜好の違い位で、僕は不機嫌になったりはしない。だから、さわやかな口調を意識した。

「そうだった。まあ、あそこに着けば否が応でも理解するだろうから、私の後ろにくっ付いて、優雅に観察でもしてて」

「はぁ」僕は曖昧に頷き、生半可な相槌を打った。

 空も街も今は、夕方から夜へと変遷していた。夜空に浮かんだ月は弦月だった。弦月は、ただでさえ円月に比べて半分も光源を放っていないのに、街のネオンに遠慮するかのように、霞んだ空へ更に慎ましく控えていた。

 ミカさんの車は黒色のセダン。だからきっと、月から車を見下ろせば僕たちは、光の後を付き纏うように追いかけている闇に見えることだろうな。

 会話の沈んだ車内で僕は、ぼんやりと俯瞰的に世界を眺めていた。


 ***2***

 ミカさんは二十四分前にこのホテルの様なマンションへ(もしくは高級マンションのようなホテルかもしれないが)、セキュリティを解除しないまま正面フロント入り口から堂々と侵入した。(侵入と言うよりも、突破と言った方がしっくりくる気もするのだが)案の定、蜂の巣をほじくったが如くスーツをめかしこんだ如何にもなSP風の男達が、僕たちへ立ちはだかった。しかしミカさんはそれをものともせずに、振り切ろうとする動作すら見せずに、あしらうように、最上階(三十三階)の四階下(つまり二十九階)にあるVIPルームへ造作もなく辿り着いてみせた。彼女の一体どういった動作が、彼ら屈強な男達の行動を抑圧し、実質制圧していたのかは、僕の洞察力では到底分析できる現象でも、理解できる代物でもなかった。ただ一つだけ気が付いたことは、ミカさんは常に敵から挟まれるような所作で移動していた、ということだけだった。相手は銃を持っているのだから、逆ではないか、と思ったのだが、どうやら対極に味方がいることで、むやみやたらに銃を発砲できないようにしていたらしい。

 このことを後に食事をしつつ彼女へ訊ねたところ、「味方の安否を気遣うような三流なんて、SPとは呼べないよね。だって仮にもSPだよ? スペシャルを名乗っておいてそれはないよね」と語尾を上げて答えてくれた。ミカさんには珍しく、ご機嫌のご様子だった。その時食したハニートーストがお気に召したのだろうか、それとも加工終了後には何らかの達成感で満たされるのだろうか?

 兎にも角にも折角のミカさんの楽しそうな気分を害さないようにと僕は、「SP」がスペシャルではなく、セキュリティポリスの略語であることを敢えて指摘しなかった。それにもしかしたら、ミカさんたちの世界では「スペシャル」と呼称される職業があるのかもしれないのだから。僕の知っている世界と、知らない世界では、圧倒的に知らない世界の方が広いのだから。

 ミカさんは僕が出会った時から今に至るまで、陽気で鷹揚な雰囲気だった。けれど僕にはそれが、高度に極められたポーカフェイスに見えて、実際にミカさんがどういった感情を抱いているのかなんてことは、皆目見当もつかなかった。単純にミカさんの上っ面の表情だけで判断すれば、ずっと楽しそうな、可憐な女性のように僕の瞳には映っている。

 けれどこの食事の時ばかりは、微塵も窺えないくらいの微々たる機嫌ではあるけれど、僕には彼女が、心から今を楽しんでいるように、そう見えたのだった。


 マンションへ乗り込む前、入り口前に警備員が二人立っていて、ミカさんと僕は、彼らに入場を拒まれた。優しそうな、警備員さんたちだった。唐突に来訪した招かれざる者である僕たちに対して、努めて申し訳なさそうに対応してくれた。彼らは健気に、そして従順に仕事を全うしているだけなのだ。けれどミカさんは、握っていたナイフで躊躇なく、かつ容赦なく、彼等の首筋にある頸動脈を切り裂いた。ミカさんの後ろにいたおかげで僕は返り血を浴びずに済んだ。(もちろんミカさん自身も返り血は浴びていないのだが)けれど一瞬とはいえ思っていた以上に血が噴き出していて、思わず僕はたじろいでしまった。案の定、二人の警備員だった人間は息絶えた。ミカさん風に言えば、屍へと加工されたのだ。

 一瞬で、二人の命が蒸発する様に消え失せた。呆気ない。なんとも呆気ない過程なのだろうか。生から死へのプロセスとは、こうも刹那的で曖昧なものなのだろうか。こうも単純なことだったのか。僕は目の前で地に伏し、血に濡れた「動」なき二体から伝い出る血液を見詰めながら、そこから霧散していっているだろう温もりを、僅かにでも感じ取ろうと息を止めていた。

 ――しかし。と僕は不安になる。これでは、こんなにも刹那的で曖昧では、死への瞬間など意識しようにもなく、また、観察しようにもない。けれどそれは致し方ないことなのかもしれない。何事も、初めから把握し切ることなど無理なのだろうから。初めて見たミカさんのナイフ捌き。それですら僕には視認しきれなかった。角度的な問題もあったが、それ以前に、ミカさんの腕の軌道が全く見えなかった。一振りで二人の首を切り裂いたのか、それとも数回の太刀筋があったのか、それすらも僕には見切れなかった。

 そもそもミカさんがナイフを振ったことに気が付いたのも加工が終了し切ってから、即ち二人の警備員が首を切り裂かれ、崩れ、地に伏し、血に濡れてからのことだった。彼女に加工された今は亡き警備員二人の、間の抜けた表情を見ながら僕は、その首から血が噴き出し、崩れる様に倒れる姿を順々に瞳に映していった。それと並行して、順々に何が起こったのかを僕は判断しようと目まぐるしく脳を働かせ、思考を巡らせた。

 視線の端に映るミカさんの右手。その右手がナイフを握っていて、そのナイフの刃先がほんの僅かに艶っぽく湿っていることに気が付いてようやく僕は、目の前で起こった出来事を納得するに至った。ミカさんがナイフを振るって二人へ死を与えたのだな――と。

 遅すぎる認識と、早すぎる加工の過程に、僕は酷く愕然とし、それと共に受け入れた。一回の観察で認識できないのならば、回数を重ねればいい。何度でも観察を繰り返し、幾重もの人の死を認知しなければ、僕は一向に求める景色をみることはできないのだから。ならば、何度でも、幾重にでも死をこの瞳に映し、心に重ねなくては。僕はそれを、受け入れた。

「人は体験を重ねることで、知識を人格に有することができるんだぜ」そんな知人の言葉を思い出す。


「ぼうっとしてんなよ、行くぞ」二個の加工物はそのままで、ミカさんはマンション内へと足を踏み入れた。目の前の死にたてを名残惜しみながらも僕は彼女の後に続く。

 マンション内は、中央が吹き抜けになっており、壁には東西南の方角にエレベータが配置されていた。ホテルのフロントの様な受付場が中央に重々しく存在し、ここが大手企業のオフィスビルであると言われれば僕は、微塵も疑うことなく信じたことだろう。僕が勤めていた電気機器メーカのオフィスビルも、丁度こんな具合だった。とは言ったものの実際には僕は、そのオフィスビルではなく、実験塔のある別の場所へ勤めていたので、オフィスビルという建物の内部をよくは知らない。が、フロントに誰も立っていないことが、異様であり、異質だった。来るものは拒まず、というよりかは逆に、全く歓迎されていないような気にさせる。警備員はいたのに、従業員がいない。フロントがあるのに、受付がいない。とっくに営業時間は終了していますよ、と無言で答えられているような錯覚に僕は陥る。

 中央部を見上げると、十五階位まで吹き抜けが続いていて、それぞれの階にバルコニーの様な通路があるようだった。視線を一階のフロアへ戻して見渡してみた。東西南それぞれのエレベータの横には通路が空いていて、どうやらそこに階段があるようだった。フロントの奥の方にはエスカレータも設置されていて、吹き抜けをジグザグに縫っていた。

 ミカさんはしばらく、周囲を窺うように視線を巡らせたあと、真っ直ぐと右手側のエレベータへ向かった。

 僕も顔を右に振り、足先と視線をエレベータへ向けた。

 途端。

 僕の視界の端が黒く濁る。

 僕の瞳が、黒い蠢きを捉える。

 首を横に向けるよりも早く、僕はミカさんに引っ張られ、体勢を崩す。

 僕はエレベータのある壁まで吹っ飛んだ。ミカさんの力が非常にかつ異常に強いということを認識した、決定的かつ記念すべき瞬間だった。

 壁と激突した背中を擦りながら僕が顔を上げると、そこには黒いスーツに身を包ませた男たちが数十人と、黒い迷彩服に身を包ませた男たち数十人、合わせて三十人以上の男たちの間を縫う様に駆け巡るミカさんの姿があった。男たちは武装していた。手には拳銃や刀のような刃物、それから月の様にぼやけて光るボールを鎖鎌のようにぶんぶんと操っている者もいた。

 躍っているのかと思った。パーティ、舞踏会かと思った。

 男たちは一様にかくし芸のような動きを見せているし、何よりもミカさんは笑っている。楽しそうにすら見える。というよりも、さっきまでの表情と変わっていない。故に、陽気な表情のままのミカさんだった。

 だから、ミカさんが躍っているのかと思った。

 僕はのけ者だった。完全に蚊帳の外。その異色の舞踏会を眺めている観客のようだ。

 けれど、僕は気が付く。

 これが舞踏会でないことに。

 そんな当たり前のことに。

 今さらながら、ようやく僕は、気が付いた。

 なぜなら、ミカさんが男たちの側でターンする度に、大切な何かを奪われた様に、そしてスイッチを切り替えた様に、男たちは崩れ去っていく。だから僕は、どこかで観た光景だな、と暢気に首を傾げていた。

 ああそうだ、と思い至る。

 ついさっき見た、外の光景。

 一瞬の閃光が如く走ったミカさんのナイフ。

 その直後に血を噴き出し、崩れた二人の警備員。

 同じだった。

 目の前で繰り広げられるミカさんのダンス。それはまさしく命の加工、死への加工だった。

 しかし、男たちは崩れる様に倒れてはいるが、鮮血を一切出していなかった。それは僕の方へ飛ぶように駆け寄ってきたミカさんの手に、ナイフが握られていないことを視認したことで、僕は納得する。ミカさんは加工をしていなかったのだ、と。

 加工を見切ることすらできなのか。これでは駄目だ。僕は落胆する。

「おい、乗るぞ」胸倉を掴んで僕を立ちあがらせたミカさんは、エレベータの前に進んだ。後ろには黒装束の男たちが、こちらを牽制じりじりと寄ってくる。あれだけ倒れていたのに、まだ三十人以上残っているように見える。


 エレベータは既に一階に止まっていた。ボタンを押すとすぐに開く。

「ほら、先入って」ミカさんは顎を振って、僕を促す。扉の開いたエレベータが閉じないようにと、彼女は入り口を押さえ、側面に立っていた。

 僕は言われるがままに中へと足を踏み入れる。全面鏡張りという、なんとも奇怪なエレベータだった。その異様さに気を取られている間に、エレベータの扉は閉じ始める。

「え、あの、ミカさん?」僕は間抜けた声を出す。彼女はまだ外にいた。エレベータに乗り込んでいなかったのだ。

「すぐ行くからさ、先行ってて」こちらに顔を向けずに、声だけで彼女は答えた。

「いや、でも」何階で降りればいいのですか、と訊ねる前に、扉は閉ざされた。それでも、上昇をし始めた直後、扉の向こう側で、ミカさんの「あ、二十九階だから」という叫びがギリギリ届いた。

 鏡張りの室内は居心地が悪かった。なのに不思議と不快には感じない。どこか不思議な気持ちにさせてくれる。精神を揺るがし、不安定にさせてはいるが、侵食も破壊もしない。害のない不安定。それは娯楽に必要な要素でもある。だから僕は自然と笑みを溢す。ミカさんの心配はこれっぽっちも抱かなかった。そんな心配は無用の長物であるし、むしろ名誉棄損にすら成りかねないくらいだ。

 僕を一人だけエレベータに乗せたことだって、僕を助ける為と言うよりかは、僕が邪魔だったから、という理由の方が大きかったに違いない、と思うくらいだ。彼女がナイフを使わず加工しなかった理由も、元同僚だからというだけの気紛れな配慮だったのかもしれない。

 僕は彼女と出会ってからまだ四時間ほどしか経っていない。だから、彼女に対して、特別な想いを抱いていなければ、特別な信頼も寄せていない。それでもミカさんが、僕と交わしてくれた約束を破ることは絶対にない、ということだけは酷く当たり前のように信じていた。いやそれはもはや既に、僕の内では揺るぎない事実として定着しつつある。その予定日がいつになるのかが解らない不満があるにしろ。だから、ミカさんがすぐにでもまた僕の前へ飄々と現れることは、想像に難くない。

 エレベータは途中、三度無人の階に止まった。その三度とも、僕はまったく警戒を抱くこともなく、開いた扉の先には既にミカさんが先回りをして「よう、遅かったな」とひょうきんな言葉を言いながら出迎えてくれるのではないか、という幼稚な賭けを楽しんでいた。三度とも僕は、ミカさんが僕を出迎えてくれる、という期待値の低い方に賭けていた。もちろん三度とも、ミカさんの姿はなく、一階で遭遇したような黒スーツと黒迷彩服の男達の姿も無かった。エレベータよりも早く階段で昇って来ることは、不可能ではないにしろ、あれだけの人数を相手に、階段で昇って来るとなれば、それはそれは大変なことだろう。それでも僕は、ミカさんの安否をこれっぽっちも心配しなかったし、ミカさんが扉の向こう側にいないことで気分が沈んだりもしなかった。鏡に四方を囲まれている僕は、その無限に連鎖していく重複した世界に少し酔っていた。個室であるのにも拘わらず、際限の無い空間に放り込まれた様な感覚。エレベータが止まる時と上昇する時の僅かに感じる重力変化。それらが僕に、自己の座標の不鮮明さを与えていた。それは言い換えれば、上下左右が交錯し、自分がどこにいるのか、鏡に映る無数の自分のどれに「僕という僕」が宿っているのか。そんな疑問をアルコールの様に与えてくれていた。

 二十九階に到着し僕が出した間抜けた声よりもさらに間の抜けた「ぽーん」という音が鳴る。それでも、ここまで来る間に三度同じ音を聞いているので、その「ぽーん」という間抜けた音は、案外に僕へ親しみを抱かせるまでに至っていた。

 一瞬の重力増加。

 そして減少。

 静止。

 空間が座標を固定する。

 扉が開き始める。

 さぁ、四度目の賭けだ。けれど流石に今回ばかりは「いない」方に賭けていた。外れ続けは少なからず癪に障るものだから。つい先ほど、「三度めの正直」が外れたことで僕は、賭けが外れた対価として、今月一杯の間コーヒーを飲まない、という制約を自分に強いなくてはならなくなったのだ。これは飽くまでも賭けである。だから、賭けが外れれば、ペナルティを負わなくてはならない。それが僕の内だけで繰り広げられる、自分カジノであったとしても。賭けが当たった際に支払われる対価が、禁欲の一時的な解放という些細な自由であったとしても僕はその自分ルールを曲げることはしない。

 扉が静かに左右に割れる。

 扉に映った僕が、縦に割れる。

 扉に映った僕が、消える。

 代わりに現れる馬の尻尾のように垂れる髪。

「おう、遅かったな」

 振り返ったミカさんは屈託のない笑顔で。

 僕を出迎えた。

 たった今僕に、「今月一杯、甘いもの禁止令」が発令された。


 ***3***

「失礼します、加工しに参りました」ミカさんはドアを蹴り破ってから、部屋全体に響くように、けれど飄々と宣言するが如く言った。ピザの宅配に来ました、とでも伝えるかのように。

 どうみても重層な扉だったにも拘わらず、段ボールでも蹴り飛ばすような所作だった。物理的に決壊しやすい場所を、適切かつ正確に突いたようにも見受けられる。しかしそれが彼女の身体能力の高さゆえに成せる技なのか、それともオーソリティ的慧眼で見極めたゆえに成せる業なのか、それを判断するにはまだ、僕は彼女と過ごした時間が圧倒的に短すぎる。否、人を理解した、と思い込むのに時間の長短など微々たる問題である。しかし、だとしても、それにしても、僕はミカさんという人格を認識するのに、余りにも彼女に関する情報が少なすぎるのだ。それもそのはずである。彼女、ミカさんと僕が出会ったのは、たった数時間前、正確に言うなれば、四時間二十五分前なのだから。いや、調度今、一分過ぎたので、四時間二十六分前丁度、となった。

 奇しくも僕は、四時間二十六分前に、ミカさんに殺されるという状況になっていた。それがどのような経緯でこのような、彼女の雇い主である加工請負会社なる本部に意趣返しのような殴り込みを仕掛けているのかと言うと、話せば四時間二十六分二十三秒分は長くなるし、そもそも、論理的な展開によって、このような状況になっているわけでもないのだ。一言で表すに無理がある。けれどその無理を通して敢えて表すならば、「偶然こうなっている」としか言いようがない。そもそも、説明して納得してもらえるような経緯では決してないのである。僕自身、ミカさんがどうして、こんな僕にとっての善行に値する好意的行為を働いてくれるのか、皆目見当が付かないくらいなのだから。僕に判ることと言えば、ミカさんが少なくとも気紛れな性格を有する人物であるということくらい。それくらいしか僕には判らないのだ。詰まる所、経緯は説明できるが理由は説明できない、そんな感じなのである。

 それからこのビルに乗り込み、僕がエレベータで上昇しているほんの一分程度の時間でミカさんは三~四十人はいたであろう屈強な男たちを振り切って(もしかしたら圧倒して)、僕の乗ったエレベータよりも先に目的の階、つまりこの二十九階へと辿りついていた。階段を上ってきたとして、距離にしたらざっと五百メートルはあるだろう。それをたった一分で駆け昇ってきたのだとしたら、それはもはや人間業ではない。百メートル十一秒で走っているようなものだ。しかも、昇りの階段を、である。それに加えてミカさんには障害物が、それこそ意思を持つ障害があったのだから、ミカさんという人物の異質さがそれだけで充分に認識できた。なんだか参加型のイリュージョンを観ているような気分にもなる。


 ミカさんは大破した扉を潜り、部屋へと踏み込んだ。僕も後に続く。

 無駄に広い、と僕は思った。眼中に飛び込んできた神谷なる人物の部屋への感想だ。こんな風に空間への感想を抱いたのは小学校中学年の時に、初めて海を見た時以来だ。

 この部屋はとても広かった。豪華絢爛、そのままだ。無駄に広く、無駄に派手。二つ合わせて、贅沢な部屋。この一言に尽きる。「無駄と贅沢は比例する」とはこれまた知人の言葉だった。僕の記憶にある箴言の九割はきっとこの知人によるものだろう。


上には煌びやかで如何にも質量と値段の高そうなシャンデリア。床は見るからに高級そうでありながら、眼に悪そうな痛々しい色調でなければ、気取った紋様でもなく、質素な部屋にでも合いそうな位に上品な絨毯で覆われている。更に真ん中の床は、絨毯に絨毯が敷いてあった。どんな重ね着なのだろうか、この床は御洒落だな、と僕は脳内で床を擬人化してみた。高飛車な床だった。

 左右の壁には見るからに美術館にでも展示されているような絵画が、芸術的な彫刻のあしらわれた額縁に収まって、いくつも飾られていた。その壁からリアス式海岸の様に、転々と不規則にブロンズが幾つか配置されている。半裸の女性だったり、天使だったり、或いは溶けたアメーバのような抽象的な造形だった。

 前方にはソファがテーブルを囲むようにコの字に配置され、その更に奥には校長先生の机のような社長の机の様な、そんなイメージの机がこの部屋に相応しくない異質なオブジェの如く介在されていた。

 その机の奥、この部屋の一番奥に当たる壁は、一面ガラス張りとなっており、二十九階からの景色を一望できた。というよりも、一人の男が一望していた。こちらを背にし、眼下を眺める様に立っている。聞くまでもなく、この人が、ここの統括者なのだろう。つまり、神谷なのだろう。その身分に遜色ない落ち着き払った物言いで、神谷は言った。

「どういうつもりかは理解に苦しむ以上聞きたくはないが、しかし、礼儀として一応これだけは訊いておくとしようかね。君、覚悟はできているのかい?」意に反して柔和かつ温和な雰囲気に包まれた言葉だった。よく通る、ハッキリとしたハスキーな声。けれど、僕らを威圧しない、優しい声。

「覚悟は、できているのだろうね」神谷はもう一度、繰り返す。

「覚悟があろうと無かろうと、この後の展開は決まっているのでは? お互いにさ」ミカさんは緩慢な動作で神谷へ向かって歩み寄る。けれど、真っ直ぐにではなかった。ミカさんはジグザグに部屋を進んでいた。部屋に飾られたオブジェへ近付き、それを一つ一つ撃ち壊しているのだ。何の為にそんなことをしているのか、僕には解らない。もしかしたら罠を解除しているのだろうか? それともカメラか何かがオブジェに組み込まれているのかもしれない。ただ、それならミカさんがわざわざブロンズへ近付く必要がない。彼女ほどの手腕があるならば、その場で全て撃ち壊せるはずなのだから。それは、ここまで来る間で観た、ミカさんの攻防撃を思い返せば、誰だって抱くだろう疑問だと僕は思う。

 彼との間合いはまだ、優に三十メートルはありそうだった。ミカさんは徐々に神谷との距離を詰めていきつつ、彼と会話を交わしていた。僕はそれを黙って傍観しているだけ。この部屋にいくつも点在し展示されている無意味なオブジェ。虚空なブロンズ。差し詰め僕もその一つなのだろう。だから僕もいずれ、ミカさんに撃ち壊されたブロンズと同じように撃ち壊されるのだ。

 神谷は一面ガラス張りのウィンドから視線を外し、踵を返すと、右手に拳銃を掴んで近づいてくる彼女のことなど気にも留めず、校長室にでもありそうな机の椅子に腰を沈めた。もちろん、次々と壊されていくオブジェのことを怒ることもしなかった。そんなことは些細な問題だ、とでも言うかのように、ミカさんの「互いにこの後の展開は決まっている」という台詞に答えた。

「そういうことだな。違いがあるとすれば、その殊遇に対する我々の大義名分が変化する位の差異だ。君の気が狂ったか、意図的に反逆したか、の違いだ。要するに、我々が君に施す処置が、処分か、報復か、の名称の違いに繋がるのさ。こう見えて一応私も雇われの身でね、書類の記述には毎度気を使うのだよ。この商売は信用度よりも、信憑性、つまりは正確さが求められているからね。君のこの酔狂な催し物の報告書には、処分という名義が妥当だろう」言いなが彼は、机に向かうようにして、顎の前で祈るように両手を組んだ。指を絡ませて組んだ手の奥から視線を、覗くように向けている。

「へぇ。ここが組織の上位、元締めではなかったのか」如何にもつまらなそうにミカさんは言う。ブロンズは相も変わらず砕き散る。なんだか暇つぶしの為に遊んでいるようにも見えくる。そんな時折響く銃声とブロンズの砕け散る音を縫うように、ミカさんと神谷は話し続けていた。

「お前らのような小者を管理するという意味ではまぁ、そうだな。ここが頂点ではある」

「小者、ねぇ。まぁ確かに私は小柄ではあるな」ミカさんは自虐的に言うも、どこまでも不敵な態度だった。

「しかしまあ、なんだ」と神谷は両手を返して、「君の相手をするような対応を私は見せてはいるが実際、今はあまり君に気を払うほどの余裕はないのだよ。いや、ここまでされている以上、対処せざるを得ないのだが、正鵠を射る表現で言えば、あまり君に関わっている暇はないのだ。今我々の組織が面している状況、君にだってわかるだろ? 悪いが我々は今、ゴミごときに配分する時間も労力もないのだよ」私が背負うべき責任は、君に分け与えるほど残っていない、と彼は心底苦々しそうに呟いた。

「客人に愚痴か? らしくないな」ミカさんは最後のオブジェを撃ち崩し、視線を神谷へ向けた。神谷までの距離はおよそ十二メートル。「ふうん。ゴミも片付けられない組織なんだな、ここは。そこの幼稚園を見習って土台から構築し直したほうがいいよ」マンションからそう遠くない所にある幼稚園を指すようにミカさんは顎を振った。もちろん、今は夜で、ガラス越しに覗いたところで、ここからは見えない。

「だから、それどころではないことぐらい君も知っているだろう。むしろだからこそ、この機会を狙って来たのではないのか?」神谷は顔を上げて真っ直ぐと、鋭い眼光を彼女に浴びせた。しかし、彼女を非難するような敵意を露わにするような、そんな不肖な視線ではなかった。きっと、神谷という男の持つ貫録が醸し出す眼力なのだろう。

「なんだ、あんたら今ピンチなのかい? というよりも、今はあんたが窮地なんだけどね」おどけるでもなく、冗句の様な言葉をミカさんは口にする。この場合、決して冗句ではないのだが。「組織の心配よりもさ、自分の心配をしなよね」

「ふむ。もしも君が本当に何も知らないのだとすれば、それだけで君がマスメデアから距離を置くような、自分以外の世界に無関心な人間だとわかるな。それとも自分にすら無関心なのか? もしくは君が意気地の悪い嘘つきか、歪んだ性格の天の邪鬼の可能性もあるな。しかしバックアップ無しのまま二人で乗り込んで来る時点で、君が馬鹿正直なことはわかる。だがそれでも、君が正直者でないことだけは確かなようだからして」つまり、と神谷はここに来て初めて威圧的に、声を出した。「つまり、お前は馬鹿だな」太く、ドスの利いた声だった。

「今更だな」まったく意に介さず、ミカさんは続ける。「組織の頭が構成員の人格を把握していない時点でここは既に終わっているよ。少なくともあんたは私と直に会ったことがあるし、その時に話もした。それで私の人格の表層くらい分析できないようじゃ、あんたも大した玉じゃないよね」

「そうかもしれないな。反論はしないよ」さっきとは打って変わって、神谷の口調は緩和に戻った。

「で、お偉いさん、時間稼ぎはこの位でいいかな? 張り合いが無さ過ぎるんで、ちょっとばかし付き合ってあげたはいいが、特に何があるってわけでも無さそうだよね。拍子抜けもいいとこだなぁ。もしもあんたが下にいた部下たちの助けを期待していたとしたなら、それはお勧めできないよ。既に私が挨拶してきたからさ、ばいばい、ってね」ミカさんは言って右手を上げ、拳銃ごとヒラヒラと振ってみせた。「それに、この部屋のセキュリティも、お粗末以下だよ。まったく、一体だれに任せたんだ? これじゃ加工ついでにゲームでもどうぞと言われてる気分だ」

「そうか、そんなに酷いか」と神は部屋を見渡し、苦笑した。「にしても、時間稼ぎとは心外だぞ。冥土の土産に君の質問に答えてあげたまでなのだが、どうやらお気に召さなかったようだ」残念だ、と眉を寄せつつ頬を緩めた。

「冥土? 地獄の間違いじゃなくって?」

「そうだな、失礼した。君が冥土に行けるはずもないことは周知だったな。地獄の火を見るよりも明らか、といったところか」

「そりゃそうさ、火を見るよりもあからさま、だよ。ちなみに言わせてもらえれば、あんたもだけどね。だいたい人類の大半以上、大部分は地獄に行くのだから、寂しがり屋な私としては、地獄に行けた方が願ったり叶ったりだよ。それにね、私の記憶じゃ、先に問いかけてきたのはそちらさんの方だった気がするけど」

「そうだったか? 私は忘れん坊でね。それに奇遇だが、実は私も寂しがり屋なんだ」神谷は眉間の皺を伸ばし、柔和に微笑む。そこには焦りや怒り、或いは企みや計算からくる余裕などは観察されなかった。優しいまでの屈託の無い微笑みだった。しかし、自暴自棄とも思えないだけに、僕には少し、驚嘆する部位があった。それは、僕だけではないのだな、という発見だった。彼はもう悟っている。諦めているわけではない、悟っているのだ、と僕には解るのだ。これはとても興味深い体験だ。無意識に僕も破顔していた。決して神谷さんの微笑に釣られたわけではない、と思う一方で、羨ましいな、と彼へ羨望の眼差しを向けている僕がいる。

「信憑性が聞いて呆れる」ミカさんは身体を斜めにし、右手を肩の位置まで水平に上げた。弓を射るような形に似ているな。僕は思う。

 神谷は既に死を受け入れていた。僕と同じだ。彼は自らが死ぬことを受け入れて尚も生き続けていた人種。だからいつ死んでも良かったのだろう。でも彼は決して生きることに絶望していた訳では無い。死をも甘受した上で、生を感受していた。その上で、組織という自分以外の成長と確立を喜びとし、生きてきたのだろう。死ぬ寸前まで、彼は自らを省みず、組織のことに気を配っていた。それは見栄でも矜持でもなく、彼の生き方そのものだったのだろう、と僕は憶測を巡らす。希望的観測に過ぎないのだけれど。

 冬場に頬を平手打したような、そんな音がした。

 部屋が広い分、反響して聞こえる。

 反響した音は二秒ほどで、砕けたブロンズの破片やソファ、絵画の額縁、シャンデリアなどに吸収されて、消えていった。

 椅子の倒れる音が続いて部屋へ響いた。

 はぁ、とミカさんは嘆息を吐き、踵を返してまたつかつかと戻ってくる。こうして改めて彼女の歩みを観察してみると、重心が一切ずれていない。モデルは敢えて重心をずらしているので、モデルの歩みとはまた別なのだが、感想としては「とても安定している」の一言だ。分析すれば、彼女は只者ではない、という結論でしかなく、この場合、感想と考察に大差はなかった。

「終わったよ」僕の横を通ると、さぁ戻ろうか、とミカさんは頬を緩めた。

「まだ誰か、人が残っているのではないのですか?」僕は疑問を口にした。武装組織に対する反逆行為の場合、報復を回避するためにできる限り、『塵も残さず徹底的に』が原則だと思っていた。それくらいの用心や保険は必要に思えたのだ。

「いや、最初に言ったけれど、頭を潰せば終わりなのさ。人も組織もね。ヒエラルヒーが重視されていて尚且つ、きちんと統括されている組織なら尚更だよ」

 ――頭を潰せば崩れるものなんだ。

 車中での彼女のセリフはそういう意味だったのか、と僕は今更ながら気付く。でも、だとしたら尚のこと、このままでは済まないのではないだろうか? 僕は危惧する。統括されているのなら、それだけ上にいるものを敬っている者も多いはずだ。親を殺されれば誰だって復讐心くらい抱くものだろう。

「さっきの会話を聞いていた限り、ここの組織を統括している組織がいるようなことを言っていませんでしたか? というよりも、この組織自体が、何らかの強大な権力と暴力を保持した組織の配下だということではないのでしょうか?」

「そうだけど、そうじゃない」ミカさんは拳銃の仕舞われて自由になった右手で指を立てた。それは一です、と言いたくなるくらい、ぴし、と立てられていた。「ここの組織は飽くまで独立して機能していた。私自身が長年雇われていたからね、雰囲気からでも十分に判る。それに加えて、今さっきでの神谷の話で確信したよ。確かに上にはまだ大きな組織があるみたいだ。けれど、でもそれは、ここでやっていたような個人を相手にした顧客のお仕事ではなく、もっと他の大きな顧客、それこそギャングやテロリスト、もしかした軍隊みたいな組織を相手にした、国相手のお仕事かもしれない。つまり、この加工請負会社の延長線上に核となる巨大な組織があるんじゃなくって、ここの組織が機能する為の、電源に過ぎないんだよ、その国家的な組織はね。例えれば、たかだか一市民の家のコンセントが壊れたところで、原子力発電所がアクションを起こさないのと同じ理屈だな」

「なるほど」と相槌を打ったものの、僕は納得していなかった。原子力発電所は確かにアクションを起こさないだろうけれど、それでもその家に住む者は、コンセントの修理を依頼するだろう。しかしミカさんが大丈夫だと言うのなら、きっと大丈夫なのだ、と無理やり納得し、「わかりましたありがとうございます」と僕は礼を口にした。「とりあえず、加工の意味も解りましたし、これからミカさんの行動に支障が来たす心配はなくなったわけですよね?」

「そういうこと」彼女は拳銃を懐に仕舞いながらテンポ良く言った。「これからは君にも加工を手伝って貰うし、できる様になって欲しいこともあるからさ、しばらく約束は放置だな」いや保留か、と頭を掻くミカさん。その仕草は少年みたいにあどけなかった。

「約束を守って頂けるなら、いつでもいいですよ」不満はあったが、できるだけ緩和な口調を意識する。「僕も早くこの手で加工してみたいですし。死を間近で観察するなんて、しかもその環境を自ら整えることができるなんて、そんな体験は中々できるものではありませんから。僕が満足した時、その時はどうか約束通り」僕を殺してくださいよ、と言う前にミカさんは僕の言葉を遮って、「わかっているさ。まかせろ」と口元を僅かに吊るして、静かに答えてくれた。

 ミカさんのその返答は、僕をとても、ご機嫌にさせた。


 ***4***

「あの、絨毯を頂いていかなくてよいのですか?」部屋から出ていこうとする彼女の背へ、僕は投げ掛けた。

 加工すること。そして、絨毯を貰うこと。ここへくる目的を、彼女がそう言っていたのを僕は思い出す。

「おおっと、忘れていた」ミカさんは部屋の中央へと踵を返す。ここに来て初めて足早に駆けたミカさんの姿を僕は目にした。

 この部屋の床は、全体を覆う様に絨毯が敷かれていた。そしてその絨毯の上に更に、局所的に、所々、絨毯が敷かれているのである。ミカさんは部屋の中央に着くと、大きさが四畳ほどの、青と赤の幾何学的な紋様が施された絨毯を丸め、軽々と担いだ。その動作は至って緩慢だった。それだけで、彼女の体力が極端に高いらしいことが判明した。絨毯は重い。特に、高級品で、踏み心地の深い絨毯ほど重いのだ。それをああも軽々と担ぐなど、少なくとも僕に真似はできない。あんな細身なのに、と僕は彼女のその異様に高いポテンシャルを訝しがった。

 僕の横に着くと「おっしゃ行こうか」と顎を振って、彼女は扉を跨いで廊下へと出た。

 このマンションへ入ってきてから、彼女のテンションはウナギ登りだった。初めのうちこそミカさんは、剣呑とした雰囲気を身にまとっていた。それこそ映画などの殺し屋のような。けれど今の彼女はどうだろう、人格が変わった様な変貌ぶりだ。やはり個人を相手にしてきた彼女としては、今回の様な組織相手の攻防戦は、自身の精神を高ぶらせるに十分だったということだろう。それとも、この状態の彼女が素なのだろうか。それはこれから彼女を、ミカさんを観察し続ければ、いずれ判断つくことだろう。

 それよりも、と僕は壊れた扉を潜る前に、振り返った。目下には一面ガラス張りの窓。その手前には先ほどまで神谷が肘を付いていた机がある。入ってきた時、つまり五分ほど前とはその風景は変わっていた。見ると、ガラス真ん中下の位置に、罅が走っていた。放射線状に、走っている。その罅割れは紋様のように見え、大樹の枯れ枝の様でもある。その枯れ枝を彩るかのように、真っ赤な鮮血が、満開の梅の如く、咲き乱れていた。梅肉をすり潰したような果実を実らせながら。

「奇麗だな」柄にもなく僕は、そう思った。

 僕もまた、人柄が変わっているように映っているだろうか? 彼女の瞳には。

少なくとも僕は自覚している。自分の変化に。それは些細であり、無駄であり、傷でありながら、求めるに十分な見返りを、満足を、僕に齎してくれている。そんな気がするのだ。

 ――自己陶酔ここに極まれり、だな。

 僕は自分を嘲笑しつつ、絡まった髪の毛を梳かす様に頭を掻いた。

 振り返る時。扉を跨ぐ時。そして部屋から足を踏み出す時。僕は三度、神谷の頭が吹っ飛ぶ所を思い浮かべた。けれど、廊下に出て、ミカさんの背を追い始めた瞬間、それは思い出には決してならない記憶として、思い出になることを許されない記憶として、透明なままに、僕の脳裡を離れ、僕の内へと沈んでいった。

 僕が求めているのは、あれじゃない。子どもが興味を失ったおもちゃを公園へ置き去りにするような、そんな殺伐とした潔さで、僕はその真っ白いキャンバスの様な記憶から手を放し、駆け寄ったミカさんの背に小さく囁いた。

「お願いしますね」

 あなたに加工される時、きっと今以上に、幸せなのだろう。

 加工される間際の僕が、きっと今以上に、幸せなのだろうから。


 ***5***

 上へ昇る時に使ったエレベータは、緊急時につき配電を止められているようで、扉が開く気配は無かった。仕方なくミカさんは階段を使って下りる。僕もその後を追う。


 十五階まで降りたところで階段はピロティのような広場に繋がった。一端その空間へ出て、対極にある階段まで移動しなくてはならなかった。遠くから射撃されれば、きっと避けられないだろう。しかし、ミカさんは大丈夫だと言わんばかりに躊躇なくその空間へと姿を晒した。僕もすぐ後ろに付いていく。

 途端。

 アイスに群がる蟻の如く、ミカさんは囲まれた。デジャブだった。今回は僕も一緒に囲まれた。黒スーツの人間と、黒い迷彩柄の人間達。半々くらいが入り混じって、僕ら二人を円の中心として、取り囲んでいる。今から「かごめかごめ」と歌いだしそうな雰囲気さえ漂っていた。

 射撃ではなく、待ち伏せ。

 殺すのではなく、生け捕り。

 手段が違ったことから、目的が違うのだろうな、と僕は推測する。

「あんたらの頭は潰したよ」ミカさんは宣言する様に言いきった。

 依然、僕らは囲まれているが、攻撃されることはなかった。静けさが満ちる。

「おいおい、聞こえなかったのか? お前たちの雇主は死んだんだ。こんなことをしてあんたらに誰が金を支払う? ただ働きもいいとこだ。もちろん、怪我をしたって保険もおりないよ?」ミカさんは冗句のように軽口を叩き続ける。「私の目的はもう終わった。あとはこのビルを出ていくだけだ。遠足は帰るまでが遠足だからね。だから、もしも私らをこのまま通してくれるんなら、あんたらはこの後、新しい就職口を探すことも、酒を飲んで酔っ払うことも、ベッドの上で女をころがすことも、好きなことを自由に選択して実行できるだろう。だがもしも、私に挑むようなことをすれば、少なくともこれから風呂場で鏡越しに自分の身体を見る度、私の顔を思い出すことになるよ。私としては嫌な気分ではないが、あんたらにしたら、うん、どうだろうねぇ? ただ働きにしちゃ、割に合わないと思うけどな。それも一人の女にこの人数。自慢するには情けねぇだろ。どうだい、違うかい?」

「さぁ、道を空けな」言うとミカさんは威風堂々と歩み出した。方手をポケットに突っこんで、絨毯を担いだまま。無防備もいいとこだ。

 けれど誰もミカさんに手を出すことはなかった。僕も何事もなくミカさんの後に続く。

 金魚の糞のようだな。僕は思う。だからこそ、僕は無事なのだろう。誰だって、金魚の糞には興味が無いのだから。

 オーゼの海割りのように、人が織りなす円が割れて、僕らの通り道が空いた。その先に、グレーのスーツを着た男が一人、割れた人波の先に立っていた。

 肩幅が広く、背も高い。腕を後ろで組み、顎を上げて、見下ろす様に視線をこちらへ向けていた。短髪の目が鋭い男だった。それから良く見ると、彼の脚に縋るようにして隠れている女の子が一人、顔を半分だけひょこっと出して、こちらを窺っていた。帽子を深く被った幼い少女だった。僕が気づいたのだからミカさんだって気が付いているだろう。にも拘らずミカさんは歩行速度を緩めることなく、一定に保ちながら、その男の前まで進んでいった。女の子には目もくれず、男の顔を真っ直ぐと見据えたままで歩み寄る。

「どういうつもりだ」男は眼下に入ったミカさんへ呟いた。

「それは私の台詞なんだけど」言うとミカさんは男の胸にぶつかるぎりぎりで歩みを止め、男を見上げ、「なぜ私に神谷を殺させた? あんたがいたのなら、防ごうとすればいくらでも防げたはずだろ」と担いでいた絨毯を乱暴に床へ下ろした。

「人聞きの悪いことを言うんじゃねぇよ、それだとまるで俺がお前に奴を殺せと指示したみたいだ」

「もう神谷のことを奴呼ばわりか。雇い主なのにね。まぁいいよ、お陰で楽に加工できた。ここまであんたの思惑に嵌ってやったんだ、できることなら対価をもらっておきたいもんだね」

「対価? 金でいいのなら今度食事の時にでも渡してやるよ。もちろんそれは俺の好意であって、お前の勝手で酔狂な暴走もとより反逆への報酬ではないことは予め断っておくけど。俺はお前に依頼した覚えはないし、むしろ俺はいつまでたってもどこまでいったって雇われの身分だからな」言うと男は背中で組んでいた腕を解き、胸の前で組み直した。幾分か緊張感を落とす為に行った仕草にも見えた。

 ミカさんは、あっそ、とでも言う様に相槌を打つこと無く必要最低限の言葉だけを口にした。「金はいらない。情報が欲しい」

「ものによるな」

「情報にモノも形もないだろうが」

「何に関する情報だ?」

「この組織の上にあるもっと陰湿な組織のこと」ミカさんは抑揚のない口調だった。

「陰湿かどうかは定かではないけど、まぁ俺はそのことを知っているし、ある程度のことなら教えてやることもできる」

「なら教えろ」

「それが人に物を頼む態度かよ」と男は苦々しく口元を吊るして、肩を竦めた。

「勘違いしないでくれない? これは頼みごとじゃない。これは対価なの。さっきそう言っただろうが。あのさ門前、あんたがそのお得意のマジックを遣ってたなら、私なんて簡単に足止めできただろ、百歩譲って神谷をみすみす殺させることはしなかったはずだ。なのに私は容易に加工を終えることができた。そのことだけで、十分にあんたが神谷を守る気が無かったことは自明の域なんだよ。むしろ私には、あんたが私にそのことを敢えて示しているという風にしか見えないんだけどね、殺させてやるから上手くやれよ、ってさ」

 門前、それがこの男の名前らしかった。僕は存在を薄くして耳を欹てている。ミカさんの邪魔にならないように。門前の足元にいる女の子。その子と僕は、今は全く同じ存在に感じられた。ここにいて、ここにいない者。その仲間意識を僕はその女の子へ勝手に抱いていた。まぁ、端的に言えば、のけ者とも言うのだが。

 門前はやれやれ、と仰々しく首を振り、遠くに視線を向けた後、ミカさんへ朗らかにした視線を戻した。「深読みしすぎだぜ。買いかぶり過ぎとも言うな。いいか、俺はそこまで思慮深くない。それにさ、マジックって」と苦笑しながら彼は眉間に皺を寄せ、「もっと高尚に『能力』と言ってもらいたいものだな」と続けた。「そもそもお前だって俺の能力とタメ張れるくらいの、それこそマジックさながらの身体能力を持っているだろう。誰が一瞬にしてこいつらを蹂躙できるって」門前は視線をミカさんの後方へと向ける。そこには静かに屯っている黒服たち。「拳銃一つとってもだな、適度な運動後に、決して軽くは無い拳銃を数分間水平に支え続けて尚も寸分違わずに射撃できる人間が、一体この世界にどれだけいる? それを人は異常と評価し、能力と呼称するんだよ。それを暗殺なんて地味な仕事に付いて、控えめに遣っちゃってまぁ、宝の持ち腐れじゃねーか」

「知らないのか? 能ある鷹は爪を隠しながら研ぐものなんだよ」

「俺が知っているのは、能ある鷹は爪を武器ではなくアクセサリに見せるらしいってことだけどな」

「ネイルアートで格好が付くのは、盛りを覚えた少女くらいだよ。三十路の親父が言う台詞じゃないね。あー気持ち悪い、気色悪い。ねぇ、こっち見ないでくれない?」

「かぁ、言うねぇ。てか俺の歳、四捨五入してんじゃねぇよ。それを言ったらお前だって三十路だろ」

「あんたの知ってる私に関する情報なんて、大体が偽りだよ。私の性別だってあんたは多分間違って認識しているだろうね」

「如何にも本当みたいな冗句は止せって。結構あとから悩むんだよ俺」こう見えて案外繊細なんだからさぁ、と門前は至極真面目に懇願した。

 繊細? 誰が? とミカさんは鼻で笑うと、それにね、と凄むように襟を正した。「それにね、あんたは年齢どうのじゃなくて、見た目がオヤジだって言ってるの」相変わらず冷めた口調でミカさんは毒を吐く。

「主観的な見解を一般化するのは感心しないよ?」物ともせずに門前は切り返した。

「自意識過剰な見解を一般化する方が頂けないと思うけど。それから、いい加減話をはぐらかすのはやめて、さっさと対価を払ってほしいわね」

「対価ねぇ。まぁいいよ。ここだけの話、今日お前が来なかったら俺が奴を始末していたことは確かだからな。代行の分としての情報はやるよ。にしても焦ったぜ、お前が奴の護衛に来たのかと思って余計な神経削っちまった」

 ミカさんはわざとらしく短く嘆息をつくと、「どうして門前、あんたはいつも意味の無い嘘ばかりつくんだ。私が誰かを守るなんてそんな仕事を受けるわけがないことくらい解っているだろ。あんたのそういうところが特に――特大に――私は嫌いだ」

「知らないのか? 意味の無い嘘のことを総じて冗句と呼ぶんだよ。それに護衛をしないのなら、後ろのその兄ちゃんは誰なんだ?」門前は顎を振って僕を示した。「兄妹って風には見得ねぇが」

 ミカさんは振り返ることなく答える。「予約者さ。加工のね」

「予約――ねぇ」

「で、どっち? 教えるのか教えないのかハッキリしてよ」ミカさんは話を元に戻した。

 僕のことでこれ以上話すことを避けているようにも見えた。門前もそれっきり、僕について詮索するようなことは口にしなくなった。

「ああ、そうだったな。とりあえず言えるのは、俺が上からここを解体しろと指示されたことくらいだ。ここで雇われていたお前以外の始末屋は俺たちが全て始末した。始末屋が始末されてりゃ世話ねぇよな、本当笑える。んで残りはお前だけだが、建前上、ここを部外からの武力で壊滅させられた、という風にしたほうがいいらしくてな。お前の存在は貴重だ。故に、俺たちはこれ以上干渉しない。安心したか?」

「あのね、あんたの仕事自慢なんて聞きたくないんだよ。言われなくたって想像は付くし。まぁ、さっきまで私たちを囲んでいたのがあんたの部下だったってことで一つ納得はできたけど。あいつら暗殺者としても始末屋としても加工屋にしてもお粗末すぎる。それが気になっていたんだけど、まぁあんたの部下だってので、腑に落ちたよ」

 僕はミカさんの話を聞いて、ふと周囲に意識を向けると、先ほどまで僕らを囲んでいた黒スーツと黒迷彩服姿の人間たちが消えていた。まさに、いつの間にか、だった。

「あいつらは俺がいなけりゃごりごりのインディビジュアリストだからな。統率やらルールやらなんて関係ないのさ。もし俺の指示が無けりゃ、今ごろお前だってただでは済んでなかったぞ。あいつらの技量を図り損ねている時点で、それは明確だ」

「そいつはどうも。でもあんたのその好意的な指示の件ことを差し引いても、私には対価をもらう権利があると思うけど?」

「今度食事をしながらじゃ駄目なのか?」男は上着の内ポケットから煙草とライタを取り出した。透明なアクリルの箱に入っているかのように、煙草が単品で数本とシルバー製のライタが、門前の指から一センチ程の隙間を空けて浮いて見えた。光の反射が全くなく、煙草とライタが浮いて見えることと、彼の指が透明な何かを握っている、という視覚でしか、その箱の存在を認識できなかった。その透明なボックスから門前はライタと煙草一本を取り出して火をつけ、ライタを透明な箱ごとまた内ポケットに仕舞った。マジックでも見せられているような不自然さだった。透明な箱。無色の箱。クリアボックス。

「食事? 誰が誰とだよ」ミカさんは口悪く言う。「さっさと話すこと話して、私の前から消えて欲しいんだけど、お願いできるかなぁ?」

「わかったよ」むっとするでもなく、門前は答える。「あれだ、この組織の上に存在するコミュニティはな、世界を支配しているのさ」至って真面目に彼は言った。

「支配? 世界をか?」ミカさんは噴き出す。「おいおい、いい年こいた男が言っていい言葉じゃないぞ。いや、あんたを少し見なおしたよ。中々に面白い冗句を言えるじゃないか」

「冗句じゃねーよ」今度は多少むっとして、門前は答える。「端的に言うならそれが正鵠を射っている表現だ」

「だとしても、せめて牛耳っている、くらいには言葉を選ぶべきだ」まだミカさんは微かに肩を揺らしいる。

「いや、本当に支配しているんだよ。この世界をね。いいか、人間社会を、じゃない。この世界をだ。自然も含めた、この世界をだ」

「わかったからさ門前、あんたが面白い奴だというのは十分に判ったから。ほら、いいから真面目に教えてくれ」

「あのなぁ」と門前は溜息を吐く。「さっきから俺は至極真面目に言っている。お前が俺の言葉をどう捉えようと勝手だが、俺はこの表現を変えるつもりもないし、他に言いようを知らない。だってよ、これが事実なんだから」むつけた子どもの様に門前は唇を尖らせた。

「にしてもなぁ……世界を支配ねぇ」ミカさんは訝しる様に、首を傾けて、「まぁ、いいや。で、その傲慢な組織はどこに本拠地を置いていて、どんな活動をしているんだ?」

「俺がそれを知るはずもないだろう。俺が知っていることは、そのコミュニティが、俺たちの様な社会から弾かれちまっている人間たちの働き口を整えてくれているってことくらいだよ」

「そいつらが戦争を引き起こしているってことか?」

「そういうことじゃねぇ。いや、実際そういうこともしてんだろうけどよ、そうじゃねぇんだよ。俺が言ってんのは」

「だったら何だ? あんたの話はいつももどかしい。馬鹿なのはわかるが、馬鹿なら馬鹿なりにもっと掻い摘んで話しなよ。複雑に話そうとするから支離滅裂になるんだ」

「くっく。相変わらず短気だな。つまり、あれだよ、そいつらがいるから、俺やお前みたいな異常者が生まれているってことだ。いや、これも違うか。そいつらがいるからこそ、俺やお前がこうして社会とのズレを認識してもなお、生きていられる。こう言った方が正しいかな」

「わからん。そもそも私は社会とのズレなんて感じちゃいない。誰だって人とズレているし、その個人の複合体である社会からズレているのも当たり前の話だ。要するに、誰だって社会からズレている。だからこそ、私はズレてないし、門前、あんただってズレちゃいない。あんたは社会から弾かれたんじゃなくって、社会から逃げ出しただけだ。私たちは何も特別じゃない。私たちが加工してきた人間どもと、同じ、代替され続ける物質に過ぎないんだよ」

「始まったぜ。お得意の説教か?」

 ミカさんは鼻から短く息を吐くと、「あんたと話している時間は無駄だということを今――思い出したよ。もういいや。私らはこっから出ていくから、さっさとコレ、外しな」言ってミカさんは目の前の空間を小突くように指差した。目の前の門前を指差しているようにも見えるのだが、彼女は明らかに宙を強調している。もちろん何もない。少なくとも、僕には何もないように見えている。

「わかったよ」と門前は言うと、すぐにミカさんは「どうも」とぶっきらぼうに答えた。

 絨毯を持ち上げようとミカさんは屈んだ。その彼女のうなじに門前は言葉を落とすように、最後にいいか、と声をかけた。「話のついでだ、根性の別れの挨拶だと思って聞いておけ」

 面倒臭そうに、「何だ?」とミカさんは絨毯を担ぎながら訊いた。

「商店街、ほら、あの商店街のクリス通り」覚えてんだろ? と彼は自分の肩を揉みながら首を回した。「そこの裏通りからさらに駅の方へ三百メートルほど歩くと、そこに店がある」

「だから何だ?」口調を尖らせてミカさんは捲し立てる。

「今度、そこに飯、食いにいかないか」

 今日一番の深い、そして不快な嘆息をミカさんは吐いて、門前を睨むように一瞥すると、「さよなら」と呟いて強引に彼を押しのけるように進んだ。金魚の糞である僕は、ただの糞に成らぬように黙ってミカさんの跡を追う。

 門前とすれ違う間際。僕は彼に頭を下げ会釈し、彼の横の小さな女の子にも会釈した。女の子には、門前よりも幾分礼儀正しく、気持ちも込めて、頭を下げた。

 数歩進んでから「おい」と門前の声が背中に響いた。

「はい」なんでほうか、と僕は足を止め、振り返る。

 何かを探るように門前は目を細め僕を睨んだ。視線で身体を舐めまわされている気分。あまり気持ちの良いものではない。

 どうかされましたか、と僕が口を開く前に、「いや、何でもねぇ」と門前が顎を擦った。

「あっとそうだ。あいつがよ、向かってくる相手を殺さないことは珍しい。殺すことよりも、殺さずに倒す方が難しいからな。でもあいつは最初、殺さずに俺の仲間を倒した。大方、殺すつもりで応戦すれば、俺たちがお前を直接的に人質にとるとでも思ったんだろう」

「直接的に――ですか?」

「なんだよ愚鈍だなぁ。お前、ここに足を踏み入れた瞬間ずっと人質だったんだぞ。間接的にだけどな」

「それは要するに、僕は究極の足手まといで、究極のお馬鹿さん、ということですか?」

「お馬鹿さんって」門前は噴き出す。「まぁあれだ、究極かどうかは知らねぇが、ミカにとってのお前は、見捨てるに値しない人物がゆえに、あいつの欠点だってことだ」

「ああ。ですからつまり僕はやはり、究極の足手まといで、究極のお馬鹿さんってことですね」

「もうそれでいいよ」投げやりに言って彼は、「さっさと殺されろよ」と激励の言葉をかけてくれた。

「はい。ありがとうございます」僕は礼をいい、ミカさんの背を追う。

 ミカさんは動きを止めたエスカレータを階段代わりに下りていた。僕を置いていくとは、つまり、置いて行っても僕は加工されない、とそういうことなのだろう。

 今のところは、ミカさん以外に加工される心配が無い、とそういうことなのだろう。


 ***6***

 それから後は、マンションを出るまでに、誰とも合わなかった。入り口先にいた警備員の死体も無くなっていて、奇麗さっぱり、血痕すら見当たらない。この建物は既に、ミカさんと僕を残して、無人となっていたのかもしれない。それくらい静かで、それくらい、冷たかった。床も、空気も、蛍光灯の光すらも。絨毯を担いでいるミカさんの背中はけれど、とても温かく見えたことは、僕の錯覚ではないだろう。

 今日の僕は珍しく、とても、とても、上機嫌だった。

 こんな時に殺されたなら、どんなに幸せなのだろう。

 彼女の手により殺されたなら、どれだけ満たされるのだろう。

 彼女の瞳を捉えたままで、加工を施されたなら、僕はどれだけ本望か。

 知らず僕の心は躍る。

 けれど、今は死ぬことはできない。

 殺されることもできない。

 ミカさんが、僕を殺すことをしないから。加工してくれないのだから。

 それに――。

 まだ僕は、この手で加工を体験していない。

 死を客観的に、観察しきれていない。

 甘受することなく、死を感受する。

 死を意識し、死を認識し、死を理解して、僕は死ぬ。

 それこそが、僕の望みであり、そうさせてくれると、ミカさんは僕と約束してくれた。

「私がお前を殺してやるよ、約束だ」

 その言葉を信じ。

 その言葉に縋り。

 その言葉に甘えて。

 僕は彼女の跡を追う。

 僕は彼女の観測者。

 しばらくは――

 これで満足するとしよう。

 だから当分は――

 死ぬことを無想しよう。夢想することで、満足しよう。

 ――僕らは死へ向かっているのではない。ただ今を生きているだけだ。

 そんな言葉を思い出す。けれど、僕はやはり、死ぬために生きているのだと思う。望んだ死を、望んだ記憶を抱いたまま、臨んだ明日を尻目に、僕は彼女に殺される。それこそが、僕の人生の完成であり、僕という全てでありたいから。

 さてと。

 ――やり残した願望を記憶として僕は、取り込まなければ。

 浮足立った僕の歩調は、ミカさんの背で揺れる馬の尻尾のような髪を眺めるうちに、彼女の歩調と同化していった。

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