【蠢きはひしめき】

第97話

【蠢きはひしめき】


「変だというのは重々承知です、お水をかけさせてください」

 必死に頭を下げるその女性を前に、藤島海智は自身の足元を眺めていた。彼は先ほど彼女に呼び止められ、この路地裏に連れてこられたのだ。

 周りには無数の虫。「タロウ」と海智が名づけた巨大でウネウネしている虫は、先ほどからいつものように彼の足元に巻き付いている。見慣れているとはいえ、醜い姿だ。他の虫たちもまた、女性でなくとも悲鳴を上げ、もしくは全身に鳥肌を纏わせてしまうようないでたちである。粘液などは出さずとも、見た目はヌメヌメし、粘膜質な皮膜で覆われているように見えるものが多い。中には飛ぶものも多く、それらは大抵小さく、集団で固まって飛行しているため、ひとつの大きな虫に見える。海智の腕ぐらいの大きさで飛行している虫は、必ずといって良いほど大口を開け、細かい歯の羅列を彼に見せつけながら、その小さな虫たちを捕食していた。

 そんな虫だらけの中にいるにも拘らず、彼女は平然と海智に向かって話しかけている。そして毎日を過ごしている、海智以外の人間は、であるが。

「勝手にしたらいい」海智はようやく彼女に視線を向けた。

「いいんですか?あれ・・・そんなあっさりと、でも普通はこんなお願い・・・」

 その女は、棚から牡丹餅が落ちてきた、あれ不思議だな、とでもいうような顔をして一人で呟いている。

 だが海智は今、もっとけったいな、棚からタマゴポーロ一年分が落ちてきた、というような顔をしていたに違いない。(言うまでも無くタマゴポーロは海智の大好物である)

 一切寄り付いていないのだ、彼女の周りには、海智に見えている虫たちが。こんなことは今まで一度も無かった。

「何なんだよあんた・・・」海智は彼女に詰め寄る。

「あ、えっと、その」彼女は三歩身を引く。海智の目が見開き、血走っていたのを見て身構えたのだ。

「あのですね、あなたの頭に水をかけさせて欲しいんです。別に髪の毛とかが濡れる心配はありませんので、こうやって頭を下げてもらって、頭の少し上の空間に水をかけるだけですので」彼女は軽くお辞儀をするように頭を下げながら、滑らかに、それでいて早口で言い切った。

 だが海智は今の説明の半分も聞いてはいない。彼に纏わり付いていたタロウが彼から離れたのだ。いや、正確には彼女から、である。

 海智はもうどうすればいいのか解らなくなっていた。この湧き上がる喜憂に満ちた感情、その慣れない感情に自分がどう対処すればいいのか解らない戸惑い、突如目の前に現れた希望の女性を見失うわけにはいかないという焦り。

 もし最初から海智が正常な精神であったならば錯乱し、彼女に抱きついていたかもしれない。だが彼は元々、そういった正常とは程遠い、暗く憔悴しきった精神状態だった。それとも正常であったならば、このような混乱はそもそも起きなかったのかもしれない。

 こういった複雑な精神状態の彼は、今最も主観から離れた自分への命令に従うことを、彼の無意識は判断したのだった。

「どうぞ」海智はお辞儀した。

「えっ?ちょっと、あれ?いいんですか?怪しくないですか私?」

 海智は頭を水平に固定したまま動かない。

「あ、でも、いいんですね?ありがとうございます、じゃ、動かないでくださいね」彼女はリュックから細長い水差を取り出した。それには蓋と、短い注ぎ口が付いており、全体が青白い色の陶器だった。

 彼女はそれを両手で支えながら、海智の頭上へ持っていき、彼の頭から十センチほど離れた空間に目掛けて水差しを傾けた。

 水差からは透明の滴り流れる水。普通の水のようだった。地面に弾かれながら広がっていくその水を、海智は足元に見ていた。今まで絡み合って停止していた海智の思考が、段々と一本に統一されていく。

「はい、終わりました。ありがとうございます。あの、こんなお願いをしておいて難なのですが、知らない人の言うことはあまりほいほいと利かないほうが良いですよ。ではすみませんでした、失礼します」

 彼女はそう言うと今の海智と同じようにお辞儀をし、彼より先に頭を上げた。

 彼女が行ってしまうぞ、海智の思考は叫んでいた。彼女に色々と訊ねなくては、そう考え顔を上げた海智は目を見張った。

 クリアな視界、昔に見ていたような街並み。路地裏から見る車道には車が行きかい、その手前には街路樹を横切る人々。今彼の視界を妨げるものは何も無い。あるとすればそれは空気だけだった。

 はびこる様にひしめき合っていた虫たちは、今はもういない。

 海智は高鳴る鼓動の衝撃を体で受け止めきれない、頭まで響く。海智は横を向く。そこにはそびえるビルの停止している外壁。そのまま壁伝いに見上げる。壁のその先には青い空と白い雲、そんな高い空から風が吹き込んでくるのを海智は肌で感じていた。

 ああ、なんという澄み切った世界。またも彼の思考は停止してしまっていた。だがそれは絡まってではない。単純に感動という心の痙攣によるものだった。

 次に海智が思考を起動させたとき、彼女の姿は既に無かった。急いで路地裏から歩道に飛び出し左右を確認するが、彼はまた路地裏に戻ってしまった。

 歩道には見知らぬ人々が虫のようにひしめき合って歩いており、その中に彼女がいるとはどうしても彼には思えなかったのである。

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