【はじまりは軋めき】

第96話

【はじまりは軋めき】


 藤島海智は彼女に背を向け、ポケットに手を突っ込んだまま今来たばかりの道を引き返し始めた。

 おれは認めてほしいんだ、なんて気持ちの悪い感情なのだろう。海智は当たり前に抱いていた欲求に嫌悪していた。

 海智はここへ来る時にはこの欲求をもっと自分を高ぶらせてくれる心地よいものだと感じていたが、先程視界に彼女の姿を遠巻きに捉えた際、彼女の側にあの男がいるのを理解してから、歩む方向も感じていた心地よさも真逆になっていた。

 海智の世界はどす黒く変色し、あの時の虫が湧き始める。久しく目にしていなかったこの自分の世界に、海智はあまり動揺しなかった。

 以前は似たような状況がずっと続いていた。いや、今のこの状況と比べれば拷問に値するだろう状況だった。しかし現在はそれを海智がこのように自己分析できるくらいに、彼の環境を彼女が変えてくれたのだ。

 しかし今、なぜだか海智はその頃に感じていた不快さよりももっと大きな、とんでもなく気持ちの悪い感情の中にいたのである。

 こんな時海智は、自分の世界で手ごろな虫を両手で押さえ付けギュッギュッ、と硬く潰し、丸め、指で摘めるくらいにまで小さく固めたそれを思い切りぶん投げるのである。

 今日くらいの状況では、そうするだけで虫はいなくなり、彼の世界は広々閑散として、また遠くまで見渡せるようになる。とても清々しくなる。しかし、しばらくするとまたがらんとした世界に虫が蠢きだす。

 おれが物理世界の部屋でゴミが片付けられないのは、そうした虫たちが「俺たちを捨てんじゃねぇ、好きにいさせろ」と叫び、反逆しているせいなのかも知れないな。といった的外れな言い訳を海智は精一杯に考えていた。

 数秒先にゴミ箱が見えた。床にはタイルで綺麗な抽象画が大きく描かれている。

 海智はポケットの中で触れていたくしゃくしゃのメモを、更に握ってぐしゃぐしゃにした後、取り出し、放った。

 それは途中から手と離れ、弧を上るように箱に接近、下り始めた所でぶつかり、かるく弾け、回転する。

 コロンと失速して、まっすぐ地球に引っ張られる。

 彼は瞬きをした。

 瞼が閉じる目前、それはタイルに触れようとしていた。

 瞳が再び色彩を受け入れた時、既に虫と化していた。

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