【ジョーロにお水を】

第95話

【ジョーロにお水を】


「本当にこれでいいの?」ミキナは両膝に両肘を乗せ、手のひらを頬に当てがい、眉を寄せた顔を支えながら訊いた。

 ビルの影に熱を奪われたアスファルトにミキナは不満そうに屈んでいる。返答が無い。そこから見える操り人形のような人々が行き交う、賑やかな歩道を彼女は眺めていたが、俯いたまま視線だけを上げて目の前に立っている少年をミキナは睨んだ。

「うん。それでいいよ」少年はミキナの視線に気が付き、視線だけ下げて彼女に微笑みかける。「変に長々説明するよりかはずっといい」

「これじゃまるで怪しい団体の勧誘だよ」ミキナは深い溜息を吐きそうになる自分を何とか止めた。

「まぁね。でも他人にどう思われるかよりも、自分が自分をどう思いたいかでしょ?」少年は口元を緩ませ、首を微妙に傾けて同意を求める。可愛らしい微笑みに可愛らしい仕草。ミキナがこのルーチンに弱いことを少年は知っているのだ。

「……そんなこと君に言われなくたってわかってるよ」ミキナは頬を膨らませて少年に対抗して見せた。少年は表情を変えない。「じゃあちょっくら行ってくるね」ミキナは立ち上がり、背負っているリュックを担ぎなおした。

「チョックラ、って何?」少年は先ほどの微笑に加え、僅かに目じりを下げた。この笑顔はミキナの言い方で言えばニヤついている、である。

「いちいちうるさいよ、君」ミキナは彼を見ずに言う。「むしろ君がお手本見せてくれよ、って言ってもどうせ無駄なんでしょ……?」

「中々僕を理解しているね、素直に嬉しいよ」少年はこの路地から見える表の歩道を覗いてから見計らったように「さあ、行ってらっしゃい」と囁いてミキナの背中をポンっと押した。

その軽い衝撃に飛ばされるように、くたくたとミキナは先ほど見かけた花の枯れた女性に駆け寄っていく。

「あのう、すみません、変だというのは重々承知です、お水をかけさせてください」


 ***

 ミキナは物心ついた頃から花が見えた。

 花、と一概にいっても種類は無数にあり、似たものはあれ一度として同じ花を見たことがミキナはなかった。そしてその花が異質なものであることをミキナはある時期になるまで知ることができなかった。

 ミキナが四歳になったばかりの頃である。いつもの様に母親に連れられ公園へと遊びに出た。公園にはタケちゃんもアキちゃんもいた。タケちゃんの花とアキちゃんの花は今日も奇麗に咲いていた。

「ほら、みんなきれい」ミキナは二人を指差して母親の花を見上げて言った。

「あらまぁタケちゃんたらまたあんなに泥んこで。アキちゃんも素敵なお城を造ってるわね」母親は笑って答えた。「いいミキナ? 負けないで遊んできなさいね。今日はママ、見てて上げるから」

 嬉しさがすぐさまエネルギィへと転換されたミキナは駆け出した。ミキナが友人二人の元に駆け寄ると、砂場のお宝発掘作業とお姫様のお城建築はまもなく延期された。誰がかけたのか、魔法によって三人は今ジャングルにいた。現実的に言えば、ジャングルジムとも言う。子どもの想像力には、すぐさま夢を現実へ具現化する能力があるようだ。もしくは、起きていながらにして夢の中へと潜り込める能力かもしれない。大人がいずれ手放していく偉大な能力である。

 タケちゃんがリーダーを努めるジャングル探検隊はそこかしこを歩き回った。

 母親達は既に主婦特有の誰の為にも何の約に立つかもわからないような諜報活動に専念している。

 幼いジャングル探検隊は今、ジャングル(ジム)を抜け、巨大な遺跡と見立てたベンチの前にいた。ベンチの下をタケちゃんが覗き、怪獣探索の解説をしている。その様子をミキナとアキちゃんはハラハラしながら見守っていた。その時だった。

「何かいるの?」

 ビックリしたミキナが振り向くと、男の子が物珍しそうにこちらを見つめていた。同じ位の年だろうか、背は高くなく、整った髪型、奇麗な服に身を包ませていた。

 その時アキちゃんは、その男の子と男の子に笑いながら近づくタケちゃんを順に見たあと、タケちゃんは汚い、と思った。見慣れぬ男の子は新品のような服装なのに比べ、タケちゃんは泥だらけなのだ。口に出してからかいそうにもなったが、泥だらけの自分の手とスカートを見て思い止まった。一方ミキナは男の子の花が蕾のままであることを不思議に思っていた。どうしてこんな小奇麗な子のお花が萎れているのだろう? と訝しんでいた。

「まってて」言うとミキナは砂場に向かって走りだした。そして砂場から、半分ほど砂に埋もれていたぞうさんジョーロを拾い、水のみ場まで行って水を汲み、急いで戻ってきた。

「うごかないでね」言いながらミキナは男の子に頭から水をかけた。

 男の子は言われるがままに黙って突っ立っていた。整髪料が塗ってあるのか、髪の毛が水を弾き、頭から首、肩、服へと水が滴り伝う。

 タケちゃんとアキちゃんは顔を見合わせた。ミキナの唐突な奇行に呆気にとられつつも、頭を傾げている。「何をしているのだろう、ミキナは?」二人は声に出さず、揃って怪訝に思っていた。

 男の子が何かを言おうとしたとき、遠くから枯れた花が走って来た。ミキナにはそう見えたのだ。けれどそれは、花が単品で走っていたわけではなく、頭に枯れた花を乗せた大人の女性だった。その花は、枯れているにも拘わらず、とても大きく、毒々しい紋様だった。

 その女性は、四人の目前へ立った途端に濡れた男の子を怒鳴りだした。かと思うと次にはぞうさんジョーロを持つミキナをどぎつく睨み、今度はミキナ達に向かって怒鳴りだした。

 ミキナは何を言われているのか解らなかったし、大人のどすの利いた声を聞くのは始めてで、何をどうすれば良いのか、皆目判らなかった。それに、ここまで酷く枯れている花を見るのも始めてで、怒鳴られた動揺よりも、その目の前のおばさんの頭で仰々しく枯れているお花が可哀想に思うことのほうが大きかった。

 だからとりあえずミキナは、ぞうさんジョーロに残っていた水を、もうその枯れた大きな花にかけて上げることにした。するとみるみる花の下の顔が真ん中に向かって歪み出し、次の瞬間には膨れに膨れた風船が弾けたかと思うような、ミキナが今までに出会ったことの無いくらいの怒号がミキナに向かって放たれた。

 ミキナは泣いていた。声を出さずに、泣いていた。

 堪えていたわけではない。勝手に涙が流れ出るのだ。

 ミキナの真っ白な頬が、枯れた花を見つめる目からポコポコと溢れ出す水滴を、てるん、てるん、と弾いていた。

 ミキナはそこからあまり覚えていない。騒ぎを聞き付けてやってきた母親がひたすら謝っていた。その足にしがみついて涙を見られないように帰った。

 家についてから、「なぜあんな事をしたのミキナ?」と母親に問われた。母親の顔は外側に向かって優しく伸びていたし、お花はやっぱり奇麗に咲いていた。だからミキナは「かあいそうなお花に、げんきになってもあいたかったの」と涙の乾ききらない口で正直に答えることができた。

「そっかぁ……でもごめんなさい言えなかったね。どうしてかな?」母親は眉を寄せて困った顔で聞いた。

「ごめんなさいなこと?」

「そうだよ。あの杉田さん……うんと、あのおばさんも怒ってたでしょ? ヤナカ君も……えっと、あの男の子も困ってたように見えたなーママは」

「ミキナもこまってたよ……」

「それはミキナが悪いことしたからでしょ?」

「お花にみずあげるのはやるいこと?」母親をしっかり見据えながらミキナは言った。「げんきないないなお花だよ?」

 母親はまた眉を寄せ、うーんと唸り、頭を掻きながら言う。

「でもミキナが水を上げたのはお花じゃなくて杉田さんとヤナカ君でしょ? ちゃんとごめんなさい言わないとね? 明日ママと一緒にごめんなさいしに行こ? ね、ミキナ?」

 ミキナは俯いたまま答えなかった。

 なぜ公園で涙が溢れたのか。

 恐かったから。それもあった。

 しかしもっと大きくミキナの中にあったのは花に対しての哀しさと自分に対する哀しさの絡まった悲しさだった。そしてこの時、その悲しさは解けない程に絡み合い、塊と化してミキナの心に張り付いた。


 十六年経った今、ミキナは花の存在を無視できるまでに成長した。

 一時は花を認識できる人物が他にもいるのでは、と探してみたり、自分が異常なのではないか、と医学書を片っ端から読み漁ったりしていた。しかしミキナの希望は周りからの冷たい視線にかわり、心に絡む塊をも成長させていた。

 ミキナの努力は一向に解決へと結び付く結末にはならなかった。

 努力? 解決? なんの為のだろう、とミキナは思う。

 それらがミキナにとっての何を意味し、何をもたらすのか、ミキナが何を望んでいるかはミキナ自身にもわからなかった。


 ***

「おす、相変わらず一人か? 寂しくねーの?」タケヒトは相変わらず向日葵を咲かせていた。もう少し正確に言えば、向日葵のような大きく黄色い花、である。

 ミキナは精一杯意識して外れかけた視線を再び医学書に向けた。

「何だよ無視かよー、そりゃないぜ。持って来てやったのに、頼まれてたやつ」

「頼んだわけじゃないよ」ミキナは冷たく言い放つ。

「んーまぁそうだけど……。ならここに置いとくからさ、何でもいいからまた欲しいものあれば言ってくれよな」

 タケヒトは紅茶と参考書しか乗っていないテーブルに紙袋を置くと足速に店から出て行った。

 なぜあんな言い方を自分はしてしまうのだろう、私は。ミキナは後になっていつも考える。そう考えた途端、ミキナを、花の咲かないミキナが内側から破り棄てる。嫌悪感を撒き散らしながら身体を駆け巡る。これもいつものこと。ここで毎回考えることをミキナはやめる。

 ミキナは紙袋に視線と手を向けた。

 タケヒトの向日葵と同じくらいの面積。

 中身は開けなくても解る。

 一葉つぐむ。彼女の絵本。

 ミキナが花を調べていて偶然見つけた絵本作家。

 偶然といえども探していたのだからそれは必然なのかもしれない。それでもミキナがその日、ほぼ習慣化していた家でのPCを使っての情報詮索を選ばず、図書館での書物による詮索にした事は全く適当な気分転換であった。

 図書館で五十年前のバウンドケーキのような植物図鑑を開いていた際に、向かいの机には六歳くらいであろう身体の小さな可愛らしい男の子が座っていた。

 この時点で全てが整っていた。ミキナの意識を大きく外れてもいた。

 その子がそこに座っていたことも、ミキナがここに座っていたことも、男の子の花がしおれそうになっていて彼女が気に掛かっていたことも、彼が読んでいた絵本が「ハナちゃんシリーズ」だったことも全て。

 ドミノを一つ倒しただけで次々と連鎖的に倒れ、全てが倒れきった時には巨大な抽象画が出来上がっている。全てはその絵柄の為のきっかけと作用でしかないのかもしれない。偶然とはそういった小さな力が、巨大な視えない力へと積み重なる影響の結果なのかもしれない。

 ミキナは初めて自分以外の意思を感じた。と同時にそのことに反抗するかのように、彼女の内の冷静で現実的なミキナが寒気と嫌悪をナイフのように投げ付けて来た。

 それからミキナは一葉つぐむ、彼女の絵本を集めていた。

 彼女の絵本は一言で表すならミキナ。そのくらい絵本の主人公、ハナちゃんとの同一化がミキナにはできた。

 ハナちゃんはいつも最後には笑顔なのだが、ミキナには解っていた。ハナちゃんが成長していくにつれて見せるその笑顔の変化を。初期の作品のハナちゃんは心から笑っていた。けれど、次第にその笑顔は他人に見せる事によって意味をなす記号、仮面へと道具化していく。それはミキナ以外の読者に伝わるものではない、と彼女自身認識していたし、本当に著者がそんな意味を含ませていたのかも定かではない。

 だがミキナはそのことを確信していた。そしてそれが、絵本の中のハナちゃんを、自分を映し出す鏡に見立てているだけなのかもしれない、ともミキナは考えることができていた。

 その日からミキナは図書館に通い、インターネットの通販で手に入らない「一葉つぐむの絵本」と、彼女に関する著書を探して、小説を読むように、本棚の一段一段に視線を泳がせていた。たまに目が疲れ、通路の向こう側、読書スペースを眺める。そうすると大抵いつものあの席にあの少年がいる。

 ミキナが偶然見つけた絵本を読んでいた男の子。小学校には既に上がっていそうな風貌。だがこの時間帯の今、小学校は授業中のはず。それに服装が毎回同じなのだ。だからミキナは少年がいるとすぐに目に付く。なんだか図書館の付属品みたいだ、彼女はそう思っていた。男の子の頭のコスモスのような花は萎れており、元々の色は青かったんだろうな、とミキナが想像できるくらいの申し訳具合に色が褪せてしまっている。ミキナはそれを気にしないように努めた。しかし毎回同じ場所に同じ服を着た同じ少年が、花だけを毎回徐々に萎ませていく様はとても儚げで、このまま散らしてしまうのはとても残念だ、と考えるミキナもいた。

 だがそう考えるミキナに過去の遺物が複雑に絡みつき冷たい床に縛りつけ、根を張ったように彼女を動けなくしている。そしてまたここから発生する彼女の抑圧された感情を養分に、より深く根を巡らすのである。


 ***

 大学の講義が三十分も早く終わり、ミキナはバイトまでの時間を持て余していた。図書館に寄りたかったがここからでは遠すぎる。その時間的余裕はない。こういう場合、ミキナは駅前の賑やかな商店街から少しはずれた路地に入り、昔から営業しているかのような古びた本屋や、骨董屋を探すのである。最近もミキナはこの周辺の古本屋で「一葉つぐむの絵本」を見つけたばかりであった。

 ポケットから携帯をとりだし、ミキナは先日とは逆の方向に細い路地を歩き始めていた。まだタケヒトに礼を言っていなかったことを今頃思い出して、電話で一言お礼を伝えようとミキナは思い立った。

 今回の古本屋で絵本を見つけたことは偶然ではなく、ミキナはタケヒトから、「この裏道に古本屋があるからそこに探しに行ってみたらどうだ?」と地図が添付されているメールをもらっての結果だった。きっとタケヒトは前もって古本屋に探しに来ていて、絵本があったことを知っていたのだろう、とミキナは推測していた。そして、その絵本をその場でタケヒトが買わなかった理由も、ミキナには想像がついた。

 自分はタケヒトに対してどうしても素直になれない。なんだかタケヒトには冷たく接したほうが彼のためになるような気がする、その程度の勘のような曖昧な動機からとる行動である。さらに、そのことに関しての自己分析を自分は意図的に避けているのではないだろうか? という無意識の可能性をミキナ自身は薄々感じていた。

 だがやはりこのことも深く分析することをミキナは絶対にしなかった。したくなかった。この思いは自己防衛を張るくらいに強い嫌悪であった。それ故に、この分析が本当に分析なのか、はたまた言い訳なのか理由付けなのか、そのことを考えることなど今のミキナには到底できなかった。

 道先に向いていた顔を下げ、携帯電話のディスプレイの時計に目がいった。

 その刹那にミキナは立ち止まった。

 瞳には先ほど見ていた道先の残像。

 狭い十字路の突き当たりにあるシャッターの下りた古びた賀屋。

 その真ん前に少年が立っている。ミキナは一瞬ここが図書館ではないことを認識しなおしてしまった。

 顔を上げ、道先に視線をあてる。

 間違いなくあの男の子、あの図書館の少年であった。

 少年はミキナからみて十字路の左の道に歩いた。すぐに手前の店に隠れミキナからは見えなくなった。ミキナは携帯をポケットに仕舞うと少年を追おうとした。

 なぜ追うのだろう? ミキナはそのことを自問しながら早足で数歩進んだとき、何かに引っかかったようにバックがミキナに抵抗した。

 ミキナは振り向いた。そこには十字路の先に消えたあの少年がいた。ミキナはもう一度先ほどの場所を向く。十数メートルは離れている。そこにはやはり少年の姿は無く、今はミキナの目の前にその少年がいる。

「なにかようかな?」ミキナは最大限に感情を抑えた。

「凄いね、心をそこまで瞬時に抑圧するなんて。日頃から、いや昔から日常的に行なっていなければできないよ」少年は彼女を見上げながらにこやかに言う。

「いったい何の、」用があるのか、とミキナが言葉を続けるよりも先に、少年が彼女の言葉がさえぎった。

「でもそのたびに君の周りの花が萎れていくんだよ? それを知っているのかい君は? いや気がついていないようだねこの様子じゃ」

「あのね坊や、人の話は……」ミキナは言葉を口に出すのを停止し、一瞬よぎった疑問を呼び戻した。「いま、ねぇ今、なんて言ったの?」ミキナの鼓動が遅れて大きく鳴った。

「花が萎れるんだよ、貴女がそうやって現実から目を逸らしているから」

「ハナ……花って言った? ねぇ、それってどの花のこと? もしかして坊や、見えるの?」

「僕には見えてないよ。でも貴女のフェノメノンを通してなら視えるんだ」

「ふぇのめ? なに? まぁうん、いいんだよそんなことは」彼女は沸騰しそうな感情を冷やそうと、軽く深呼吸をした。「君に花が見えるってことはさ、やっぱりこの花たちって私の幻覚とかじゃなくて実在してるってことよね? そうなんでしょ? 何か知っていたら教えて、お願い」なるべく冷静な口調を意識したが出てくる言葉は躍動している。ミキナは自身の身長の半分程の少年の肩に手を置き、軽く揺すっていた。

「ちょ、っちょっと待ってよ。実存するとかしないとかじゃないんだって。そもそも現実ってのは……あぁどこから話せばいいのやら」少年はミキナの両手首を掴み、両眉を眉間に寄せて、訴えるように、「まず貴女は普通じゃないんだよ。これは貴女が最初に受け入れなくちゃいけないことなんだ」と語調を上げて言った。

「私が変か変じゃないかなんて私が決めることでしょ!」ミキナは彼女らしくなく感情をコントロールできなくなっていた。少年を掴んでいる手に力が入る。

「待って、落ち着いて! ああ、もうほら、あっちの歩道の人たちを見てよ!」

 ミキナは歩道を歩いている人たちへ視線を向ける。が、こちらに気がついている様子もなく別段不自然なことは何も見当たらなかった。 

「だからなに?」ミキナは向きなおして少年をきつく睨んだ。

「ハナ、花」少年は自分の頭を指差す。

「君の花なんか、ずっと前から萎れているよ!」彼女の感情は高ぶるばかり。

「そうじゃないよ、彼らのだよ」

 ミキナはもう一度歩道を見た、先ほど目にしたサラリーマン風の男の鬼百合のような赤い花が見る間に色褪せていく。

 少年の肩を掴んでいた手から力が抜けていく。

「ふぅ。ね、解った? 貴女がそうやって周りの人の花を枯らせてしまうんだよ」

「……どうして?」ミキナは路地先に消えていく男性を見ながら呟いた。

 どの、「どうして?」なのだろうという思考を少年は一瞬考えた。僕がなぜ知っているのか。それとも、なぜ自分のせいで他人の花が萎れるのか。もっと根本的な、なぜ花が見えるのか。どれについての返答をするべきか思考を巡らせた。けれど彼女の見開かれた瞳から丸い滴が頬へと伝うのを見て考えることを少年はやめた。

「貴女は普通じゃない。けれどそれは特別だということであって何も拒むことは無いし、怨むこともない。恐ろしく思われるのも、恐ろしく思うのもまたそれは必然だよ。けれどあなたはそれを受け入れて、あなたが成したいことを成すべきだ」

 少年の言葉はミキナの耳に届いてはいたが、それは電子信号となってミキナの脳に届かなかった。彼女の脳は今、著しい情報でごった返していた。さまざまな過去の情報が掘り起こされていた。

 ミキナの脳裏に今までの記憶がフラッシュバックする。母が倒れ、父が死に、友人たちは学校を休みがちだった。その全ての進行過程に花が萎れてくという記憶が付属している。

 幼かった頃の、あの公園での一件以来ミキナは泣いたことがなかった。だが今、込みあがってくるこの悔しさ、愚かさ、惨めさの入り混じった感情をミキナが精一杯に抑え込もうとする度、その感情がミキナの瞳へと押し出され、集まり、涙として流れ出ていくのである。それは閉じ込められた炭酸が一気に噴出してしまうような勢いだった。

「あなたの両親の不幸はあなたのせいじゃないよ……」少年は彼女に優しく声をかける。

「私の……私のせいだったんだっ……。私が……お父さんと、お母さんを……」ミキナの右手はアスファルトを強く引っ掻き、削れ、血が滲んでいる。左手は額を強く圧迫し、その隙間を縫って涙が滴り落ちて地面に染み込んでいく。

「違う。あれは決まっていたことだった。運が悪かったんだ。誰のせいでも……ない」少年は彼女の右手をとり、強く握った。だが彼の言葉に力強さはなく、誰かの影響でミキナの両親が不幸になったと言っているようにミキナには聞こえた。

「ここじゃ落ち着いて話ができないね。僕の使っているアパートが近い、そこで詳しく話すよ。着いてきて」少年はミキナを立ち上がらせようとする。だがミキナは線の切れたように泣いている。一向に立ち上がる気配は無い。むしろこのまま終わらせてしまう危険もあった。

 少年はしばらく彼女の様子を黙ってみていた。だが淀んだ空気を発し続けているミキナは一向に立ち上がらない。より一層歪んでいく。

「今そうやってあんたが泣いているせいで君が今大切に思っている人間が不幸になるかもしれないんだぞっ! しっかりしろよ、ミキナ!!」少年は全身から声を出し怒鳴った。

 ミキナはしばらくそこにじっと座り込み、地面に滲んでいる薄れた褐色を見つめていた。

「もう僕は知らん、そうやって悲劇のヒロイン気取ってろ!! ったく無駄足だったよ」

 少年は彼女の丸まった背にぶつけるようにはき捨てた。それから彼女を一瞥し、明るい歩道とは逆の裏道へと姿を消していった。

 ミキナは今何を思い、何を考えているのだろうか。捜し求めていたはずの答えは何ともあっけなく見つかってしまった。しかしそれは予期していたものよりもずっと、飲み込みたくはないトゲトゲしく硬い毒々しいものだった。そのことを消化するには細かく噛み砕かなくてはならないのだが、最初のひと噛みが今のミキナにはどうしてもできなかった。噛み砕いた途端に苦しみもがき、自分は死んでしまうのではないか、といった恐怖から来る自己防衛によって強い抵抗がミキナの中で急速に頑丈な囲いを作り上げていた。その囲いには隙間がなく、日の光すら届かなくなることだろう。そのことにミキナはまだ気がつけてはいなかった。


 ***

 タケヒトは再度呼びかけた。十秒まったが応答が無い。ドアに鍵がかかっていないことは既に分かっていた。インターホンを鳴らしても応答が無かったためドアノブを回し、引いてみたら開いたのだ。それでも勝手に入ることは流石に躊躇う。だから彼は暗い部屋の奥へと呼びかけてみた。それでもまったく返事が無い。いないのなら、いないことを早く確認して次の場所へミキナを探しに彼は急ぎたかった。今はミキナが無事である、ということだけが最重要確認事項であった。もう一度、今度は大きな声で言った。

「ミキナ? いるのか? 俺だ、タケヒトだ」

 ドアが薄いせいで声はタケヒトが支えるそのドアに僅かに振動した。その振動はすぐに消えいき、その振動の残音がアパートの静けさをより一層際立たせた。

「ミキナ悪い、入るぞ」タケヒトは居るかわからないミキナに詫びを口にし、玄関の中へ踏み入れた。

 玄関から続くキッチンも兼ねた狭い廊下にも、その先のリビングにも電気は点いてなく、光は灯っていない。その暗いリビングを覗くと、カーテンから滲んだ街灯の光で家具のシルエットがダークアップされていた。直線や直角の成す形ある影の中に丸い塊がちょこんと存在していた。膝を抱えて蹲っているミキナであった。

「どうしたんだよ?」タケヒトは柔らかい声で訊いた。けれどミキナはこちらを見向きもしない。タケヒトは電気を点けずに続けた。「ミキナがバイトに来ない、ってアイちゃん心配してわざわざ俺に電話寄こしたんだぞ?」タケヒトは多少声の柔らかさを崩した。「勤勉なお前が勝手に休むなんて変だ、って店長さんまで心配していたらしいよ。それに……俺だって心配だったし」

 ミキナはうなだれているかのように蹲り、彼女を包む僅かに薄れた暗闇のせいでより深い悲壮な雰囲気が漂っているようにタケヒトは感じた。

 タケヒトはミキナが無事だったことを確認した今、何を言えば良いのかまったく考えていなかった。

 ――自分がいかに心配に思ったことを熱弁することか?

 そんなことのために彼女を探していたのか俺は。そんなんじゃない、断じて違う。ならなんだ?

 ――なぜバイトを勝手に休んだのか、その理由を尋ねるためか?

 尋ねてどうする。ミキナの言いたくないことを無理くりに聞いては元も子もない。

 ――じゃあ自分はどうすればいい?

 ミキナはいま普通じゃない。元気がない。だけど俺には何もしてやれない。ただの自己満足のために俺は来たわけじゃない。ミキナが心配だった、何かしてやりたい、支えになってあげたい。このまま帰ったのでは駄目な気がする。俺がではなくて、ミキナが……。

 タケヒトはしきりに考えた。彼女のために何が一番いい選択なのだろうかと。

 ミキナが元気なら、それでいい。笑って過ごしてもらうだけで、俺はそれだけでいいんだ。そう丁度……あの頃みたいに。しかし、これもまた、俺の自己満足ではないのか……。

 結局タケヒトは、ただ蹲るミキナを見つめていることしかできなかった。

「もし……もしもだよ。自分のせいで大切な人が苦しんでいたと知ったら……タケちゃん、どうする?」ミキナが蟻にでも囁いているように消え入りそうな声を発した。

 あまりに突然の問いにタケヒトは混乱した。聞き逃しそうだった彼女の言葉を、もう一度頭の中で反芻し、意味を汲み取ろうとした。精一杯、今の自分の気持ちを乗せてタケヒトは答えた。

「もしそれが本当なのだとしたら、その人を苦しみから解放することも、逆に幸せにすることもできるんじゃないかな」

「……うん」それはもう、無理なんだ。こう考える自分をミキナは慰めてあげたかった。その一方で、無理なんかじゃない。私にはまだ大切な人は残っている。これからだってまだ遅くは無い。そう考える強い自分がいる。強い彼女は私が慰めなくても消えることはないだろう。でもこの、今にも消え入りそうな脆い自分には、まだ私が付き添ってやらなければならない。だから私は今、休まなければ、停止しなければいけないんだ。

 そんなのは言い訳だ。と花の枯れた彼女が叫ぶ。

 花が枯れてるくせに……お前のせいなのに。お前がいるから皆が不幸に……。

 違う。誰のせいでもない、全て私のせいなのだ。私がいるから。

 じゃあ、「私がいなければ?」ミキナは顔を上げて呟いた。口がガチガチと震える。涙が止まらない。閉め忘れた蛇口のように流れ続ける。それからまた顔を膝に埋めた。

「そんなことは……考えられない」タケヒトは全身を這い上がってくる寒気の原因を探った。視線はミキナから外れ、垂れている自身の右手へ移った。

 ミキナがいなければ?

 ミキナがいない?

 ミキナが生まれていなかったらってことか?

 それとも死ぬっていうことか?

 ミキナがいなければ俺はどうなっていた?

 ――違う。そうじゃない。

 こんな馬鹿げたことを考えている暇があるなら、なぜミキナがこんなことを訊いてきたのかを考えるべきだ。ミキナは迷っている、悩んでいる、苦しんでいる。それが何故だかはミキナが言うまで俺は知ることはできないし無理に聞き出すこともできない。ただ待つしかない。その間俺は、ミキナを……。

「それに、考えたくもない。もうそんなこと口にしないでくれ、絶対にだ」タケヒトはミキナに視線を向けた。「その変わり、他のどんなことでもいい、何でも俺に言ってくれよ。俺馬鹿だし何もしてやれないけど、お前の為に何かしてやりたいんだ。これはお前のためじゃない、俺のためだぞ。俺が満足するためにお前の力になりたいんだ。だからもしお前がいなくなったとしたら、俺は困る。俺のために全力で困るんだよ」

 ミキナは蹲ったまま顔すら上げない。

「あぁもう何言ってんだかな……俺やっぱ馬鹿だわ。ごめん……出直す」そう言ってタケヒトは部屋から出て行った。

 何しにきたんだよ……、とミキナは多少苛々していた。それでもミキナの意識は違う方向へと逸れた。そのことにも彼女は気がついていた。

「ミキナ、悪い入るぞ」玄関から声が聞こえた。

「何だ、いたのか」タケヒトだった。彼はリビングの入り口に立ち、ミキナを見下ろして言った。「なんでお前、そんなとこにウズベキスタン?」

 ミキナは一瞬堪えるのが遅れ、吹き出してしまった。

 寒い、寒すぎる。

 寒すぎて、むしろ痛い。痛々しい。

 涙の軌跡が刻まれた彼女の顔に、小さく笑窪が空いた。

「タケちゃんドア閉めて……」ミキナは顔を上げてタケヒトの後ろを指差した。「急に寒くなった」


 ***

「来ると思っていたよ」少年は読んでいた古そうな文庫から視線だけを外し横を見上げた。

「うそ」ミキナは少年の横の椅子に座りながら口元を緩めて言った。

「本当さ。君は優しいからね」

「……優しかったら、私が優しかったら、もっと他の人が幸せなはずでしょ?」

「その話だけど、ここじゃ場所が悪いね」少年は周りを見渡す。図書館では声が大きいということだろう、と最初にミキナは思ったがすぐに違う考えに至った。

「そうね。前にあなたが言っていたアパートでは駄目?」

「ずいぶんと僕を信用しているんだね」と少年は穏やかに言いながら、文庫を小さなショルダーバックに仕舞い、椅子から降りた。

「いいえ。私の体力を信用しているの」ミキナも立ち上がり少年を見下ろした。

「見えているものだけが本当ではないというのは君が良く知っているだろ?」少年はミキナの悪戯な笑顔を見上げ、澄んだ黒目の大きな瞳で真っ直ぐ見据えた。

 それから少年はすぐに歩き出した。ミキナは少年の背中をしばらく見つめて考えていたが、少年の姿が通路の先に消える前に少年の後を駆けて追った。

 少年の頭の上には何も見えなかった。萎れた花も、綺麗な花もなにも。そこにはただ少年の髪の毛が揺れているだけであった。

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