【座らない、スワン】

第90話

【座らない、スワン】


 一匹の小柄な鶴は湖畔で波紋によって空の歪んでいる水面を見つめ、うな垂れていた。

「どうしよう」水面に映る自分は、何とも廃れた顔をしている。そのことが、今悩んでいることの他に、更なる苛立ちを加えさせる。なら見なければいいのだ、と目を瞑ろうとした――その時だった。

 大柄の鶴が派手に飛んで来て、水面に着水。すると何事もなかったかのように、そして何者もその場にいないかの如く、突然と忽然と仰々しく目の前で陽気に歌い始めた。空から飛んできたのだ、着水ポイントから数メートルしか離れていない場所で項垂れていた鶴、シヤナに気が付いていないわけがない。

 意味が分からない。シヤナは怪訝に目を細める。いや、意図はわかるのだ。ただ単に、いつものように私へちょっかいをかけに来ただけなのだろう。懲りない奴だ。どんなに素っ気なく、ぞんざいに接しても、いつもあっけらかんとしてシヤナへと干渉してくる。しかも、毎度毎度わざとらしく、「やぁ、奇遇だなぁ」と純然たる必然を引っ提げて、そんな台詞を吐くのだ。偶然を装うならば、もう少しまともな演技をするべきだ。まったく間が悪いぞ、カザエルの奴。シヤナは敢えて、無視をした。

 が、数分経っても尚も歌い続ける大柄な鶴、カザエルに、ようやく――というよりは耐えかねて、シヤナは声を荒げて言い放った。

「うるさい、音痴」

「おっと失礼、これはこれは、シヤナじゃないか。どうしたんだい、こんなところで?」わざとらしさを隠そうともせずカザエルは、むしろ強調したような口ぶりで答えた。「いやはや、まったくもって奇遇だねぇ。なんだか僕たち、運命を感じないか?」

「感じない。まったくもってと言うのなら、それこそまったくもって羽の毛先ほども感じない」

「それはそれは鈍感なことで。鈍感ということはつまり、繊細な心の自己防衛ということなのだからして、シヤナ、君はとても純粋な心の持ち主だ、ということになるのだろう。純白なその羽と一緒だね。けれどでも、偶然にも僕の身体も純白だ。ほら、やっぱりなんだか僕たち、運命を感じないかい?」

「自分が何を喋っているのか自分で理解してる?」シヤナは揶揄するように言う。「同じ鶴なんだから翼が白くて当たり前だろ」

「まぁまぁ、いいじゃないか。理解していても、していなくとも、そもそも理解なんてそんなことはどうでもいいのさ」運命と同じくらいどうでもいい、とカザエルは軽快に口ずさむ。

「運命、否定しちゃった!」シヤナは思わず突っ込んだ。今までの会話は一体なんだったのだ、と理不尽を抱かずにはいられなかった。が、カザエルを相手に会話すると、こうなることは以前から重々承知していた。だからこそシヤナは、カザエルを邪険にしていた。シヤナ自身はそう思っている。脈略のある会話が成立しないもどかしさ、それこそが理由なのだと。この大柄で陽気でお節介なカザエルと一緒にいたくない理由が、それなのだと。

 水面を跳ねるようにカザエルはシヤナへ近付き、そいでさ、と再度彼女へ訊ねた。「そいでさ、そんな鈍感なシヤナちゃんは、一体こんなところで何をやっていたのかな?」

「それは、」とシヤナは喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。こいつに話したところで、どうなることもない。瞬間的にそう判断した。自分でも褒めてやりたいほどに、順当な判断だった。

 しかし、口ごもったシヤナが一瞬見せたその仕草を、カザエルは見逃してはいなかった。

「これはこれは、僕を困らせまいと敢えて無言を貫くその優しさと純情な感情は美しくもあるが、時と相手次第ではその心遣いの向かう先にいる者を傷つけるだけだということに、君は気が付いているのかい?」

「なに一人で勘違いに拍車かけてんだよ。あんたに言ったところで解決なんてしないだろ、むしろ傷口に塩を塗られそうだよ」

「そんなことをしたら痛いだろう」

「比喩だバカ野郎」シヤナは不本意ながら、またも突っ込んでしまった。

「比喩か、そうか。ならよかった。痛いのは嫌だからね。僕に気を使って黙っているのではないというのなら、僕にほら、その内に秘めたる悩みという甘酸っぱい思いを解き放ったらどうだい」言ってカザエルは脱線した話を素早く元の軌道に直した。

 大柄なくせに抜け目ないよな、と内心で毒づきつつ、先日彼へこのように揶揄したことをシヤナは思い出す。その時の彼は、目をぱちくりさせながら、「大柄と抜け毛がどう関係があるんだい? 抜け毛があったっていいじゃないか、そんなに気にすることはない」と点で的外れに励まされ、こいつとは真剣に話をしても仕方がないな、と改めて確信したばかりだった。改めて、と言うからには、元々の彼が、こういった頭を振ればトンチンカンと鳴りそうな輩であることは概ね理解していたシヤナであったが、それを先日完璧に理解した、ということである。

 シヤナは黙ってまた項垂れた。悩み以外に頭を使っている場合ではない、しかもこんなバカげたことで、と自分の今の状況を反省して、落ち込んだ。効率が悪いところは、カザエルといい勝負である。そのことに気が付き、シヤナはより一層落ち込んだ。

「どうしたんだよ、釣針でも飲み込んだのか? 口がパクついているぞ」

「その方がまだマシだよ!」頭をもたげていたシヤナは、鋭さと潤いを帯びた瞳を一瞬だけカザエルへ向けた。

「あれ、本気で落ち込んでやんの。ならどうだい? 手っ取り早く、この頼り甲斐のあるナイスワンにユーの悩みを言っちゃってごらんよ。さんはい!」と飽くまで脳天気なカザエルは、大袈裟に羽を翻し、デカイ図体を揺らしながら、気に触る程の明るさで、小柄なシヤナへと再び言い迫った。如何に無視しようとも、どんなにぞんざいに扱ろうとも、カザエルはシヤナに絡んでくる。懲りるという言葉を知らなのか、とシヤナは眉を顰め、声に出して毒づいた。

「ん、なんだって? 懲りる? なんだい肩懲りが悩みなのか」

「うるさいなぁ……。ねぇ、仮にさ、本当の悩みを言ったらカザエル、あなた消えてくれるの?」私の前から永遠に、とシヤナは口ずさむ。

「ああ。君の為なら死さえ怖くないよ」カザエルは至極真面目に恥ずかしげもなく答えた。常々彼は、人間のカップルが、畔で見詰め合いながら吐いていそうではあるが、まず誰も口にしないような歯の浮くセリフを用いる。けれど、こう見えてカザエルは端正な造形の鶴である。そして大柄でもある彼は、他の鶴たちから――特に雌の鶴たちからは――憧れの眼差しを向けられている。なので、この歯の浮くような気障なセリフも、彼が口にするとそれなりに違和感なく感じられるのだ。その場の雰囲気は、さながら薔薇の背景が似合いそうな空気へと一転する。要するに、様になるのだ。しかし、続けてカザエルは、「実を言えば、死ぬのはかんなり怖いけど、これからもまだまだ付き纏うけれど」と自らその雰囲気をぶち壊した。独り言ですら忙しい奴、それがカザエルという鶴である。

「はいはい、分かったから静かにしてくれないかな。そうすれば私の悩みが一つ減るからさ」空を見上げてシヤナは、彼に合わせて演技がかったセリフを吐いた。哀愁漂わすとは、こういうことでいいんだっけ、と客観的な視点で自身を想像してもみる。こんなことしている場合じゃないのに、と内心のさらなる内心では分かっているのだが、目を背けたい現実がすぐ傍にあると、――それも実際に目の前にあるのではなく、これから先の未来に予定されていることとなれば、尚更に、逃避してしまうのである。人間も鶴も、実際に自分が体験するまでは、危機感を覚えないものである。

「うんうん黙るよ、黙ってしんぜますよ」と言ってカザエルは右の翼を翻して胸へかざし、細長い足を絡めて丁寧なお辞儀をしながら、「いたいけな君の可愛い悩みを聞きたいもの。でわどうぞ」とシヤナの話を促した。

 仕方なくシヤナは、あのね、と素直に話しだす。「あのね、今日の朝、私ここにいなかったでしょ? 実は近くの人間たちの住む集落へ行ってたんだけど、その時に猪用の罠にかかちゃってさ……」先ほどまでの素っ気ない対応は一旦中断した。それがカザエルには多少意外だったらしく、茶々を入れることも忘れ、「へ、へぇ」と気の抜けた相槌しか打てなかった。いつもならば、彼がどんなにお願いしても、シヤナが真っ当に返答してくれることはなく、軽くあしらわれるだけだったからだ。真っ当に返答しないのはカザエルも同じことではあるのだが、それはそれ。現象は同じことでも、目的が違う。言うなれば、適応と拒否の違いである。会話のことを喩えて「言葉のキャッチボール」と表現するならば、カザエルが変化球なのに対し、シヤナは早々にグローブを外して、あまつさえそれを投げつけてき、その上そのグローブを返そうと近寄ってもそっぽを向いて二度とグローブを手にしてくれない。と、そんな感じなのである。それでもグローブを嵌めていない相手にボールを渡したい時は、優しく丁寧にボールを投げてあげなくてはならない。いやいや、そっぽを向いてる相手に投げるのは危ないからして、ゆっくりと転がしてあげるか、もしくはすぐ側にまで寄って、ボールを目の前に差し出すしかないだろう。それにしたって、受け取る意思のない者へボールを渡し、その上ボールを投げ返してもらうことなど、毛頭叶わぬことではあろう。その為にカザエルは幾らかでも反応してもらえるように、返答まではいかなくとも反応はしてもらえるように、あわよくば応答してもらえるように、様々なアプローチの仕方を試行錯誤し、適用していった。それはやはり適応と呼ぶのが正しいだろう。カザエルのこの煮え湯を飲まされるような語り口は、シヤナからの反応が一番大きいアポローチを求めていった結果なのだ。拒否する者への適応。それなのだ。 

「そりゃ大変だったな」とカザエルはシヤナの顔を覗き込み、でも、と軽口を叩いた。「でも僕の目の前にいる君が、偽物のシヤナでないのなら、シヤナは無事に逃げられたってことだろ?」。

「そうなんだけど……私一人の力で逃げ出せたわけじゃないんだ」とシヤナは至極真面目に答えた。

「まさか人間に助けられちゃった、テヘ。とか言い出さないよな?」

「テヘ、とは言わないよ。でもまぁそういうことなんだ」シヤナは水面に顔を突っ込んだ。

「ふうん」とカザエルは相槌を打って彼女の次の言葉を待つ。が、一向にシヤナは口籠るように項垂れているだけだった。

「え、それはもちろん冗談だよな?」言ってカザエルも水中に顔を突っ込み、再度シヤナの顔を覗きこむ。

「冗談言うような鶴か私は? 本当だからまいってるんだよぉ。まったく、ああ気が滅入る」顔を水面から勢い良く出したかと思うと、すぐまた水面下へと頭を戻した。

「で、どうすんの?」カザエルは問うた。「掟は絶対なんだぞ」彼がこの冬、こちらの湖に飛んできて初めての真面目口調である。

「知ってるよ、んなことは」

「ほら、もうすぐ陽が沈むぞ。そもそも、その人間はどんな奴なんだ? オス……じゃなくって、男か女か?」

「ヤサ男だ」シヤナは思い出してみた。そう、かなりひょろっちい相手だった。今の私なら、何があってもきっと逃げ切ることはできるだろう。今の私なら……。

「じゃあまぁ仕方ねぇよ、優男なんだろ? なんたって優しい男なんだ、煮て食われたりはしねぇだろうよ」

「そんな心配、はなからしてないよ」どんな相手だって仕方がないんだよ、行かなきゃならないんだよバカ野郎、とシヤナは声には出さずに嘆く。「あああ、ホントどうしよう」

「適当にあしらえばさ、すぐに帰って来られるって」カザエルは意識して陽気な声をだした。カザエルにしてみれば励ましであり慰めだったのだが、シヤナにはただの野次馬根性丸出しのお気楽な鶴にしか見えなかった。

「自分のじゃないからって楽しみやがって」

「ええ、そりゃないって! いやいや、いえね、あの冷淡無骨な鶴さんであられるかのシヤナ嬢と真っ向から真剣に会話できているこの奇跡には浮き足立っちゃいますがね、なにも僕ってばシヤナ嬢を襲ったこの奇禍を、不幸を、苦悩懊悩を、楽しんでなんかこれっぱかしもしてやしませんよ」

「はいはい、そうでしょうね、カザエルはいつだってそうやって最初から最後まで、徹頭徹尾楽しそうですものね。今に限った事じゃございませんものね。私が苦しんでいようが泣いていようが構いやしないんですよね、いつだって元気に陽気に振りまいていらっしゃいますものね」

「だからですね、それは誤解ですよ。豪快な誤解ですよ」とカザエルは大袈裟に言うが、却ってシヤナの目には言い訳がましく映るだけだった。

「いいよいいよ。カザエルに慰められた方がよっぽど惨めだから」

「え、だったら今までの僕の言動は一体どのように映ってらしたんで?」

「にしても……厄介だなぁ」とシヤナはカザエルの問いを完全に無視して、「このことは他の連中には言うなよ、絶対に言うなよ?」特に長老にだけにはね、と念を押した。

「シヤナに嫌われたくはないからなぁ。うん、絶対に言いません! たとえ猛烈に言いたくなったとしても僕は、この嘴を縛りってでも言いません! どんなに言いたくなっても、叫びたくなっても、この身体を水中に沈め、もがき苦しみつつも、絶対に、絶対に僕は言いません!」

「……黙ることがそこまで辛いか。尋常じゃないな」

「安心してくれシヤナ。僕が死んでも秘密は死なないよ」

「死んでくれ、秘密と共に死んでくれ。ってか逆だよね? カザエルが死ねば秘密も墓場まで、でしょ?」

「そんなことはないさ。長老がいるもの」

「一番言っちゃいけない人に言っちゃってるよカザエル! 秘密も守らずどうして死んだよ!」

「それはほら、ダイイングメッセージ?」

「犯人は私ですか!? 濡れ衣ですが!」

「とりあえず、僕は絶対に言わないから、他言流用だから」

「流用したらダメだから、流れちゃってるから駄々漏れだから。私を沈める気きですか」

「兎に角さ、安心して掟をしっかり全うしてきなよ」

「あぁ……不安だ」

「なになに、大丈夫だって、無事に帰って来られるって」何の根拠もなくカザエルは言い切った。

「今は、そっちの心配じゃないよ……」

 戻ってきた時に、もしも言い振らしていたら――今度こそこいつを始末しよう。シヤナは心にそう誓った。

 なんだか全てがとてつもなくどうでもいいことのように感じられた。それが好ましい精神状態なのかは判断しかねるが、一人で項垂れていた時よりは、胸のもやもやが晴れた気のしたシヤナであった。


 シヤナはその晩、聞いていた通りに鶴の姿ではなくなり、助けてくれた男の元へとしぶしぶ足を運んでいた。

 美しく艶やかな羽が消え失せ、代わりに暗闇に淀む四肢が見えた。意識して、見ないようにも務めた。カザエルが、どこから調達して来たのか、人間の服を持ってきてくれた。余計な御世話だ、と一括したかったが、それはお門違いだ、と気を押さえたことで、カザエルへの礼は果たしたことにした。

 男の家は、シヤナが引掛かった猪用の罠が仕掛けてあった林から、西に三百メートル程離れた場所に、ポツンと建っていた。


 何とも厄介な掟が存在するものだ、とシヤナは俯いて歩む。

 鶴社会の掟。それは、人間に助けられた鶴はその晩に人間の姿になってしまい、鶴に戻る為には、助けてくれた人間に対して恩を返さなければならない、というものであった。

 しかし恩を返すとはあくまで装飾美化された表現であり、実際に鶴の姿に戻るには、助けられた人間に対して約束を提示し、その約束を人間が同意したのちに、人間がそれを破った場合に、鶴の姿へと戻れるのである。

 だから必ずしも、恩を返す必要はないのだ。極端な話、死なないで、と約束しておいて、その人間を殺しても、成り立つ掟であった。しかし、これを実行するどころか、思いついた鶴はいない。思いついたとしても、実行はしないだろう。あまりに、危険すぎる、そう直感するからだ。野生の勘というよりは、強者には立ち向かわない、という野生の本能と言えるだろう。

 鶴たちにとって、この掟を全うする事態になることは極力避けたい事項であり、恥辱であった。

 なぜなら人間は敵対する唯一の生物であり、憎しみをもたらす存在であったからだ。

 その悪しき存在に対して、曲りなりとも恩を受け、返さねばならないというのは鶴でなくとも理不尽を感じずにはおられまい、と鶴たちは考えている。

 その結果、この掟を成し遂げてくる鶴は否応なしに、自己嫌悪に見舞われるのである。

 しかしシヤナにはもう一つ、気を揉ませる理由があった。

 それはシヤナの母である今は亡きシュンリのことであった。

 シュンリは今のシヤナと同じように、この掟を成し遂げなくてはならない事態になり、人間の下へと出向いた。どこをどう間違い、どのような経緯かは定かではないが、その結果生まれたのがシヤナであった。だがシヤナが産まれたのはシュンリが鶴の姿に戻り、仲間の下へと帰っていた後であり、シヤナは鶴の姿で産まれた。

 シヤナを産んだすぐ後にシュンリは出産の負担に耐え切れず、死んだ、とシヤナは聞いていた。

 これは人との交配種であるシヤナは産卵ではなく、出産であったことが原因とされ、シュンリが鶴の姿では無理があり、鶴であるシヤナが産まれたことによって死んだ、とシヤナは聞かされていた。そしてそれはシヤナにとって、最大のジレンマであり、言葉では現されてはいなかったが、人の子であるという事実を忌みられているということは、他の鶴たちの態度からは無造作なまでにシヤナは汲み取れていた。

 自身が人の子でなければ母は死なず、自身もこのような冷めた視線の中で暮らすことはなかっただろう、とシヤナは今でも良く思い巡らすのであった。

 だからこそ、シヤナは他の鶴よりも人間に対する排他的な感情が大きかった。


 雲さえ見えなければ、月明かりが幾重にも切り裂かれて、綺麗な紋様に見えたことだろうに。細かい檻の柵のような木々の、小枝の合間を見上げながら、シヤナは思った。林を抜けると、干上がった池の畔にいるような場所に出た。丘の上に立っているかのような感覚だなと思ったが、事実今までの林が、木々が丘の上に密集していたために林になっていただけだった。

 そこを滑るように降りると、小屋というよりは古屋と表したほうが良いような時代錯誤の小さな家が存在していた。

 シヤナは大きく息を吸い、止め、鼻から漏らすように吐いた。

 それから光の漏れている扉の前に立ち、トントン、と扉を二回叩いた。しかし扉は開く気配がない。中を覗こうと扉に顔を近づけて気がついた。扉の右中部の壁に小さな四角にマリモのような丸。確か人間どもはこれを押すんだったな。シヤナは思い出したようにマリモを押した。

 ポーン。耳障りな、乾いた細い音が鳴った。

「はーい」耳障りで濁った、か細い鳴き声がなった。しかしそれはシヤナの一方的な印象と、昼間に得た視覚情報が複合された結果だった。とどのつまり、偏見である。

 扉が開き、細身の男がひょっこり顔だけを出し、「どちら様でしょうか?」と朗らかに言った。

 こんな夜分に訪れる客を笑顔で出迎えるなど、なんと警戒心のない、情けない人間なのだろう。シヤナはその気持ちを制御することを頭に浮かばせることもなく、怪訝そうな表情を逆にして見せていた。

「どうされましたか? どこか具合が悪いのですか?」男は一歩外に出た。暗闇に浮いて見えていた男の顔に、身体がくっ付いた。それでもシヤナが黙ったままだったので、男は一旦頭を掻き、「あの、寒くはないですか? もしよろしければでいいのですが、とりあえず中へ……あの、どうぞ」と明かりの垂れている玄関内へ手を伸ばし、シヤナを招いた。

 玄関の中へ入ったシヤナは警戒するように見渡した。視線がぐるりと一周しきる直前に視線は逆方向へと至急戻された。二度見である。視線だけで見ていたシヤナだったが、二度目は首ごと向けた。眉を寄せた目が見開かれた。シヤナのがん開きになった瞳に映っていたものは、いつも水面に映し出されていた見慣れた容姿ではなく、横にいる人間のそれであった。違いは細い男よりも、もっと細く、肌の色は羽が無いにもかかわらず、羽と同じように白く、しかし頭を覆う長い艶やかな毛は、嘴よりも黒く、水面には一つずつしか映らなかった真ん丸いヒスイの様な眼球は同時に二つ映っており、翡翠のように輝いていた。よくよく見れば、それらを映し出していたそれは、玄関の靴箱の隣に付いていた大きな波紋を生み出さない水面のような、鏡であった。その中に一人、鶴の代わりに小娘が立っていた。自分の動きに連動して動くことから、その小娘が、人間の姿になった自分であることに、シヤナはすぐ察しが付いていた。

 今までこの姿になってからシヤナはずっと暗闇の夜の中に居た。それが今こうしてはっきりと人間と化した自分を見た。シヤナの顔は蒼白になっていく。思っていたことだったし覚悟していたことだったが、実際にこうして目の当たりにすると、動揺は抑えきれない。

「だ、大丈夫ですか? 顔色が優れないようですが……あの、少し横になられたほうがよろしいんじゃ、あの、お医者さんも今呼びますので、あの、本当に大丈夫ですか?」男は両手を、わさわさ、とさせながら、おどおど、と言った。

 シヤナは黙って部屋へ入り、崩れるようにベッドに倒れた。警戒心も虚栄心もなにも無かった。心の振動によってひどくシヤナは酔っていた。気分が悪かった。全ての思考を放棄したかった。シヤナは眠りに落ちた。



「まぁ大丈夫でしょう」というしゃがれた声と共に、シヤナの意識は軽快に浮上してきた。

「血圧が低いのが気になりますが、ゆっくり休めば体調はまた優れるよ」目を開けたシヤナの視界の端に、白髪頭の人間が映った。その白髪の男の隣にはシヤナを助けたあの男がいた。

 そうだった、私はあいつの家へ来ていたのだ。シヤナの意識は曇ったガラスを拭くかのようにハッキリとしてきた。

 私は倒れたのか――自分自身の姿を見て。

「情けない」シヤナは思わず口にした。その無意識の嘆きは案外に大きく、今廊下へ出ていた男二人にも届いた。二人は振り返り、部屋へ入ってきた。

「良かった、お目覚めですか? 気分はいかがですか?」白髪の男よりも先に、家の主であるあの男がシヤナへ話しかけた。

「近づかないで!」シヤナは叫んだ。どうやら声も、人間の鳴き声に変わっているようだ。

「落ち着いてください、大丈夫です、何もしませんから。あのう、覚えていませんか?昨日あなたは僕のこの家に訪ねてきて、そのまま倒れるように眠られたのですよ」

 シヤナは黙っていた。

「覚えて……ない、ですか。あ、ではお名前は? そうだ、その前に僕の名前ですね」

 誰も聞いてないわよ、と口には出さずにシヤナは毒づいた。

「僕はキヨシです。城嶋清司。よろしくね」城嶋清司はシヤナへ向けて手を差し出した。シヤナは彼の手を睨むだけに留めた。城嶋清司はその手を引っ込め、そのまま頭へ持って行き、髪を掻いた。

「それで、えっと貴女のお名前……は?」

 シヤナはまた答えなかった。それは目の前の人間に対しての警戒心もあったが、それ以上に、このシヤナという名前をそのまま言っていいものだろうか、という疑問によるものだった。人間社会には苗字というものがある。だがシヤナには無かった。そのことが大きかった。その為、このシヤナの無言は城嶋清司と、その横の白髪の男の目には無視というよりも、悩んでいる、言いたくても言えない、といったそのままの様子に映った。

「もしかして、分からないのかい。昨日ここまでどうやってきたのかとか、そうだ、お家はどこですか? ご自宅の方は? えっとご実家の電話番号は?」城嶋清司はシヤナへ質問を浴びせた。

 ますます、何をどう答えていいのか解らなくなってきたシヤナであった。

 清司は今から電話の子機を持ってくると、シヤナに手渡した。

「僕から連絡してもいいのですけれど、ご自分でかけられた方がいいですよね」

 シヤナは彼が差し出すその見慣れぬ細長い石の様なものを受け取らずに、清司の顔とその見慣れぬ石を交互に見遣った。

「おいおい、城嶋君」と清司の肩を叩き、耳元で囁くように「君はこの子と知り合いではなかったのか?」と白髪の男は声を潜めて訊ねた。

「ええ、あの、はい。昨日知り合ったばかりです。名前も知りません……。黙っていてすみませんでした、雲山さん」

「いや、私はてっきり君にも伴侶ができたのかと思い、野暮なことは聞かなかったんだが、まさか見ず知らずの娘さんを泊めていたとは……。ぬか喜びのようだったか」雲山は少し微笑んで続ける。「まぁそれはいいんだが、これからどうするつもりかね?」

「はい。ええ、どうしましょう」シヤナへ向き直し、もう一度問いかける。「あのう、お名前だけでも……あのまさかとは思いますが、何も覚えていないとか、自分が誰だか分からないなんてことはないですよね」

 彼女の表情は陰る。

「わからないんですか。困ったなぁ。言いたくないだけならそれでもいいですから、自分が誰だかとか、記憶があるのか無いのかを、そのことだけでも教えてください」


「街の病院にでも連れて行ったほうがいいでしょうか? あっ、もしかしたら捜索願とかも出されているかもしれないですし、警察にも一応連絡したほうがいいですかね」声量を押さえていた言葉は、尻つぼみになりながら霞んだ。

 ビョウイン、ケイサツというこの単語に、シヤナは反応を示した。それは掟についての伝統受諾式で、長老の話の中にでてきた単語だった。シヤナは顔面蒼白となっていた。なんと説明すればよいのだろうか、どうすればよいだろうか、ああ早く元に戻りたい、こんなはずではなかった、と後悔や思索といった思考の絡まりによって酷く混乱していた。涙が溢れてくる。言葉にできない思いが原料かもしれない。

「ここに……」彼女は小さく言葉を発する。俯いているせいで、余計に声は響かない。

「え、はい、どうされました?」清司は振り向いてしゃがみ、ベッドでうな垂れているシヤナへ耳をそばだてた。

「ここに…………ここに、いさせてください」

 清司は息を呑んだ。後ろの雲山へ顔を向けた。雲山は肩を竦め、君が決めなさい、と言っているように見えた。もう一度彼女へ向き直し、見下ろす。酷く憔悴していることは表情を見なくともわかる。身元は分からない、彼女の名前もわからない。そんな彼女をここに置いておいてもいいのだろうか。この子の家族は心配していないだろうか。と、先ほどから考えていたことを、もう一度深く考えた。深く考えた結果、何もわからなかった。警察を呼び、彼女を保護させることも考えたが、彼女がそれを望んでいないことは、今までの反応でわかる。わかることが、得てして、わからない、ということだけなのだから、情けない。さらに、彼女をここに置いておいても、自分にできることは、彼女の衣食住を提供することだけだ。行方不明者や捜索依頼が出ていないかを調べて、身元をハッキリさせることもできない。それでもいいのだろうか。もう一度彼女へ聞いてみよう、そう思い顔を近づけた。その時、彼女も顔を上げた。返答がないことに、不安を感じたのだろう。その表情は、触れれば溢れてしまいそうな泣き顔だった。

「ええ……いいですよ」なぜか勝手に、口から出ていた。完全に無意識の言動だった。咄嗟に、だ。失敗した、清司はそう思った。すぐに訂正するつもりだった。しかし、目の前の彼女の表情が僅かにほころぶ様子を見て、思い止まった。とりあえず、落ち着くまで様子を見よう、と宥める様に、自分を納得させた。雲山にもこの決意を伝えた。

「君が決めたことだ、私は何も言わんよ」そう微笑んで、掴むように右手を清司の肩に置き、雲山は帰って行った。

 肩にはまだ雲山の手の圧力が残っているかのようだったが、決して苦しい重みではなかった。抑えつけられているというよりはむしろ、身体を持ち上げてくれているかのような力の解放を感じさせられるものだった。これで良かったのだろうか、と不安になる度に、この肩の圧力が、自分を後押ししてくれている。そんな気がするのだ。雲山さんは不思議な人だな、と清司は手を頭の後ろに回して撫でるようにうなじを掻いた。

 この日から清司はシヤナへの追及を一切止めた。

 自分にできることと、自分がすべきことを秤にかけ、その結果清司は、自分がしたいことを選択したからだ。清司のしたいこと、それは、目の前の彼女が笑顔で生活できること、彼女が人生を謳歌して生きること、それだけであった。その後のことは、まだ考えていなかったが、彼女が一点の曇りのない笑顔を浮かべられるようになった時、彼女は自然に、自らの意思でここを離れていくだろうと、漠然とそう感じていた。ただなんとなくのこの予感はけれど、清司にとっては十分に納得できる目的となり、強い決意を抱くのに十分な根拠となっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます