【ドライブの目的】

第89話

【ドライブの目的】


 幾分前からだろうか、窓の縁から縁へと過ぎ去っていく景色が、どれも同じに見えるようになったのは。いや、区別がつかなくなったどころか、道を浮かび上がらせる街灯の明かりも、ビルやネオンといった遠く離れ、薄れることはあっても、決して消えはしないだろうな、と思っていた煩わしい光も、今はすっかり闇に恐縮して、大人しくなっていた。というよりは、彼女がそれらの及ばない場所にいるだけのことだ。

 風景たちへ色彩とシルエットを与えている光が、ボンネット先から発射されて、十数メートル先を照らしているライトだけなのだ。それも、フロントガラスからの景色に限定され、今彼女が肘を付けて眺めているサイド・ウィンドと言えば、虚ろに顔を映し出す鏡と化し、僅かに浮かび上がっては流れていく紋様が、彼女の輪郭に薄らと散りばめられているくらいだ。対向車もしばらくなかったことに今、ようやく彼女は気がついた。

「なんで場所が分からにくせに、任せろっ、なんて言えるかなぁ」ケータイの充電も切れたから、私の堪忍袋が切れるのも時間の問題だ、といった洒落を思いつくくらいには、彼女はまだ理性を失ってはいない。が、逆にこんな陳腐なことを思い浮かべるほどには、退屈していた。窓から見えもしない風景を想像するのにも飽き、隣にいる、この迷子とも呼べる事態を引き起こしている男に、一瞥をくれてやった。

「そんなことは言っていないよね。楽しみにしていろ、と言ったんだよ」こちらをちらりとも見ずに、男は答える。

「よくそんなことを言えたものね」

「あれ、楽しくないの?」と彼はコンマ二秒ほど顔を向けてきたが、そんな刹那に人の表情を識別できるのなら、どこぞの銀行で、顔面証文機にでもなればいいのに、と彼女はその情景を思い浮かべて思わず噴き出しそうになった。それをどうにか堪えながら、この状況が不愉快であることを示し、なおかつ彼へ不満を訴えた。「これが楽しそうに見えるなら、今すぐに目的地を眼科か脳外科に変更すべきだわ」

「じゃあ……そうしよっか?」彼はなんともあっけらかんと言う。

 彼女は「え?」と動揺と驚嘆の交じった声を漏らしそうになるも、瞬時に我慢して、代わりに、「今だけ殺人を犯しても罰せられない法案が通らないかしら」と冷たく嘆いてみせた。

「今からだとそれは無理だろうね。仮に、政治家が国会でその議案を提出したら、半年先まで、メディアは報道のネタに苦労しなさそうだよ」男は落ち着き払った様子で、補足までしてきた。冗談が通じているのか、通じていないのか分からない男だ。そもそも自分が先ほど口走った言動が冗談ではない気が、だんだんとしてきた。だからだろうか。

「あんたにはよっぽど私を不機嫌にさせる才能があるみたいね。でも、できるなら、あまりその才能を振りまかないでほしいわ」苛々するの、と彼女は取り繕って、不快指数を六割カットした口調で言う。

「確かに磨きたくはない才能ではあるけれど」と言いつつ男はけれど、彼女の厭味を全く意に介さずに、もしくは、と間髪いれずに指摘した。「もしくは、ただ単に君が短気な可能性もあるよね」

「あったまきた、車を止めなさい、いますぐに」と彼女は静かに怒鳴る。

「ここでかい? その後はどうするつもり?」男は速度を落とす。

「この窮屈であんたと一緒の空間から出るわよ」

「この何もない山ん中で?」男は前のめりになり、辺りを見渡すそぶりを見せる。

「……そうよ」

「このくそ寒い中?」と男は両側のサイド・ウィンドを申し訳程度に下げる。空いた隙間から外気が流れ込む。新鮮な空気と感じたのも束の間、すぐに身震いが女の全身を巡った。

 肌が泡立ったにも拘わらず、それをおくびにも出さずに女は、「……そうよ」と答えた。

 すかさず男は、「こんな真っ暗なのに?」と完全に停車して、前方を照らしていたヘッドライトを消した。寝起きに、ここは深海です、と教えられれば、十秒ほどは信じてしまいそうなほどの闇が、車内も車外をも包んだ。

「あのさ」と女は怒気を含んだ口調で言う。「……素直に降りないでって言いなさいよ」

「素直に謝ればいいのに」

「なんであたしが謝るのよ、あんたの方が悪いんじゃない。てか早くライト点けてよ」

「確かに」男はエンジンをかけて、ヘッドライトを点灯した。前方の道が浮かび上がる。躍動する車内に身を預けつつ彼女は、エンジン音とはこんなにも心強く感じる物なのだなぁ、と数秒の間、感慨に耽った。それから付け加えたように、「へぇ、素直じゃない」と呟いた。

「僕はいつだって素直だ。その素直さが君を苛立たせる要因でもある、と僕は分析しているよ」いつものように抑揚を帯びた言い方だった。

「そのキザったらしい口調が、の間違いでしょ。どこの世界に女性との会話で、要因だの分析だの使うバカがいるのよ」

「バカかどうかは定かではないけれど、ここに一人いるよ」

「知ってるわよバカ」

「確かに」

「笑わせないで頂戴」彼女はくすっと身体を揺らす。

「なら、笑わないでください。僕はいたって真面目に言っているだけなんだからさ」

「こんなくだらないことを真面目に言っちゃってることが笑っちゃうのよ」

「確かに」

「だからやめてってば」

「確かに」

「しつこいって、ちょっと」

「さすがに?」

「言い方変えたって駄目」

「僅かに?」

「まだ続ける気? 信じらんない」

「にわかに?」

 直後、彼女は男の肩を思いっきり叩いた。

「それはえっと、……突っ込み?」男は飄々と口にした。先生、これは何の種ですか? と訊く子どもみたいな所作だった。

 女はそんな無垢な男の表情と仕草を見て、大きな溜息を吐いた。こんなことで腹を立てている自分がどう仕様もなく馬鹿馬鹿しくなったのだ。自然と頬が緩んだ。

「機嫌、なおった?」男は女に向けて声をかけた。

「ええ、少しね」ほんのちょっぴり、と彼女は男の顔の前で、人指しと親指をくっつけて見せた。OKのマークみたいだ。

「それは良かった。うん、本当に良かった。ていうか、本当にちょぴりだね」指がくっ付いているよ、と男は彼女のOKマークをつっ突いて、再び車を発車させた。


ところで、と彼女は手を引っ込めて、窓の外をぼーっと眺めながら問う。「ところで、いつになったら着くのかしら?」

「それなんだけれどね、また今度じゃ、駄目かな?」

「は? どういう意味?」

「実はさ、さっきまで迷ってたんだよね、僕」

「見りゃわかるわ」

「それでさ、来た道を引き返したんだ。そしたらどうやら見慣れた道に出てくることに成功したんだ」

「実験が成功した、みたいなノリで言わないでくれない。んで、どうしったっての?」

「うん、次こそは迷わないようにって、思ってさ」

「いい心がけね」

「で、ここまで戻ってきたんだから、ついでに家に戻って、休んでからにしない?」

「ここまでって……あれ、なんで地元に戻ってきてんのよ、え? なんで? 瞬間移動でもしたの?」いつの間にか、周囲の風景には煩わしいネオンやビルの明かりが、薄っすらとではあったが、支配し始めていた。

 数時間前にこの町を出発した自分たちが、ここにいてはおかしいだろ、という違和感と、あいつは死んだはずだろ、とミステリィ小説の解決編で陥る驚嘆とが似ていたことが、少なからず彼女の正常な癇癪の作動を邪魔していた。それとも、煩わしいと感じていた人工的な光たちと出会って、少しはほっとしたからだろうか。

「いや、あのね、怒らないで聞いてほしいんだけれど、二時間くらい前から実は目的地へ行くことは諦めていたんだよ。でさ、それがばれない様にって、気をつけて戻って走っていたら隣の県境の山道に入ってしまって、それで今度は本当に迷ってしまったんだよね。僕ってさ、思っていたよりも間抜けだね。でも、そしたら、ほら、県民の森から出て来られたんだ。あそことここが繋がっていたなんて、新発見だよ、軽く感動を覚えたよね、本当」

 しばらく彼女は俯いたまま、無言だった。その間に男はCDを再生させた。軽快な民謡音楽が、車内へ充満して行くのが分かる。十数秒してから、音楽を付けたことは失敗だったかも、と思った。軽い楽曲が、密封された車内にどんどん溜まっていき、密度を増して、余計に車内を重くしているようにしか感じられなかった。静寂が強調される。

「あれ、どうしたの? お腹痛いの?」男は耐えられなくなって、切り出した。

「ええ、そうよ。はらわたって、実際に煮えくりかるのね、私、全然知らなかったわ」

「うわぁ、僕と同じ新発見だね、やったじゃん!」

「誰か殺意の止め方を教えてくれないかしら」彼女は男を鋭く睨んだ。

「僕は知らないから、僕以外に訊くなら、電話しないと。ただ呟いたって、誰も教えてくれないよ。あっそっか、ケータイの充電切れてたんだっけ、公衆電話あったら寄る?」

「ああ、ダメ。もう我慢ならないわ、お願い、死んでくださらない?」

「嫌だ、と言ったら?」

「コロス」

「なら、僕は自分で死ぬことにしよう。君が犯罪者にならないようにね」

「優しいのね。なら早く死んでくださらない?」と彼女は首を傾げて上品にお願いした。

「そうだね、その前に、僕はやらなくてはならないことがある」

「へぇ、なに? 私は慈悲深いから、一つだけ許してあげましょう」と座席に身体を埋め直して彼女は言った。

 車は信号機の前で停車中。信号が赤から青へと変わるまで、男は何かを逡巡するように沈黙していた。信号機が青へと変わり、「GO」と指示すると、車は再び走り出す。男は決心したように、白状するように、告白するように、懇願するように、けれどやはり淡々と口にした。

「僕と――僕と、結婚してください」

 女は首を振って、彼に視線を当てる。彼の横顔を見開いた瞳で凝視しながら、たった今耳にした彼の言葉を反芻した。

 ――結婚?

 彼女の口はあんぐりと空けっぱなしで、金魚のようにパクパクと空気を噛んでいる。何と答えればいいのかが、上手く考え付かなかった。冗句の一つでも言い返したかったが、それすら思い浮かばない。

「君を幸せにした後に、僕は死ぬことにするよ」

「な、なんで?」意味が解らない。女は思わず声を張り上げる。「じゃなくて、えっとさ、あんたさ、これ以上ふざけるなら、本気で怒るわよ。大体あんたね、私を幸せにするなんて自信、どっからでてくんのよ」

「僕はいつだって真面目だし、素直だよ」

「素直かなんて聞いてないわよ」

「確かに」

「それはもういいわ。あ、あのさ、さっきの話は本当の本気……なの?」

「ああ本当だともさ。僕は真面目だし、素直だ」

「そ、そっちじゃないわよバカ。その前の、け、けっこ……結婚がどうとか? そうとか? なんか、そんな感じの……はなし」

「だからさ、僕と結婚してください。そしたらさ、僕、死ぬから。君の望み通りに、君の為に死んであげるから」

「結婚したら死ぬの? それじゃダメじゃん、私幸せになれないじゃん! 不幸な未亡人だよ、どうすんのさ」どう責任とってくれるのさ、と彼女は震えだした声を押さえるように捲し立てる。

「結婚して、子どもを産んだら、君はもう寂しくないでしょ? 君が子どもを産んで、僕がいなくなっても寂しくないだろうな、大丈夫だな、って思ったら、約束通りに、僕は死ぬから」

「こ、こども……!? じゃなくって、なんで死ぬこと前提なの? 死ななくたっていいじゃない、さっきのこと根に持っているの? 大人げなさすぎよ」

「誰だって、いつかは死ぬんだよ」酷く優しい口調で男は続ける。「だったらさ、僕は君の幸せを見届けてから、死にたいんだ。だから、僕と結婚してください。じゃなかったら、僕は今すぐに死んでやる。君と結婚して、子どもの成長を共に喜びながら、皺や白髪の増えていく君を新たに好きになって、君の傍で死ぬことを諦めて、今死んでやる」

「言葉もでないわね、そんな子どもみたいな我儘……」

「だめ?」

 彼女はごにょごにょと、何かを口走った。しかし、俯いていたのと、早口のせいもあり、なんと言っていたのか、男には聞こえなかった。しかし、伝わっていないはずがない。

「ごめん、よく聞こえなかった」と苦笑しつつ男は言う。

 しかし彼女の返答はまた、「だ…………ない」とハッキリとした言葉となって発せられなかった。

「ごめん最後が聞き取れなかった。もう一度言って」男は白々しくも頼む。

「ダメ……じゃない」彼女は俯きながらもじもじと口にした。

「そうか……」と男は深く嘆息を吐いた。「やっぱり、だめかぁ」

「はぁ?」信じらんない、と女は男を凝視する。「バッカじゃないの? ダメじゃないって言ってるでしょ! 結婚すんのよ、私とあんたは!」

「そうか、結婚するのか」

「喜べよ!」

「うわ~い、やった~結婚できるぞ~」と抑揚なく男は口にした。

「ここが車内じゃなったら、蹴り飛ばしてやるのに。棒読みもここまで来ると、立派な悪口ね」

「君が初めて家に来た時から、こうなるんじゃないかなって、気がしていたんだ」

 女はその男の一言で、初めて男と出会った時、そして、自分が男の元へと出向いた時のことを思い出す。「…………よく追い返さなかったわね。普通、長居はさせないでしょうに」

「突然美人がやってきて、一緒に暮させてくださいって、濡れ衣一枚で来られたら、男なら誰しも下心丸出しで泊めちゃうよ?」それこそ、濡れ衣を着せられたとしてもね、と男はおどけた口調で言った。

「そんな理由だったの! 信じらんない、美人局だったらどうするつもりだったのよ」

「だからさ、それでもいいかなって、思っちゃうくらいに君が素敵だったんだ」

「……やめてよ」

「何恥ずかしがってんのさ。冗談だよ?」

 女は黙って男を叩いた。

「痛いって、え、何? 怒ったの?」

「別に、そんなんじゃないし! 大体さ、どこ行くつもりだったのよ? どうせもう行かないのなら、教えてよ」そうなのだ。彼は目的地を教えてくれなかった。朝に突然、「今日はドライブに行こう」と言い出して、のこのこと付いてきてしまった。それがこんな時間の無駄、窮屈で退屈な迷走になるなんて思ってもいなかった。いや、窮屈であろうが、退屈であろうが、別にいいのかもしれない。それが彼の側にいることなら、平和で穏やかとも言い換えることができるのだから……あれ、できるかなぁ? と女は頭を抱える。

「昔さ、いや、昔っていうほど前じゃないんだけれど、僕、湖の近くで鶴を助けたことがあったんだ」男は懐かしがるように温かい目で彼女を見つめつつ答えた。

「ちょ、ちょっと前向いてよ、運転! 運転!」

「へへ」と悪戯に笑って彼は、それでさ、と前を向き直して話を続けた。「それでさ、となんとなく、そこでプロポーズしたかったんだ。今思うと、なんでだろうね、なんとなく、ふとっ、そんな気がしたんだ。するならあそこだろ、ってさ」もう一度男は女を見つめた。街灯の下を通る度に、彼女の顔が浮き上がっては消えていく。その断続的な時間差が、彼女の表情の僅かな変化をも、顕著に浮き上がらせていた。

「きっと、今年も鶴が来てるだろうから、その鶴たちに祝福されたかったのかもしれない。ほら、僕も君も、そういう祝ってくれる親類っていないじゃない?」

「ええ……そうね。でも、きっと鶴たちは祝福してはくれないわ」彼女は彼から顔を背けるように窓の向こうの煌びやかなネオンたちを眺めている。

「知っているような口ぶりだね」と男は含み笑いをする。それから真面目な口調で、「一つだけ訊かせてくれないか」と前を向きながら呟いた。

「ん。なに」彼女は男を見遣る。

「君は、なんで今、泣いているの?」

「そんなの」女は視線を男から外し、そっぽを向きながら、「……嬉しいからに決まってるでしょ。恥ずかしいから言わせんな!」と小さく怒鳴った。

「そっか、ならいいんだ」言いつつ男は、今日一番の笑顔を彼女へ向けた。「あ、お腹すいたね、ラ-メン食べに寄ろうか?」

 プロポーズの日にラーメンって、と彼女は煙たい顔をしたが、すぐに「うん」と軽快に了解を返した。

 CDからはなぜか先ほどから、チャルメラが流れていて、ムードもへたくれもなかった。

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