【二歩・散歩・死歩】

第87話

【二歩・散歩・死歩】


 横断歩道の前で立ち止まる。

 車道を挟んだ向こう側で、泣いた後の充血した眼の様に、信号機が赤く見開いていた。僕らはその泣き顔に戸惑ってしまうから、歩みを止めて、足を踏み出すことを躊躇してしまうのだろう、きっと。

 いつまで経っても僕らは、信号機の気まぐれな泣き顔に翻弄させられている。慣れるどころか、日増しに、条件反射のごとく、立ち止まるようになっていく。次の瞬間には、駄々を捏ねている子どもに、おもちゃを買って与えたような明るい顔を見せるくせに。そんな気分屋の信号機が、僕は嫌いだ。

 信号の気分が晴れるのを待つ間、いくつかの車が目の前を通り過ぎていく。空気を掻き分けて走っているのがわかる。遅れて伝わってくる風が、酔っぱらいの吐息のようで、僕は息を止めてしまう。歩みを止められ、息まで止められたら、僕は死ぬしか術がないような気がする。むしろ、これは僕に「死んでくれ」、と言っている様なものではないか。そう考えた途端、車が目の前を通り過ぎる度に、「シネ」「しね」「死ね」と、囁かれているような錯覚が起きた。タイヤが地面と擦れる音と、空を割く乾いた音が、そう聞こえるのだ。

 だからなのか、それともただ単に、信号機にあてられて、僕も気分屋になっただけなのかもしれないけれど、いつも僕は、想像するんだ。トラックやバスが、僕の視界を遮る度に、はね飛ばされる瞬間を。

 触れる、直前。

 加速したように見える。

 ブレーキなど、掛けた気配はない。

 速度が、

 質量が、

 硬度が、

 衝撃という塊に変換される。

 膝に当たり、身体が前方に刹那、投げ出され、

 すぐに第二波を身体で受け止める。

 時間が止まったように、車体へ張り付く。

 と感じた瞬間には、既に宙を身体は舞っている。

 思考だけが取り残されたように。

 衝撃の余韻を残しつつ、思考は身体に追いつこうとする。

 その間に様々な考え、断片的な記憶、色の抜けた視界が、

 断続して、繰り返して、しだいに混濁しながら、駆け巡る。

 ああ、地面が迫る。

 そんな、妄想。

 高校生だった頃に一度、僕はトラックに跳ね飛ばされたことがある。轢かれたわけじゃなかったのが、せめてもの救いだ、と親からも言われたし、僕もそう思った。雨が降った次の日の道端に張り付いている、蛙の死骸のようには、僕はなりたくない。あんなマズそうなペッチャンこの煎餅みたいに、ならなくってよかった。本当によかった、と思う。でも、カエル煎餅以外になら、僕はなっても良かったな、と思うのだ。ボキボキに折れた枝でも、赤い大根おろしでも、別に構わない。これは、吹っ飛んでいる間、宙を転げている間、地面にぶつかるまでの、それはそれは長い時間に、五回くらい考えたことだった。僕にとっては長いという意味であって、それはやっぱり、とても一瞬の出来事だったらしい。

 五メートル吹っ飛んだあとに、六メートル転げた、と警察の人からそう聞いた。警察の人は、その時に僕が渡ろうとしていた向こう側の、信号機の横にいた叔母さんから話を聞いたらしい。いわゆる目撃者だ。僕も人が吹っ飛ぶ所を見てみたい、と思ったけれど、実際に飛ぶのと、見るのとでは、飛ぶほうがいいような気がして、得をしたように感じた。

 飛んだところで、浮遊し続けることはできない。そもそも、飛ぶことなんて簡単なのだ。それよりも、再び地に降り立つことの方がよっぽど難しい。けれど、やっぱり、飛ぶことと比べれば、大して重要なことではないとも思う。

 トラックから離れてからしばらく、宙を満喫していたのだが、唐突にそれは終わりを迎えた。佐藤の奴と喧嘩をした時みたいに、地面から特大の体当たりを、僕はもらったのだ。しかしこれも、傍から見たら、体当たりをしたのは僕のほうなのかもしれない。でも、僕はそんな気はさらさらなかったし、敵意を感じるほどの衝撃だったことは覚えている。それが体当たりでなくて、なんだというのだろうか。肩がぶつかってすみません、なんてものじゃなかった。ヤクザみたいに「骨折しちゃったよ、どうしてくれんだよ」、とイチャモンの一つも言ってやりたかったが、気がついた時には、病室で寝ていたので、すぐには言えなかった。退院してから、道路の地面野郎に対して抗議しに行ったが、車やバイクに踏まれているのを見たら、なんだか同情してしまって、とても言える状況じゃなかった。こんな環境じゃ、グレるなって言うほうに無理がある、そう考えて、僕は道路を許してやることにした。

 僕の身体は、それはそれは、軽々と宙を舞った。僕自身が、そう感じた。身体ってこんなに軽かったんだ、そう思った。ハッキリ言って、悪い気分じゃなかったんだ。でも、そのことを口にすると、自殺じゃないのかって疑われて、多少面倒なことになったことがあった。それ以来、この感想は胸の奥、よりは手前にある机の引き出しに、いつでも取り出せるようにしまっておいた。

 確か、それからだ。僕が想像しだしたのは。いや、その前からだったような気もする。どっちだろうか。僕が車とガッチンコしてから、宙を散歩して、その後に地面からゴッチンコされた時から、そもそも歩行者用の信号機は、泣き顔だった。

 そして、今も。

 きっと、この先も。

 向こう側の、自転車に跨って止まっている高校生たちに、僕は微笑みかけてみた。そう言えば、あの時も僕は、叔母さんに手を振った気がする。

 それから――そうだ、考えていたんだ。

 これからのこと。

 それと、この先のこと。

 そして、向こう岸のこと。

 いつか、ふと、

 足に羽が生えたような一歩を、

 踏み出せる日が来るといいな。

 そんな、躍動する、

 子どもじみた感情を、

 抱きながら。

 歩み続けることを、

 邪魔されないために。

 だから僕は、踏み外す。

 一歩目を。

 宙へ、向かって。

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