【独り、一緒に】

第83話

【独り、一緒に】


 公園とグランドに挟まれた野原。野良ねこはいつもこの場所で寝そべり、日向ぼっこをしている。

 いつからだろうか。ねこが顔を上げると、視線の先にはいつも同じ犬が無邪気に駆け回っているようになっていた。

 その犬は、主人に連れられてここへやってくる。犬はリードを外され、野原の背の低い草花を掻き分けて、駆け回る。犬が飛び跳ねるように野原を突き進むと、虫たちも一斉に飛び跳ねる。一見すると、互いに戯れているように見える。

 そんなあどけない犬を、野良ねこは寝そべったまま眺めていた。ねこの周りの虫たちも、一様に飛び跳ねるので気が散っていたし、犬の楽しそうな鳴き声が、それはもう煩わしく感じていた。だからわざわざ、野原のど真ん中に陣取って寝そべるようになった。犬からすれば、それはもう邪魔だったことだろう。ねこにとってはそれが狙いなのだから、一向に構わない。

 犬が横を通り過ぎる。

「走り回るのがそんなに嬉しいの?」 ねこは目を細めて呟いた。

 犬は地面を蹴るのを止め、芝を撫でるようにねこへ歩み寄り、言う。「眠るのがそんなに楽しいのかい?」

 ねこは黙ったまましばらく犬を睨み付けると、ぷいと視線を外し、突っ伏した。犬もそれを黙って見届けると飼い主に呼ばれ、また嬉しそうに走り去った。

 次の日も犬は駆け回り、ねこは寝ていた。ねこが呟くと犬が歩み寄り、また問い返す。そしてねこは素っ気なく顔を背け、寝そべり、犬は嬉しそうにまた地面を力強く蹴っては、野原を悠々自適に疾走した。

 二匹は毎日ここで、会話にならない言葉を投げ合い、一方は寝て、もう一方は走り回る。いつしかねこは野原の真ん中に寝そべることを止め、端っこの塀の上で寝そべり、犬を眺めるようになった。犬もまた、話しかける時以外はねこの側を駆けなくなった。相手に言われたわけではない。自然にそうするようになった。けれど、短い会話だけは相も変わらずに、毎日必ず交わし合っていた。それは、二匹にとって、とても日常的な、ご飯を食べる位に当たり前な日課となっていた。



 嵐の日。

 犬は家の中から外を眺めている。

「今日はダメよ。小屋で大人しくしてなさいね」 飼い主の声が聞える。けれど犬は、大好きな飼い主の声に、反応しなかった。

 ずっと眺めていた。庭の塀の向こう側、野原の方角をずっと。

 もしかしたら……、と不安が一つの影を、犬の見つめる先に見せるのだ。

 飼い主は雨戸を閉める為に犬を跨ぐと、小さく窓を開けた。犬は窓に隙間が開くや否や、飼い主の足元をしゅるり、と抜け、全力で駆け出した。飼い主の呼び声にも見向きもせずに。

 走る嬉しさなどない。

 ただひたすらに駆け抜けた。

 野原に着くと、犬はホッとした。

 誰もいなかった。

 犬はそこに座り込む。横殴りの雨は石でも飛ばしているのでは、と思わせる程にビシビシ、と犬にぶつかってくる。それでも犬はただじっと座っていた。背をピンと伸し。誰もいない野原を見つめて。

 翌朝、快晴の日。

 犬は家で寝ていた。朝方飼い主が、野原で泥だらけの犬を見つけ、抱き抱えて連れて帰ったのだ。

 すっかり冷たくなった犬はぐったりとしている。それでもなぜか気持ちの良さそうに寝ているのだった。

 

 ねこは塀の上から野原を見渡していた。

 野原はビショビショの泥んこ。走り回るには無理がある。それでもねこは、もしかしたら、と思い、塀の上に寝転んだ。

 夕暮れ。

 やはりこなかった。ねこはゆっくり身体を起こすと、大きく背を伸ばし、もう一度だけ野原を振り返る。野原の水溜りに反射して分裂した夕日たちが、眩しかった。塀から飛び降りてねこは、すたすた、とその場を立ち去った。

 次の日もまた次の日も、ねこは塀の上に寝転び、ずっと野原を眺めていた。塀裏の家では、庭の工事が行われていて、花壇のあった場所に大きな岩を置く為の穴が開けられている最中だった。

「奇麗な花壇だったのに」ねこはその工事の音が煩わしくなって、野原に下りた。人間は変わり者だ。大切なものを消して、そこに無意味なものを造る。それにどんな楽しみがあるのだろうか? ねこは久しぶりに、そんなことを考えた。

 ねこは夜も眠れなかった。なぜ来ないのか。何かあったのだろうか。犬の事を考えるだけで目が開いてしまう。寝むれないのは、街灯が眩しいからだ、ねこはそう思い込むことにした。寝そべりながら街灯を見つめていると、その夜の部分的な昼の向こう側に、一直線に走り抜ける星が見えた。ねこはびくっ、と身体を起こしてしまった。犬が夜空を横切ったように、錯覚したのだ。

 たった今、考えないようにしようと決意した矢先なのに・・・。ねこは、静かな夜に、微笑んだ。

 次の日からねこは、いつもの野原にはいなかった。

 ねこは走った。

 道を走り、垣根を掻分け、石垣に登り、庭に降りては塀を超え、家を次々に回った。

 時々野原を見に寄りながら。

 町中を走り回った。

 何日も何日も。

 ねこは走った。

 自分は風になったのかもしれない。

 ふと、ねこは思う。

 自分の人生二回分は走ったな。

 こうも考えた。


***

 野原を見に寄ったけれど、今日もいない。期待はしていなかったけれど、やっぱり少し残念だ。

 久方ぶりの野原は、静かだった。いつも寝そべっていたあの塀の裏からも、工事の音は消えていた。またあそこに登ったら、以前のように逢えるかもしれない、そんな気がした。

 塀の上にはもう、日差しも届かなくなっていて、すっかり涼しくなっていた。走り回っていたので、そんなことにも、気が付けなかった。夏はとっくに終わっていた。

 とても寝ていられる気温じゃなかったから、ぼくはいそいそと立ち上がり、裏の家に飛び降りて、再び風に交じって、道路へと出た。その時だった。

「そんなに走るのが好きなのかい?」 声が通り過ぎる。

 ぼくは急いで踵を返す。あいつがこちらを見つめていた。庭の土の上に寝転んだまま。

 ぼくは息を整え、ゆっくりと歩み寄る。自分の頬を伝う水が、ぼくには何だか解らなかった。欠伸をしたわけでもない。怪我をしているわけでもない。

 そうか。

 走り過ぎた。

 足が細く震えている。

 でも、そんなことは関係ない。ぼくは言ってやった。

「走るなんて疲れるだけ。つまらない。やはりおまえは変な奴だ」

 ぼくへ静かに微笑むと、あいつはそのまま目を瞑った。

 ぼくは囁く。

 寄添いながら。

「眠るのも中々悪くないだろ?」 返事はない。

「冷たいな……」 ゆっくりと、ぼくは目を瞑る。瞳に滲んだ水を、瞼が拭う。大きな滴となって、零れ落ちた。

 その滴が土に沁み込むと同時に、どっと疲れが身体を包む。

 無理もない、走っていたのだ 。

 ずっと独り。

 待っていた、きみもずっと独りで。

 だから、今は寄添って。

 ぼくは眠るんだ。

 また走る為に。

 次は一緒に走るから。

 あの野原よりも何も無く、澄んだ場所で。

 この町よりも複雑な、広い場所へ。

 だから今は寄添って。

 きみは眠るんだ。

 夢の中よりも自由で、夏よりも鮮やかな世界で。

 塗装された地面などの無い、雲のように柔らかな世界へ。

 だから、今は寄り添って。

 ぼくたちは。

 だから、今だけ寄り添って。

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