【上塗りのハンドプリント】

第79話

【上塗りのハンドプリント】


 短い悲鳴が聞こえた気がした。蛇口を勢いよくキュッと捻り閉めたような、そんなイメージを彷彿とさせる声だった。私は足を止め、耳を欹てる。

 冬の夜に独特の、研磨されたような肌触り滑らかな冷気が、肌を撫でるように流れていく。私は昼間の、日差しに纏わり憑かれたあのぬるい風が嫌いだった。どこか粘着質な印象を抱かされ、濁った陰気に包まれているような、そんな気がしてくるのだ。

 だから私は夜が好きだった。この澄んだ夜空を見上げながら暗闇に空く針穴のような星たちを眺めて、どこまでも透明で清廉な空気に包まれることで私の内にある邪な感情や欲求が浄化される。そんな子ども染みた幻想を夢想しつつ散歩する――この閑散しんみりとした夜が好きだった。

 閑静な住宅街ということもあり、夜になれば昼間よりも人通りは少なく、ましてや斑に点在する街灯以外、夜道を照らす明かりはないので、それこそ、ひっそりと何かに遠慮しているみたいに辺りは暗く、そして静かだった。

 耳を澄ましたところで結局、冷たい冬の風の音と、遠くの国道を走る車の風切り音以外、聞こえてはこなかった。

 思い違いだろうか。もしくは犬猫の鳴き声であっただろうか、などと思い直し、先の悲鳴の聞こえたと思われる方向を一瞥してから再び歩み始めたその刹那。

 ――誰か、誰か。

 誰かいませんか――と叫ぶ声が耳に届いた。今度は確信するに余りある程の、明瞭な声だった。

 どうしたものか、と私は思案する。けれど逡巡することもなく足はすぐに動き出し、だるまさんが転んだよろしく、悲鳴のした道先へと足先を向け私は、今歩んできた道に踵を返した。

 私が駆けている間にも女性の助けを求めるような呼び声が二三度、しんと静まり返っている町にキンと響いた。

 三つほど角を曲がると、女性は壁際に背を預ける格好で、道の真ん中を凝視していた。近付くにつれて彼女が微振していることが顕著にわかった。ただ単に寒さで震えているわけではなかろう。

 何があった――と私が歩み寄りつつ声をかけると彼女は、放心したようにただ道の真ん中を指差すだけであった。

 街頭から少し離れた場所に彼女はいた。だから道には闇とも影とも付かぬ暗幕が垂れていて、どこに何があるのかを一目で把握するには至らなかった。目を凝らしつつ近付く。人がそこに倒れていた。

「死んでいるのか」私は女性へ訊ねた。

 彼女はがくがくと壊れた人形のように何度も小刻みに首を縦に振った。

 怯えるこの女性よりも先に、私は倒れている人間の元へと赴く。私の対極に、怯える女性が来るよう、死体に回り込む形で膝をつく。背を向けるのが怖かった。その怯えた女性に。

 覗き込むように私は倒れている者へ顔を近づけた。

 ――もしかしたら、まだ、生きているやもしれぬ。

 そう思ったのだ。

 倒れていたのもまた女性であった。目は閉じているが、開いたら大層つぶらで大きな瞳であることは瞭然だった。体躯は小さく、けれど大人びた顔立ちの女。私はその女の首に触れる。冷たかった。今が冬であることとは無関係な冷たさがそこにはあった。生なき者の静。それだと納得するに至る。

 その場の闇に目が慣れてきたこともあり、そしてその闇に際立たされていることもあり、女の首は雪のように白く見えた。首筋に触れる。脈動は微塵も感じらなかった。

 女の腹にはナイフが突き刺さっていた。

 抱きかかえるようにして私は女の死体を道の端に寄せた。いくら車の通りが少なく、今が夜であるといっても、道のど真ん中では人目に付き過ぎる。

 そうして私は女を端に置くと、向かいの壁に未だ縋りついている、動ある女性へと歩み寄る。

「だいじょうぶですか」私は努めて優しい口調を心がけつつ手を伸ばす。

 その手を凝視したかと思うと、いかにも汚らわしいものを遠ざけるように女性は振り払った。何事か、と私は訝るが、すぐに合点した。私の掌は真っ黒だった。いや、たぶん、真っ赤なのだろう。夜のせいで色の種は定かではないが、血糊であることは明白だ。否が応でも察しが付く。

 暗くて見えなかったが、生なき女の服は血で塗れていたようだ。それもそうなのだろう、ナイフが腹に突き刺さり、臓物を貫いていたのだから。それを私が抱きかかえたので、女の血が手に付いた。ふむ、そう察するのが普通だろう。もしかしたら、ナイフの傷口から、内臓なども零れ落ちていたやもしれぬ。

 ポケットからハンカチを取り出し、手を拭って、私はさらに外していた手袋を装着した。

 これでよし。掌に付着した血糊は見えなくなった。

 私は再び手を伸ばし、怯えた女性の肩に触れる。今度は振り払われることはなかった。

 放心しているのか、怯えているのか、凍えているのか、どれとも付かないその動ある女性を取り敢えずその場に座らせた。ここは幾分か街灯の光が届いているようで、十分に互いの姿を確認することができた。女性も自分以外の人間が側にいることを心強く思ったのか、先ほどよりかは落ち着きを取り戻し始めた。震えも次第に治まってきたのを見計らって私は立ちあがる。

「もうだいじょうぶです。今、警察を呼びますね」言って私は携帯電話を取り出し、ボタンを順番に押していく。押しつつ私はもう一度、生なき女、即ち死体を見るべく振り向いた。向こうの壁には街灯の明かりが届いていなく、死体は闇に埋もれている。暗澹とした黒い渦が茂っているようにも見える。そこから、得体のしれない魔物か何かが、こちら側を無言で威圧しているかのような錯覚に陥りそうになる。続いて背筋にすっと冷気が走った。ぞっと這い上がってくるような、そんな寒気だった。

 人の感性というものは真に不思議だ。つい今しがたには夜が好きだと思っていたのに、今ではその局所的な夜に畏怖の念を抱いている。

 緊張と動揺を解こうと、私が小さく嘆息を吐くと同時に、耳をつんざくような悲鳴が響き渡った。背後の動ある女性が叫んだのだ。それこそ、背中ごと貫き裂かれるような悲鳴だった。

 どうしたのだ、と私が振り返り、見下ろすと、女性は私を指差し、「てが、てが」と呟くばかり。

「てが、なんだ」私は屈んで動ある女性を見詰める。両手で彼女を支え、三度震えだした彼女の身体を抑えつけた。

「てがた、てがたが」と女性は私の顔を見ることもせずに、むしろ目を背けて、言葉をなんとか紡いだ。彼女は両ひざを抱えこむように蹲り、消え入りそうな声で更に、「せなか、背中に手形が」と続けて口にした。

 ――背中に手形。

 もしや。と思い、着ていたコートを私は脱ぐ。コートには赤くペイントされたような手の跡が、くっきりと浮かんでいた。

 考えるまでもない。死んだ女の手形である。けれど、死んだ者が私の背に手を回し、血糊で判子を押すことはまずないだろう。どう考えても不可思議である。死者は動きなどしない。それこそ、手形を押し付けるなどできないはしない。縋りつくことも抱きつくことも、誰に刺されたのかと犯人を告げることすら叶わぬのだ。

 ――死んだ者が動くわけがないのだから。

 だからこそ、目の前のこの女は驚愕し、恐怖し、絶叫したのだろう。今はまだ混乱し、取り乱しているから善いというものを……。

 私は嘆息を吐くと同時に、決意を固めた。どんな馬鹿でもいずれは思い至るだろう。

 死んだ者は動かない。けれど、死んだ者の手形が私の背には鮮明なまでに付着していた。では、いつ誰が付けた手形なのか。死んだ者ではないのならば、生きた者が手形を付けたとしか考えようがない。

 では、いつだ。血の手形の主が、死んだ女であるならば、手形を付けたのは生きている時。

 つまり――死ぬ直前。

 死に行く女が最期に接触した人物へ残した、血の手形。

 それが私の背中に付いている。それの意味するところは、冷静になれば誰だって思い至るだろう。自明の理というものだ。

 ならば今私がすべきことは……。

 私はもう一度死体のある場所まで歩み、生なき女からナイフを抜き取った。死体の腹に突き刺さっていたナイフを、むんずと、引き抜いた。脈動の停止した死体から、血が噴き出すことは無かった。

 随分すんなりと抜けた。刺した時の方がよっぽど手応えがあった。ずしり、と腕に伝わる抵抗と、ぬめりとした肉の裂ける感触。女の着ていた服飾を貫く分、刺す時のほうが力を必要とし、抵抗も大きいのだろう。

 そう、きっとあの時だ。

 刺された女は傷口を確認した後、なにが起こったのかも判らぬままに、条件反射の如く目の前の私に縋ろうとした。助けを求めたのやもしれぬし、もしかしたら私を突き離そうと、抵抗しようとしたのやもしれぬ。その時私は既にナイフから手を離し、背を向け逃走しようとしていた。その私の背に、瀕死の女は触れたのだろう。伸ばしたその手で、触れたのだろう。

 その時に付いた手形。血の手形。


 私は血に彩られたナイフを片手に、竦み上がり縮こまっている動ある女性の前に立つ。

 彼女が見上げるまで、待つ。ただ静かに待つ。

 女性の嗚咽が、夜の静寂をより際立たせていた。

 沈黙したまま仁王立ちし、立ち尽くしている私に、ようやく彼女は気付き、そして顔を上げた。

 さぞかし私は不気味だったろう。

 抑えようのない笑みを浮かべたまま私は、右手にはナイフを握り、彼女を見下ろしていたのだから。

 女性の嗚咽が一時とまり。

 続いて、

 何かを悟ったように目を見開き、私から視線を外すことなく、女性は再び肩を震わせ始めた。

 言葉にはならぬ声を発していた。

 命ある者が発する声を。

 ――命声だろうか。

 それとも、死する者が発する声。

 ――命乞いだろうか。

 どちらにしても、もう遅い。

 持ち上げた右手を、彼女の首元へ振りおろした。


 生ある者は動もあり、故に血も舞い、地に伏せり。


 予定を狂わせた者への怒りは、鎮まらず。

 私は幾度も右手を振りおろす。

 叩くように、切り裂くように、潰すように、殴りつけるように。

 幾度もナイフを彼女に埋め込んだ。

 今はもう彼女には――

 生はなく、

 故に動もなく、

 ――静だけが宿り始めている。


 呼吸を荒げている私は、深く息を吸い。

 止め。

 白い息として一気に吐き出した。

 

 血だらけの、血塗れ。

 彼女も私も。

 血に濡れて。

 けれど今は夜。

 月明かりも今宵はない。

 血を纏った私は、闇に紛れる。

 誰の瞳にも、私は映らない。

 どんな光をも、私は弾かない。

 濡れたナイフだけが、

 弦月のごとく、

 遠くの街灯の輝きを、

 僅かに、仄かに、反射している。

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