【皐月色の雨】

第77話

【皐月色の雨】


「AV女優ってどう思う?」早月が独り言のように呟いた。


 映画を観に行こうよ、と早月から昨夜、電話で急に誘われた。予定もなかったし断る理由もなかったので僕は二つ返事で承諾した。けれど、映画自体は別に楽しみでもないこの急な約束に、夜行性の僕は適応しなかった。つまりは、寝坊した。いや、これはただの言い訳だし、虚言だ。僕はそれを自覚している。きっと彼女も承知しているはず。だからこそ、正午過ぎに起きた時、僕の部屋には早月がいた。

「おはよう」寝ぼけた頭で困惑しかけの僕に、彼女はとても優しい微笑みの乗った挨拶をかけてくれた。

「ごめん、寝坊した」やっと絞り出した言葉だった。でも、いつもの決まった台詞だ。それを僕はアドリブのように毎回必死に考えてから口にする。学習がないと言えばそうなるけれど、演技力があると言えば聞こえは良くなる。女の子が制服を着ただけで、可愛さが七割増しになり、更にスカートを膝上十センチ以上にするだけで十割増しになる法則と似ている。ただ言えることは、どんなことにも例外があるってことだ。そんな男の性と言える妄想を言葉に還元して考察しながら僕は、「ごめん」と付け足した。我ながら下らない考察だった、と戒めながら。

「見ればわかるよ」子どもをあやすような早月の話し方。

 僕はケータイを開いて時刻を確認する。十三時十分前。「ごめん、すぐ用意するから」言いつつ僕はいそいそとベッドから降りる。

「ううん。お出かけは延期にしましょ? 今日は久幸とゆっくりおしゃべりしてたい気分なの」彼女は絨毯の上で、正座を崩したような座り方をしていた。崩れているのに上品、それが彼女だからなのか、女性特有のこの座り方そのものの効用なのか、僕はそんな疑問を毎回この瞬間に思い出す。そしてすぐに忘れる。それは今日も同じらしい。答えはいつまでも導けそうにない。

 ごめん、と僕はまた言う。何回言っただろうか、と数えながら「時間ないもんね。本当にごめん」と本日五度目のごめんを口にする。

「それもあるけど、ほら、今日は雨なの。こんな日はお家でまったりコーヒーを飲みながらおしゃべりがしたいかなって。雨音を聞きながらね。ほら、なんだか素敵じゃない?」彼女はカーテンの隙間を覗くようにツツジ色のアイシャドーが仄かにのった目を細め、口元を緩めた。雨がもやもやした街をさらにもやもやと曖昧模糊とした存在にぼかしている。カーテンを開けているのに、もっと分厚いカーテンが外に垂れさがっているように錯覚する。こんな天気に外を出歩くのは酷である。

 僕は六度目をカウントしないように、開きかけた口を噤んで、何を話したら良いだろうか、と覚醒し始めた頭で思案しながらコーヒーを淹れに立ち上がった。

 地面に当たる雨の滴と、屋根に当たってベランダへと落ちる滴との間に生まれる雨音の強弱、そしてリズムのずれが、心地よい静寂の間を奏でていた。言葉なんていらないよ、と僕は念じる。彼女へ祈るように。世界に、願うように。

 インスタントコーヒーでいいかと思ったけれど、前に早月が買ってきてくれた豆があったので、せっかくだから喫茶店風に淹れてみた。すこし苦すぎたかもしれない。それでも彼女は美味しい、と顔を綻ばせた。


 おしゃべりをしたい、なんて言っていたのに、早月からは何も話さなかった。僕はコーヒーと早月の買ってきてくれたチョコクッキーを交互に口へ運びながら、最近見た映画についての考察を語った。映画は独りで観るものだ、が僕の持論だ。早月もそのことを知っているはずだし、むしろ早月だってそう思っている、と僕は分析しているくらいだ。いや、そもそも僕がこの持論を抱き始めたきっかけは、早月の影響だった気がする。だのに昨夜、映画を観ようよ、と早月は誘ってきた。人は変わるものだな、と僕は感慨に浅く浸る。


 雨音が激しくなってきて、いよいよ、出かけなくて正解だったな、という結論を僕が抱き始めた頃、ようやく彼女が自ら話題を口にした。

「AV女優ってどう思う?」

 飲み込もうとした唾を意識的に抑えた。目のやり場とか、舌の置き場所だとか、瞬きのタイミングとか、普段は無意識にしていた生体活動が全て意識下に置かれた。妙な緊張が僕を襲う。

「どうも思わないよ」僕はしばらくしてから答えた。この時やっと、溜まった唾液を呑み込んだ。実際は何も考えてなかった。こう答えてから、なぜそんなことを訊くのだろうか、と思考を巡らせたくらいだ。

 彼女は小さく首を傾げて、「どうして?」と西洋人形のような瞳を瞬かせた。

 どうしてだろうか、とまたも考えながら、僕は話す。「だって、人の価値は職業でなんかで決まらない」だろ? と僕は同意を求めるようにして彼女の瞳に視線を向けるが、すぐに逸らしてしまった。彼女はずっと僕を見つめていた。そのことに気が付いて、動揺してしまったからだ。だが動揺を悟られないように、負けじと再び彼女の顔へ視線を向ける――が瞳を見詰めることは終ぞできなかった。彼女の瞳を覗いた瞬間、僕の動揺も、それ以外の感情をも、全てを見透かされそうな気がしたからだ。僕自身が気づいていない、そんな僕の本質までもが。

「なら、何で決まるの?」人の価値って、と頬を緩ませたまま、彼女は不満のアヒル口をつくる。ああ、彼女は僕をからかって楽しんでいる。けれど、それもいつものことだ、気にしない。むしろ喜ばしい。いつもの通りであることが、とても、喜ばしい。変わらない日常ほど、嬉しいものは無い。退屈でないのならば、尚良い。そして僕は今、微塵の退屈も抱いていなかった。考えるまでもなく、そして言うまでもなく、早月がこの部屋にいるからだろう。なぜ早月といると退屈しないのか、と僕は一瞬思案気味に虚空を見詰めたが、またすぐにぼやけたピントを合わすように、早月へと視線を戻した。鼻から短い嘆息を漏らしつつ。

 理由なんていらないよ、と僕は弁解じみた祈りを念じた。

 さて、人の価値は何で決まるのだろうか。「何だと思う?」と、僕は早月へ聞き返す。考える時間を稼ぐ為だ。これは僕が良く使う手法。相手からの質問をまったく同じ質問で返す。相手が返答する間に僕も考えをまとめる。でも今は、思考の正常化が最優先。もちろん彼女にはバレバレだが、僕を困らせることで彼女は楽しんでいるようだから、問題ない。

「そうねぇ……私はその人が何をしたか、何を残したか、ということだと思うな。だから、仕事はその人の価値を定めるのに重要な基準になると思うけど……久幸はそうは思わないんでしょ?」

 うん、と僕は頷く。「そうだね。僕はそもそも、人は全て平等だと思っているから。もちろん平等であることと同等であることは違うよ。平等っていうのは、例外なく、っていう意味の言葉だ。だから均一でも均等でも同等でも同一でもない。人は平等であると共に、理不尽な程の境遇やできないことの差異が個々人の間には悠然と立ちはだかっている。けれどその差異が、溝が、自分と他者を明確に隔てている。要するに、それらの境界が僕らを個人たらしめているわけだし、それを個性というのだろうと僕は思う。じゃあ何が平等かと言えば、僕らは平等に無価値だし、平等に無意味だし、その一方で平等に価値を持ち、平等に意味を担っている。価値や意味なんて、人間だけが持っている概念だからね。僕らがいなければこの世界に価値も意味ない。故に、僕らこそが価値であり意味である、とも言えるかもしれない。けれど僕は、その平等なる無価値または価値の上から上書きするように更に、個人へ価値を付加しようなんて考えが理不尽だと思うんだ。平等から逸脱する個人を生みだして、一体何がしたいのか――僕は皆目解らない。しかもその平等から逸脱するなんてのは幻想も幻想、僕らちっぽけな人間の視る虚像でしかないにも拘わらず。だから僕はさ、仕事の出来や職業でなんか、人間の価値や尊さは決まらないと信じているんだよ。むしろ決まるべきではない、とすら思う。断片的な行為のみによって個人の全てを崇めるのはあまりに浅薄だ。一部分を取り出して、それが善いからと言ってその人間全てが善いわけではないし、また逆にさ、その一部が悪いからと言ってその人間全てを否定するのもおかしい話しだよ。そもそも善い悪いなんて二元論は、自分たちにとって都合が善いか悪いか、の判断でしかない。そんな利己的な善悪に一体なんの意味があるかな? どこが高尚かな? だからこそ僕はその人の一部分のみを取り出して、この人はこういった仕事をしている、こういった行為を成した、こういった考えの人だ、と一断片のみで個人を評価するなんて愚かしいことだ、と思っているのさ」今はね、と心の中で念じる。これは多分、早月には伝わったはずだ。

 彼女はカップを両手で包んで、口元へ運び、程よく覚めたコーヒーを三口ほど喉に通した。それから「久幸らしいね」とカップを机に置いてから囁いた。

 どうしてだか、彼女のその笑みがとても儚くて、哀しそうに見えた。

 早月は昔から、ポルノだとか、そういったイヤラシイと形容されることが嫌いだった。少なくとも僕の前ではそう苦言を洩らしていた。「生殖行為や愛情行為は、当事者たちにとってはとても大切なことなのだから、慎ましく、秘めやかに行うべきことだよね」と彼女は僕へ説くように嘆いていた。

 今回もそういったニュアンスの話かと、僕はそう勘くぐっていたのだ。

 けれど、でも、今はもう違う。さっき新たな予感が僕の脳裏を過ぎったから。その予感を頭から否定することは容易だったし、かなりの確率で否定し得る内容だっのに、一瞬浮かんだこの予感は一向に沈まずに、僕の思考の表層へとびっちりとこびりつき、あっという間に危惧へと変質した。

 その心配が僕に、「どうしたの?」と早月へ向かって言わせていた。

「ん、なにが?」彼女は訝しがる。

「いや、うん、なんだろうね。何となく、何かあったのかなって……その、少し早月の様子がいつもと変わってたからさ」

「そう……かなぁ?」

「いや、何もないならいいんだ。ていうか、僕が寝坊したのがいけないんだよね」

「ううん、全然。むしろ今日はこれが良かった。こうやって、のんびり過ごしたかったの」

 やっぱり変だ、と僕の危惧は増した。

「早月さ、今日は休みなの、仕事?」

「休みだからこうして久幸の前に居るんでしょ?」

「そうだね…………そういえばさ、仕事って、何してるんだっけ、早月」

「お仕事? あれ、前に言ってなかったっけ?」

「聞いてないよ」

「じゃあきっと言う必要がない、とその時の私は思ったのね。なら今の私も黙っていることにするね」

 そっか、と僕はあっさり引き下がった。でもその裏、心の中では負の憶測が入り混じっていた。もしかして早月は身体を…………と、どうしてもこの発想に行きついてしまう。けれど、だったらどうした? と無責任な僕が、心配性の僕を叱咤する。

 僕は先ほど自分で口にした言葉を声に出さずに復唱した。自分へ言い聞かせるように。

 ――仕事の出来や職業でなんか、人間の価値や尊さは決まらない。

 そうだ、早月がどんなことをしてようと、たとえ彼女が殺人を犯したとしても、僕は普段通りに接するだろう。接しなくてはならない、そんな義務感があった。根拠はない。そうだ、どうせこれもいつもの気まぐれな僕の感情に違いない。けれど、なぜこんなにも動揺しているのか、そのことだけがどうしても、割り切れなかった。

「やっぱり今からでも観に行こうか?」

「ん、なにが?」何を? と聞き返さないところが、いつもの早月らしくない。

「映画。これからさ。今からならまだナイトショーに間に合うと思う」

 どうして? と早月は不満そうな顔をする。どうして行かなければならないの? と。

「うん、どうしてだろうね?」と僕はまた考える時間を稼ぐ為に、彼女へ問う。

「映画は独りで観るものよ」彼女はクッションを抱きかかえて、顔を埋めた。

「そうなんだよね、だから僕はいつも独りで観ていた。だからさ、誰かと一緒に映画を観たことがない」

「それは嘘」彼女は口元を吊して、「昔行ったじゃない、私と」と悪戯な声を出した。

「覚えてたの? すっかり忘れているかと思ってたよ」

「久幸の記憶力と一緒にしないで。だってあの時の久幸ったら、ふふっ今思い出してもおかしい」

「何かしたっけ?」僕はとぼける。

 だって、とまた思い出して笑う早月。「だって、映画に夢中で、自分のポップコーンだけじゃなく、隣のおじさんのポップコーンまで食べちゃってたんだもの。映画が終わってそれに気づいたおじさんの顔と久幸のあの顔、今でも鮮明に覚えているわ」

「本当はさ、あの時、早月のポップコーンを食べてた気でいたんだ。知らないうちに無くなってたら、早月はどんな顔するかなって、悪戯心でね。そしたら早月のだと思って食べてたのが自分ので、自分のだと思って食べてたポップコーンが隣のおじさんのだったんだ。焦ったなぁーあの時は」

「でしょ? だって久幸ったら逃げるようにして私を置いて先に出ちゃうんだもの。しかも、迷子になりかけるしさぁ」

「え? それは覚えてないけど」本当に覚えていない。

「そりゃそうよ、あなたはベンチで座っていただけだもの。私がどんなに探し回ったか知らないでしょ?」

「うそ、ほんとに? ごめん、知らなかった」思わず噴き出してしまった。

「まったくだわ。だからあの時に、私、映画館には一人で行くものだと学んだんだもの」

「なるほどね」そういうことだったんだ。

 僕らは結局映画を観に行くことはせずに、そのまま僕の部屋で、ただのんびりと、けれど確実に流れては消えていく時を感じながら、お互いの存在を、お互いの肌に触れないままで確認し合った。

 ――言葉はいらないよ。

 本気でそう思えた。


 早月が夕飯を買いに外へ出かけた。少し経ってから、僕はちゃぶ台の下に彼女の財布とケータイがあるのを発見した。おちゃめと言うには、歳を取り過ぎではないか? と僕はしょうがねぇなの溜息を吐く。

 玄関から出て、アパートの階段を下りる。

 雨はあがっていた。

 三十分ほど前から、既に窓の外は紺色になっていて、僕の部屋を雨雲色に侵食していた。けれど、外に出てみたら星が空に小さな穴を沢山空けていた。雨雲なんてとっくに消えている。そのことを認識できたのは、雨音がしないことに気が付いたからでも、雨の滴が消えていて身体が濡れないことに気が付いたからでもなく、僕のアパートの周辺の街灯が切れていて、灯っていないから見える、とても貴重な夜空を見上げて、あぁ奇麗だな、とそんな単純な感想を抱いたからだった。

 どこにでもある、けれどだからこそ軽んじられ、ぞんざいに扱われているものを見て、奇麗だな、と思う僕は、きっと心が荒んでいる、病んでいる。荒んでいるからこそ、病んでいるからこそ、何ともない素のままの世界を見て「奇麗だな」、と思ってしまうんだ。汚れている僕らは、自分たちよりも汚れていないものは全て、奇麗に見える。そして、汚れていることに無自覚でも、心のどこかでは、奇麗になりたい、と願っていて、「自然」なんて呼ばれる虚構に身を置きたがる。人工と自然の境界線など、存在しないのに。いや、境界線をあると信じている時点で、僕らは自分たちが自然から外れたゴミ屑なのだと、認めているのだろう。ゴミはゴミらしく、ゴミ箱へ。

 娼婦は人工か自然か。

 政治家は人工か自然か。

 彩られているものは人工か自然か。

 偽りで身を固めているものは人工か自然か。

 擬態というものは自然界には有り触れた自己防衛の技術だ。それを僕らが行うと人工で、昆虫たちがすると自然なのだ。ならば、人がすることが人工なのだろうか? 我々が干渉した瞬間に、それらは全て、人工と化すのか? 本気でそんなことを思っている者がいたら、何を寝ぼけたことを言っているのだ、と叱咤し一括してやりたい。人間にそんな偉大な力などはない。できることと言えば、言い訳がましく根拠の足りない理屈を並べ、解ったフリをするのが精々で、自然の真似をしていて偶然生まれた紛い物で、「新たなものを造り出した」と錯覚し、喜び、自画自賛するぐらいなものだろう。虚しい生き物だ。しかしこんなことを思うのは、人間だけだ。つまりはやはり、虚しい生き物なのだ、僕たちは。

 こんなことを考えるつもりはなかった。ただ、こうして数カ月ぶりかに外へ出てきて、僕はなんだか恍惚とした、興奮状態になったに違いない。世界はこの視界の何十倍、何万倍以上も広く、広大で、今もなお広がり続けている。僕の世界は萎み続けていると信じていた僕の視界は急速に拡張し、俯瞰の位置に僕は立つ。世界と僕は切り離されてはいなかった。けれど、繋がってもいない。そのことが酷く僕を安心させてくれた。

 きっと彼女はレジで慌てている。いや、早月のことだから、レジに並ぶ前には気が付いただろうか。

早月の財布とケータイを持っているだけで、なんだか一人じゃないみたい。というよりは、自分じゃないみたい。些細な違いでこれだけ敏感に、大袈裟に心の揺れを感受するなんて、気持ち悪い。まったくもってナルシストだよ、と僕は独りで口元を歪めていた。

 前方から帰宅途中の女子高生たちが向かってくる。急いで僕は歪んだ顔を引き締めようとしたのだけれど、引き締め切れなくて零れたニヤケで逆に顔が歪んでしまった。不審者もいいところだ。案の情、すれ違ってから、女子高生たちの甲高い笑い声が聞こえた。

 はてさて、これは自分のことを笑っているのだろうか、と少し考えてから、「気にするな、誰もお前に興味はない」の呪文を僕は唱えて、気を楽にした。

 外が怖かったわけじゃないし、人間が怖かったわけでも、嫌いなわけでもなかった。ただ、外の世界に嫌気がさした、それだけだった。それがおよそ、半年前。それから僕は一歩も外に出ていない。

 僕がいなくとも、社会は平然と歯車を回し続けるし、時間は流れ、歴史と言う妄想を刻む。

 人は平等だ。人類だけが平等という概念を知っている。だからこそ、人だけが平等なのだ。けれど、僕に価値はない。僕には存在価値が付加されない。そのことを理解してから、僕はこのことを他人に知られるのが怖くなった。だから、閉じ籠った。なのに、その閉じ籠った空間に備わっている扉を、僕は施錠しなかった。誰かが訪れてきたら、入れるように、扉は開けたままにしていた。違う、誰かじゃない、早月が入ってこられるように、入って来てもらえるように、開けていたんだ。彼女にだけは、僕が無価値であることを、隠したくはなかった。早月なら、無価値な僕を、そのままの僕を、受け入れてくれると、そう信じていた。赤ん坊が母親に絶対の信頼を置いているかのような、そんな無垢で幼稚な願望だ。

 解っていた。そんなことは解っていた。早月が訪れてくれる事に、甘えていたんだ。彼女のことなんかこれっぽっちも考えようともせずに、自分よがりなご都合主義だ。でも、早月はそれすらを理解した上で、僕の所へ通ってくれた。毎回、出かける約束を付けて。僕がその約束を守ることはない、と知った上で。

 でも、僕は今日初めて、彼女が僕と同じ存在なのだと感じた。彼女をきちんと見詰めてあげられた気がした。早月は同情で僕の所へ訪れてきていたわけではなかった。彼女もまた、僕と同ように、安心したかったのだ。自分の素のままを受け入れてくれることを望んで。早月だって、閉じ籠りたかったはずだ。なのにしなかった。僕が先に閉じ籠ってしまったから。

 だから、今度は僕が、早月の元へ近づいてあげようと思う。通ってあげるよ、全てを受け入れる為に。まずは、財布とケータイを届けに行くよ。君の元へ。それから、一緒に映画を観よう。僕がDVDを選んで、君の部屋で一緒に観よう。今度は間違えずに、君だけのポップコーンをこっそり食べてみせるから。だからどうか、どこにも行かないでおくれ。

 スーパーで買い物をして、僕は家で早月を待つ。

 いつ彼女は取りに来たのだろうか、早月の財布とケータイはなぜか消えていた。

 とっくに契約の切れた自分のケータイを手元に、僕は床に着く。

 さて明日は、どんな約束を取り付けようか、と決して守られることのない約束を考えながら、僕は眠るよ。

 ああ、ごめん、ごめんよ。

 消えたはずの雨音が、枕もとには響いている。

 枕カバーには、仄かに皐月色が滲んでいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます