【語り手は吉野くん:ver.国語の自習時間】

第73話

【語り手は吉野くん:ver.国語の自習時間】


 似居本郷(にい・ほんごう)先生がインフルエンザで休みだった為に、今日は国語の授業が自習だった。多少ざわめいているものの、中々どうしてクラスの皆は真剣に自学へ取り込んでいる。そんな真面目な皆を尻目に、後ろの席の多賀くんは僕へ話しかけてきた。

「鶴の恩返しってあるじゃん?」

 一切の脈略の無い、このような唐突な問いかけは、多賀くんの十八番なので今更突っ込む必要もない。むしろ、今日も多賀くんは健在だ、と安心する位だからして、僕は彼へ振り返り、冷静に答えた。

「お伽話の?」

「そうそれ。あれってさ、実際恩返しされてなくね」

「いやいや、ちゃんと恩返ししにきたじゃない。鶴さんはさ、自分の羽を毟ってまで奉公していたじゃないか、頑張っていたじゃないか。自己犠牲のいい話なんだよあれはさ」一体何を読んで育ったんだ君は、と僕は若干冷静さを欠いて指摘する。

「おいおい、どんだけ思い入れがあるんだよ」多賀くんは困ったように頭を掻いきつつ、「そういうことじゃなくってさぁ」と話を続けた。「結局鶴を助けた男はさ、惚れた女が実は人間じゃないって、知った上に、逃げられちゃったわけだろ? しかも如何にも自分に非があったかのように立ち去られちゃってさ」

「だって実際男が約束を破ったのがいけなかったんだからさ、それは何も間違ってないよね。男が悪いんだよ」

 でもよー、と多賀くんは仰々しく眉を寄せ、さも僕が鶴を助けた男であるかのように抗議した。「でもよー、行き成り家によ、泊めてください、ってやってきてだよ、んでもってその日から居候だぜ? 訪ねてきた成り行きも理由も話してくれなくって、その上、男はその女に惚れちゃうんだぜ? いくらなんでも、部屋を覗いた位で出て行かれるってのはさ、理不尽てもんじゃないかなぁ」俺がその男だったら絶望だね、と多賀くんは高らかに宣言した。

「だからそれはさ、覗かれたことで出ていったというよりは、鶴だったと知られたことで、男の元から立ち去らなければならなかった、っていう鶴界の掟みたいのがあったんだよ。鶴さんだって、いやいや立ち去るしかなかったんだよ」

「それにしたってよー」とつくづく不満げに多賀くんは呻く。「だったら初めから毎朝だね、織物だけを届けてやれば良かったんだ」

「自分が恩返しをしているって、実感して欲しかったんだよ。少なくとも、男が助けてくれたことで、鶴さんは彼に好意を抱いているんだから」諭すように僕は言う。

「お前は鶴なのか? 恩返ししちゃいたい年頃の鶴なのか? 一体どうしてそんなことが言えるんだ」説明してみたまえ、と多賀くんは僕を鼻で笑った。

 僕はむっとする。「言っちゃなんだが、多賀くん、君こそ鶴を助けた男なのかい?」と僕は言いそうになるも、寸前で思い止まった。多賀くんの揚げ足を取るようでは、人間として狭量だ。僕はぐっと言葉を呑み込んだ。『厭味を呑みこんで腹を壊したなんて話は聞いたことなかろう』誰の台詞だったかな、と考えることで、頭を冷やした。

 けれど多賀くんは尚も勝ち誇った顔で、「まぁ、吉野は鶴が大好きみたいだからな、しょうがないよな」と九〇度真上から見下ろしたような台詞を吐いていた。

 僕はぐっと我慢する。なんだか、呑みこんだ厭味が腹を突き破って出てきそうだ。腹が裂けたらどうしてくれよう。やいやい、多賀くん、どうしてくれる!

「結局何が言いたいのさ」僕は朗らかさを意識して訊いた。けれど、幾分かは棘が残ってしまったようだ。多賀くんはまた頭を掻きながら「だからさ、鶴って恩返しに行ったんじゃなくて、恨みを返しに行ったんじゃないかなって思って」ほら怨返し、と国語の教科書に載っていた「怨」という漢字を指差した。

「どうして助けてくれた人間を陥れなくっちゃいけないんだ?」鶴さんはそんなに心荒んだ生き物じゃないぞ多賀くん。僕はますます憤りを覚える。

「つうかさ、鶴が人間の顔を識別できると思うのか? 俺たちだって鶴の顔なんかどれも同じにしか見えないだろうが。俺たち人間様が判らないのに、三歩進めば忘れちゃうような鳥類の仲間がどうして判別できるっていうんだ? そんな奇天烈な話があるか」と多賀くんは教科書を叩く。

 だったらまずは、鶴が女性の姿に変身したことを否定すべきだ。そもそも、そんな現実的なことをお伽話に求める方が、そんな奇天烈な話があるか、だよ多賀くん。僕は呆れかえってしまう。

「いいよ、解ったよ。要するに、こういうことかな? 鶴さんは罠に掛かってしまった。一生懸命抜けだそうとしていると、その罠を仕掛けたと思われる人間が近付いてきた。焦った鶴さんは精一杯暴れて罠に抗うと、人間が鶴を掴む前に、罠から逃げ出すことができた」

「間一髪って奴だな」多賀くんが無意味な相槌を入れる。

「覚えていろよ人間め、と鶴さんはその人間の匂いや外見の特徴を記憶し、飛び去った。しかし実際には、その人間は罠を仕掛けた人間ではなく、罠に掛かって傷ついていた鶴を可哀想に思い、助けてあげた、心優しい人間だった。そうとも知らず鶴さんは、匂いや足跡から男の家を探り当て、恨みを返す、怨返しを実行した。っとこういうわけかい?」僕はふむ、と一息入れ、「どうだろうか?」と同意を求める。

「ああ……そうそう。そういうことを言いたかったんだよ俺はさ」と多賀くんはうんうん、と唸っている。が、どう見ても、ここまでは考え至っていなかった雰囲気だった。

「でもさ、多賀くん。それはいいとして、鶴さんはやっぱり、一緒に過ごすうちに、男の心優しさに気が付いたと思うんだ。そして、彼が本当は自分を助けてくれたのだ、ということにも考え至ったと思うんだよね僕はさ。じゃなきゃさ、自分の羽を毟って、着物を織ったりなんてしなかったと思うんだ。それで、やっぱり男のことを信用していたからこそ、覗かないで下さい、とだけ言って、身体に無理を強いてまで機を織り続けていたんだよ鶴さんはさ」僕は自分で話していて、とても切なくなってきた。

 その後に訪れる別れ。男は自分の仕出かした愚かさを悔い、鶴への謝罪と、この先どんなに願っても伝えることのできない感謝と愛を抱いたまま、晴れない気持ちで一生を過ごすのだ。そして鶴も、男がそうやって苦しんでしまうような心優しい人間だということを知っているが故に、自身も耐えがたいほどの、胸を切り裂くような居た堪れない気持ちで生きていくのだ。

 ああ、なんて切ないのだろう。僕はだんだんと、正体がバレたら立ち去らなければならない、なんて馬鹿げた掟を作った奴に対して怒りを覚えてきた。

「まったくもう」僕は鼻から短く嘆息を吐きだした。

「俺はさ、思うんだ吉野」いつの間にか頬杖を付いて、窓の外、遠くを眺めながら多賀くんは呟いた。

「今度は何を思ったのさ」僕はその多賀くんの、むぎゅり、と歪んだ顔が面白くって、声が漏れない程度に顔を綻ばす。

「鶴ってさ。いい奴だなぁ」多賀くんの澄んだ瞳は揺らいでいた。

 なんだろう――気色悪い。

 窓の外には、空を舞台に数羽の雀たちが追いかけっこをしていた。席から立ち上がって校庭を見下ろせば、そこには「三歩歩めば忘れる」などと揶揄される鶏も、小屋に納まって忙しなく首を振っている。

 多賀くんはしみじみと、そして感慨深く、「恩返しってのはさ、何を残したかじゃないんだなぁ……。どう想っていたのか。それさえ通じ合っていたら、それはもう、素敵なことなんだよ吉野」と何かを悟った様に、静かな教室へ呟いた。「お休みの本郷先生……お元気になられただろうか」

 瞬き二回分程の間を空けて、静かな教室に、くすくす、と笑い声が響いていた。幻聴ではないことは確かだろう、と僕は思うのだ。多賀くんの、らしくない台詞に誘起されたかどうかまでは定かではないにしろ。

 ねぇ、多賀くん。君はまず、人に恩を返す前に、人から注がれている恩に、気が付くべきだよ。

 口には出さず、僕はそう念じた。それは、僕自身にも言えることだった。

 通じ合えればそれでいい。

 けれど、それが一番、難しい。

 また一つ、僕は大切なことを学んだ。国語の自習をしていた時の話である。

 きっと、三歩進んでも忘れないくらいには、心に刻み込めた、と思う吉野であった。

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