【語り手は吉野くん】

第72話

【語り手は吉野くん】


 喧嘩と呼ぶには稚拙すぎる言い争いが、まさかあんな結果を招くとは、思ってもいなかった。

 それを奇跡と言っても大袈裟ではないと僕は思う。

 そもそも奇跡なんて、無数に存在する偶然の中から零れ落ちた、圧倒的に印象的な出来事でしかない。

 この世界は偶然に溢れている。それはつまり、そのまま、奇跡で溢れている、と言い換えることができる。

 例えば、赤トンボは偶然にも僕の指に止まる。この世界に存在する数多のトンボの中のたった一匹が、偶然にも、何億何千万という人類の内の僕という矮小な一人の人間の指に止まったのだ。それはとても奇跡的な出会いであるし、奇跡的な出来事だと思う。そういった偶然という奇跡が、そして奇跡という偶然が、幾つも重なり合って、この世界を構築しているのだ。

 とまぁ、随分と壮大な話になってしまい、口幅ったい物言いとなってしまいましたが、兎にも角にも、この先のお話は、とてつもなくいい加減で、とてつもなく下らない僕の思い出です。

 しかしながら、思い出とは、記憶の中から印象的かつ魅力的な出来事として選抜された、自分にとって都合のいい記憶に過ぎません。ですから、思い出が真実である必然性はまったくの皆無であり、そしてまた、自分にとっての思い出が、他の人たちにとっても印象的かつ魅力的であるかは、甚だ疑問なのであります。むしろ、退屈な自慢話になる可能性の方が高い、と僕は睨んでいます。けれど、記憶というものは、とかく曖昧で、儚いものであり、いつまでも色褪せず残っているものでもありません。

 といった動機から僕は、こうして書記し、媒体に記すとことで、思い出を、形にしておこうと思い立った次第であります。 敬具。


 閑話休題。

 あの頃の僕は、高校生だった。さらに時間軸を鮮明に定めれば、高校二年生の、六月二十三日。当時一番仲の良かった多賀くんと、渡り廊下の掃除をしていた時のことだ。まあ、言うまでもなく日付は出鱈目であり、出まかせである。いい加減な人間、それが僕だ。

 いい加減な人間である僕と、同じくしていい加減である多賀くんは、かれこれ三十分近く箒を地面へ擦るように振っていた。というよりも、ただ揺らしていた。(掃くとは程遠い動作だったに違いない)

 すでに教室では掃除を終えたクラスの皆が、帰りの会の支度をしている頃だろう。にも拘らず、僕と多賀くんは未だに掃除をしつつ――言い換えるならば、掃除をしていると見せかけつつ――二人で雑談を交わしていた。

 この場から数メートル先の位置には階段。そこを女子生徒が昇っていく度に僕らは会話を途切れさせてしゃがみ込みながら、互いに言葉を投げ合っていた。屈んだところで見えもしない女子のスカートの中身に気を取られる位に中身の薄い、雑談と呼べるかもわからないほどの言葉である。

 もはやそれは、駄々漏れた思考の、掬い合いだった。決して救い合いとはならない、不肖な会話。それだった。


「知らないのか?」これだから馬鹿な奴とは話したくないんだ、と自分を差し置いて、多賀くんは言った。「この世の中にはな、絶対という言葉はあっても、絶対なんて現象は無いんだよ」と呆れたように、そして憐れむように、僕へ向けて言った。

「あるだろ」僕は多賀くんの吐いた主張を否定する。「絶対にないことは存在するよ」

「いや、ないね。存在しないのさ」多賀くんもすぐに僕の指摘を否定した。彼は箒を高らかに掲げ、「ないものはないのだよチミ」と否定というにはあまりに根拠の薄い理屈を言い放った。否定ではなく拒否。僕と議論すること自体を、多賀くんは拒否しているようだ。

 しかし僕は引き下がらない。なぜなら、多賀くんが頑固で分からず屋であるように、僕もまた意気地で頑なだからである。

「なら例えば、僕が今から空を飛ぶ、なんて可能性があるのか? 絶対ないだろうが」そんなこと有り得ないだろ、と僕は彼を叱咤する。

「空を飛ぶ、というのは宙に浮かぶ、ということか?」

「まぁ、そういうことだ」

「ならその可能性はゼロじゃないんだなぁこれが」多賀くんは箒を逆さにして、指に乗せ、箒が落ちないようにバランスをとりつつ、おどけるように言った。

「いや、ゼロだろ。皆無だ」

「重力が無くなれば、問題はないだろうに、マカローニ」おどけている、というよりは、小馬鹿にされている気分だ。僕は少しご立腹である。将来高血圧になったらどうしてくれよう多賀くん。

「それこそ有り得ないだろう。そんなことがあり得るのは、重力の源である地球が無くなることでしかあり得ない」僕の語調は強くなる。

「だろ?」

「は?」何が、だろ?なのだろうか?

「地球が無くなれば、引力が無くなって、重力も発生しない。てことはだ、地球が無くなりさえすれば、チミは宙に浮かぶことになるじゃないか、浮かぶじゃないか。無重力だからなー。宇宙食だからなー」

 なんだろう、癪に障る。だって宇宙食は関係ないよね。頼むから変に語呂を合わせようとしないで欲しいな多賀くん。イラってくるよ多賀くん。イラって。

 そんな僕の内心の偉大な葛藤及び僕の尊大な辛抱強さを知ってか知らずか多賀くんは、「ほら、あり得なくはないだろう? 成り得なくはないだろう?」絶対なんて存在しないのだー、と意気揚々と捲し立てた。

「いやまぁ、理屈としてはそうはなるだろうけれど、僕が僕として存在しつつ、地球が無くなるなんてことはやっぱりさ、有り得ないだろうに」いい加減に認めようよ、と僕は諌めた。

「絶対あり得ない、なんて、なんで俺如きの友達であられるチミが断言できるんだよ! 瀕死のフリーザ様だってナメック星が爆発しても生きていただろっ!」しつこいなぁもう、と多賀くんは眉を顰める。

 自分を卑下しているのか僕を馬鹿にしているか判断に困る言い分である。そもそも多賀くん、君は僕を、瀕死のフリーザと同列に評価してくれるのか、そうなのか? 仮に僕が瀕死のフリーザ並みのポテンシャルを有していたとしたら、多賀くん、君を今すぐ閻魔様の前に送ってやれるのに。でもできない、とても残念だ! ていうか、どうして多賀くん、フリーザのこと「様」付けなの?

「話にならないね」僕は吐き捨てた。

「ああそっか、ごめん。フリーザ様を引き合いに出すのは不適切だったな」と多賀くんは自分の支離滅裂さを自覚したのか、謝罪を口にした。更に彼は、う~んそうだよなぁ、う~んそうなんだよなぁ、う~んう~んと唸ると、更に続けて自分で納得するように、「あの方、宇宙人だもんな」と呟いた。

 いやいや、そういう問題ではないよ多賀くん。というかフリーザのこと敬愛しすぎでしょう。フリーザとの間に何があったの? いや、敢えて訊かずに置いてあげるけれども。

 フリーザが宇宙一だった時代はとうの昔に終わっているよ? そう突っ込むことが、僕にはできなかった。虚を突かれ過ぎた。予想の鋭角四十五度上だった。それだけが心残り――でもないけど、惜しむ心は無きにしも非ず。

 陽気だったり、熱くなったり、不機嫌になったり、反省したり――多賀くんってば山の天気のような男である。僕は感心と諦観を同時に抱いた。けれど天の邪鬼の僕。目の前に倒れないカーネルサンダース像があるならば、夜中にこっそり家を抜け出して、倒れないカーネルサンダース像のメガネを黒く塗りつぶしてグラサンにしてしまうような男、それが僕である。多賀くんの掴み所のない性格が紡ぎ出す戯言如きで屈したりはしない。したくない。

「絶対あり得ないことは他にもいっぱいあるぞ」と健気で意気地な僕は、多賀くんを納得させる為に志気を高めた。

「ほぉほぉ、言ってみろよ。俺様を唸らせてみろよ、みちゃいなよ。絶対あり得ないことなんて、この世にはないのだ」なははー、とヘンテコリンな声を出して、多賀くんは高らかに笑った。というか既にさっき自分で「う~ん、う~ん」宇宙人だもんなぁ、と唸っていたじゃないか多賀くん。

「まず手始めに、多賀くんが実は女だった。これは絶対に有り得ないだろう」僕は切り出した。

 手始めに、と言いつつも僕は、これで充分に多賀くんを納得させることができるだろう、と思っていた。流石の多賀くんも「有り得ない」と認めざるを得ないだろう。だってこれはもういくらなんでもあり得ないもん。多賀くんは正真正銘の男だもの。それにスケベだし。

「いや、俺は女かもしれない」

「無理言うな!」一体どの口が言うのだろう。僕は重ねて呆れてしまう。

「確かに俺の身体は男だ。でもよ、俺の心はもしかしたら女の子かもしれない」

 仮に心が女性だったとしても、決して女の子ではないと思うよ、多賀くんは。

「まぁそう言うならそういうことにしておこうか。多賀くんの心は女の子、かもしれない」僕は仕方なく妥協することに。

 うんうん、と頷いて、さぁ次は何だ、と多賀くんは胸を張った。胸を強調したところで、女の子にはなれないのに。

「じゃあね、次は、そうだなぁ、なら、多賀くんが好きな藤井さんが、僕と付き合う。これは有り得なくもないけれど、まぁ有り得ないよね?」

「うん、有り得ない」

「おい!」すんなり認めやがった。それじゃ張り合いが無いというか、今までの掛け合いが無意味だったというか。

「だってさ、有り得ないじゃん。お前が藤井さんと付き合うとかって。それってさ、つまりさ、藤井さんがお前のことを好きになるってことだろ?」

「他にどんな可能性があるんだよ」

「脅迫とか。脅迫とか。あとはそうそう、脅迫とか」

 脅し過ぎだろ!

 あぁ僕が愚かだった。多賀くん、彼という人格に有されるポテンシャルを僕は、見誤っていたのかもしれない。

 僕には到底対処しきれそうにないよ。完全に振り回されている。

 もう、駄目なのかもしれない僕。

 多賀くんの手綱が怖くて握れそうにないよ。

 トラウマだけにね。

 あ、何気に上手いこと言えたかも。立ち直れたかも。なんか寒いかも。視線が冷たいかも。おかしなぁ、今は夏なのに。


 気が付くと校内はガヤガヤと既に下校し始めた生徒たちで騒然とし始めていた。

 そこへ、「ちょっと、二人とも」と階段の方から声が飛んできた。

「ちょっと、二人とも。いつまで掃除しているの、帰りの会終わっちゃったよ? 先生怒ってたし」噂をすればなんとやら。学年のお嬢、僕らの姫こと藤井さんの登場だった。

「うっそ、先生怒ってた?」臆病な僕は少し焦る。

 それに対してズボラな多賀くんは、「いいんじゃねーの、だって俺達遊んでたわけじゃないんだからさ。掃除してんたんだからさ」といけしゃあしゃあと口にした。

 だからどの口が言うのだろう。

 君の箒はさっきから逆さまになって君の指に乗り、空気を掃いているようにしか見えないのだが。そうやっていれば空気が浄化されて奇麗になるとでも思っているのだろうか。思っているのだろう。まぁ、多賀くんなら本気でそう思っていたとしても何の不思議も違和感も湧かない。むしろ得心、というか安心というか。多賀くんらしくて満足しそうなくらい。

 そうだこの際だから、と僕は藤井さんの意見も聞いてみようと思い立った。

「藤井さん、あのさ」

「なぁに?」小さく首を傾げる彼女。子猫の様な仕草で、とてもキュートだ。胸にグッと来るくらいに、グッドな仕草だ藤井さん! 心なしか僕のテンションが上昇している気がする。

「この世に絶対に有り得ないことってあると思う?」

 んー? と藤井さん。今度は首を逆に傾げて、「うーん。あるんじゃないかなぁ? 無理なものは無理だと思うし」

「だよね、だよね」僕は得意げに多賀くんを見遣る。

「いやいや、絶対なんて絶対ないんだよ」多賀くんは語気を強めて言った。

「だから、どっちだよ」ここぞとばかりに僕は突っ込む。絶対が絶対にないとはこれ如何に。これぞ矛盾、といういい例を叫んでくれた多賀くん。自己言及のパラドクスである。

「ならさ、試してみるか? 絶対なんてことが絶対ないことを証明してやるぜ!」言うと多賀くんは不気味に笑った。言いかえるとニヤケた。

 そんなこと証明できたら多賀くんは人類史に名を刻むどころか、「人類=多賀くん!」みたいになっちゃうではないか。僕は焦る。いやごめん、それは言い過ぎかも。むしろ自分で言っておきなが意味がよく解らない。「人類=多賀くん!」ってなんだろう。我ながら少し寒い。あ、ごめんなさい。これも嘘でした。正しくは、かなり寒い、の間違いですハイ。言うなれば、厚顔な僕の極寒な冗談ですね。

 ハイ、何も言わずに次行きます。見なかったことにして頂ければ幸いです。


 絶対なんて絶対にないことを証明する、と豪語した多賀くんは背を伸ばし、姿勢を正して、藤井さんの前に立ち、ロボットのようなカクカクとした動きでその場に跪いた。そんなことで一体何が証明されると言うのか。電池の切れたロボットみたい、としか形容できないし、迎合もしたくない。

 すると多賀くんは、「藤井さん、前から好きでした、モクと付き合ってくだしゃい」と唐突に、猛烈に、何の脈略もなく告白した。しかも噛み噛みだし。

 ああ、さっきのロボットダンスみたいな動きは緊張の表れだったのかぁ、と僕は納得する。不器用な男だなぁ、多賀くんキミは。

 多賀くんはどうやらここで、僕に奇跡を見せてくれるらしい。絶対なんて絶対ない、の奇跡を。

 無理だと思うけれどなぁ。やめときゃいいのに、と僕は呆れる。

 えっ、と驚嘆の声を可愛らしく上げた藤井さん。僕に助けを求めるように視線を向けてくるが、こればかりは僕にはどう仕様もない。肩を竦めて、自分で頑張って、と無言のエールを送る。巻き込んで、ごめんね、の謝罪と、救えなくてごめんね、の謝罪を二割ほど上乗せして。

 藤井さんは戸惑うように指をもじもじ、とさせている。悩むようにしばらく口籠っていた藤井さんは、意を決したように口にした。

「ごめんなさい……私、吉野くんのことが好きなの」多賀くんへ頭を下げ、即座に僕を見詰める藤井さん。

 あれ、おかしいな、僕以外に吉野っていたっけかなぁ、と思考を巡らすこと約三秒と瞬き二回分。何を隠そうこの学校には吉野が一人しかいない。そう、僕だ。

 って、「えええ?」と僕が声を出す前に、多賀くんが絶叫した。それはもう、絶叫マシーンがここにあるが如く、絶叫マシーンに今ここで乗車しているが如くの絶叫だった。

「うっそでしょー? いやねいやね、俺が振られたことは何かの間違いだと解るけれど、でもそれだとしてもだよ、藤井さん? 嘘でもこいつに好きとか言っちゃダメだよ、危ないよー、口が腐っちゃうよ藤井さん!」

 腐らないよ。失礼な!

 というかですね、なにちゃっかり振られたことを勘違いで済まそうとしているのでしょう、多賀くんは。往生際が悪いというか、前向きと言うか、牽強付会ここに極まれり、である。

 多賀くんはこの際、放って置くとして――「それ、本当?」と僕は藤井さんに確認する。

「……うん。できれば、今返事くれると」言いつつ俯いた状態でちらりと上目遣いで僕を睥睨すると、「嬉しいな」とはにかんだ藤井さん。

 もうね、なんと申しますかね、藤井さんがですね、めっちゃ可愛いのですよ。

 ていうか、今僕、めっちゃ嬉しい!

 なんだこれ、なんなんですかこの展開。これじゃただの自慢話ではございませんか。あ、ちょっと、その冷ややかな視線、止めて頂けませんか。今の僕はどんな冷徹な視線にも耐えちゃいますよ。無駄ですよ。だからその冷たい視線を止めてください。僕の数少ない幸せを、この僥倖を妬むのを止めてください!

 どうか今まで日陰をひた向きに下を向いて歩んできたこの惨めな僕に訪れた人生最後かもしれないささやかな幸せ――けれど僕にとっては今後一切絶対に有り得ないような奇跡的な幸せを――どうかどうか祝福してください!

 そんな僕の内心に溢れる悲痛で必死な懇願の叫びに全く意に介さず、むしろ全く気付くこともなく、察しようともせず、多賀くんは口角沫を飛ばしながら言った。

「おいおい、吉野、てめぇ俺という者がありながら、彼女なんか作る気じゃねーだろうな! 浮気は許さないぞこの野郎!」

 多賀くんがなぜか僕の彼女みたいなことを喚いている。でも気にしない。むしろ今回は突っ込んであげる余裕まで僕にはある。今の僕は幸せに満ち満ちているからだ。

 故に僕は突っ込んだ。

 多賀くん、君は男だろ? 変な言いがかりはやめたまえ。今の僕は君に、「黙れ小僧! お前にミサンガ作れるか!」と辛辣な突っ込みを入れられるほど、狭量な男ではないのだ。しかしながら狭量ではないからして、敢えて突っ込んであげようと思う。「黙れ小僧! お前にミサンガ作れるか!」

藤井さんは可愛い口元をぽかんと空けて、僕を凝視している。多賀くんは、「ミサンガがどうしたよ。大丈夫か吉野?」と冷静に心配を返してきた。

 明らかに今の僕は寒いだけの男である。しかし気にしない。なぜならたった今僕は、人類としての偉大な進化を遂げたばかりなのだから。いやにしてもやっぱり、さっきの突っ込みはどうかと思うなぁ、と後悔が沸き始めてきた。でも、けれど、自意識過剰も程ほどにしておけ、なんだけれども、そうだなぁ、これからは僕のことを「選ばれた紳士」と呼んで頂きたいものだ。

 いやこれも意味が解らない。文法が崩れている。変だな。思考が混乱して氾濫して、水没しているみたいだ。これはいかん、これは遺憾。我ながら、頂けないなぁ。

 そうだな、多賀くんのことは、とりあえず今は無視。寒いを通り越して痛々しいだけの僕の突っ込みもこの際だから無視。もう、道端の蟻が如く無視。あれ、なんか無視と虫をかけたつまらないダジャレみたいになっちゃった。頂けないなぁ、とかいう無意味な独白もこの際だから見なかったことにしよう。無かったことにしよう、そうしよう。そうします。

 ――リセット。

 先ほど唐突な告白を、学年のお嬢かつ僕らの姫こと藤井さんから受けた僕。なんの告白かと申しませば、愛の告白であった。有り得ない。でも有り得ちゃった。見紛うことなき真の事実なのである。

 建物の蔭や窓から「ドッキリ」と描かれた看板を掲げた学校中の生徒および教師たちが、「お前の髪型、タワシやないか。お前の髪型、タワシやないか」と叫びつつ駆けてきて、僕を胴上げし始めるのではないか、といった危惧も、今のところ杞憂に終わりそうである。

 僕は藤井さんを見下ろす。

 彼女の身体の小ささを改めて認識する。

 ごくりと僕は生唾を飲み込んだ。

 緊張しつつも僕は藤井さんの想いに答える。それはもちろんこの場合、想いに応えることを意味する。

「僕も前から藤井さんのこと、す、好きだした」

 噛んじゃった。かっこ悪い。でもかっこ悪いのは元々だから、と内心で自分を励ます僕。かっこ悪いのは生まれつきだから、と励ました僕。果たして励ましていることになるのだろうかこれは、という疑問も今や沸かない。

 よかったぁ、と顔を綻ばす藤井さん。それから僕に、「これからは藤井さんじゃなくって、名前で呼んでほしいな。もしも名字で呼んだらデコピンしちゃうから」と悪戯に笑って、その潤った唇の隙間から宝石のような歯を覗かせた。

 ああ、どうしよう。

 食べちゃいたい。宝石のような歯ごと食べちゃいたい。

 ああ、どうしよう。

 今の僕、すごくキモチ悪い。

 略すとキモイ。モサイ上にキモイ。最低だ。

 でも――幸せすぎる。

 キモくても、モサくても、クサくても、かっこ悪くても、キザでも寒くても痛々しくって見ていられないような僕であっても、今の僕は――幸せだ。

 こんなに幸せなことがあっていいのだろうか。

 あまりに幸せすぎて僕は。

 今すぐにでも。

 宙に浮き上がってしまいそうだった。

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