【月の消えてから】

第70話

【月の消えてから】


 腹が減り、食料を取りに、庭に設置されている物置へと歩む。五日ぶりに外へ出た。今日も熱帯のように暑い。もちろん、関東からさえ出たことのない私だから、熱帯の気候など実際には知らない。足元から視線を外し、地表を熱している元凶、太陽を見上げる。が、眩しくてすぐに目を横へ逸らす。それでも眩しくて、手で影をつくった。空は快晴で、雪の様な白い雲が、綿飴のように、もくもくと昇っている。その横を、一筋、二筋、と星が流れていく。一向に止まることはない。次から次へと流れては、消えていく。

「昼間に流れ星が見える」という現象が現れれば、一昔前までは、そう、二年前であれば、それはそれはセンセーショナルなニュースとして大々的に報じられていたことだろう。しかし、今では誰もこの現象に見向きもしない。それが現在の日常的な風景として、世間一般に受け入れられているからだし、皆が見慣れてしまっているからだ。そして、もう一つ重大な要因があるのだが、その理由を「口にしないの」が暗黙の了解としてまかり通っており、皆が律儀に順守している自主的な法律と言っても過言ではないだろう。

 私も例外ではない。その暗黙の法律に便乗して、現実から目を逸らし、擬似的な安心に縋っていたいのだ。

「おう、久しぶりだな。てっきりくたばったのかと思ってたぜ」物置の施錠を外していると、背中へ声を掛けられた。億劫だったが、私は仕方なく振り向くと、案の定、天瀬が家を囲う塀に両肘を乗せていた。昔から変わらない、にやけた面だ。彼とも五日ぶりだった。

「なんだ、天瀬こそとっくに世界一周に旅立ったかと思っていたよ」私は彼を一瞥し、開いた物置に頭を突っ込む。

「ああ、その為の体力作りさ」

 缶詰を選びながら、私は先ほどの天瀬の姿を思い浮かべた。天瀬の残像がまだ脳裏に残っている。その残像を鮮明にさせると、彼は汗だくだった。ジョギングをしていたのだろう。まさか、世界一周を本気で考えていたのか、と私は呆れる。

「飯は食ったか?」缶詰を取り出し、天瀬へ見せる。

「まだだが、いやいい。家に帰れば腐るほどある。まぁ腐るほど、と言っても、全部缶詰なわけだから、腐ることなんてないけどな」天瀬の口調からは、俺いま上手いことを言ったなぁ、と満足感が滲んでいた。

 そうか、と私は持って来た袋に缶詰を入れる。

「聞いたかよ」天瀬は私の作業が終わるのを見計らって聞いてきた。

「何をだ?」私は腰を上げる。もう既に私も汗でだくだくだった。なんだ、もしかしたら天瀬も走っていたわけではないのかもしれないな、と先ほど彼が口にした言葉がジョークである可能性に気が付いた。

「人工的な月を造るって話だ」

「ああ」またその類の話か、と私は眉を顰め「知らない」と答えた。聞きたくない、と続けて口にしなかったのは、やはりそれでも心のどこかで私は、そういった希望を抱けるような話題を求め、期待しているからなのかもしれない。

「ほら、二〇〇八年にあっただろ、人工的なブラックホールを発生させる実験をフランスかどっかでやったって話」

「そんなこともあったな」その直後に彗星が月へ衝突し、月が瓦解し始め、翌月には粉々になって消滅した。その話題に飲み込まれ、そのブラックホールの実験がどうなったかなんて些細なニュースは、表に出てこなかった。それ以来、昼夜問わず空には、流れ星が走っている。空を切り裂こうとしているのではないか、と思えるほどだ。

「実は成功していたらしくてなその実験。それで、月の引力の代わりになるような規模でブラックホールを生成して、地球の軌道を安定させようって計画らしい。今も既にその為の宇宙ステーションが建設されてんだとよ」心底嬉しそうに天瀬は言った。

「もっともらしい噂話だな」私は一蹴する。「そんな単純な発想が、単純な技術で成功すると思っているのか?」

「出たよ」天瀬は口元を吊るす。「単純なことが簡単なことではない、だろ? お前の口癖だ」

「おう……そうだ」天瀬に出し抜かれた気分で、思わず口籠ってしまった。

「わかってるって、本当に成功するなんて俺だって思ってないさ」もの寂しそうに瀬場は続ける。「でもよ、結末が解り切っている、と思って残された日々を過ごすのと、まさかの大逆転があるかも、と期待して過ごすのとじゃ、天と地ほどの差があるじゃねぇか」彼は空を見上げて眩しそうに目を細めると、「まぁ、その天と地の境が無くなっちまうんだがよ」と、またもや上手いことを言ったような満足げな口調で頬を緩めた。

 おい、全く笑えないぞ。私は苦笑する。けれど、屈託もなくそんなことを口にできる人間が羨ましく感じた。清々しささえ感じる。一昔前の私なら間違いなく彼のそのニヤケ顔に対して嫌悪を滲ませたことだろう。

「いや、そもそも、私の場合はその計画自体を疑っているのさ」私は冷たく突き放すような物言をする。最近はこういった口調しかできなくなった。口調だけでなく、思考も荒んでいる。それが暑さのせいなのか、結末が見えた途端に廃れたこの世界のせいなのか、それとも、私自身が迫りくる結末に対して何もできずにいる絶望のせいなのかはわからない。というよりも、きっと全部なのだろう。いっそ、私も廃れてしまえば楽ではないか、という短絡的な逃避だったのかもしれない。

「わかってるって」何がそんなに楽しいのか、相変わらずニヤケ面のままで天瀬は「まぁ、それでもよ、俺はこの流れ星に祈るんだよ、見上げる度に毎回な。お星さま、どうか俺様に素敵な彼女ができますように、ってな」

「予想外に陳腐な願い事だな」思わず吹き出してしまった。汗が口に入り、少ししょっぱかった。

「お前にとって陳腐だとしても、俺にとっては悲痛な願いだ」天瀬は、にっと歯を見せる。

「なぁ、暑くないか?」私は缶詰の袋を担ぐ。

「そりゃ暑いだろうよ、軌道を外れてから太陽に引き寄せられっぱなしなんだからよ、この地球君は」

「そういう意味じゃない」振り返って家を見ながら、「少し涼んでいかないか?」と私は顎を振った。

「おう、いいねぇ」塀をひょい、と飛び越えて、天瀬は私の横に立つ。「のどが渇いて死にそうだ」

「雨水をろ過しただけだから冷えてないぞ」私が缶詰袋を重そうに担いで歩きだすと、天瀬が奪うようにその袋を担いだ。「重てぇな。こんなに食うんじゃ、お前がブラックホールとして宇宙に行けば解決じゃねーか」そう悪態を吐きながら。

 玄関前まで行きつくと天瀬は、「そういやさ、最後は俺たち、太陽に近づき過ぎて溶けちまうのかな?それとも、先に南極の氷が全部溶けちまって、水位の上がった海に沈むのかな?つかさ、身体が溶けそうになったら、水に沈んで冷やせば助かるかもな」と今日会ってから初めての真顔を見せた。だからか、彼が冗談で言っているというよりは、本気でそう考えているように聞こえた。

「ああ、お前はそれで助かりそうだな」私は家に彼を招きいれながら、でも多分、と続けた。「でも多分、ブラックホールに吸い込まれて終わりだと思うぞ」もう一度空を見上げて呟いた。彼が流れ星に祈った願いを私が叶えてやろうか、と悪戯な考えを抱きながら。自然と不快感を滲ませない口調になっていた。

「こんな暑い日に、こんな暑苦しい奴を招いてしまった」扉を閉めると、続けて私は毒づいた。

 天瀬は今日一番の笑顔をつくると、感心するように呟いた。

「上手いことを言うなぁ」

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