【演技・自分・人形】

第63話

【演技・自分・人形】


 言葉の意味が解らなかった。

 そろそろ足の痺れてきた俺の隣には、千夏が俯いている。どう若く彼女を見繕ったとしても、十代後半の容姿をした成人の女性だ。

 先ほど彼女のお父さまが口にした言葉。

 ――娘はまだ五才。

 彼女は一人っ子だ。妹はいない。そもそも俺はお父さまたちに向かって啖呵を切るように、娘さんと共に人生を歩ませてください、と結婚の許可を申し出たばかりなのだ。なんの冗談か、と耳を疑った。

 あの、と俺は虚を突かれたように呟く。お父さまはそんな俺の心情を察しているかのように、話し出した。

「この子が生まれた時、医者から言われたんだ。娘さんは急進性育促障害です、って。聞いたことあるかい?」

 俺は首を振る。もちろん横にだ。お父さまはうん、と頷き、そうだよね、と続ける。「私たちもそんな病気は聞いたこともなかった。障害、と聞いて、私たちはこの子の――千夏の、命の心配をすぐにした。当然だよね。生まれて間もない娘に、異常がある、と聞かされたようなものなのだから……。すぐに医者に訊いたよ。命に別条はない、と医者は言ってくれたが、その表情は曇っていた。けど、娘が生きられる、そのことの安堵の方が大きかったよ、私たちは」お父さまは俺の方へ微笑みかけた。と思ったが、それはどうやら錯覚だったらしい。お父さまは俺にではなく、俺の隣で未だ項垂れるように小さくなっている千夏へ、微笑んだのだ。お父さまの後ろに座っておられるお母さまは、涙を浮かべていた。俺たちを囲むようにして佇む千夏の親族や女中たちも、一様に悲哀な皺を眉間に浮かべていた。

 ああ、ただ事じゃないのだな、ようやく俺はそのことを自覚した。と同時に、再び固く決意した。

 千夏は俺が守るのだ――と。

 お父さまの話が一段落ついたのは、それから三時間も経ってからだった。けれど、その三時間は余りにも早く、余りにも切なく、余りにも受け入れがたい時間だった。

 彼女の障害は、身体の成長がとても速く、同時に精神も急速に成熟していく、というものだった。同じような病気を扱った映画を昔見たことがあったな、と頭の隅で思い出した。

「医者が命に別状はない、と言ったのは、あくまで病死することはない、という意味だったんだ」お父さまの頬に、この時初めて、涙が伝った。「約十年らしい。つまり、後五年で千夏は、私の娘は……老衰で」目を両手で強く抑え、短く嗚咽を漏らす。そして絞り出すように、お父さまは言う。「……死ぬそうだ」

 何年も堪えていたかのような勢いで、涙が溢れだしていた。お父さまだけじゃない、お母さまも。そして、俺も。千夏だけがこの中で、俯いてはいたが、独り、凛としていた。

 お父さまとお母さまは声を殺して泣いていた。目の前にはその当事者である千夏がいる。その娘の前でこの話をすること、涙を見せること、何もしてあげられないという虚しさと無力さ。御両親がこの数年をどういった気持ちで生きてきたのか、どういう気持ちで娘と接してきたのか、それは俺が想像するには余りにも広大で、偉大で、清らかで、けれど、とても苦しいものだった。

 俺はようやく、言葉を発する。「そのことを、知っているのですか?」千夏を見やる。彼女は俺の視線にすぐに気が付き、いつものように、柔らかく微笑んだ。


「もちろんだ」お父さまは神妙な面持ちで答えた。「千夏がこのことを君に話していないということは、君と話をしていてすぐに分かった。だからこそ、私たちからそのことを言うわけにもいかず、けれど、そのことを知らない君に、千夏を任せるわけにもいかなかった。今日この場で、千夏から、娘の口から君へ、そのことを伝えてくれることを望んでいたんだ。けど、千夏は何も言わなかった。私たちは、残り多くはない人生を、千夏に精いっぱい生きてほしい、それだけが望みなんですよ。君だって同じようなことを言っていたよね。その為に、君と一緒になることが、千夏が決めた幸せならば、私たちはその意思を尊重しようと最初から考えていたくらいだ」

 ならなぜ認めてくれないのですか? さっきまでの俺ならそう凄んでいただろう。だが今の俺は、御両親の深い思慮と愛を垣間見た。御両親が、娘の幸せと意思を尊重しようと決心していたにも拘わらず、なぜ俺に障害のことを話したのか、そのことを考えただけで、俺は胸が熱くなった。

「千夏、済まないな。千夏には千夏の思う所があって、修一君に黙っていたのだろう……。なのに私たちが伝えてしまった。けれど、これだけは解ってくれ。修一君が幸せでることが千夏の幸せなのだと、千夏はお父さんたちに言ったよね? だからこそ、この先修一君が悲しむことがないように、後悔することがないように、修一君の知らない千夏を、教えたかったんだ。千夏の意思を蔑にすることよりも、このことの方が、千夏の幸せになるのだと、お父さんたちは考えたからだ。このことも、千夏には話したけれど、千夏は遂に彼に話さなかった。千夏が話すきっかけになるようにと、修一君に厳しく苦言を浴びせたのも、千夏から直接話してほしかったからなんだよ……謝っても許してくれるかわからないし、許してもらおうとは思っていないよ。ただ、お父さんとお母さんはこういった考えだったのだ、とわかってほしい。それだけが、二人の門出を許可する条件だ」お父さまは既に、父親らしい威厳を取り戻していた。俺はと言えば、涙だけでは飽き足らず、鼻水までも、溢していた。

「お父さん……!」千夏の叫ぶ声がした。障子が勢いよく開く。「もう、何度言ったら分かるのよ、修一さんを巻き込んで演劇練習しないでよ! ほら、修一さんだって困ってるでしょ」

「いやいや、中々の俳優だよ修一君は」はははっと悪びれる様子もなく、軽快に声を上げるお父さま。

「笑ってごまかさないで! 修一さんもきちんと断ってくださいよ」まったくもう、と僕を睨む千夏。

「別に困ってないよ僕は。むしろ楽しんでるくらいさ」言うと、千夏が口を結んだ。可愛い仕草だった。名残惜しいが、千夏から視線を外し、あの、と僕はお父さまに向かって「別に嫌じゃないですから、また誘ってください」と頭を軽く下げる。

 ああ、お願いしますよ、とお父さま。「千夏だって女優なんだから、少しは見習って稽古をしなさい」とも言った。その口ぶりは、親というよりは、監督のようだった。

 その父の言葉に耳を傾けることなく千夏は、「ちょっと、お父さんたちの隣にあるお人形ってもしかして、」と呆れた声を出す。

「ああ、これがお母さんで」と腕を後ろに伸ばすお父さま。

「こっちが千夏だよ」と横を向く僕。

 二人して、人形を両手で優しく持ち上げ、千夏へ紹介する。

 はぁ、と額に手をあてがいながら、千夏は深くため息を漏らす。「もう勝手にして下さい。ただ、私とお母さんを巻き込まないで。そのお人形の、私とお母さんもね」ようやく千夏は頬を緩めた。僕が大好きな、彼女の笑顔だ。

「他の人形を使うことになるけれど、その人形と僕が浮気してもいいのかい」僕は本当に痺れてきた足を崩しながら、彼女を見上げる。

「ばか」彼女は手に持っていた雑誌を僕へ投げつけて、部屋から出て行った。赤ちゃん用の服飾雑誌だった。千夏はどうやら半月先が待ち遠しいようだ。僕も待ち遠しいけれど、不安がないわけじゃない。そんな不安も、彼女の笑顔で払拭されるから不思議だ。

「困った娘だよ」お父さまが含み笑いをする。

「ええ、困った親子です」即座に答える。

 こりゃ一本取られたの、と豪快な声を出しながら、お父さまも、部屋から出て行った。


 足の痺れが消えるまで、僕は部屋に残る。

 座敷の部屋には無数の人形たちが、壁に並んでいる。視界が霞んでいて、ハッキリとは見えないが、全てが僕を見つめているようだった。

 彼等に向かって、僕は眉を寄せる。

「そんなに睨むなよ」

 人形たちは微動だにせずにこちらを見詰めている。

 虚空を挟んで。

 ずっと。

 飽きもせず。

 ずっと。

 同じ姿勢のままで疲れないのだろうか。足は痺れないのだろうか。

 と僕は無用で無意味な心配を抱く。

 人形は良いな、と僕は思った。

 だって――

 僕の足の痺れは、

 中々――

 消えないのだから。

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