【それから僕は】

第61話

【それから僕は】


 小学校に上がって間もなくだった。多分あれが、最初で最後の、僕の……初恋。

 彼女と出会ったのは本当に偶然だった。出会いなんてものはそもそも全て、些細な偶然に過ぎない。ありふれた日常の中で、自分の意志がイタズラに働いただけ。いつもの道は飽きた、ちょっと脇道に逸れてみよう、その程度のささやかな好奇心。それだけだ。

 なのに、その好奇心がもたらす影響は、雪道を転がる小石のように段々と周りの縁を纏っていき、大きくなっていく。その先に阻む壁があったならば、砕け散るだけなのに。そのことに途中で気がついたとしても、止まれはしないのだ。

 放課後いつも通りのメンバー七人で、サッカーをしていたのだけれど雨が降ってきて、びしょ濡れになる前に急いで校舎の影へと避難した。毎度のようにアキラが「ユウシん家でマリカーしようぜ」、と勝手に言いだし勝手に決めて、雨宿りを兼ねてユウシの家ヘゲームをしにお邪魔することとなった。

 けれど、雨が降らなくても、三日に一度はユウシの家へお邪魔していたので、僕はそろそろ気兼ねしていた。この年頃の、この人数では本当にお邪魔だろうな、と考えていたのだ。

 僕には姉がいる。思春期真っただ中だった姉からの反応を見て、僕は自分が邪魔者になり得ることを早くから悟っていた。そして、そのことを恐れていた、邪魔だと思われることを。だからアキラたちがユウシの家へ行くと言い出した時、僕は遠慮した。

「んじゃな」それだけ言って、アキラたちはユウシの家へ向かった。行かない訳も聞かれなかった。

 雨はまだ強く降り注いでいる。昇降口が開いていて、忘れ物の傘が数本残っていた。それをアキラたちは「お借りします」と傘へ丁寧に言っただけで、持って行ってしまった。まだ二本、傘は残っていたけれど、僕は濡れて帰ることにした。そんな気分だった。

 家に帰っても、誰もいない。両親は共働きで、夜は遅い。姉もきっと、塾だろう。二階の自分の部屋へランドセルを置いたあと、台所へ行き、コンロに置かれた鍋の中を覗く。シチューが入っていた。まだ冷え切っていないから、姉がさっきまでいたのかもしれない。温め直して、器に装い、ご飯と共に食卓に置いた。少し早いが、夕飯にした。一人で食べるのにはもう慣れた。

 むしろ、親や姉が家にいることが、窮屈に思えるほどだ。外で被っている仮面を外し、やっと顔面いっぱいに風を浴びて深呼吸ができるという所で、急いでまた違う仮面を被らなくてはいけないような諦め。そう、諦めなのだ。またか、というような日常的な、ありふれた妥協と、それが心の水面に落ち、波紋のように寄せる、小さいけれど不快な圧迫感。そんな、細波の余韻が、家に誰かいる限り、続くようになっていた。

 だが、今日はまだ誰もいない。僕が何をしようが、どんな態勢でご飯を食べようが、お咎めはない。どんなTVを見ようが、チャンネル争いをすることもない。争ってから数時間後の油断していたときに、いきなり頭を踏みつけられることもない。今だけは、遠慮はいらないのだ。あぐらをかきながら、ご飯を食べて、マンガだって読める。こんな些細なことで自由を感じられるのだ、人は。こんな下らないことで、幸せを感じるのだ、僕は。

 ああ……なんて小さな人間なのだろう。と、ちょっぴり僕は、幻滅した。

 いつの間にか、日が沈んでいた。部屋には、TVから発射される光が、攻撃してくるみたいに、ピカピカ光っていた。映し出される場面が変わるごとに、騒がしく瞬いていて、俯いた僕でも目を瞑りたいくらいだった。

 どれくらいの時間が無駄に流れただろうか、一時間か、二時間か、もしかしたら五分くらいだったかもしれない。前方が何やら騒がしいことに気がついた。

 途端。

 急激な加速度を感じた。

 地球が急停止して、

 前方に投げ出されたかのような。

 彼女は光に包まれて、正しく光り輝いて、僕の前に現れた。「神々しい」、それ以外に表現しようとすれば、僕のキャパシティでは補完しきれない。むしろ、してはいけない、とすら思うほどだ。

 彼女の第一声は、何とも間の抜けたものだった。この世の者成らざる神か、もしくは天使は、こうも人間を逸脱した言葉を言うものなのか、と驚嘆し、感動し、納得したほどだ。

「おにぃちゃん!」

 いいえ違いますよ、僕はあなたの兄ではありません、むしろそんなことはあってはいけないのです、と誰に対してすべきかを思索することなく、僕は弁解をしていた。そうだ、あってはならない。こんな完璧な彼女と、僕が、兄妹などと。そして、兄妹間では許されない感情を僕は、瞬時に彼女へ抱いてしまった。そうだ、一瞬にしてそれが、今まで僕が持ち得なかった感情であり、それが人類において最も高尚な感情なのだ、と理解した。

「どうして起こしてくれなかったのぉ!」彼女は僕を無視するように食卓へ着くと、用意されていた食事を口にする。

 それは、僕が食べていたものじゃ……。僕は赤面する。何を想像しているのだ、僕は。例えそうであっても、関節キ、キッス如きでうろたえるなど、僕らしくない。むしろ、こんな僕は、僕じゃない。この感情は高尚なものなのだ、俗的な、肉体的な接点などに意味はない。

 しかし、なぜこれだけの思案を、物の数秒で巡らすことができたかと言えば、彼女が、僕が頭の中で描き続けていた理想の人物に、非常に近かったからだ。外見は言うまでもなく僕の想像以上でありながら、数秒の出会いだけで、彼女の人格を僕はトレースすることができた。これは錯覚や願望、独りよがりな妄想ではない、確固とした確信があった。それは予想よりも正確で、勘よりも鋭かった。事実、この後の彼女を中心とした僕の生活で、そのことが間違いではなかったことが証明されている。

 彼女はドタバタとしながら、口にパンを加えると、着衣の乱れが正されていないままの制服で、玄関から飛び出して行った。

 僕は呆気にとられた。追いかけたい気持ちと、現実との隔たりに、僕は愕然とする。今僕が玄関から飛び出したところで、彼女に追いつけるわけがない。仕方なく僕は、家でそのまま待つことにした。きっと彼女は帰ってくる、そう信じて。今に彼女が遭遇するだろう理不尽な出来事に、僕は干渉することができない。けれど、僕は信じて待つのだ、彼女はきっと無事であることを。だれよりも強く、清らかなことを。

 彼女の無事を見届けるため、そして確認するために、毎週僕は、帰宅する。

 心躍らせて。

 家に、誰もいないことを、祈りながら。

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