【シスターアンチコンプレックス】

第60話

【シスターアンチコンプレックス】


 僕には姉が三人いる。僕は末っ子だ。一番年の近い三女とですら、四歳も年が離れている。一番上の長女に至っては、十歳も違うし、真ん中の次女とは七歳違う。四歳、七歳、十歳、と三女の上に、三歳ずつ大きな姉がいるのだ。

 年が離れている姉がいるということはつまり、僕には到底理解できない生物が、幼い頃から僕のプライベートな生活範囲に存在していた、ということである。そうなのだ、僕が物心ついた時には既に、姉たちは十分に女性としての性質を兼ね備えていた。女性特有の二面性かつ獰猛性を。

 成人を迎えた今になってこそ僕は女性との付き合い方、すなわち、距離の取り方や、接し方、対応、上手な話の聞き方、相槌の打ち方、会話の仕方、彼女たちの発する曖昧な自己PRや感情表現を、友好関係に亀裂の生じない程度には理解し・把握し、実践できていると自負している。しかし残念なことに、そして無念なことに、幼き日の僕には、そんな、男性が女性と生活を共にするのに必須とも言える嗜みは皆無であった。要するに、男として持っているべき高等技術を僕は持ち合わせていなかったのだ。

 けれどそのことを責めないで頂きたい。無垢な子どもにそんな『対女性高等スキル』を身に付けさせるのは、酷というものだ。

 例えるならばそれは、夢見る子どもたちへ急に、サンタの正体や、遊園地に生息するキャラクタたちの着ぐるみ一枚隔てたその先に見える素顔、強いては、赤ちゃんの作り方や、赤ちゃんの作り方で赤ちゃんを作らずに赤ちゃんを作る作業のみを赤ちゃんが母乳を無心に求めるが如く一心に身を投じる男女の行動原理と行動そのものを、こと細かく教えることに等しい暴挙なのである。と僕は思う。

 ところで、女の子は早熟だとは良く言ったもので、僕はその成長の過程、変質の過程、ともすれば進化の過程をこの目で見て、この身体を通して体験してきた。

 女性は恐ろしい。そのことを、まじまじと見せつけられ、戦々恐々としながら叩きこまれてきたのである。三人の姉たちによって。

 僕は今でこそ、「可愛い女の子の幽霊とかいないかなぁ」とそんな下らない願望を抱きながら、暗闇の夜道を一人で歩くのが好きなちょっと危なくも健全な人間なのだけれど、昔は、そう僕が三歳から小学校へ上がるまでの間は、今の僕からは想像しえないほどの、極度の怖がりだった。一人でトイレにいけないのはもちろんのこと、一人でお風呂にも浸かれなかったし、一人で寝ることすらできなかった。それらを皮切りに僕は、家でほんの数分一人になるだけでも泣きべそをかくくらいであった。

 一人が怖かった。側に誰かがいないと、目には見えない何者かが、どこからか僕を覗きみていて、少しずつ少しずつ僕に近寄ってきては、取り囲んでいるのではないか、といった荒唐無稽な想像でぞっとしてしまうのだ。

 或いはそれは、幼き頃から強制的に聞かされ続けてきた、姉たちの怖い話がもたらした、ちょっとしたPTSD(外傷後ストレス障害)だったのかもしれない。そのくらい僕は、極度の怖がりだった。

 姉たちは僕を可愛がってくれた。それは、文字通り、可愛がってくれたのだ。愛でてくれたのではない、おもちゃのように、可愛がってくれたのだ。彼女たちは兎に角僕を泣かせるのが好きだった。女王様気取りではなく、確実に僕にとっては女王様だった。一方的かつサディスティックな女王様。姉たちは上手に飴と鞭を使い分け、人生を甘く見ている無知な僕へ、数々のトラウマを植え付けた。

 姉弟にありがちな喧嘩――テレビのチャンネル争いなどといった仲良しこよしの延長線上にある風物詩も、僕にとっては封建制度に一人で対抗する小ネズミのようなものだった。

「お願いします」とどんなに僕が頼んだところで、僕の観たいアニメ番組を観させてくれなかったし、どんなに「やめてくだたい」と懇願しても、僕のいやがることを――特に僕を怖がらせることを――やめてくれなかった。たとえばそれは、怖い話を延々と話して聞かせてきたり、電気を急に消して真っ暗闇の部屋に僕一人を取り残して、どこからか「かごめかごめ」を歌いだしたりと、そんな幼稚ではあるけれど、幼い僕には絶大な精神的ダメージを与えるに十分な悪戯を行っていた。補足ではあるが、日常的に姉たちが僕へ実行していた悪戯としては、僕の後ろに何者かがいるかのごとく彼女たちは僕の背を指差し、怖々とした面持ちで僕一人をその場に取り残すように逃げ、「待ってよ、ぉ待てよぉ」と鼻水たらしながら泣き叫ぶ僕を恐怖でおののかすのであった。更に追い打ちをかけるようにして姉たちは、さも僕がその場から居なくなったように演じることにより(いわゆる無視であるが)、更なる恐怖を、これでもか、と言わんばかりに僕へ注ぐのであった。注がれた恐怖は、一滴残らず、一縷も漏らさずに、僕の体内で涙へと変換されて、体外へと解き放たれた。「涙を解き放て、涙は三水だぞ」――とは、屈強なる三女の言葉である。

 果てさて――しかしながら、これくらいのことは日常茶飯事で、慣れてしまえば泣くまでには至らない。けれど彼女たちは飽きもせず、そして懲りもせずに、思い付く限りの悪戯を、僕に対して執行し続けていたのである。


 その姉たちが僕に対して行った、幼稚ではあるけれど度を超えた悪戯の数々、その一断片を取り出して、ここに綴ってみようと僕は思う。綴る理由、動機、名分は、成長した弟のささやかながらの復讐――とでもしておこう。


  【三姉妹と一匹の僕】

 僕の母は、毎日のように僕らへオヤツを用意してくれた。それは決まったオヤツではなく、種類は毎日様々であった。

 そして姉たちは、僕のオヤツである、どら焼きやシュークリーム、果てはフルーチェなどに、百円均一で買ってきたゴムの蜘蛛やゴキブリ、芋虫などを紛れ込ませて、僕をひどく驚かせ、自分たちは弟である僕のそんな驚嘆の表情を肴にして、オヤツの時間を楽しみながら、美味しくスイーツを召し上がるのだった。

 正直言って、口に含み、噛んだときのあの、ゴムの異様な触感と、吐き出した際に見る、昆虫独特のフォルムは、トラウマを生みつけるに十分な驚愕を僕へ与えていた。僕が自分で気持ち悪いと思ったことを他人様に想像して頂くのはかなり憚られることではあるのだけれど、この際、僕の為に、ほんの少し、ほんのり香る程度でいいので、想像してみて頂きたい。

 オヤツによって外見が程良くコーティングされた昆虫たち(注:ゴム製)。

 どら焼きのアンからはみ出たゴキブリの脚(注:ゴム製)。

 フルーチェの艶めかしいグニュグニュに包まった芋虫(注:ゴム製)。

 オヤツと一緒に口から吐き出されたそれらは、本物以上にリアルな気色悪さを演出しているのだ。そんな事態になるとはいざ知らず、幼かりし日の僕は、一日の楽しみであるオヤツとして、何の疑いも抱かずに、意気揚々と口へ放り込むのだ。

 一口噛んだその瞬間。

 脳裡へ走る違和感。

 そして、

 明らかに区別される弾力。

 ほとんど反射的に吐き出す。

 そこから覗く異形のモノ。

 虫の、細く、曲がりくねった脚。

 ぴんっと張った触角。

 子どもが夏休みになれば、探し求める大好きな昆虫の、それだ。

 幾ら好きだからと言って、食べちゃいたいほどの愛を僕は昆虫相手に抱いてはいない。そんな性癖など持っていない。恋愛対象などではないのである。

 咄嗟に蘇る噛んだときの弾力。

 そう、僕は今、噛んだのだ。ソレを。見るからに異形だと判るソレを。

 この目の前に転がる、唾液とオヤツだった残骸にまみれたゲテモノを。

 背筋を悪寒が駆け昇る。

 嘔吐を催す僕は涙目。

 けれど、僕も人の子。学習能力は備わっている。だから、同じ手に何度も引っ掛かるわけもなく、三度目くらいからは、口に含む前に、異物混入を見破るまでに僕の慧眼は成長していた。そのままヒヨコの雄雌判別の仕事に着くならば、これほど天恵に授かった成長はないだろうが、まことに困ったことに僕はまったく異なった職業に就き、ヒヨコとはこれっぽっちも関係のない業務を担っている。とどのつまり、姉たちが齎してくれた成長は、微塵も現在に活かされない無用の長物、無用の成長であった。むしろただでさえ容量の少ない僕の脳内新皮質を余計な才能で埋めてしまった無駄な成長、と言っても過言ではないだろうし、皆皆さまから同情を戴くことはあってもお叱りを戴くことはないだろう。と思う。だからどうか怒らないで頂きたい。


 その日はホットケーキだった。

「おやつよ」と母に呼ばれたのでおっとり刀で僕がリビングへ入っていくと、どうやらすでに姉たちは食べ終わっており、長女が僕の分を焼いていてくれた。

「ほら、あんたの分。特別にあたしが焼いといてあげたから」

 言うと彼女は蜂蜜とバターを盛り付けてくれた。

「ありがとう」テーブルに着くと早速僕は、既に切り分けられたホットケーキをフォークで差し、口に運んだ。口に放り入れる間際、僕はホットケーキからはみ出るバッタのような脚を見た。

 僕は勘付く。

「ははーん。さてはまたオモチャをいれたな? だが今日の僕は昔の僕ではない。今日は敢えて、何事もないようにホットケーキを食して、優雅にオモチャだけを吐きだしてやろう。食後には、ああ美味しかった、お姉さま、ご馳走様です。と厭味の一つでも言ってやろう」そんなことを考えつつ、僕はホットケーキを頬張った。もぐもぐと噛む。

 対面に座る姉が、心底楽しそうに言う。「ねぇ、おいしい?」

「うん。おいしいよ」余裕を前面に押し出してそう言おうと思った僕は、「サク」と「グチュ」の混ざった歯ごたえ感じ、思わず口籠る。

 ――あれ、ゴムってこんな触感だっけ?

 おそるおそる噛み続けること数回。

 ――うん、苦い。

 姉の笑顔の真意を僕は理解した。

 ホンモノだ。これはホンモノの昆虫だ。ゴムでできたバッタではなく、型取りされたオモチャでもなく、タンパク質でできたバッタだ。英語で言うならグラスホッパーだ。カラスのラッパーと良いバトルを繰り広げそうな名前だ、と僕は混乱に乗じて深遠な思考を巡らせた。口内に異物があるので、その深遠で偉大な箴言は言葉にはならず、ただウゴウゴと僕は呻いた。

 鏡で確認するまでもなく僕は、一気に青褪めて、吐き出すこともせず――動揺が引き起こした乱心によって何をトチ狂ったのか僕はそれを――飲み込んだ。

 吐き気が僕を支配する。

 その様子を、頬を緩めて傍観していた姉が一言。

「ねぇ、どうよ? ムシを噛み潰した感想は」

 この日、僕は愛でたく、嫌いな食べ物ベスト3にホットケーキをランクインさせるに至った。



***

  以上が僕のトラウマの一つである。

 これはまだまだ序の口。まだまだ優しいトラウマ。そう、姉たちの優しさが垣間見えるほどの悪戯に過ぎない。他にも、虐待と言っても過言ではない、悪戯で済ますには些か過剰な所業を僕は体験し続けてきた。むしろそれらは、理不尽な処罰でしかないような、拷問に近しい仕打ちである。もしくはただの八つ当たりかもしれないが、一言で表すならばやはり、「精神的虐待」が妥当である。しかしながら今はこうして笑い話として話せることから(あれ、なぜか僕の視界が滲んでいるけれど、でも気にしない。昔を思い出すと往々にして引き起こる現象であるが故に僕は気にしない。たとえ目から汗が滲もうと、いつだって僕は朗らかに健気に笑って語るのだから)、或いはそれらは、姉たちが企てた『精神的ギャグ隊』だったのかもしれない。

 果てさて。兎にも角にも。

 ――女性は怖い。

 こうして僕は学習した。それが短絡的で歪んだ学習であったとしても、僕にはどうしようもない事実として、この痩身いたいけな身体に刻み込まれたのである。なんていやらしい姉たちであろうか。そのことについて、僕の唾棄すべき友人たちは一様に、「お前の姉ちゃん最高だな。いらないのなら俺にくれよ」と馬鹿面引っ提げて羨ましがるのだが、あいつらの精神は歪みきっているからして僕は紳士的にこう切り返すだけである。

「お前らは雀の糞の味を知っているか? 金魚の餌をお茶漬けの玉の代わりにだと偽れて食べさせられたことはあるか? バレンタインに渡されたチョコレートの中にアルミホイルが混入していて思いっきり噛んだ瞬間の歯の痺れを体感したいのか? シャワーを浴びている時に勝手に風呂場の扉を開けて素っ裸の写真を撮られた揚句に、それを後日学校で見せ者にさせる僕の気持ちが解るのか? お前らにゃわからないだろうな。露出症傾向にあるお前らにゃ永遠に解らないだろうな。僕らは永遠に分かち合えないだろうなぁ、ああ僕は悲しい、哀しいよ諸君! それでもお前らはあの悪魔たちを姉にしたいと言うのか!? そんなに死に急ぎたいのか!? そんなにまでも苦行の人生を歩みたいのか!? 僕にはとてもとても正気の沙汰とは思えん。既に正気ではないお前ら『自堕落人生楽観視し過ぎだ主義者』の精神と人生をこれ以上悪しき未知へと足を踏み入れさせはせぬ。安心したまえ、僕は君らの友人であり、人生の先輩であり、救世主であり、命の恩人だ。友人であり先輩であり救世主であり命の恩人たらん僕がお前らの性根を正してくれよう! さぁ、いざまいらん! 至高ロリータ嗜好の未知なる道へ!! 姉なんて糞くらえだ! いまさら姉など求めるのは愚行である。時間は不可逆的であり、君たちがいくら求めたところで姉は生まれやしないのだ。ともすれば求めた先に生まれ来るのは姉にあらず、妹である! さぁ、求めるのだ! 妹を! 至高で己が嗜好の妹を!」

 友人一同、道行く老若男女全人類みな兄弟ひっくるめて、心からのドン引きであった。僕は現代においても孤立した。姉たちからの迫害が齎した僥倖と言えば、こんな状況になっても僕の精神は一向に揺るがないことである。ありがとうお姉さま。さようなら、僕の威厳と友と信用と――未来に出会えるはずであった僕の大切な人。

 閑話休題。

 幼い頃から姉たちを通して「女性は怖い」と学んだ僕である。

 しかしながらこの場合、「女性が怖い」というのは幾分かの語弊がある言い方かもしれない。正しく言うなれば、「姉が怖い」である。もう少し正鵠を射る表現を心がければ、「僕の姉が怖い」なのである。

 そして最も僕にとって不幸なことは、姉が三人とも、別々の悪戯を僕に仕掛けてくることだった。彼女たちは個々で活動し、各々が各自で悪戯を実行するのである。怖い姉の怖い仕打ちが、単純に三倍になるのだから、こちらは堪ったものではない。或いは、これは、もしかしたらぼくにとっての僥倖だったのかもしれない。彼女たちが手を取り合い、徒党を組み、僕に向かってきたのならば、三倍どころか三乗の被害と悲惨さを僕へ与えていたのかもしれないのだから。

 彼女たちは群れない。女性は群れるものだ、と勘違いしている男たちがいるが、それは大きな間違いだ、と僕は声を大にして忠告しよう。彼女たちの本質は、孤高である。誰も信じちゃいないし、誰にも頼らない。彼女たちはただ、「弱々しい乙女」を演じているにすぎないのだ。その割に、誰かを信じ、誰かを頼りたい、という願望は男性以上に強い。そんなことは有り得ない、と知っているからこその、憧れなのだろう。


 兎にも角にも僕の姉たちは、仲が悪い訳ではないにしろ、三人一緒くたになって何かを成し遂げようとすることはなかった。それぞれが己の欲動を満たす為だけに、行動するのであった。ややもすればそれは、長女がこれまで妹たちへ施してきたようにまた、下へ下へと受け継がれてきた儀式のようなものだったのかもしれない。

 長女が次女へ。

 次女は三女へ。

 三女は僕へ。

 けれど、下の者ほど、多くの姉から弄られる。

 次女は長女一人から悪戯を受け。

 三女は、長女と次女から悪戯され。

 そして僕は、その姉たち三人から仕打ちを受ける。

 ただ、ここで一つ指摘しておきたいことは、今更ながら驚くことなかれ、姉たちにも優しい一面があるということだ。その優しさは、それこそ姉のいない人たち(僕のかつての友人たちのような方たち)が憧れているような、そんな優しさである。

 僕が熱を出せば、風邪が移るかもしれないのに、心配して一緒に添い寝をしてくれたり、僕が学校から泣いて帰ってきた時は、「どいつが泣かせた」と連絡網を引っ張り出して来て、今にも殴り込みに行きそうな勢いで僕が泣いた経緯をきいてくれたり、他にも、サッカーの試合にスタミナ弁当を持参して応援しに来てくれたりと、とても良い姉としての一面もあるのだ。

 だが世の中そうそう上手くはいかない。いや、或いは、上手く回っているからこその、極端な愛情の起伏があるのだろうか?

 バランスをとるかの如く、優しさ以上の、悪しき面が彼女たちには備わっているのであった。 ***


  【長女と次女と幼き日の弱き僕】

 さて、極度の怖がりであることは先に述べたが、僕は一人でトイレにはいけない。昼であってもそれは例外ではない。学校のトイレは大丈夫なのに、家のトイレがひどく怖かったのだ。個室、という密室になる空間が怖かったのだろう。ならばどうやって用を足していたかと言うと、誰かに付き添ってもらって、用を足していた。なんとも情けない男の子だろうか。我ながら、お恥ずかしい限りである。

 トイレへ一緒に付いて来て欲しい僕は、面倒臭がって中々取り合ってくれない姉たちに、明日のオヤツを交換条件に付いて来てもらう。日中、共働きで親がいないときは、このようにして用を足していた。

 何度も言うようだけれど、僕は本当に怖がりで、だからトイレに入るときも一切、ドアを閉めない。かと言って、弟の粗相を見届けてくれるほど僕の姉たちは心の広い人間ではないし、非常識でもない。いち男の子である僕のあられもない姿など、それこそ大便をしている僕と、面と向かいながら見守ってくれたりなど、そんな下品な状況下に身を置く姉たちではなかった。その点に関して言えば、姉たちは常識人であった。

 そこで姉たちは、ドアを全開にしたトイレの前、(うちのトイレは、廊下を右に曲がった、突き辺りにある。丁度、“「 “のような廊下だ)その廊下の角から足だけをだして、「私はきちんとここにいますよ」アピールをしてくれるのだった。ドアを開けているので僕は、その壁からちょこんと出ている彼女たちの内履きのスリッパを心のよりどころとして、用を足すのである。

「ねぇ、いる?」本当にそこにいるの、と不安になってたびたび僕は聞き返す。

「いるから早くして」姉の声は壁を経由して僕の元へと届く。

 僕の目には、苛々と貧乏揺すりをする姉のスリッパが、とても勇敢で偉大な魔除けの護符のように映っていたに相違ない。この世の中に、姉よりも強い存在がいることを、幼い僕は信じなかった。だから、壁からひょっこり出ている姉の足、即ちスリッパを見詰めながら、そして姉が僕を置いていかないように見張りながら、安心して(ちょっとだけビクビクしながらも)僕は用を足すのであった。

 その日も僕は、次女に土下座をして、おしりをモジモジさせながら、「おねがいします、いっしょにトイレいってくだたい」と懇願していた。

「漏らせばいいよ」次女は中々了解してくれなかった。

「おねがいしまう」僕は泣きなき頭を下げる。おしりはモジモジと揺れ動く。漏らしそうな尿意を一生懸命に堪えていた。

「いまいいとこなのに!」次女はその時漫画を読んでいた。確かに漫画や小説のいい場面で邪魔が入る時ほど苛々することはない。「来月のこの漫画、あんたのお小遣いで買いなさい。それなら今週一杯はあたしがトイレに付いて行ってあげる」次女は何とも優しい提案をしてくれた。

「うん、いいよ! おねがいします!」既にちびっていた僕はその提案を快く受け入れる。どうせお小遣いなど、こんな提案を受けなくとも、他の姉によって搾取される、だけなのだから。

 それから数日間、僕は毎日、次女の同行の元、尿意と便意を我慢することなく安心と平穏の下でトイレに入っていた。扉は依然として開けっぱなしである。暗黙の了解とすらなった、「姉の存在証明」である、壁からちょこんと出ている「姉の足:スリッパ」も健在だった。

 ところがある時、僕が便座に座りながら気張っている最中に、次女の気配が消えた。

「ねぇ、いるの?」いつものように問いかけるが、次女の返答が無い。スリッパは見えているのに、姉の声がしないのだ。

 僕は心もとなくなって、というか、次女がお化けに襲われてしまったのではないか、という突拍子もない恐怖を本気で抱き、お尻も拭かずに立ち上がり、ズボンとパンツを足首に巻いたままトイレを出て、次女のスリッパの元へと進んだ。

 壁を曲がったそこにはなんと……靴下ごと脱ぎ捨てられたスリッパが。セミの抜け殻のように、靴下とスリッパだけがそこにはあった。

 次女は、中々用を足しきらない僕に痺れを切らして、スリッパを脱ぎ捨てて、その場を後にしていたのだった。スリッパから僅かに覗く靴下も一緒に脱ぎ捨てるという周到さ。

 けれど僕は、その様子を見て、姉がお化けにやられてしまった、と勘違いした。その時僕が抱いた絶望は、今を以ってしても計り知れない。僕に対して決して優しいだけの姉ではなかったが、それでも掛替えの無い、唯一無二の存在だったのだ。僕はおしり丸出しのまま、号泣し、恐れおののきながらも、精一杯の勇気を振り絞り、他の姉のいる部屋まで、助けを呼びに階段を上った。今回、僕のトイレに連れ立ってくれたのは、次女である。そして、僕が目指した部屋は、長女の部屋だった。一番頼りがいがあり、一番怒らせてはならない姉。それが長女である。

***

 ここで少し、長女について触れておこうと思う。

 携帯電話が普及していなかった時代。女子高生だった長女。まだ幼稚園生だった僕。彼女は居間で電話をし、僕はその傍らでテレビを観ていた。すると僕の肩に何かが飛んできた。見ると、消しゴムだった。後ろを振り向くと、長女が電話の相手に相槌を打ちながらも、僕へ口パクで何かを伝えようとしている。だが、幼い僕に、電話をしつつの口パクが、一体なにを伝える為になされているものなのか、そして何と言っているのか、などということを察するには、あまりに人生経験が足りなかった。

 僕はあまりテレビ画面から視線を外していたくなかったので、彼女の口パクを無視する形で、視線を彼女から外した。すると、僕の頬を何か鋭いものが掠めた。それは床へ突き刺さるかの勢いで、僕の前方に転がり落ちる。

 鉛筆だった。

 背筋が一瞬で冷たくなる。

 その瞬間、槍が降ってくるが如く、僕へ何かが沢山ぶつかって来た。

 僕は身体を丸め、やり過ごす。

 ぶつかって来るものの中には、明らかに鋭利なものが含まれており、僕を掠めずに床に散らばるそれらは、様々な文房具であった。

 電話機の横にあった筒状の文房具入れ。それを長女は、僕へ投げつけてきたのだ。その文房具入れには、鉛筆は元より、ハサミやカッター、果てはコンパスまで、刺さればただ事では済まされない様な凶器も含まれていた。そんな危なげなものを、幼い僕へなげつけるなんて、と僕は泣きそうになりながら、丸めていた身体を起こし、振り返る。

「なにするんだ!」と怒鳴るつもりが、「音量下げろって言ってんだろうが!!」と長女から先に怒鳴られた。僕はものの見事に委縮する。

 いえいえ、そんなこと一言も申されなかったではありませんか、と弁解する間も無く、長女は僕を睨みつけ、「さっさと消えろ」と子ども部屋へ戻るよう警告したのである。(その頃僕は、三女と同じ部屋だった)

 長女の口パクはどうやら、「音量下げろ」ということだったらしい。僕がそれを無視してテレビを見続けたので、彼女はキレたのだ。

 ――そう、これは僕が悪いのだ。だから、鉛筆やハサミ、かたやコンパスを投げつけられて、痛い思いをしたのも、自業自得なのだ。

 子ども部屋に泣いて戻った僕へ、ことの顛末を聞いた三女は、そう諭すように言ったのだった。「この世は弱肉強食。泣いている暇があったら、強くなりなさい。この部屋でだって、筋トレぐらいはできるでしょ」三女の言葉に触発された僕は、その場で腕立て伏せをした。

 と、三女は、腕立て伏せをしていた僕の背中に勢いよく跳び乗った。僕よりも一回りも大きい身体が、僕を圧し潰した。さながら猫に潰されるネズミである。

「そんなんじゃ駄目ね」潰れた僕へ、意地悪な笑みを浮かべて三女は吐き捨てる。「弱者は踏み潰される。よーっく肝に銘じとくんだよ」

 僕はその時、この資本主義社会の本質を垣間見た。

 ――正直者は馬鹿をみる。

 そして、

 ――弱いことは、「悪」だ。

***


 ところで、パンツを引きずり、引っ提げて、長女の部屋へと辿り着いた僕。フリチンで、それこそウンチの着いたおしり丸出しの僕がノックもせずに、しゃくりを上げて突然部屋に無断で入ってくる状況。これを微笑んで仕方ないねぇ、と済ませてくれるような人間は、僕の知る限り、親戚では母だけである。

 案の定、長女は怒り心頭、怒り激震。僕の大切な「男の子の証明:オチンチン」を、ハサミでちょん切ろうとする暴挙に踏み切ろうとした。

「ほら、何か言うことあるんじゃないの? 私をこの胸糞悪い気分から抜け出せるような言葉を言いなさい。もしそれ以外を吐いたら、あんたは今日から女の子だよ」頬に緩みを一切みせない表情で、それこそ冷めきった、冷徹な表情で、真剣そのものの口調で彼女は言った。僕の「男の子の証明:オチンチン」は、萎みに萎み、彼女に皮ごと引っ張られ、萎んだゴム風船を伸ばした様な状態で、ハサミに挟まれていた。

 これ、今だから笑い話としてこうして書記していますが、当時の僕としては、革命的な恐怖を、この僕という存在に刻みこむに至っていた。その時僕は、悟ったのだ。

「怖いのは幽霊なんかじゃない、生きた人間だ」ということを。

 僕は藁にも縋る面持ちで助けを求め、長女の部屋の扉を向く。部屋の扉は、僕が入ってきた時のまま、開けっぱなしだった。誰かがそこを通ってくれれば、助けを訴えようと、僕は震える身体と、萎みながらも長女に引っ張られ、今にも輪切りにされそうな「男の子の証明:オチンチン」をちょっとでも動かさないように意識し、硬直させていた。長女の表情は、僕が少しでも動けば、「すぐさま切り落とすぞ」と無言で訴えていた。そんな剣幕だった。


 僕が一縷の望みをかけて見遣った廊下に、人影があった。今正に、廊下を、この部屋の前を通ろうとする影が、そこにはあったのだ。

 僕はその時初めて神の存在を信じ、神に感謝した。

「神様ありがとう! 僕の日頃の行いを観てくださっていたのですね! 僕に慈悲を下さったのですね!」


 直後、廊下を通った人物は、つい先ほどトイレの前から姿を消し、スリッパと靴下だけを置いていった次女であった。

 ――良かった!

 僕は二つの意味で安堵する。

 ――姉さまはお化けにさらわれてなどいなかった! 無事だったのだ!

 ――助かった! きっと次女なら僕を助けてくれる。

 だって、僕がこんなことになっているのは、次女のことを心配した結果なのだから。僕が彼女をとても心配し、そして助けようと勇気を振り絞って、自分を鼓舞し、行動したように、きっと彼女も僕の為に身体を張ってくれると、そんな根拠のない確信を僕は抱いていた。それに、少なからず、僕のオヤツ数週間分を条件付きとはいえ、譲渡していたのだから。

 だから僕は、安堵した。

 僕はすぐさま、扉の前に姿をあらわした彼女へ、僕の味方であるはずの次女へ、助けを求めた。視線を頼りに、無言で、助けを求めた。

 一瞬彼女と目が合う。

 彼女は僕の状況、即ち、強制的な性転換の危機を目撃し、瞬時にことの顛末を理解し、そして――ほくそ笑んだ。

 この僕の人生最大の危機を垣間見て、彼女は笑みを浮かべたのだ。天使のように優しい微笑みを浮かべたまま、満足するように彼女は、廊下の先へと消えていった。闇に消えるように。

 僕は悟った。

 この世に、神など存在しないということを。

 この世には、希望ではなく、絶望しか存在しないことを。


 長女は僕の耳元で囁く。

「最期の慈悲だ。――さぁ、男の子のうちに言っておきたい言葉はないか?」



 ***

 まだまだプロローグにすら立っていない状態なのだけれど、これ以上まとまりも脈略もなく、ずるずると僕のつまらない愚痴のような過去の話を続けるのも、悪い気がしてきたので、というよりもそろそろ怒られそうな気がしてきたので(誰に、とは敢えて言わないけれど)、最後に僕と三女とのエピソードを書いて、終わりにしたいと僕は思う。いえ、思います。

 ***



   【三女と僕と死ンデレラ】

 三女と僕は、歳が近いということもあり、唯一対等に喧嘩をする機会が多かった姉だ。

 とは言え、彼女は僕よりもさらに昔から、他の姉たちからの仕打ちを受け続け、堪え続けてきた、僕にとっては同情しうる姉だった。彼女は、僕の姉であると同時に、独裁者かつ破壊神の長女と、薄情かつ鬼の次女、そんな姉たちの妹でもあるのだ。それゆえに、彼女は僕の先輩に当たる存在であり、僕の受ける痛みを理解してくれる、最も僕に近しい存在でもあった。

 けれど、四歳という歳の差は、男女という性別よりも遥かに優位な力の差を、僕と彼女の間に生み出していた。それこそ、三女がネコならば、僕がネズミに値するくらいの力の差である。

 その日、僕と三女は、些細なことで喧嘩した。本当に些細なことがきっかけだった。或いはそれは、長女が彼氏さんと別れたことを知らずに、三女が長女へ、「ラブレターもらった」と嬉々として報告したことによって、長女の限界ギリギリだったフラストレーションにストレスが加わり決壊し、結果、長女が「破壊の女神」へと変貌した事態が関係していたのかもしれない。三女は、思わぬ長女の激震に触れたことによって、只ならぬ理不尽を抱いたことだろう。幸せから一気に奈落のどん底へと突き落とされたようなものだ。

 そんな折に、サッカーの練習から帰ってきた機嫌の良い僕が、手も洗わずに、「ただいまぁ」と元気よく部屋に入ってきたら、どんなに心広い人間でも、癇に障るというものだろう。いや、障るものだろうか?

 なんにしろ、家に入った途端、僕は涙目の三女から平手打ちを貰った。

「いたい!」なにするの? と僕は平手打ちの感想を言うことで理不尽な気持ちを彼女へ示す。

「むかつくのよあんた!」三女は言った。なぜか瞳からぽろぽろと涙が零れ落ちていた。見ると、床にはなにやら紙くずが散らばっている。その一つを拾ってみると、手紙のようだった。手紙が破り散らされていたのだ。部屋いっぱいに。

 今になってこそ僕はそれが、どこかの殿方が三女へと綴ったラブレターだということを理解できるが、その当時の僕は、全くと言っていいほど無垢であり、言い換えれば愚鈍であったので、「なにこれ?」と拾ったそれを手で弄りながら、彼女へ問うた。

「触んないでよ!」三女は僕の手をはたいて、紙切れを僕から引き離した。ひらひらと紙切れは床へと舞い落ちる。桜の花びらを連想させる。――サクラ散る。そんな感じだ。(どんな感じだ?)

「いたい!」だからなにするの? 僕はまたも感想を言うことで、理不尽な暴力に対する反抗の気持ちを示した。

「もう、ホントむかつく! 一発なぐらせなさい!」

 すでに一発顔を平手打ちされた僕としては、それは承知できない要望だった。

「イヤ」僕は拒否の意を表明する。

「わかった」言うと彼女はしょんぼりと肩を落とす。

 途端に僕は、何やら彼女が可哀想な気になった。「だいじょうぶ?」近寄って僕は、俯いた彼女の顔を覗くようにして顔を寄せた。

 次の瞬間。僕は後方にあったソファまで吹っ飛んだ。

 床へ崩れる。

 頬が熱い。

 這いつくばるように身体を起こす。

 何が起こったのかを理解する為、思考を巡らすこと瞬き数回分。

 ああ、僕は今、姉に殴られたのだな。

 同年代の男の子たちに、造作もなく勝ってしまうような三女。

 空手を習っているその姉に、僕は全力で殴り飛ばされたのだな。

 僕は現状を察した。

 床にポタポタと赤い水滴が。

 鼻血が垂れていた。

 茫然としながらも僕は、冷静に現状を把握していた。

 が、僕の前には既に、見覚えのある影が落ちていた。

 三女の、彼女の影であった。

 あれ、どっかで見た光景だなぁ、と滑稽なほど冷静に僕は記憶を探る。


***

 一年ほど前のことだ。

 僕は三女の大切にしていた人形を、オレンジジュースで汚してしまった。ソファに座って、飲み物片手にアニメを観ていたのが悪かった。僕の横にはクッションに紛れて、クマの人形が置きっぱなしになっていた。そのことに気づかずに僕は、テレビ画面に気を取られて、ジュースを溢してしまったのだ。

 ソファを拭きながら、オレンジジュース色に染まったクマさんを発見した僕が、ことの重大さを自覚するのに時間はかからなかった。瞬時に僕は察したのだ。これは死活問題だということを。

 すぐさま二階の子ども部屋、つまり僕と三女の共同部屋に行って、僕は有りの儘の事実を三女へ伝えた。

 彼女は要領を得ない僕の説明を煩そうに聞いて、とりあえず部屋から出て、下の階へ下りていった。僕が、「ソファでね、ジュースをね、溢してね、それでね」とそんな曖昧で、煮え切らない説明しかしなかったからだろう。それともただ単に彼女は、やかましい僕を追いだしたかっただけなのかもしれない。兎にも角にも三女は、事件現場(僕にとっては大袈裟ではなく、大事件なのだから、事件現場)、であるソファのある居間へと足を踏み入れたのだった。僕もビクビクしながら後に続いた。

 ソファで眠るように横たわっている、血に濡れた(ようにオレンジ色に染まった)クマさんのヌイグルミを見た三女は、その場で凍りついた。ここで一体なにが起こったのか、これから一体なにをすべきか、を彼女は頭の中で精一杯情報を整理し、沸き上がってくる怒りを制御しつつ考えているのだろう。その怒りの矛先はすでに決まっているにしろ。

 僕は三女が動き出す前に、つまり考えが纏まり、怒りの発散方法(手段)、僕への処遇が決定してしまう前に、全身全霊、全力で謝罪を行った。深々と土下座をして、身振り手振りを交えて、仰々しくも誠意を込めて、お詫びの念を伝えた。

 空手を習っていても、どんなに男気溢れている三女でも、女の子は女の子。可愛いものが好きなのだ。だから、三女はお人形を、特にクマやウサギといった動物のお人形をこよなく愛していた。その一割でいいから、僕にもその愛情を分けてくれさえすれば、僕の幼少時代はもう少し晴れやかで清々しいいい思い出となっていただろう。

 恥ずべきことではないだろうから今こうして言ってしまうが、僕自身も可愛いものが好きだった。ヌイグルミはもちろん、メルヘンチックな柄のお洋服は姉たちの御下がりということとは関係なしに、好んで身に付けていたくらいだ。だから、三女がヌイグルミたちに注ぐ愛情が、どれ程のものか、それを僕は容易に想像することができた。図らずともそれは、その愛情の裏返しであるところの、憎悪がどれほど深くなるのか、という推測をも可能にしていたのだった。

 だからして、三女の溜まりつつある爆発寸前であろう怒りのエネルギィが、前代未聞の規模かつ総量であること予知していた僕は、全身全霊を込めて、謝罪していた。この時すでに僕は、純粋な謝罪ではなく、純然たる恐怖から、許しを乞うていた。

「ごめんなさい。今と次のおこづかいであたらしいのかいますから」僕は今月と来月のお小遣いを費やして、汚れてしまったお人形の代わりをプレゼントしようと思っていた。

 けれど、「馬鹿にしないで! そんな、はしたお金で買えるほど、リンディは安くないの! あんたの命百子費やしたって買えないんだから!」と辛辣なお言葉を返されてしまった。彼女の頬には、瞳から溢れた大粒の涙が伝っており、それが僕を更に苦しめた。なんて酷いことを僕はしてしまったのだろうか、と。どうして僕は自分の安否のことしか考えられない醜い人間なのだろう、と。

「あんた……覚えときなさいよ」三女は吐き捨てるように言うと、その汚れたお人形(彼女はリンディと呼んでいた)を抱いて、自分の部屋へと戻っていった。(三女の部屋は同時に僕の部屋でもあったので、当然僕は締め出された形となった)


 それからおよそ三時間後。夕暮れ時。

 僕は部屋に入れないので、居間で漫画を読んでいた。床に寝そべって、ソファに頭を預けるような格好で読んでいた。ソファと頭が影になって、少し暗くなるのが難であるが、ソファが支えとなって長時間読書にふけるには、丁度いい姿勢だったのである。

 僕は集中していた。漫画の世界、物語の世界に潜っていた。それこそ、三女へ与えてしまった罪深い失敗のことなど、意識の底に沈ませてしまったくらいに。三時間前に聞いた、「覚えていろよ」という三女の忠告を忘れてしまうくらいに。

 それは突然だった。

 頭に重い衝撃が加わり、僕の頭はソファから外れ、床へと思いっきり叩きつけられた。フロアに思いっきり頭突きをする形となった。読んでいた漫画がクッション代わりとなって、大事には至らなかったが、瓦割に換算すれば、容易に十枚は砕けていただろう。

 ことの真相はこうである。忍び足で僕の後ろに立った三女。空手の奥義とも呼べる「かかと落とし」関西風に言えば「ネリチャギ」を、無防備な僕へ、容赦なく渾身の一撃として放ったのだ。

 僕はこの時初めて、頭蓋骨の役割を、身を以って理解した。頭蓋骨は、不意なかかと落としから僕らを守っている。それは遥か昔、類人猿だった僕らの先祖が、降り注ぐ隕石から頭を守る為に、数百世代の時代を費やし、命がけで獲得した、偉大なる進化の証なのだ!(これは決して言い過ぎではない、と僕は思う。現に僕の頭蓋骨は、隕石なみの威力を有する三女のかかと落としから、プリンのような脳みそを守ってくれたのだから)

 三女の大切なお友達、「リンディ」(テディベア)の仇討。彼女がとった方法は、不意打ちであった。不意打ちからの、かかと落としであった。油断している無防備な身体への、前代未聞の渾身の一撃。それであった。

***


 さて、話は戻る。時系列は、サッカーの練習から帰宅した僕が、三女からいきなりの平手打ちを受けたのちに、僕を油断させた彼女から更に殴り飛ばされた直後である。

 三女のラブレターが無残にも散り散りに破り撒かれているこの部屋で、僕はいま、奇しくもあの時と同じ格好となっていた。

 ソファの前で、処刑寸前の状況。絶体絶命、空前絶後の僕。

 大きく異なることは二つ。

 僕が三女の姿に気づいているということ。

 そして、僕が鼻血を垂らし、既に満身創痍なダメージを受けているということ。

 この二つである。

 優秀な獣は、敢えて自らの姿を獲物の前にさらし、怯えさせ、冷静な判断力を削いで狩りをするという。

 窮鼠猫を噛む、と言うが、それは追い詰められる前に、猫から逃げることができていた勇敢なネズミに限る話である。端から追い詰められ、対抗すべくもなく圧倒されている者が、一体どのようにして反逆できるというのか。できるわけがない。


 僕は四つん這いになりながら、床に映る影の足が二本ではなく、一本であることに気づき、そして顔を上げることなく、歯を食いしばった。

 ところで、走馬灯は瀕死の際に見えるものだと思ったが、そうではないらしい。死を覚悟した瞬間に訪れる、記憶の整理、それなのだと僕は身を以って体験した。

 走馬灯に現れる姉たちの姿は、総じて優しい姉たちであった。死後にまで、辛い記憶を持ち込みたくはない、といった記憶の身辺整理なのかもしれない。ともすれば、だからこそ死後の世界にいる者は得てして「清らかである」、と評されるのだろうか。

 僕は、頭部にめり込む三女の麗しく踵を感じつつ、「ああ、一年という時間は、頭蓋骨の進化をも凌駕するほどの威力を、この三女へと与えたのか」と冷静に、この一年間に重ねてきた三女の努力を称え、三女のかかと落としの破壊力を甘んじて分析していた。


 お姉さま。あなた様は、瓦割十枚の壁を難なく突破し、今や瓦五十枚を容易に瓦礫へと変貌させるに余りある破壊力を得ています。それは或いは空手家としての、強いては人類としての大いなる一歩であり、進化の糧であり、更なる境地への懸け橋でもある、そんな壮大で尊厳で貴重な存在に、お姉さまはなれたのやもしれません。

 けれど、その「巨神兵の咆哮」や「旧約聖書にある、ソドムとゴモラを滅ぼした天の火」が如く壮大な威力を秘めたその一撃を、僕という愚かなれど軟弱でか弱い者へ与えるなど、人として、或いは生物として、如何なものでしょうか?

 お姉さまのその偉大なる暴力を前にしたら、「オウムの大行進」も、「フリーザ様」ですら赤子同然、家畜同然の無害な存在に成り下がるでしょう。そして僕などという陳家で人畜無害かつ矮小な存在に至っては、お姉さまと同じ空気を吸うだけで罪となり、死に値してしまうでしょう。

 そんな僕に、お姉さまはかかと落としという奥義をお与え下さったのですから、それはそれは光栄の至りでございます。あなた様の弟である僕は、まこと光栄であり、そして感謝の念を抱きつつ、今正に、生死の境を彷徨っております。ですから、デスので、できることならば、病院という延命処置を施してくださる機関への連絡をしていただけると、まことに申し訳なく思いながらも、あなたの愚かな弟、僕という存在は、大変うれしく思うのでございます。

 ああ、どうか、どうか僕という罪深き者へ、慈悲を、お姉さまのなけなしの慈悲をお与え下さいまし。

 フローリングへ顔をめり込ませながら僕は、神にでも、誰にでもなく、姉という絶対的君主さまへ、無言のまま懸命に祈っていた。今回は、漫画という緩衝材がない為、「頭への一撃、床からの衝撃」という二度に渡る破壊が僕へと齎されたのであった。


 数年後。

 僕はまた別の件で鼻を骨折し、病院で診察を受けた。

「あれ、以前にも君、鼻を骨折しているね。よくもまぁ、ここまで歪まずにいたものだ」と褒めているのか呆れているのか、そのどちらともとれるお声をお医者様から頂いた。

 頭蓋骨のみならず、全身という全身の骨格に、僕が感謝を抱いた瞬間であった。

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