【交錯ラウンド】

第55話

【交錯ラウンド】



 明かりが目に刺さる。白い壁に白い床、白い天井。それらが、天井全体から降り注ぐ人工的な灯りをさらに強調させている。

 眼に白いもわもわの残像が貼りつきそうで、眼に毒ではないだろうか、とふいに心配が過る。だがそんなことはない、と頭の中では理解している。ここの施設は、室内の明度でさえコンピュータで制御されており、このフロアに至っては、二十四時間ずっと、春の平均的な晴れた日の明るさとなっているからだ。しかし、理解してはいるが、不意に不安になりたがるのが人間という生物だ。

 こんな通路に身を置き、歩いていると、嘉山はつい振り返りたくなる。

 もしかしたら自分は進んでいないのではないか――そう思わせる程に通路は長く、差異のない造りだった。そして、等間隔で現れる左右への道、十字路だけが進んでいることを示す唯一の印である。しかしそれも数十メールトル進めば、合わせ鏡の前に立っているような感覚へと移ろいでしまう。

 この通路は奥行きへとかなり長く続いているが、幅は狭い。平均的な成人男性三人が肩を並べて歩むだけで、窮屈この上ない。一人減らし、二人が肩を並べて歩いていれば、対向者は立ち止まり、前から向かってくる二人が道を空けてくれるのを待つか、壁に張り付いてその二人が壁と織り成す僅かな隙間をすり抜けるか、を選ばなくてはならないくらいの通路の狭さだ。このフロアを俯瞰的に眺めれば丁度、碁盤の目のように見えるだろう。

 何かしらの催眠を催しそうな、この精神を逆撫でする通路に、二つの足音が反響していた。反響によって幾つかに分裂したその足音たちから、本体である自分の足音だけを意識して聞き取ろうと嘉山はしていた。

「――だからもっと厳罰にすべきなんですよ、国民への反面教師として必要な取締りですし、法律なんですから。それに、テロリスト達への見せしめは中途半端では逆効果なんです、そのことを上は認識していないんですよ。ただの死刑を行ったってダメなんだということを、俺たち現場の者が声を上げて訴えていかなければならないんです」

 並列して歩んでいる隣の気仙沼の声が邪魔をして、嘉山は先ほどから自身が放つ足音に中々聴覚が定まらなかった。

「嘉山さんもそう思いますよね?」気仙沼は顔を覗き込んだ。彼は嘉山よりも十センチ以上背が高い。というよりも、嘉山の背が御世辞にも高いとは言えないような身長なのである。しかし、顔が小さくスラっとしているせいもあり、大きさを対比する者が嘉山の周りに存在していなければ、嘉山の体格が小さく見えることはまずない。それに比べ、気仙沼は、この国の一般的な成人男性の平均身長だった。顔は実際の年齢よりも幼く見えるが、精悍な顔立ちで、一般的な評価として、器量が良いとされる容姿だろう。二人とも、見立ては若く見える。三十路は超えていないような風貌だ。

「おい、何度言わせる気だ、私を見下ろすんじゃない」嘉山は憤りを露わにする。

「いやいや、無理言わんで下さいよ」気仙沼は苦笑する。

「ああ、もう! こっち寄るな、歩きづらい」嘉山は肩を引いた。

「あ、もしかして、また俺の話聞いてなかったでしょ? 可愛い部下が熱心に語っているんですから、上司たる者は耳を傾ける義務がありますよ」

「おいおい、寝言を言うなよ、仕事中だぞ。一体どこにいるというのだ、可愛い部下というのは?」嘉山は淡々と口にする。

「うっわ酷いっすねその言い草」不服を申し立てながらも気仙沼の声は陽気だった。

「ここに存在しない可愛い部下の話を残念ながら私は聞くことができなかったようだ。だがな、使えない憎たらしい部下である貴様の陳腐な演説はちゃんと聞いていたよ、上司の義務として渋々だけれどね。煩わしいと感じていても、我慢して耳を欹てていた。これも上司としての義務だと自身に言い聞かせてだがね」

「あー酷いっすわ」若干、気仙沼の声から抑揚がなくなった。「あの、今日は随分と飛ばしますね、嘉山さん……俺の防壁、夜まで持つかなぁ」呟くように漏らす。

「そんなもの貴様の自尊心ごと崩れさればいい」

「だっ! い、今ので、俺のHPが百を……切りましたよ」わざとらしく気仙沼は声を上ずらせる。

「何だ? エイチピーって」

「HPです。イニシャルですよ」けろっと気仙沼は答える。

「だから何の?」

「ひ弱なポチ、です」

 はぁ?と嘉山は怪訝な表情をつくる。

「嘉山さんが俺にサディズムを全開にする度に、俺の純粋無垢な心を健気に守っている子犬達が死んで逝くのですよ、可哀相に。その子犬たち、『通称ポチ』たちの数が今は百匹いないんです」

 くだらねぇ、と呟くも嘉山の頬は緩んでいた。「百匹もいるなら十分だろ、そもそも元は何匹いたんだ?

 いや答えなくていい、知りたくはない。それよりもさっきお前が喚いていた陳腐な演説だけどな」視線だけ向けて、気仙沼の顔をチラリと見上げる。「言っていることはもっともだと思う。だが短絡的であることをお前は自覚して言っていたのか」嘉山は話題を最初に戻した。

 この問いがエスっ気の配合されている弄りなのか、真面目な訊問なのかを気仙沼は測り兼ねていた。

「えっとそれは……」彼が言いかけた時、「おっとここだ」と嘉山が二歩ほど通り過ぎた壁に存在する重層な扉へと、踵を返していた。そのまま丁寧に扉の取手を掴むと、しばらく指を密着させたままで嘉山は停止した。指紋の照合。その為である。

 目立つような形で、『これは人物スキャンの照合認識機器です』とあからさまに感知器が設置されるほど、どうやらここはセキュリティの甘くない施設のようだ。気仙沼も、扉の取手部位が指紋照合機器であることに気が付くまで、一か月近くの時間を要した。それまではずっと、「この施設には鍵がないのか、物騒だな」と勘違いしていたくらいだ。その間嘉山は、ここの施設に施されているセキュリティについての説明を一切、彼へしなかった。だが、それがこの政府機関施設内における規則でもあるようだ。いや、もしかしたら嘉山の性格上、このことを教えないことが、実は規則に反した行動なのかもしれない。そういった天の邪鬼な性格が、嘉山にはあった。そして、その傍若無人な振る舞いの許される地位に、嘉山は着いているのだ。

 そうだな、と嘉山が提案した。「そうだな、今日はお前が話せ、特別今回は私が外にいよう。百聞は一見に如かず、または、学びて思わざれば則ちくらし、とも言うしな。考えるにはまず、経験がなくてはいけない。お前の様な想像力のない奴は特にな」と嘉山は口元を吊るす。それから今度は眼光を鋭くし、ただ、と付け足すように続けた。「ただ、扉は開けておく、万が一という事態があるやもしれん。その時はお前の安否を優先する余裕はないからな、くれぐれも気を緩めるな」まだ扉の取手に指を触れさせたまま、嘉山は背伸びをして、扉に空いている覗き穴に目線を併せていた。実際にそれは覗き穴としての働きもあるが、そのことを利用した、網膜照合機器である。

「百聞は一見に如かず、なんてのは、説明するのが面倒臭い輩がよく口にする言葉ですよね」つま先立ちの嘉山の背へ呟く。それから、「あ、御手をお貸ししましょうか?それとも私目が跪き、踏み台となって差し上げましょうか」と気仙沼は清々しい声で厭味を言った。その声からは、嬉しさが滲み出ている。

「ほぉ。言うじゃないか。素直に部下の成長は嬉しいものだ」嘉山は嬉しさを微塵も感じさせない言葉を吐く。踵を地へ戻し、取手から手を離して、ゆっくりと振り返った。冷たい視線が気仙沼へ注がれる。

 まるで氷柱みたいだな、気仙沼は思った。冷たい氷柱に切られると、傷口は熱く感じる。冷たいのに熱いのだ。嘉山はそんな目付きをよく尋問の際にするのだが、間近で、しかも自分へ向けられるとは思ってもいなかっただけに、気仙沼の背筋がピンと伸びる。

 嘉山はその目付きから言葉を発するがごとく、言う。「が、そうだな、そろそろ貴様に土下座の練習をさせておいた方がいいかもしれない。そこへ跪き、千の言葉で謝罪をし、貴様のような屑が生きていられることの感謝と詫びを、世界中の生物へ向けて、万の言葉で表現しろ。それが終えるまでの期間、貴様には何一つ仕事を与えないことにしてやろう、私のこの寛容さに感謝しろ。まぁ、それでも今後二度と、お前に尋問なんて重要な仕事を任せるようなこと、私はきまぐれにも、思いつかんだろうがな」

「ちょっとそれは……」と気仙沼はたじろぐ。すぐに、「すみませんでした、やらせて下さい」頭を下げて気仙沼は素直に謝った。

 ふん、と嘉山は扉へ向き直し、覗き穴へ瞳を合わせた。もちろん背伸びをして。

 壁から鍵の外れたような鈍い効果音が鳴り、扉が僅かに開いた。擬音語を用いれば、ガチャンやガコンだ。しかし、音を言葉で表わすだけで実際の音よりも軽くなる。または陳腐になる。言葉にした瞬間、伝えたい情報のほとんどが欠落していることと似ているな、と気仙沼は頭を下げたまま、余計なことを考えていた。ちらり、と嘉山の様子を窺う。

 嘉山はすでに扉から数歩離れ、腕組みをして壁にもたれていた。気仙沼の視線に気が付くと、顎を振った。早く中へ入れ、ということらしい。

「言葉で言えよ、口もききたくはないってか」気仙沼は内心で朗らかに毒づくも「それでも俺に尋問を任せてくれるんだから、子どもなんだか寛容なんだかよく判らん人だ」と声には出さずに、横の嘉山へ一礼してから扉を引き、中の部屋へと踏み入れた。




 真っ白い部屋。ここが廊下の一部ではなく、個室であることを気仙沼は一瞬認識し直した。部屋の広さや内装は、思っていたほど悪くない、むしろ快適すぎるくらいだ。部屋の奥にベッドがあり、窓があり、壁伝いに視線を伝わらせていくと、洗面所とシャワールーム、更にトイレらしきスペースが、きちんと三つに区切られてあった。その対面の壁には、扉の開いたままの部屋が見え、この空間の他に部屋があることがわかる。キッチンこそないが、環境はすこぶる良さそうだった。一見すれば、広々とした1LDの部屋だ。

 ここに入れられ、監禁されることを果たして『拘束』と表して良いものだろうか。ああ、なるほど、「拘束ではない」と錯覚させる為のものかもしれない。何にせよ、やっとお目見えできた。

 もう一度、部屋全体を眺める。部屋の隅に人影があった。気仙沼は視線をそこへ向け、意識を集中させる。鉄格子のはまっている窓を見上げるようにして、女がベッドに腰掛けていた。部屋全体が白い明かりに包まれているおかげで、その女性の姿が、部屋に空いた穴のようにくっきりと人型を浮かび上がらせている。

 何と呼びかけたらいいだろうか。気仙沼は考えていた。テロリスト、罪人、死刑囚。どれで呼んでも女のことを言っていると通じるだろう。この部屋には自分とこの女しかいないのだから。迷っている暇はない。気仙沼は低い声で話し始めた。

「前回までの奴と変わってだな、今日は俺が話す。最初にハッキリさせておこうか。お前には黙秘権も、人権も最早認められていない。俺たちがどんな非道に見える行為をお前に行使したとしても、それは必要な正義であり、正義として許容される正当な行為だ。テメーがどんなに泣き叫び、悲痛に耐え切れず、死を懇願したとしても、俺たちは聞く耳を持たない、一切だ。重罪行為を犯すような秩序を乱すだけの猛獣相手に、我々節度ある社会人の言葉は不要だからな。だが、不必要な行為も俺たちはしたくない。勘違いするな、貴様の身を案じてのことではない、時間の無駄だから、ただそれだけだ。テメーへの配慮など、これっぽっちも持ち合わせてはいない。この平凡な会話が、唯一の例外と言ってもいい。お前に残された最後の希望、それが今耳にしている俺のこの言葉だということを理解し、感謝しろ。その上で、知っていることを全て言え。テメーが最後にした糞の色まで全てだ」

 女はこちらを見向きもせず、ただ黙って窓の外を見上げていた。その窓の向こうには空が見えている。がしかし、実はそれも人工的な空だった。この施設のある場所は地下なのである。理想的な青空、自由に漂う雲、神秘的な星空。それらを見せることで、外には素敵な自由がある、と錯覚させる為の趣向である、と以前から気仙沼はそう考察した。彼らのプライベートルームにも、同様の窓が施されている。実際どうして、独房として活用されているこの部屋にも、このような装飾と言いっていい無駄な仕掛けが施されているのかは、定かではないが、多分自分の考えが正しいだろう、と気仙沼は思った。

「てっとり早く、隠していることを言えば、司法取引として上に掛け合ってやる。そんなことをせずとも、強制的に吐かせることはできるのに、だ。俺は素直で聞き分けのいい奴には優しいからな。しかし、先ほども言ったように、我々は無駄な時間と労力を使いたくはない。特に俺は、だ」女はこちらを向かない。気仙沼は彼女に歩み寄った。

「こっちを向け、橋本ヒチカ」気仙沼は更に声を低くして、静かに言う。

 橋本ヒチカと呼ばれた女性は、小さく肩を弾ませた。女は上げていた顎を下げ、ゆっくりと振り向く。

 気仙沼は女を見下ろす。彼女の瞳の奥を見据え、続ける。「真意を言えば、酌量の余地は無い。テメーは極刑だ。死刑は免れない」

 ヒチカは目を見開いた。何かを言おうとしていたが、それを遮るように気仙沼が続ける。

「お前がどんな正義を掲げ、どんな思想の元で罪を犯したなんてことは関係ない。法律がなぜ必要なのか、なぜ守らなくてはならないのか、そんなことを説教するつもりもない。貴様が犯した罪がどんなに重く、社会の秩序を乱し、他人を不幸にしているかなんてことを呵責しようなんてつもりも毛頭無い。貴様は死ぬ。それも即刻と言っていい。そんな死者同然の貴様に死刑までの猶予も罪の償いも必要ない」あ、そうだろ?と、気仙沼は視線をヒチカへと向けたまま淡々と話す。声に抑揚はない。まるで催眠術をかけているようでもある。

 ヒチカは涙を流していた。顔色が変わらないように我慢していたようだが、顔は引きつり、眼孔は揺れ、彼女の動揺の大きさを気仙沼に伝わらせるには十分なものだった。気仙沼の話し方には、有無を言わせない不思議な迫力があった。安定しているようで、どこか精神を波立たせられる。そんな話し方だ。この真っ白な部屋の効果で、更にその迫力が強調されているようにも感じる。扉の前で遠巻きに様子を窺いながら嘉山はそう分析していた。

「だが、ただテメーを死なせるわけでもない。我々は情報が欲しい。そのために我々は手段を選ばない。この意味はわかるな? 貴様らなら喋らない相手に喋らす方法くらい知っているだろう。それも死ぬことが決まっている相手なんだ、死刑と同時進行だっていいくらいだ。まぁ楽に死にたければ、今の内に隠していることや、忘れていること、思い出したことを整理して話しやすいようにしとくんだな。そうすれば地獄を見るのはあの世だけで済む」ここまで言うと、今度は口調を崩して気仙沼は続けた。「安楽死の用意だってしてやってんだ。今日は俺の親切心ってところだ、助言として受け取ってくれ。明日が旅立ちの日になるかもしれない、準備は怠るなよ、ってな。最後くらいだ、善行をして地獄に落ちろや。もしかしたら閻魔様や神の野郎がそれを見ててくれたりしてよ、天国へいけるかもだし。いや、最初にも言ったが、テメーが手っ取り早くテメーの組織について話してくれさえすれば、俺は司法取引として、テメーの保護を上に要請したっていいんだ。だんまり決め込んで、この後悲鳴しか出せなくなるか、腹にため込んだものを自分から全てぶちまけて、自由になるか、どっちがテメーにとって良き選択か、今日一日考えろ。猶予は今日一日だけの一度きりだ。あとは貴様に与えられる選択の機会も、自由もない。明日の朝、また俺は来る。それまでよく、考えておくんだな」気仙沼は意識的に、口元を吊るした。その表情が彼女にどう映ったのかは、解らない。彼女が、未だに口を開かずに、感情を読み取られまいと、硬直しているからだ。彼の話に抗議をするわけでもなく、絶望し、泣き喚くわけでもなく、むしろ今までに無いくらに、強く口を噤んでいた。その唇の奥では噛み締めているのかもしれないが、それは外からでは判別できないことである。

 気仙沼はその様子を二十秒ほどじっと見つめ、ぶら下がっている手で頭を掻くと、一度後ろを振り返り、嘉山へと視線を向けた。嘉山は両腕を組んで、こちらを睨んでいるようだった。だがもともと嘉山の目つきは鋭い。万に一つも有り得ないが、嘉山が微笑んでいたとしても、この距離から見たのでは、睨んでいるように見えることだろう。

 気仙沼は肩を竦めると、もう一度橋本ヒチカへと顔を向け、顎を上げて見下ろした。彼女はもう、睨んでいはいなかった。涙を流している。そう、ただの健気な少女にすら見えた。実際は二十四過ぎの成人にも拘らず。その様子に表情一つ変えず気仙沼は、最初に彼女が眺めていた窓を一瞥し、部屋を後にした。嘉山の立つ扉の前まで来るまでに、気仙沼の足音だけが、小さく、けれど、煩いくらいに部屋へ響いていた。人工的な空に、雲がかかった。


「あれでアレが喋るのか?」

 橋本ヒチカが拘禁されていた部屋から、来る時とは間逆に、同じ廊下を嘉山と気仙沼は歩いていた。しかし、もし違う道を歩いていたとしても、その風景はまったく区別がつかないだろう。

「さぁどうでしょうね。別に拷問でもなんでもやって吐かせればいいんじゃないですか?」気仙沼が上着の内ポケットからガムを取り出し、嘉山へ差し出す。

「いい加減だな。しかし、本当に何も知らないかもしれない」右手で宙を掃い、嘉山は拒否の意を表した。

 気仙沼はガムを口に入れる。「いいんれすよ、そんときゃ、そん時です。どうせアイツは死刑なんですから、死ぬギリギリまで痛めつけてやればいいじゃないですか」

「本気で言っているのか、冗談にしても笑えない」

「はい本気です」気仙沼はにっこりと微笑み、噛んでいたガムで風船を膨らます。

「さっきの話じゃ、素直に話せば司法取引にしてもいいと言っていただろう。嘘をついたのか?」

 気仙沼は多少意外だった。嘉山が珍しく執拗に純粋な質問をしてくる。今まで、嘉山の仕事ぶりを側で観ていた限り、嘉山の行動や指示には、情けや甘さなどといった、人間としての弱さが微塵も配分されていなかった。仕事となれば一転して、冷静であり、冷徹であり、論理的であり、一切の感情を切り離して思考する功利主義だった、と気仙沼は嘉山を分析し、評価していた。少なからず、自分が行った尋問は、嘉山さんから叱咤されるような内容ではない、と考えていたからだ。

 気仙沼は肩を無意味に上げ、ひょうきんに振舞って見せた後、やだなぁ、と冗談でも言うかのように口にした。「やだなぁ嘉山さん、嘘なんかついていませんよ。『司法取引として上に掛け合う』、って言っただけですもん、俺。『話せば司法取引として扱う』なんて誰も言ってやいませんよ」膨らんだガムが割れて、顔に引っ付いた。そのガムを、気仙沼は手で取り、もう一度口へ入れた。

「だがあの娘は、正直に話せば助かるかもしれないと、そう思っただろう。もし知っていることを全て話したとしても、拷問が行なわれたら、それは酷い話だ」

「いいじゃないですか。それがあいつの罰であり、償いにもなるんです。それに、俺は楽しみでもあるんですよ、理不尽な拷問を受けたとき、アイツがどんな表情をするのかなって」彼は話しながら、噛んでいたガムを口の中で丸めてから取り出し、紙へ包んだ。嘉山からは見られないように、それを壁に擦りつける様にして、貼り付ける。ポイ捨てならぬ、貼り捨てである。誤魔化すように、話を続けた。「なんて言うでしょうかね、『騙したな』とかベタなセリフとか吐いちゃうんでしょうか? 自分達のしてきたことを棚に上げて、『理不尽だ』、『非人道的だ』などと声を荒げちゃったりするんでしょうか」試しに気仙沼は言ってみた。嘉山の反応が見たかったからだ。

「おい」嘉山は歩むのを止め、顔を凄める。ガムのことを言っているのではないようだ。嘉山の視線が自分を貫くように見据えていることで、それは十分に判別が付いた。

「どうしたんです、そんなに怖い顔して。嘉山さん、せっかく美人なんですからもっと笑ったほうがいいですよ?」気仙沼はあっけかんと言う。

「ふざけるな」嘉山は声を張り上げた。

「俺はいつだって本気の大真面目ですよ。ふざけているように見えましたか?なら真面目に見えるように話しますが、嘉山さん、あなたのほうがこの仕事をなめていませんか?」

「なんだと」嘉山は身体ごと向き直し、気仙沼へ更に鋭くした視線を送る。

「この仕事は警察でも検察でもないんです。国家の繁栄と秩序を脅かす存在の排斥や排除、つまりは、それらからの防衛です。俺たちは如何様なモノからでも国家を守らねばならないんです。その排除の対象が、屈強な兵士や残忍なテロリスト、強大な軍事力を持った国だったとしても、或いは、どんなに幼気な子どもであっても、か弱い命ある動物だったとしても、です。それはとても後ろめたくもあり、できれば避けたいことです。ですが、この仕事を選んだ時点で俺たちはどんなことをしてでも国家の存続を優先することを己に誓い、それが大切な守りたい人々の幸せに繋がるのだと言い聞かせ、信じ、その重圧を背負い続けなくてはならないことを覚悟したのではないのですか?」

「……ああ、そうだ」

「なら、別にあの女に対して情けをかける必要はない、と俺は思います。むしろ、情けなどかけてはならないと、そう考えます。我々がすべきことは、橋本ヒチカという罪人を物として扱い、最大限に活用し、多くの国民の平和に繋げることです」

「――確かに、その通りだ。だが、それでも我々が成すことは本来あってはいけないことではないのか。誰かの自由を奪い、その命を奪う。それがこの国の平和に必要なことだとしても、私はあってはいけないと信じている。しかしこれは、国家の安全に命をかける政府の人間としてではなく、一国民としての個人的な思想であって、お前に強要するつもりはない。そのことは勘違いするな。けれど、お前が言ったように、我々のしていることは、大切な者や大切なことが並んだ時に、どちらを優先し選択するか、それだけに過ぎない。なら、どちらの幸せも願えるのなら、私はそうしたい。我々はこの国の平和だけを願っているわけではない、人類全ての平和が願いであり、それこそが目指すべき目的なのだから。だからこそ私は、我々がしてきたことが本当の正義だとは思っていないし、私がしてきたことも罪だと思っている。これからしていくだろう行為も全て含め、そう思っている。そう思わなくては、人間としての尊厳など、あっという間に失われていくだけだと知っているからだ。我々の行う許されざる行為の中で、避けられる行為があるのなら、極力避けるべきだと、私は考えている」嘉山は声が波立たないように、意識して静かに話した。けれど、その言葉には、熱い思いがくみ取れる。

「で、今回はどうですか? 避けるべき行為ですか? その結果、一切の情報が手に入らずに、この先そのせいで多くの国民が犠牲になるのだとしてでもですか? 我々に迫られている選択はいつだって国家という多くの命か、個人という一つの命です。選択の余地などはありません。我々が選ぶべき道など、はなから決まっているのです、そうではありませんか?」気仙沼は諭すように言う。嘉山の瞳を見据えたまま、「国を守る。その為に我々は国民の代わりに自らの手を血で汚し、良心に反するような残虐な行為を、最善を尽くして行う。ここの組織にいるのは、そういった覚悟を持っている者だけのはずです。嘉山さん、あなたは違うのですか」気仙沼は語調を強め、早口で言い切った。

 嘉山は顔を背け、遠くを眺める様に視線を宙に漂わせた。「……わからない」今度は気仙沼に背まで向けて。

「どうしたんです、嘉山さんらしくないですよ」

「いや、すまない。気仙沼、お前の言っていることが正しいな、私がどうかしていた。そろそろ、私も歳かな」

「何言ってんですか、まだ二十代じゃないですか。もう、脅かさないでくださいよ、史上最年少、しかも女性で幹部確定されているあの嘉山少佐ともあろうお方が、国家安全保障委員会の意向に反するような言動を発するなんて。もしかして、俺を試したんですか?」

「いや、そうじゃない。きっとお前に嫉妬したんだ」嘉山は再び歩みだした。

 それを追いながら「え、何がです?」と気仙沼は彼女の背中へと言葉をかける。

「尋問の仕方に、だよ」

「この二ヶ月間に見てきた嘉山さんの真似をしただけですよ」嘉山に追いつくと、気仙沼は横に並んで歩んだ。

「そういういらないホォローはムカつくだけだ、褒めてんだから素直に礼を言っとけよ」

「そうですね、ありがとうございます」気仙沼は頭を下げた。

「つくづく嫌味な野郎だな」

「いや、そういう意味じゃないですよ、心からの敬意をですね……」

「もういい、腹が立ったら腹が減った。早く戻るぞ」嘉山は歩調を早めた。

「あ、ちょっ、もう大人げないですって嘉山さん」

 真っ白な廊下に反響する足早な足音は、分裂と拡散と消滅を繰り返し、靴と床が奏でる本体である足音を、巧みに隠していた。



 食堂は地上一階にある。この施設は一見気象情報局のようだが、実際は国家的な反逆者や犯罪者を拘束し、裁判などの政治的処置の一切を省いて、即座に死刑執行を施す場所である。死刑自体が、非人道的な行為であることは、議論の余地がないが、その際に、世論全てを敵に回すような、更なる非人道的な処置が施されていることが、この施設が極秘にされている大きな要因の一つだろう。

 人込みの中で飯を食うのは、大勢の前で排便している行為に近い、という理由から嘉山はこの食堂では食事を摂らない。なので、嘉山と別れてから気仙沼は一人でこの食堂へやってきた。人込みと言うほど人はいないし、そもそも嘉山の言い分であれば、人込みでなくとも食事は一人で摂ることになるだろう。例えば結婚し、配偶者ができたとして、その者とも一切の食事を共に過ごさないという事態になる。本当にそうするつもりだろうか?それとも、家族という極めて身近になった者とは食事を共にするのだろうか。ということは、嘉山さんは、結婚相手や子どもには、自分の排出行為を見られてもいいということになるな、と気仙沼は嘉山のその光景を思い浮かべようとした自分を急いで戒めた。危なくとんでもない想像を浮かべるところだった、と一人で冷や汗をかいた。そもそも嘉山さんが結婚などという俗的な風習に関心を示すわけがない、という当初の問題提起からかけ離れた結論で、非生産定期な思考に結びをつけた。

 人気の少ない端の席を選んで、気仙沼は食べ始めた。

「おめぇん所はいいよなぁ。屋内で」気仙沼が席に着くのを見計らっていたかのようなタイミングで、瀬場が対面の席へ座った。瀬場のお盆には、季節外れのざるそばが乗っている。瀬場は更に、「上司、美人だしよう」と付け足した。彼は気仙沼とは所属部署の違う構成員だった。専門は主に、外での情報収集及び、情報操作。情報とはつまり、人である。解りやすく言い表せば、反政府組織に所属している者の拉致である。その他に、この施設内に配置されている部署には、反政府組織の壊滅実行部隊など、公には公表されない組織が多数含まれている。

「半年間外に出られないことに、耐えられるなら、交換してやるよ」気仙沼はいつものようにカツ丼を食していた。

「無理言うなよ、んなことできるわけねぇ」瀬場は割り箸を勢いよく割る。「今夜は一昨日引っかけたコレとディナーなのよ」小指を立て、下品に振る。時代錯誤な表現だ。

「良かったな」

「何歳だと思う?」

「ん~確か二十八だっけか瀬場?」

「いや、オレじゃなくて、オレのコレがだよ」また小指をクネクネと振る。試行錯誤を知らない奴だ。身振りにバリエーションがない。バリエーションがあったとしても、煩わしいだけであるが。

 お前の女じゃないだろ、と気仙沼は思うが口にはしない。「ああ。そうだなぁ、わからん、何歳?」

「聞いてヨダレ垂らすなよ~?なんと、まだ、女子高生」嬉しそうな顔を近づけて、瀬場は答える。

「良し分かった。連絡しとくよ。俺に言うってことは、そういうことだろ?」

「は、どこへ?」

「警察」

「馬鹿言うなよ」

「馬鹿はどっちだ。不純異性行為及び、未成年保護法違反だぞ? つまるところ淫行だな」

「知ってるよそんくらい。ちなみにだな、両手をそろえて頂きます、を言うときは更にお互いドラッグも飲んでる予定だから、違法薬物所持&乱用もプラスだ」瀬場は笑いながら箸先を気仙沼に向ける。そばつゆの滴が飛んだ。続けて、「おめぇは残念だな、外に出られなくて」と瀬場は言った。

「別に止めはしないさ。お前が外で何をしようと、俺には関係がないからね。でも、そのことを俺に二度と言うな。俺がロリコンなことをお前も知っているだろうが」

「知ってる。だから言った」瀬場は口元を吊るしたが、すぐにまた閉めて「悔しいだろ、羨ましいだろ?でもな、それくらいおめぇがオレは羨ましいの!」と叫んだ。

 丼ぶりに残った最後のカツと米を口に押し込め、「なんで?」と気仙沼は聞く。

「だぁか~ら、嘉山少佐だよ。あんな美人と仕事中ずっと一緒なわけだろ?こん贅沢はないだろう?」

 いや、あるだろ。沢山すぎるほど。「ずっとではないし、とても手は出せん。確かに体系はロリっぽいが、性格はまるで姐御だよ。というかだな、あの人はドSだ」気仙沼は少し考えてから、「むしろ、嘉山さんを女性として扱うこと自体が間違っている」と指摘とも忠告とも言える発言をする。

 そうだった、と気仙沼は以前、嘉山と交わした会話を思い出す。まだ嘉山の下に配属されたばかりの頃だ。

「こんなエグイ仕事を淡々とこなせるなんて凄いですね、嘉山さんは。しかも男どもに差をつける様に順当に昇級までしてるときてます。女性なのに半端ないです」と喧嘩を売っているのか賞賛しているのか、はたまた冗談で言っているのかの区別のつかない言葉を投げ掛けたことがあった。その時嘉山は、珍しく朗らかに「それは性差別だ」と指摘した。それから付け足すように「そして順当ではない、妥当な昇級だ」とも言った。けれどすぐに「しかし、確かに女性というジェンダーの違いだけで能力を不当に評価されていることも事実だ」と気仙沼の発言を肯定するような口ぶりで話し出した。「それと共に、身体的な区別として、配慮されるべき点もある。難しい問題だな。区別と差別は紙一重でもあるしな。する方の意思が区別でも、される方の意思がそれを差別だと感じてしまえば、それは差別になってしまう傾向が強い。受け取り方の違いだけで、区別が差別に変わってしまうんだ。もちろん差別が区別として受け取られる、という逆の場合もあり得るが。それは歴史に刻まれた差別の傷跡が未だ治癒していないことから生まれる過剰反応と言うべき問題かもしれない。だから私はいっその事、女性であることを権利として主張することを止めた。私は男と同等に扱われることを望んだんだよ。それが私にとっての平等だったからだ」嘉山は煙草に火をつけた。一息でしこたま煙草を吸い、大きな溜息のように煙を吐くと、砕けた口調で「というのは建前で、単に面倒くさかっただけかもな」と口元を吊るした。

 男らしいな、気仙沼は素直にそう思った。

 まだ三か月前のことなのに、すでに遠い記憶のような懐かしい気分に浸っていると、「それがいいんじゃねぇか」と瀬場の言葉が五月蠅く聞こえてきた。そうだった、今はこいつと話していたのだ、と気仙沼は現実へ帰ってくる。数秒のフライトだったな。気仙沼は小さく微笑んだ。

「それがいいんじゃねぇか、強気な女は最高だ。第一、その手が出せないもどかしさ、お預け状態。典型的な放置プレーだな。ロリコンでドMのおめぇには正に鬼に金棒だよ」

「いつから俺はドMになったんだよ」気仙沼は飄々と答える。

「オレが知るかよ。ただな、あの少佐様と三カ月もコンビ組んでいられるなんて、よっぽどのドMか、よっぽど不幸な人生を歩んできた鈍くて寛容な人間じゃなきゃ無理だ。そして、ここにはそんな不幸な人間は入れない。エリート中のエリート、選りすぐりの人材だけだからな」

「俺の知っている限り、エリートは自分でエリートだなんて言わないし、法律は守る」

「オレの知っている限りじゃ、エリートってのは自分の身の程を知っているやつさ。そしてオレは自分がどの程度の法なら破っても、問題にならないかを知っている。正に、エリートだ」

「そうだな瀬場、お前はエリート中のエリートだ」馬鹿と変態のな。気仙沼は箸を両手で挟んで、ごちそうさまと小さくお辞儀した。

「おめぇがドMじゃないとしたなら、忠告しとかなきゃだな。放置プレー好きなドMは我慢できるが、そうじゃない奴はあの少佐様に手を出さないわけがない。ホモであってもだ」

 むしろそのホモの方が、男気溢れる嘉山さんに惚れる可能性が高い。「で、忠告って?なに?」空になった丼ぶりの乗った盆を持ち、気仙沼は立ち上がる。

 なんだ、もう食い終わったのか、と瀬場はようやく三口目のざるそばをすすって、「今まで嘉山少佐に無理やり手を出そうとした奴は、皆階級が上がってるんだってよ」とまた箸先を向ける。またそばつゆが飛ぶが、立ち上がっている気仙沼は一歩下がって、それを避けた。避けつつも、「いいことじゃないか」と答えた。そばつゆについての苦言は一言も物申さない。瀬場は嫌悪な反応を見せると付け上がる人種だ、と気仙沼が彼をそう分類しているからだ。

「昇級するってことだろ? だったら嘉山さんが女性的な魅力を兼ね備えてなくとも、手を出したい奴は腐るほどいると思うが」

「だが、問題もあるんだ。昇級後には必ず除隊するんだよ、階級が上がったやつらはな。いや、正確には、除隊した後に階級が上がるのか」

「除隊? そんな規約はなかったはずだ」

「いやだから、殉職するってことだよ」頭悪いなぁ、と瀬場は毒づいた。

「嘉山さんに殺されるってことか?」まさか。

「さぁな。偶然かもしれない。ただ、嘉山少佐と三カ月以上組んでいるのは、おめぇだけなのは、確かだよ」

 へぇ、と曖昧な相槌だけ返し、気仙沼はその場を後にした。

「階級が欲しいからって、手は出すなよ」後ろから瀬場の酔っ払っているかのような声が纏わりついてきた。

 それを振り払うかのように、気仙沼は深い溜息を吐く。

「何も知らねーくせに」、そう言い放ちたくなった欲動を、溜息に溶かして。




 午前中の内に、橋本ヒチカとの接見を終え、その後、報告も兼ねて明日施す処置についての会議を気仙沼は、嘉山と上層部の役員二人の計四人で行った。会議は十分もかからずに終わった。橋本ヒチカへ施す処置についての具体的な時刻・処置時間・目的・効果などを、気仙沼と嘉山が予め話し合って計画をまとめていたからだ。

 先にその計画を役員へ進言し、その後、役員二人からの指示を仰いだ。役員二人は概ね嘉山たちの計画を支持し、「自殺防止は完璧であるのか」・「死刑も兼ねるのか」という二点と、「情報は必ず引き出せ」という至極当たり前な前提だけを、執拗に嘉山へと念を押すように確認してきた。

 嘉山はそのことに関して、『当分はまだ殺すことはしない』という方針と、『早急に拘束具を用いて自由を奪い、自殺の危険を回避する』という対処の意向を伝えると、役員二人は揃って「くれぐれも期待を裏切るような結果だけにはしてくれるなよ」と何の意味も成さない言葉を吐き捨て、会議室から出て行った。


「あいつらはただの伝書鳩だ。メールの方がよっぽど役に立つのに」嘉山は扉が閉まるなり、つい先ほどまで一緒だった重役二人の愚痴を吐いた。

 彼女が影で人を揶揄するなんて珍しいな、と気仙沼は違和感を覚えた。「でも実質的には嘉山さんの上司に当たる方たちですよね、あの二人」若干の遊び心で、探りを入れる。

「まぁ、そうなるな。だが私が認めている上司はたった一人だ」

「嘉山さんが認める人間なんてのが、この世にいるんですか?」気仙沼はからかうように目を見開いて見せた。

 そんな彼の悪戯な物言いに「いや、そんな者はいない」と彼女は冷静に返す。

「言ってることが滅茶苦茶じゃないですか」机の上の資料を片付けながら、気仙沼は指摘した。

「上司の内で、という限定条件を含めたニュアンスで言ってあっただろ?私は昆虫が嫌いだが、昆虫の中で好きなものを選択するならば、蜘蛛だと答える。それと同じことだ」

「蜘蛛は昆虫ではありませんよ」思わず噴き出す。が、嘉山に睨まれ、即座にかしこまる。「で、その嘉山さんから選らばれた幸運な上司様とは誰なんです?」

「さっきの役員は我々現場の者と、上の者との橋渡しに過ぎない。それはさっき言ったな?」

「ああ、伝書鳩っていう喩えはそういうことですか」

「そうだ。その伝書鳩の飼い主に当たる方がいる。ここの機関を実質的に統括されておられる方だ。私は年に三回しか会える機会がないのだが、下の者の意思を汲み取ってくれる、とても使える上司だ」

「使えるって……言葉が悪いですよ」でも、嘉山さんが『されておられる』、なんて尊敬語を用いて表すくらいの人物なのだからよっぽどの人物なのだな、とその人物が高い能力指数を兼ね備えていることと、その人物に対する彼女の敬意の強さは十分に伝わった。

「なんて方です?」

「佐伯十碌」嘉山はそう答えてから、迷ったように間を開け、「さん」と付け足した。「重役たちには階級がないからな」恥ずかしそうに呟いた。

 ああ、なるほどな。そういうことか、と気仙沼は納得した。

 この施設内を統括する組織には、階級が存在する。下は複雑に細分化されてはいるが、上に立つ者の階級は、大まかに説明すれば、下から、「少佐」「中佐」「大佐」、その上に『准将・少将』に当たる「情報管理官」、『中将・大将』に当たる「統合副管理官」、そして『元帥』に当たる「総合監理官」がいる。「総合監理官」はこの施設組織において、全ての責任者である。ここまでは、実際に任務を受け行動する者たち、いわゆる「現場の者」たちに与えられる階級であり、更にその上には「上層部」と呼ばれる施設組織の動向を把握し、方針を立てる者たち、「幹部」が存在する。政府の「表の上層部」が、政治家だとすれば、「裏の上層部」が幹部である。嘉山の言う、「佐伯十碌」という者も、この幹部に属する重役である。

 嘉山は少佐ながらに、この幹部候補として名が挙がっている。飛び級という制度はないが、中佐になれば、幹部の者の部下として引き抜かれることがある。つまり嘉山は、既に、幹部から声を掛けられているということなのだろう。そうなれば事実上、幹部確定である。あとは中佐へ昇級するだけであるが、それも時間の問題だろう。

「お待たせしました」会議室の後片付けを終えた気仙沼が、会議室の扉を開けて支え、どうぞ、と退室を促した。嘉山は扉をくぐり、廊下へ出た。自分も部屋を後にし、扉の鍵を閉めながら、「若いんですか、その方は」と彼女の背中へ投げ掛けた。

「いや、ご高齢でおられる。が、ここにいる職員の誰よりも思慮深い。どんな分野の知識にも特化されている。たぶん、現場にいる私なんかよりも、よっぽど現場のことを熟知しているだろう。間近で観察してみても、私ですら佐伯さんが何を考えているのかをトレースできないくらいだ」

「なんか俺、嫉妬しちゃうなー」小さく、けれどぎりぎり届く程度で呟く。

 聞こえていたのか、いないのか。嘉山はそのまま廊下を突き進んでいった。指示を受けたわけではないが、ここで解散しろ、と彼女の背中で揺れる黒髪が忠告してくれているように思え、今日はここで別れることにした。予定では、この会議で今日の仕事は終わりのはず。

 気仙沼はその場に佇み、廊下の角に嘉山の姿が消えるまで見送った。お世辞にも背が高いとは言えない彼女の背中が、とても大きく見えた。普段彼女の横に並んで歩いていても、身体の小ささは気にならない。頭が小さく、スモールライトで長身のモデルをそのまま小さくさせたような容姿だからだ。それと共に、彼女の威圧的なオーラが、見た目よりも彼女の存在を大きく見せているのだろう。こちらの方が、嘉山を見た目以上に大きく見せている要因だ、と気仙沼は考えていた。

 気仙沼にとって嘉山という存在は、間違いなく尊敬できる人間の一人だった。もちろんか彼の場合は、『上司の中で』という限定条件はない。そのことが、彼の心を掻き乱し、複雑な気持ちにさせていた。





「もう会議は終わりましたか?使用してもよろしいかしら」

 気仙沼は後ろから声をかけられた。身体が跳ねるほど驚いた。振り返ると、すらっとした長身の女性が立っていた。

 気配が全くしなかった。何よりも、今の今まで、上司である嘉山の後ろ姿をじっと見詰めていたわけだから、その光景を見られて異様に思われているかもしれない。別段特殊な意味合いがあったわけではなかった(はずだ)が、嘉山は女性である。特別な想いで見詰めていたように見えたことだろう。客観的に先ほどの自分を想像して、恥ずかしくなった。顔が熱くなる。だが、顔が赤らむ理由はそれだけではない。目の前の女性はとても凛々しく、整った顔立ちをしていた。嘉山さんが気まぐれで負けん気の強い子猫なら、この女性は黒豹だろうな、と連想した結果かもしれない。嘉山と同じ位深い黒色の髪が印象的だった。けれど嘉山が髪を後ろに束ねているのに比べ、彼女は束ねずに、長い髪をしなやかに肩へ下ろしていた。その艶やかさはエナメルのようだ。

 思考がごった返していたのはほんの二秒程度の間であったが、黒豹的な女性は待ちきれないように、「あの、失礼ですがもしかして……嘉山少佐の部下で、気仙沼氏でおられますか?」とさらに問いを投げかけてきた。その口調から、とても知的な印象を受けた。

「ええ、はい、そうです」ようやく気仙沼は声を出す。いつもよりも真面目に。「えっとですね、この会議室は今さっき使用し終わったところです。一応十五時まで使用要請を出していましたが、ええ、どうぞ使ってもらって結構ですよ」

 気仙沼は丁寧に答えると、彼女は表情をぱっと明るくし、「やっぱり気仙沼くんかぁー」と大っぴらな口調で話しかけてきた。今の一瞬で彼女に何が起こったのだろうか、と気仙沼は目を丸くした。せっかく構築されていた彼女への印象が一気に崩れ去った。

「じゃ、さっきキミの見詰めた先にいたちっさい姿はやっぱりミズキだったんだ」もはや彼女の口調のどこにも黒豹の面影はない。黒豹の着グルミを被った犬だ。品種はコーリーに違いない。

 ミズキという名前に馴染みはなかった。半ば反射的に気仙沼は脳内検索を実行する。それが表情に出ていたらしく、「あ、ミズキってもちろん嘉山少佐のことね。下の名前知ってるよね? あの子、嘉山水季って言うの。ウォーター・シーズンって書いて、水季。まさか知らなかったってことはないよね」と彼女は揶揄するように声を発する。

「い、いえ嘉山さんのフルネームを聞くのは今が初めてです」忘れていたわけではない。多分そうだ。初めて嘉山さんと顔合わせした時の自己紹介で彼女は、「私がお前らの上司に当たる嘉山だ。使えない奴は即効飛ばす、そのつもりで動け」と俺たち部下を威圧しただけだった。一緒に派遣された俺の同期の者は、嘉山さんの言葉通りすぐに飛ばされ、今残っている嘉山さんの直属の部下は俺だけだった。

「かねがね話は聞いてるよぉ~。ミズキがよくキミのことでボヤくんだよね」勝手に話を続けていく彼女。

「あのう、ウチの上司とは一体どのようなご関係で、」と落ち着いて話をしようとするも、「なるほどなるほどねぇー。聞いていたよりはいい男じゃないかキミ」とすぐに話の腰を折られる。

 第一印象からは信じられないほど、今の彼女からは幼い印象を受ける。見た目は知的で大人な女性なのに、素を出すと、こうも印象が崩れるものなのか。最初に見た職業モードの彼女はきちんと口調も知的に配慮されていたのに、もったいない。いや、自分も他人のことは言えないな、と気仙沼は彼女と論理的に話すことを既に諦めていた。

「あの、話の腰を折って本当にすみませんが、せめてお名前と所属部署をお聞かせください」それさえ聞ければ、嘉山さんの方に彼女との関係を尋ねることができる。その方が断然効率がよさそうだ。

「ああ、ごめんよ、そっか初対面だったもんね。あたしはミズキからキミのことを良く聞いていたから、親近感が沸いててさ。でもキミってば、全然物怖じしないんだね。ミズキと上手くやっていけてるわけだね。ほら、あたしって仕事モードと普段が違いすぎるみたいでさ、最初に仕事モードのあたしを見ちゃうと、素のあたしを見た時、必ずみんな戸惑うんだよね。でも、キミは変わらないねぇ。うんうん、気にいったよ」

 いやいや、十分戸惑っていますよ。そもそも皆さんが戸惑う理由は、見た目と素のギャップですし、それでなくとも、素のキャラが強烈すぎます。やっぱり相当ずれているな、この人。そしていつになったら名前を教えていただけるのだろうか、と気仙沼は不安になってきた。

 彼女に声を掛けられてから、かれこれ十分ほどがすでに経過している。その間に得た情報といえば、彼女と嘉山さんが昔ながらの知り合いで、プライベートで合うほど親しいということと、嘉山さんが仕事以外の時間に、俺の話をしていることがあるということ、そして、嘉山さんのフルネームだけである。嘉山さんのことばかりではないか。だが、自分の知らない上司の姿を垣間見た気がして、それ自体は、悪い気はしない。しかし、脈絡のない話を続けられるほど、気仙沼は今、余裕のある状態ではない。明日には重要な任務を遂行しなければならず、その為の準備があるからだ。

 ここは地下のあの監獄階層とは違い、床は大理石の様な青みがかった濁った白色で、壁はざらざらとしていそうな灰色だった。相変わらず長い廊下には、装飾的な観葉植物が不規則に配置されており、壁にはライトアップされた絵画や、棚のように空いた窪みに骨董的な壺が飾られ、芸術的に活けられた花がその壺から盛大にはみ出していた。それらがいつ誰の手によって管理されているのかは、今のところ気仙沼は視覚的に確認してはいない。つまりは、手入れがされている瞬間を、気仙沼は見たことがなかった。

「もしかして、作り物の植物なのだろうか」気仙沼は彼女の話へ相槌を入れながら、そんなことを考えていた。確認するように、近くに置かれていた背の高いワカメの様な植物に手を伸ばす。ひんやりとした、けれど生気のある感触だった。本物の植物である、と判断した。なら、この花たちを活けている者が、この施設内にいるのだろうか、そんな業務員を雇うほど、ここの施設のセキュリティは甘いものなのか?と、気仙沼は目の前の彼女からどんどん離れる様に、思考を巡らす。

「沼ちんさー」彼女の声のトーンが低くなり、真剣な雰囲気へ変わったことに気が付き、気仙沼ははっとして、宙を漂っていた視線を、再び彼女に合わせた。彼女は気仙沼の瞳を見据えていた。「ミズキのこと裏切らないで上げてね」彼女は切実な口調で言葉を発した。更に続けて、「絶対に」と念を押した。

 沼ちん?一体誰のことだろうか、と気仙沼は懸命に思考を修正しようとした。こうして、下らない疑問を考えることで、彼女の言わんとすることを、理解しないように心がけていた。

 彼女のテンションに飲み込まれてはけない。そろそろ限界である。気仙沼はたじろぎ、焦っていた。

 今日という日以外に彼女と出会っていれば、それはそれは有意義な時間を過ごせただろう。だが、タイミングが悪かった。

「わかりました。任せてください。あの、折角なのですが、俺、業務が残っておりまして、そろそろ御いとまさせていただきます。すみません失礼します」彼女が返答する前に踵を返し、半ば強引にその場を離れた。

 彼女の視線を背中に感じながら、通路の角に差し掛かった。すると、後ろから彼女の陽気な声が響いた。「あたし、ミズキの高校時代からの親友で、桃子っていうの、橋河原桃子! よろしくね、沼ちん!」

 振り返ることなく、気仙沼は角を曲がった。とても不愉快だった。橋河原桃子、彼女のことがではない。自分がたった今抱いていた、緊張感のない間抜けた安らぎが、だ。包み込むような安堵感、心地よさ、それがだ。

 橋河原桃子はとても気さくで、感じがいいとさえ思う。幼年期に合っていれば、俺も彼女のかけがえのない友人の一人になれていたかもしれない。そういった夢のような期待を抱くほどだった。なのに、だからこそ、彼の心中は荒んでいた。淀んだ感情で渦巻いている。

 この濁った感情は、陽気な気分に侵食されていることに対しての嫌悪だ、と気仙沼自身も十分に気が付いていた。

 気を引き締めなくてはならない。自分は楽しむことを禁じなければならない。それくらいの代償が当たり前のことを、俺はしようとしているのだから。

 気仙沼は唐突に、猛烈に、叫びだしたくなる。大声で、喚き散らしたくなる。たまに襲ってくるこの衝動を、拳を強く、そして固く握ることで、彼は必死に、ぐっと堪えていた。

 決して言葉に出すことのない彼の真意は、正に今、揺らいでいた。その揺らぎを抑えようとするかのように彼は深く息を吸い、勢いよく吐いた。

 眼を瞑る。

 自分を取り巻く雑念に意識を向ける。

 身体の中心にそれらを手繰り寄せる。

 拡散し、解れている精神を。

 巡る思いを一つに収束させていく。

 もう一度深く、気仙沼は深呼吸をした。

 再び瞳が開かれた時、彼の瞳には、決して揺らぐことのないようにと再構築された決意が、強く宿っていた。



 気仙沼はプライベート空間のある居住区階層へと戻った。自室へと入る。マンション並みに整った間取り。環境はすこぶるいいのだが、彼がここで過ごす時間は短い。それでもやはり、誰もいない自分だけの空間に身を置けるということは、無条件に安心する。だがそれはつまり、気が緩む、ということであり、だからこそ気仙沼は、仕事が忙しくない時でも、自分の部屋であるここで時間を過ごすことを好まなかった。それでも今日は例外である。明日に控えた重要な任務があり、その準備をしなければならなかったからだ。道具的にも、身体的にも、そして精神的にも。

 気分はすっかり落ち着き、明日の任務に必要な備品を手元に揃えて、この日の予定は完全に終了した。

 時刻は十七時。あとは明日の朝まで自由な時間。何をして時間を潰そうかと考えた結果、自室に籠り、これまで得られた橋本ヒチカについての資料をまとめることにした。

 どれも何度も目を通した資料だったが、彼自身が資料としてまとめることはなかった。簡単に整理しておこうと、机に向かい、PCを起動させた。


 本名:橋本ヒチカ。性別:女。年齢二十四

 第一級危険思想組織に指定の反政府ゲリラ、『Wingless Dove.~羽を失った鳩~』に所属。小学校教員として勤務しながら反政府活動を長期的かつ断続的に実行。生徒からの告発により危険思想保持者として発覚し、彼女がそれまでしていたことがテロ行為として容認され、十一月下旬に強制確保。

 家宅捜索は自宅炎上により不可。炎上原因は不明。両親とも既に他界。親族関係はヒチカ本人が幼少期から希薄。身寄りなし。

 組織との直接的な接点が証拠として上がらず、司法的には無期懲役が妥当。しかし、極秘扱いの情報として、橋本ヒチカ幼少期において、暗殺指定犯罪者、安城和人(身元不明)と交流あり。との有力な情報が登り、ここ政府情報局の極秘施設に収容され、現在も拘束中。現状は未だ黙秘を続けている。

 上層部からの要請により、拘束から今に至るまで強行手段による尋問はされていない。しかし近日(明日)、情報を得る為の強制的な尋問の執行が予定されている。

 収容後の取り調べにおいて、所持していたペンダントを執拗に保護しようと抵抗した。ペンダントは最重要有力物件として、第三区画室に保管。上層部の指示により、分析班による調査が近日中に実施予定。


 タイプから指を離し、緩やかに息を吐く。本当に大雑把なまとめだな、と顔が緩んだ。背もたれに体重を預け、両手を頭に組む。天井を仰ぎ見る。何も意識しなくとも、思考が勝手に脳内を歩き回る。

 明日の自分の仕事の出来で、政府にとって大きな変革をもたらすことになる。そう考えるだけで、頭が冴え、眠れなくなっていた。壁に取り付けられている時計を見る。二十三時を回っていた。時計の針を読み解くことで、夜という概念を思い出す。それは自分だけに限らず、ここの施設で生活する職員は皆そうなのだろう。気仙沼は取って付けたように欠伸をした。

 夜と言っても、ここは地下であり、外からは隔離されている。本来ならば、夜も昼もここにはない。しかし、潤沢な独房に設置されていたのと同様の、擬似的な窓によって、夜空や青空が、外との隔たりを緩和している。そう、殆ど独房と同じ造りなのだ。快適ではある。が、監視されている。そして、自分たちは管理されている、という感がここの生活には滲んでいる。

 壁を触り、部屋の存在を確認した。この部屋自体が、擬似的なホログラムなどのような錯覚に思えたのだ。だがそんな妄想をあざ笑うかのように白い壁は、固く冷たい触感を指先に伝え、ここが地下であるという重圧と共に、現実を認識させてくれた。火照った思考に、ひんやりとしたその刺激が心地よかった。

 室内のインターホンが鳴った。と共に、「おい、いるか?」と不意な呼びかけが外からの来客を知らせた。スピーカーから聞こえてくる声以上に、名乗らないことで誰だかが判る。嘉山だ。

「はい。どうされましたか?」インターホン越しに答える。

「開けろ」

 ロックを解除してドアを開ける。どうぞ、と気仙沼が言う前に、「入るぞ」と嘉山は部屋へ足を踏み入れていた。



 嘉山は部屋に入るってくるなり、リビングで足を止めると、物色するように部屋を見渡した。一通り視線を巡らした後、ソファーの前にある背の低いテーブルに視線を止めた。

 何をしに来たのだろうか、抜き打ち家宅捜索の様なものだろうか、と気仙沼は思案する。

『目的のわからない奇行ほど、人を不安にさせることはない』

 気仙沼は昔聞いた恩師の言葉を思い出す。人は、その行動の理由を見出さないと不安になるのだ。それがたとえ、自分にやましいことや非がなくとも、である。

 仕事机には立ちあがったままのPC。その周りには先ほど橋本ヒチカについてまとめる為に使っていた資料が散乱していた。嘉山はそれには目を止めることなく、机から目を離し、「これは何だ?」と部屋の中央部に配置されたテーブルの上に置かれている箱を指差した。

 箱は蓋が閉じており、中身が見えていなかった。普段の嘉山なら勝手に箱を開け、中身を確認していただろう。しかし、今回は勝手に開いて中身を確かめることはしなかった。

 なるほど、と気仙沼は感心した。嘉山さんといえども、部下の私物を勝手に漁ることを抑えるくらいの節度は持っているのだな、と。それとも、俺の物は汚らわしいから触りたくはないだけだろうか、と気仙沼は憶測を巡らしながら、「ああ、それはあれですよ、明日の尋問時に使うオモチャです。ちなみに女性用ですよ」と答える。もちろん冗談だ。それから続けて、「嘉山さんも使ってみますか?」と危うく口にするところだった。おいおい、調子に乗るなよ、死ぬ気か?と自分の正気を疑う。

「お前なぁ……」嘉山から呆れられた。いや、苦笑しているから満更でもないかも、と都合のいい解釈を気仙沼はする。何はともあれ、急な訪問に心労が重なっているのだから、どこかで自分を保護するような妥協的な思考は必要だ、とも言い聞かせた。心臓に悪い。いや、心臓は元気だ、元気すぎて踊りまくっている。疲れたからと言って、急に止まってくれるなよ、と何だか妙なテンションの自分に「場を弁えろ」と一括をくれてもやった。

 気仙沼は嘉山をリビングに残したまま、コーヒーを淹れにキッチンへ引っ込んだ。嘉山はまだソファーにも座ることなく、部屋の中央部で突っ立っている。キッチンから嘉山の姿が見えなくとも、僅かに聞こえてくる雑音で彼女の行動は十分わかる。

 コーヒーメーカが苦いだけの泥水(実際はお湯だが)を製造している間に、キッチンから顔を出して「あの、嘉山さん。用件があるのなら、伺いたいのですが」と部屋の真ん中で突っ立ったままの嘉山へ要望した。なるべく不愉快を抱かせないような口調を心がけて。

「明日予定されている尋問は、お前にとっても我々政府にとっても重要な案件だ。それはこれからの国の存続に左右するほどの責任がある、と言っても過言ではない。それはわかっているな」

「はい」

「ならいい。そのことを確認しにきただけだ。緊張で震えているんじゃないだろうかと思って、一括入れに来たつもりだったが、杞憂だったようだな」よく見ると嘉山の手にはハンマーが握られていた。

「一括って……そんなんで入れられたら震えが止まるどころか、鼓動まで止まりますって」

「それじゃ駄目か?」飄々と嘉山は答える。顔が笑っていない。本気かよ、と気仙沼は噴き出す。もちろん、このやり取り自体が、嘉山の『一括』に当たる行為なのだと、理解していたからだ。嘉山なりのジョークなのだ、と。いや、それは買いかぶり過ぎかも、と気仙沼は考える。嘉山さんなら本気で、相手を励ます為に、その人間の頭めがけてハンマーを振りおろしかねないな、と。それはそれで、可笑しく感じた。

「いえ、ありがとうございます。恥ずかしながら、実は眠れなくて……」

「お前にはそれくらいが調度いい。責任に無自覚では困るからな」

「言ってくれますね」

 コーヒーメーカが仕上がりの汽笛を上げた。



「嘉山さんでも期限中は外に出られないのですか?」両手に持ったコーヒーの入ったカップをテーブルに置き、空いた手で、どうぞ、とソファーを指して座ること促した。上司が立っているのに自分が座るわけにもいかないからだ。立って話をしても良かったが、落ち着かない。

 嘉山が大袈裟にソファーを叩いて埃を払った。

 気仙沼は「汚かったですか? すみません」とすぐに謝る。

「いや、汚くはない。が、汚らわしく思えてな。なにせお前が日頃座っているソファーだろ?」嘉山は悪戯な声をだす。

 良かった、機嫌が悪いわけではなさそうだ、と気仙沼はとりあえず胸を撫で下ろす。それからソファーに座る嘉山を横目で確かめながら、テーブルの上にある箱や雑貨を片づけた。

「出られないこともないが、私は外に出たくない」コーヒーを一口啜ってから、嘉山はそう呟いた。

 それが先ほど自分がした質問に対する返答だということに、気仙沼はすぐ理解した。このタイムラグは嘉山との会話中によく現れる特徴だったが、気仙沼はこの三カ月ですっかり慣れていた。

「なぜです? 外の空気を吸ってみたくなりませんか?」

 そうだな、と嘉山は考える。さっきのソファーへ座るよう促した時の反応にも違和感があったが、二度目の「そうだな」を聞いて、気仙沼は妙だと思った。俺の質問や提案をこんなに素直に受け入れるなんて、なんだか嘉山さん、いつもと違うな、と。気仙沼がそう考え付いて、「なにかありましたか?」と嘉山へ投げ掛けようとしたよりも先に、考えのまとまった嘉山が発言した。

「外の、平和という幻想に浸っている連中を見るとね、なんだかな、ってなるんだ。私はこんな人間たちを守る為に自分を騙し、励まし、これが信念だ、と言い聞かせているのか、と懐疑的になってしまう。我ながら情けない。陳腐な表現を用いれば、自分が壊れてしまう、とでも言えるかな」嘉山は微笑む。「それが怖いんだ。どうしようもなく」

 彼女の微笑がとても儚げに見えた。嘉山が微笑んでいること以上にそのことが、気仙沼には強く印象に残った。

「嘉山さんにも怖いものがあるんですね、俺、安心しました。やっぱり嘉山さんも所詮は人間かって」

「所詮って、酷い言い草だな」嘉山は肘を腿に置き、頬杖をつきながら、睨んだ。しかし表情はどことなく綻んで見えた。

「だって、嘉山さんは完璧すぎる。というよりも、いつだって人よりも一段上の存在でなければならない、みたいな気負いを抱いているように感じていましたから」

「それは私が人の上に立ちたがる出しゃばり、または見栄っ張りだと言いたいのか?」

「違います、そういった意味ではありませんよ。下の者たちを補助し、導く為の包容力を身につけなくてはならないという使命感に溢れている、ってことです。でもそれは現に、嘉山さんは達成されています。多くの人が、嘉山さんの仕事を見て、嘉山さんの人格を見て、学び、成長して助かっています。でも俺には、いつかその反動で嘉山さんが壊れてしまうんじゃないかって、心配だったんです」

「お前に心配されるほど落ちぶれちゃいないさ。それに、そうだとして、なんで所詮は人間かって、ことで安心するんだ」頬杖をついたまま嘉山は、彼を見上げるように視線を向ける。

「だって、嘉山さんは自分で自分の弱いところを自覚しているじゃないですか。自分が何を嫌いで、何を恐れているのか。完璧な存在だと自負している人たちは一様にして、そういった弱さから程遠いんです。俺からしてみたら、それはただ単に、眼を瞑って見ないようにしているだけだと思うんですけれどね。本当に人を救いたいと思っている人は、そして、上に立って導こうとする人は、下にいる者たちの弱さに気が付いてあげれ無くてはならないと思うんです。それは自分にも同じような弱さが備わっていることを自覚している人でなければ難しい、と俺は思うんですよね。そして嘉山さんはそういった人間らしい感情を持っていて、自覚していた。この人間らしさは、弱さであり、一見すれば、とても粗末なものとして扱われていますが、俺にはこの弱さが、人間にはなくてはならないものだと思わずにはいられないのです。弱いからこそ人は助け合うことを学び、弱いからこそ人と関わり合おうとする、そうではありませんか?自分の弱さと立ち向かうことは大切なことですが、そのことと、他人の弱さを排除しようとすることとはまったく別物です。俺の上に立ち、俺が付いていこうとする嘉山さんが、そのことを認識できる弱い人間の一人なんだな、と安心したのです」

「やたら偉そうな物言いだな」嘉山は朗らかに言った。「お前に言われずともわかっている。大体お前、いつもはふざけているくせに、急に真面目なことを話し出すからついていけん」

「俺はいつだって真面目ですよ。糞がつくほどの」

「だとしても、ついていけんよ」

「いやいや、俺のこんな話に耳を傾けて、そうやって答えることができるのは、ここには嘉山さん位なものです」

「ふうん」嘉山はカップを持ち上げ、コーヒーを一口飲む。「なら外にはいるのか?」

 外にはいるのか、などとすぐに返してくるこんなところが、嘉山さんらしいな。

 気仙沼は、無意識に恩師のことを仄めかしてしまった自分の言動を反省しながらも、感心した。それと共に、自分を戒めた。「嘉山さん以外にもいるではないか、ここには」と強く。



「俺、嘉山さんと行きたいところがあるんですよ、外で」思いついたように、気仙沼は話題を変えた。

「お前と一緒なら余計に絶対行かないけれど、聞いてやるだけなら私にもできる。一応言うだけ言ってみろ。どこへだ?」

「はは、ありがとうございます。あの、俺の地元って言いましたっけ?」

「聞いてはないが、履歴の資料は見ているから解るよ。ああ、えっと」嘉山は口元に手をあてがい、宙に答えが浮かんでいるかのように、左上を見上げる。二秒ほどで、「仙台だったな?」と答えた。

「はい。その仙台の新仙台駅前にある、国際協定記念公園は解りますか?そこに大きな花時計があるんですよ。かんなり立派で奇麗なんですよね。いつか嘉山さんに見せてあげたいな、って思って。花、好きですか?」

「鮮やかで如何にも毒々しい花よりは、野山に咲く山草とかの方が好きだな、私は」

「あ、大丈夫です、自然公園も兼ねていて、辺りはまんま草原ですよ。街中に自然ってのも違和感がありますけど」

「管理されている自然なんて、自然じゃない、と私は思うけどな」嘉山は程よく冷めたコーヒーを啜った。

「そうですか?だとしたら、管理されているこの社会は、不自然ってことになってしまいますね」嘉山がコーヒーを口にしたことで、ようやく気仙沼もカップを口元に運んだ。敬意は言葉遣いではなく行動で示すものだ、が彼の信条だ。

「なるほどな」と嘉山は首肯する。「社会は、つまりは人工とは、不自然なことの代表的な存在なのかもしれない。そういう見方もあるな」面白い、と嘉山は機嫌の好さそうに頷いた。

「でも俺は人工も自然の一部だと思いますけど。だって、人間如きが自然から脱したと思い上がって、自然と対等な立場であろうとするなんて、人間の傲慢でしかないですよ。驕るにも程があります」

 そうか?と嘉山は反論する。「人工の定義が、人間が自然界に干渉し、影響を与えることなら、自然を管理しようが、自然に翻弄されようが、人工に変わりはない。そうだろ?」

「いやですから、嘉山さんは、人間も自然の一部だとは考えないのですか?」

「考えない。というよりも、自然の循環からの離脱、それが人間たる所以だと私は思っているからな。まぁ、それが自然を尊ばない、とうことではないのは言うまでもないけどね」

「嘉山さんらしいですね」

「そうか?」嘉山は首を捻り、訝しがる。「それで、その街中の人工園を私に見せたいのはなんでだ?」

「いや、なんでっていうか、うーん、なんででしょう。嘉山さんに自慢したかったのかなぁ。その花時計の花、実は小学校の時に、俺たちが植えたんです。学校で種から育てて、デザインなんかもみんなで考えて、それで植えたんですよ。なんだろう、昔の自分の偉業を嘉山さんに感受してほしかったんですかね。良く解りません、今さっき、ふと浮かんだことなんで、嘉山さんと見に行きたいなって。すみません、大した意味はないです」

「ふうん……ないのか。まぁ、お前が外に出られるのはあと、そうだなぁ」嘉山さんは考えて、「半年は先だ。それまでこれ以上失態を重ねて消えてしまわないようにしないとな」

「消えるって……。消されるんですか、俺?」気仙沼は苦笑する。

「私の前から居なくなるなってことだ。部下がころころ変わっていては、安定した仕事ができないからな」

 それは自業自得ではないのか?と指摘したくなる。自分で使えない部下を飛ばしているだけではないか、と。けれど気仙沼は、そういえば、と瀬場が言っていた噂話を思い出す。

 もしかしたら、部下の転属は、嘉山さんの本意ではなかったのではないか? むしろ、嘉山さんはその事に関与していない可能性もある。急にそんな考えが浮かんだ。根拠は何もない。瀬場の言葉が引っかかった、それだけのことだが、猛烈にそのことが気になった。

「あの、嘉山さんって、俺が来る以前からもよく部下の配属が変わったり、諸事情で人員が変わったりしていたみたいですけど、何か理由があるんですか? 俺の同期もすぐに違う部署へ飛ばされたみたいですけど」単刀直入に尋ねてみた。というよりは、後先考えずに口から出てしまっていた。自分らしくないな、そう思った。

「あぁ、それはだな」嘉山が理由を口にしかけた時、施設内に、けたたましい警報が鳴り響いた。嘉山の表情が険しくなっていく。そのことだけで、この警報の意味することが、並々ならぬ事態であることを気仙沼へ瞬時に理解させた。

 危機的状況とは瞬間的に引き起こるわけではない。その状況が危機的だと我々が理解する前から、その原因となる作用は着々と進行しているものだ。観測者がその作用が及ぼした現象を観測した瞬間に、その現象へ危機的というレッテルを貼るにすぎない。基本的に我々が危機的だと気が付く表層まで現象が顕在化した場合、つまり、我々が危機的だと察知した場合は、既に手遅れになっていることが殆どである。

 この警報の場合、その作用が進行途中の対処可能な危機的状況であるのか、それとも既に現象と化し、手遅れな状況であるのかは、まだわからない。

 しかし、瞬時に気仙沼は思考を切り替えた。

 この政府機密機関にとって危機的な何かが現在進行形で起こっている。もしくは、既に手遅れな状態。そのどちらかだ、と。

 気仙沼は、覚悟の唾を飲み込んだ。

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