【無垢な青年】

第54話

【無垢な青年】


 この部屋には今二人いる。

 先ほどからドアの前に立ち、紙で作られたミニチュア高層ビルの街並みのような机に向かって話をしている中年の男。黒いスーツに身を纏い、付加価値の高そうな杖を持っている。白髪交じりの長い髪は後ろで束ねており、身だしなみは紳士的に綺麗である。

 もう一人は今、彼の目の前にある机に座って黙って話を聞いている。若い男だ。顎鬚を生やしてはいるがまだ青年に見える。机の上には書類か紙くずか見分けのつかない紙の山、紙の壁。そこの僅かな隙間に肘を付き、手元の書類を見つめていた。顔つきは幼いが、よれたYシャツから見える胸や腕は細身ながら筋肉質である。

「……私は伝えたぞ。危険を冒してまでもここに来たのは完全な私の私情だ。余計なお世話だとは思ったが、どうせこれで最後だ。私はもうここには来られないだろうからな」

 先ほどから一方的に話していた黒スーツの老紳士は話を終えたようだった。紙の山が邪魔で青年の様子が見えない。黒スーツの老紳士は青年の反応を黙って待っていた。

「佐伯さん、泣いた赤鬼って童話を知っていますか?」青年の声が紙の壁の向こうから聞こえた。

「ん、何だね?」佐伯は顎を少し上げ、紙の壁を見下ろすように答えた。「確かそれは人間と仲良くなりたかった赤鬼が青鬼に頼んで人間と仲良くなるって話だったかな?」

「そうそれです。青鬼が人間を襲い、赤鬼が人間を助ける。それで赤鬼は人間と仲良くなった。ではなぜ赤鬼が泣いたか知っていますか?」

「それは友人の青鬼が居なくなってしまったからだろ」

「そうです。けれど青鬼は赤鬼君に手紙を残していったんですよ。それを読んで赤鬼君は泣いたんです。手紙にはこう書いてあったんです。『赤鬼君が僕と仲良くしていると、いつか君は人間から嘘つき呼ばわりされて、虐げられてしまう。だから僕は君と会わないほうが良いと考え、僕は旅に出ます。君の親友の青鬼より』ってね」

「それが一体何なんだね?」佐伯は持っている杖を床にコンコンと叩きつけていた。

「青鬼が本当に赤鬼君のことを考えていたのなら、黙って出て行ったと思うんです。そうすれば赤鬼君は青鬼のことを忘れて人間と仲良くできたはずなんですから。でも青鬼が手紙なんて残していったから、赤鬼君は自分を責めてしまって、いつまでも青鬼のことを忘れることができなくなった。きっと心優しい赤鬼君はそれからずっと自分を許せなかったでしょうね……」

「だから君は彼女に冷たくして姿を消したのか?」佐伯は杖を打ち付けるのをやめた。

「……いえ。そう言う訳ではないんですけれどね。ただ、今なんとなく昔考えていたことを思い出してしまって」

「君は青鬼が手紙を置いていかなかったら、赤鬼が彼を忘れたとでも思っているのか?確かに赤鬼は青鬼を忘れるかもしれない、だがな、彼女は今でも君を覚えている。ずっと待っていたんだぞ」

 青年は机の向こうでまた黙ってしまった。

「さっき渡した書類に拘束時の彼女の写真が貼ってあっただろ。よく見てみなさい。胸に付けている貝殻のペンダント。それは彼女が君に渡そうとずっと持っていたものらしい。今は彼女の手元には無いが、私がなんとか処分されてしまわないように手を回して、重要証拠品として保管されている。その書類にも彼女の拘留されている場所とそのペンダントの保管場所が記載されている。彼女を助けに行くならついでだ、取り返してきてやりなさい」

 佐伯はしばらく彼の返答を待ったが、青年はまだ沈黙を保ったままである。

「もう時間だ、行かなくては。君も知っているだろうが私はこの組織との関係性を完全に絶って、さらに政府からの信頼を得ら無くてはならない。そういう組織からの指令でもある。だから最後に友人として言わせてくれ」

 机の向こう側から、音は何一つ伝わってこない。

 積み上げられている紙に遮られて見えない机の奥を、佐伯はしっかりと見据え、今までの落ち着き払った声とは別の、彼本来の低く響く声で言った。

「己のために生きられない人間が他人のために生きようなんておこがましい、自分のために生きろよ、カズト」決して大きくは無い声だったが、それはさざ波よりも細かく、次第に津波よりも大きくなりながら和人の細部に響き、とけ込んでいった。

 佐伯は机に背を向け、ドアに手をかけた。青年の言葉が背中に届いたのを佐伯は微笑みながら受け取り、振り返ることなく部屋から出て、静かにドアを閉めた。

「佐伯さん……ありがとう。ほんとうに、あいがとう……」

 和人の震えた声は、初めて彼と出会った時と変わらぬまま、あの頃と同じように佐伯の心を温めていた。

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