【勝手気の向くまま】

第50話

【勝手気の向くまま】


 キツコはドカドカと狭い部屋へ入ってきた。アパートの一室である。ここには彼女の幼馴染のマナブが住んでいる。

 キツコと彼との付き合いは長い。この付き合い、の意味は男女の仲ということではないし、友人としての、と表すにもまだ説明不足、物足りない、といった感がキツコにはあった。そんな曖昧な関係は他人から観れば、姉弟のような関係に映っていたことだろう。

 頼りなくどこか危なっかしいマナブを、キツコは放っておけなかった。だからこうして、大学を卒業した後も、親の遺産で生活しているマナブのアパートへと、週に一度、キツコは訪れるのだった。

 遺産は決して、マナブが生涯を通して人並みに生活していけるほど多くはなかった。その結果なのか、元々の彼の性質なのかは定かではないが、マナブの物欲は極端に小さかった。しかしマナブの部屋が狭いせいもあり、少しの雑貨が仕舞われていないだけで、散らかっているように見える。だが決して不衛生な部屋になることはなかった。これは、半分はキツコのお陰だろう。

 炬燵に身体を埋めて、本を読んでいるマナブをキツコは見下ろした。本の表紙は何だかよく解らない英語のタイトルで、どうせまた小難しい本でも読んでいたのだろう、とキツコは思った。

「やあ、いらっしゃい」マナブは本から視線を外さずに言った。

「毎回同じことは言いたくないけれど、言わせてもらうわね」

「言いたくないなら言わなければいいよ。そうすれば僕もキッコもお互いに気分は害されない」

 以前のキツコならこの時点で、心は乱れ怒鳴っていただろう。だが今のキツコは、この程度のマナブの防壁はものともしない。この防壁に構ってしまうと、いつの間にかまったく違う話へと摩り替えられてしまう、という理由から無視するのが得策だと彼女は既に学んでいる。

「いいかげんに、働きなさいよ」キツコは少し声を静めた。

「ん? なぜだい?」先日と同じ切り返しを、マナブはした。まだ目線は本へ向かっている。

 キツコは先日の二の舞にならぬように考えてきたセリフを言う。

「社会の中で生活している以上は義務があるでしょ」

「そのことに不満はないのかキッコは? 疑問はないのか?」マナブは間髪いれずに答えた。

「そりゃ誰だって楽をして暮らしたいわよ。でもそれじゃ生きて行けないから働くの」

「でもそれって例えばさ、戦争とかで、殺さなければ自分は死んでしまうから殺人を犯してしまう、という理屈と同じだよね?」マナブは本から顔を上げ、キツコを見つめた。

「人殺しと労働を一緒にしないでくれない」キツコは食い下がる。

「でも人権を視点に置いたら同じことさ。労働が強制的なら、それは人権を侵害していることと同じじゃない?」

「ええ、確かに隷属という意味で使うなら同じよ。でも私が言っているのは労働ですからね。労働には見返りがあるでしょ? 自主的にする意義があるのよ。それも生命の安全が保障された上でのね。つまり贅沢ができるの」キツコは感情を精一杯に制御して、声を一定の静けさに保っている。マナブの声から彼の感情を読み取ることは難しい。常に彼は冷静なのだ。感情を表に出すことを滅多にしない。そのことが相手との議論において優位であることの必要条件なのかもしれない、とキツコは最近彼と議論するようになってから学んだ。

「そうか。なら君達は贅沢を得るために働き、贅沢の為に生きるんだね?」

「何だか言い方が奇麗じゃないけど、まぁそうね。けれど幸福を得るための贅沢よ。趣味なんかも贅沢と言えるしね」

「その為には働かなくてはいけない、というわけか」

「そうよ、やっと理解してくれた?」キツコの口元が緩んだ。

「あぁ理解したよ。贅沢に自由は含まれていないってことがね」

 キツコは小さく溜息を吐くと「それはマナブの言う自由の定義が、社会を基盤として考えていないのだから当たり前よ」と眉を寄せながら言った。

「すまない。自由についての議論へ脱線するべきではないね」マナブは俯き、本を読み出した。

「ええ、そうよ。とりあえずマナブは働くべきよ」キツコは本日二度目の言葉を口にした。

「ああ。贅沢がしたくなったらね」マナブはつっけんどんに答える。いや、彼はいつだってつっけんどんなのだが、キツコにはよりつっけんどんに聞こえたのだ。多分それはマナブの心情が変化したわけではなく、自分の精神が高ぶっているからなのだろう、とキツコは自覚していた。にも拘らず、「まったく……貴方の今の生活が贅沢だと気が付いていないの?」とキツコは声を荒げた。

「ならこの贅沢をキッコは望むのかい? この贅沢を保持するために、一日の大半を労働に費やすのかい?」

「はぁ……もういいわ。この生活を続けながら、萎んでいけばいいのよ。貴方独りで」

「解ってくれてありがとう」

「ばっかみたい。じゃあね」

「あれ、もう帰るの? 気をつけて帰るんだよ、さようなら」

 何かを言いそうになったキツコだったが、黙って彼の部屋から出て行った。

 外の気温はまだ、冬の名残が残っており凍てついていた。その冬と春の曖昧な季節の空気が、アパートの階段を下りる間に、彼女の高ぶった気持ちを即座に冷ましてしまう。

 もし今が夏だったのなら、このままこの曖昧な関係が断ち切れたのかもしれないのに、キツコは考えていた。もし、いつも私が勝手に怒ってしまって出て行くときに、彼が何も言わなければ、私はそのまま忘れることができたかもしれないのに。

 来週にはきっと桜も咲くだろう。そしたら、マナブを誘ってお花見をしようか。どうせあいつは、寒い、の一言で私の好意を却下するのだろうな。でも、あいつにとって私の厚意は、ただのお節介なのだろう。そのお節介に対してなぜマナブが嫌な顔一つせずに相も変わらず付き合っていてくれるのか……。

 なんだかキツコの心はまた熱を帯び始めた。だがそれは先ほどのような対流渦巻く熱ではなく、安心が寝付くような温もりであった。

 見上げた夜空は晴れていたが、身近な光に遮られ、星の瞬きは見えなかった。それでも澄んだ夜の空気は新鮮で、欠けた月を見上げたままキツコは、先ほどマナブの部屋で口にした言葉とは繋がりようも無い言葉を、今は呟いていた。

「夜桜もいいな」

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