【瞬きごとに移動】

第45話

【瞬きごとに移動】


 頭が狂ったのかと思った。次に疑ったものは僕自身のことではなく、世界の方だった。世界が狂ったのかと思った。けれど最後に行き着いた結論は結局、僕の瞳が狂った、ということだった。


 朝。起きて欠伸をした瞬間の風景は何の変哲もない僕の部屋で、昨夜眠った時と同じ空間だった。なのに欠伸をし終わって涙を潤ませた瞳を再度開けると、駅前にかかる横断歩道の真っただ中に僕はいた。歩行者用の信号は赤。横から車が突っ込んでくるのが視界の端に映っていた。僕は反射的に瞼を閉じる。

 視界が闇に遮断された。

 同時に街中の喧騒も消える。

 恐る恐る再び瞳を開くと、そこにはかつて小学校の遠足で登ったことのある山並がひらけていた。僕は草原に一人、佇んでいた。

 どうなっている?

 起床後のたった数秒、たった瞬き数回分で、こんな遠くまで一瞬で移動してしまった。

 瞬き数回分?

 と僕が自身の疑問に引っ掛かりを覚えたと共に、僕は瞳の渇きを潤す為、これまた反射的に瞼を閉じた。

 視界が光を受け入れた時、僕は見慣れた建物の前に突っ立っていた。しかし見慣れているとは言っても僕は、一度だって来たことは無い。そう、日本の象徴的建造物。東京タワーの足元に、僕は突っ立っていた。

 間違いない。僕は確信する。信じられないことだったが、それしか考えようがなかった。

 僕は瞬きをするごとに空間を瞬間的に移動する。それも、回数が増すごとに移動距離まで伸びている。

 その事実の何が究極的に恐ろしいかと言えばそれは、自分で移動先を指定できないということ、それだ。

 僕の周囲にはバスガイドに連れられた観光客がこんな朝っぱらからだというのにだらだらと長蛇の列を作っていた。その光景を眺めながら僕は瞬きをしないよう、独り懸命に努めていた。しかしものの三十秒ほどで瞬きをしてしまう。屋外では風がある為に、瞳を外気に晒し続けることが困難だった。僕は咄嗟に機転を利かし、瞼を閉じたままにする。開けさえしなければ移動しない。そう考えたのだ。けれど、予想に反して観光客たちの声や街中特有の車のエンジン音たちが聞こえなくなった。

 今度はどこへ飛ばされた?

 瞳を開きたい衝動にかられる。けれど瞳を開けば僕は、どんなに努力した所で十中八九瞼を再び閉じることになる。だから決して瞳を開かない。僕はそう誓った。

 直後。

 後ろから、獣の唸り声が近寄って来る。警戒しているような、とてつもなく重い足音と共に。

 鼓動が猛烈に震えている。

 瞳を開く……べきなのだろうか?

 宇宙服を買っておくべきだったな。

 そんな自虐的な後悔をしつつ振り返り僕は、瞼を持ち上げる。

 トラが一匹。そこにいた。

 瞬時に瞼を閉じる。今度は意識的に。

 途端。

 肌が痛いほどの凍て付きを覚えた。

 この寒さ、この足場。氷の上だと理解する。

 またも獣の唸り声。きっと白いのだろうな、そんな想像で僕は卑屈に笑みを溢した。

 瞼は再び開かれる。案の定。

「………こんにちは」僕は白い熊さんに呟いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます