【夜が濁る日】

第42話

【夜が濁る日】


 次々と移り変わる自身の影を眺めながら、電灯の灯る夜道を女は歩いていた。

 こうして夜風にあたって、誰もいない公園をただ闇雲に歩き回っている間、私以外の人たちは建物の中でTVを観たり、食事をしたり、誰かと話していたり、眠っていたり、誰一人私と関わりのないことをしているに違いない。今、私がこうして独り、考え歩いているこの間も。むしろ私が生きていることすら誰も知らなくて、知り得ることもできない。

 そして、この瞬間も私以外の人たちはきっと、それぞれの世界を生きていて、それぞれが身近な人と互いに交わっている。なら、いま私は、私だけの世界にいるんだわ、誰にも干渉されない私だけの世界。こんなに素敵なことってないんじゃないかな、本当に素敵な、すてきな、夜。

 でも、もうちょっとわがままを言えば、この公園も、私が身に纏っている服も靴も全て、人間の干渉を得ていないものだったらよかったのに。でもそしたら私は裸になるしかないし、それはそれで寒そうだし、少し嫌な気もするな。

 誰が見ているわけでもないのに、奥行きの消え切っていない暗闇へ、女は微笑んで見せた。

 女は独りが好きだった。だから夜が好きだった。そのことを確認するために彼女は夜道を歩き続ける。

 だが、昼間の強制的な孤独は嫌いだった。喧騒と、喧騒を生み出す煩わしい人間たち。誰も彼もが偽りの輪をつくり、身を加えたがる。より見栄えが良く、巨大な輪へと。

 女はいつだってそこには入らなかった。そして入れなかった。最初は彼女も加わりたかったのだ。だがなぜかそれらの輪から拒絶されるようになっていた。理由はわからない。きっと彼女が理解する努力すらしたくないような理由なのだろう。聞こえてくる陰口には一様に、人より目立つ彼女の個性が原因だ、彼女が悪いのだ、というようなニュアンスが含まれていた。だが実際にはきっと、輪の個たちは、他人を廃絶することで得られる優越感を求めているに過ぎないのだ。その人間たちは、彼女の個性を汚点とし、それを理由に仕立てることで、自身の醜い欲求によって引き起こされる行為を正当化しているのだ。社会からは決して無くならない、そういった人間の性を目の当たりにする度に彼女は、芭蕉の俳句を思い出す。

  静けさや

  岩にしみ入る

  蝉の声

 町からはなれた静かな道中、蝉の鳴き声がより一層静けさを際立たせている様を表しているのだろうが、彼女はこの俳句を酷く嫌悪していた。

 賑やかで陰険な集団が身近にあるおかげで、孤独が無駄に強調され、強制的な孤独を感じさせられることと似ているから、というのが理由だった。

 だから彼女は人間が活動して、輪が活発になる昼間が嫌いだった。

 それでも最近は、夜でも都会が眠ることはなく、あちらこちらで陳腐な自尊心を守ろうと、歪んだ輪が形成され、昼間と同じように、時にはより激しく周りの輪と弾き合っている。

 そんな夜の合間を縫うように、彼女は今日も歩いていた。

「こんな世界を、なぜ守るの……」街灯が映し出す自身の影へ向けて、女は囁く。

 風が答えるように身体に触れ、流れていった。

 何と言っていたのだろう……。女の耳はもう、風の声を聞くことができない。この耳は、耳障りな街の喧騒や人間の鳴き声しか聞こえない。大好きな花の歌も、虫のプロポーズの言葉も、小鳥のさえずりも、空の欠伸も、海からの慰めの言葉も、この街では聞こえない。耳障りなこの音しか、ギザギザした波紋しか、感受できない。その波紋の棘によって私は傷つけられ、風の言葉も聞くことができなくなってしまった。きっとそうなのだ。私が壊れたからに違いない。女は泣いていた。涙を頬に伝わせながら、自身にそう言い聞かせていた。私が聞こえなくなっただけ、きっとまだ声はしているはず、無くなってはいないはず、と。だが、それらの存在の片鱗すら、彼女には感じられなかった。

 遠くでは風の音に似た、エンジンと車道を擦るタイヤの音。その皮膜的な音に紛れてサイレンの音が響いていた。

「どうしよう……」女は悩む。それでも、この街を守ることが自分の使命であることを、胸の傷が熱を帯びて思い出させてくる。

 守らなければ……死ぬ、私と共に、この街の者たちが。その時は孤独でいられるだろうか。もしかしたらその誰かたちと、一緒なのだろうか。それは嫌だな、と思う彼女の足元から、それもいいかもしれない、と思う彼女がこっそりと覗いていた。そのひょっこり顔を出した自分に気がつき、彼女は急いで踏み潰した。実際に足を上げ、土を踏みつけて。四~五回ほど体重をかけて、ぐりぐり、と土に擦り付けた後、靴の裏を覗いてみたが、砂ぼこりが薄くついていただけだった。小さな自分は擦り切れたみたいだ、と安心した。

 死が永遠の孤独であることを祈りたい。それ以上に、生きるということが、孤独であることを呪いたい。選ぶことができる孤独は、「死」それ以外にはもう、私には残されていないのだろうか。この夜の孤独ですら、強制的な孤独に侵されてきている。私にとってのこの神聖な夜がもし無くなったのなら、私は耐えられるだろうか……。平静を装えるだろうか。自分を制御できるだろうか。

 ぼんやりとそんなことを考えていた彼女は、足元の瓦礫につまずいて、はっとした。既に現場へと着いていたのだ。目の前には煙が立ち込め、視界が悪かった。その煙も、隣接して建っている破損したビルたちのネオンによって、昼間のように形がはっきりとライトアップされている。その明るさのせいで、場所と共に、時間まで移動したのかと一瞬錯覚してしまった。

 彼女は見上げる。ビルとビルの狭間に、黒い空が見えた。煙はその黒い空に吸い込まれるように、昇っていく。そうだ、今は夜だ。彼女は安心と同時に、この昼間のような夜にいらだちを覚えた。

「おせーよ、糞でもしてたか」彼女の影が盛り上がり、立体的な人型へと変貌していく。

「ごめんなさい」女はその影へ視線を向けることなく静かに言った。

「まぁよ、んなことはどうでもいいんだ、レベルB-3が三と、D-4が十六だ」

「三匹は私がやります。その間D-4はお願いします」

「オーケー。あっとそうだ、あとな、今日は三匹じゃねーんだ。三人らしい」

「B-3で人型、ということですか……」

「解らん。俺が直接見たわけじゃねーからな。もしかしたらB-3のフリをしているAランク以上の奴かもしれん。気を抜くなよ」影は女へ飴玉くらいの大きさの、艶のある黒いボールを三つ投げた。

「はい」空を切るようにして、女は片手でキャッチする。

 影は既に女の足元へ戻っており、彼女の動作に従順していた。

 できる限り、修理は避けたい。ここで待ち受けるよりは、向かって行って二メートル以内に何とか詰められれば、メノフェノンを開く必要も無く、混濁もさせずに済む。とりあえず、やつらのこの波紋に浸透させて位置を探ろう。

 女の気配が数秒薄れる。

 ――いた。

 女は断層の合間を縫うように波紋を同調させる。

 奴らは二組に分かれている。二人と一人に。ペアはまだこちらと被ったままだ。もう一人は完全に単独で潜っているのだろう、このレベルの浸透では感知できない。だがこれ以上私がリンクしたら、混濁してしまう。向こうにも私の存在を気取られてしまう、感知されてしまうだろう。それは面倒だ。

 仕方なく、女はその場を移動し、ペアの元へと向かうことにした。

 決闘ではない。

 彼女が行うのは、始末である。

 対決ではない。

 彼女がすべきことは、末梢である。

 相手の不意を突くような暗殺となれば、より好ましい。

 楽しんでいる時、喜んでいる時、悲しんでいる時、眠っている時、育児をしている時、誰かを守るのに必死になっている時、誰かと愛し合っている時、そんな無防備な瞬間に、影に潜むように死角から殺す。そんな状況が好ましい。

 それは卑怯であり、卑劣であり、残虐であり、慈悲のかけらもない行為であることは、彼女自身、痛いほどに、凍えるほどに、自覚している。自覚しているからこそ、理解しているからこそ彼女は、最も効率的で合理的な暗殺を選択せざるを得なかった。

 殺す相手と対峙しない為に。

 殺す相手と視線を交えない為に。

 殺される間際の、相手の瞳を覗かずに済むがゆえに。

 同情を、慈悲を、悲しみの共有を、そんな後悔の余地が生まれる前に、彼女は相手を殺さなくてはならなかった。

 自分をこれ以上、傷つけたくはなかったから。

 これ以上、痛く、酷く、悲しみたくなどなかったから。

 自分を今以上に、嫌いになどなりたくはなかったから。

 だから彼女は人知れず、暗殺を好んだ。最も効率的で、最も合理的なのだから。対峙したとても、彼女に敵う者など存在し得ないというのに。

 それでも彼女は無防備な赤子を殺すように、末梢すべき相手を破壊し、殺し、滅し、消す。

 殺す相手が生きていること、そのことにすら気づかないで済むように。

 なぜなら、自分の施した処理が、選択した行動が、実行した手段が、――肉体の破壊、生命の搾取、人生の断絶、それであることを、毎回突きつけられずに済むのだから。

 自分が行っていることはただの、――物質の破壊であり、造形の崩壊であり、循環への回帰であるのだと、そう思い込み続けることができるのだから。

 だから彼女は、最も卑劣で、最も忌むべき暗殺を自ら好んだ。

 彼女は嘆くように小さく嘆息を吐いた。

 しかしこれは、自分を慈しんでの嘆息ではない。

 ――洗濯もの、干してくるの忘れた。

 その後悔を忌んでの嘆息であった。

 思考は既に切り替えた。

 波紋も既に切り替わった。

 私はいつ生まれ変わるのか、そんなことはどうでもいい。いつだって変わっているし、いつまでも変わらない。流動しても静止しても、私は私で在り続けてしまうのだから。

 ――さぁ、もういいかい。

 女は小さく呟いた。

 この数秒の間に風向きは変わっており、女の姿は煙に包まれ、消えていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます